我、鉄路を拓かん

我、鉄路を拓かん』とは

 

本書『我、鉄路を拓かん』は、2022年9月に314頁のハードカバーとして刊行された長編の歴史小説です。

明治五年(1872)九月に新橋・横浜間で開業された日本初の鉄道路線の敷設に尽力した人々、特に線路の土台部分である築堤を築いた男たちの物語です。

 

我、鉄路を拓かん』の簡単なあらすじ

 

海の上に、陸蒸気を走らせる!
明治の初めに、新政府の肝煎りで、日本初の鉄道が新橋~横浜間に敷かれることになった。そのうち芝~品川間は、なんと海上を走るというのだ。
この「築堤」部分の難工事を請け負ったのが、本書の主人公である芝田町の土木請負人・平野屋弥市である。勝海舟から亜米利加で見た蒸気車の話を聞き、この国に蒸気車が走る日を夢見ていた弥市は、工事への参加をいち早く表明する。
与えられた時間はたった二年余り。弥市は、土木工事を生業とする仕事仲間や、このプロジェクト・チームを事実上率いている官僚の井上勝、そしてイギリスからやってきた技師エドモンド・モレルとともに、前代未聞の難工事に立ち向かっていく。
来たる2022年10月14日は、新橋~横浜間の鉄道開業150年にあたる記念すべき日。この日を前に刊行される本書は、至難のプロジェクトに挑んだ男たちの熱き物語であり、近代化に向けて第一歩を踏み出した頃の日本を、庶民の目で見た記録でもある。(内容紹介(出版社より))

 

我、鉄路を拓かん』の感想

 

本書『我、鉄路を拓かん』は、新橋・横浜間で開業された日本初の鉄道路線の敷設に尽力した人々、特に線路の土台部分である築堤を築いた男たちの物語です。

具体的には、新橋と横浜の間にある、現在「高輪築堤」と呼ばれその遺構も見つかっている部分を担当した人物を描き出した感動的な物語です。

 

本書『我、鉄路を拓かん』を読みながら、かつてテレビで放映された、品川沖に築かれた堤防の上を鉄道が走り、その跡が今でも残っている、という場面を思い出していました。

その番組は多分NHKの「ブラタモリ」であったと思うのですが、定かではありません。

それとは別に本書について調べていると、本書がテーマとしている「築堤」の遺構、が、平成三十一(2019)年四月にJR東日本の品川駅周辺の再開発工事で見つかっていたという記事を見つけました。

私はこのことを知らずにいたのですが、「高輪築堤」と呼ばれているこの築堤の遺跡は一般にも公開され、見学者を募っていたようで、詳しくは下記のサイトをご覧ください。

 

本書『我、鉄路を拓かん』の主人公は、土木請負人である平野屋弥市というもとは雪駄や下駄を商っていた男です。

その男が日の本のために普請がしたい、いつの日にか勝海舟がアメリカで見たという蒸気で走る鉄の車を日の本でも走らせてみたい、と思うようになっていたのです。

平野屋弥市が、同じ土木請負業の山内政次郎、その義理の息子である重太郎、それに長州藩士であり伊藤らと共に英国への密航歴がある井上勝、それに英吉利人技師のエドモンド・モレルらと共に鉄道を敷設することになります。

ただ日本初の蒸気車は、鉄路沿線住民や、政府内部でも兵部省らの強行な反対などがあり、前途は決して明るいものではなかったのです。

そうした困難を乗り越えて日本初の鉄道を走らせる礎を築くことになる、彼らの姿は感動的ですらあります。

 

しかし、陸蒸気を走らせるまでの話は、主人公平野屋弥市の紹介を兼ねた話でもあるためか今一つ盛り上がらない印象がありました。

本書『我、鉄路を拓かん』のような土木作業のような世界を描くには山本一力のような骨太の文章の方が似合っただろう、などと思っていたものです。

とはいっても、第二章の終わりあたり、蒸気車の話が具体的に見えてくるところあたりから、この物語は面白くなります。

物語の展開が本題に入り、伊藤勝を中心として事業が動き出すダイナミズムが文章にも表れているようです。

 

ただ、重太郎が人を見下すような人物として描かれているのは若干の疑問が残りました。

義理の父親である政次郎が侠気溢れる大人物であるのであるのならば、自分の養子としてそのような人物を選ぶかと思ったのです。

その狭量な性格に気付かない筈はなく、気づいたらその性根を叩き直すのが通常でしょう。

本書の場合、この点については話しの進行の中でそれなりの手当てをしてあり、それなりの納得感はありましたが、それでも若干ではありますが、違和感は残りました。

 

それでも、本書『我、鉄路を拓かん』を読み終えたときには自分の知らない世界を垣間見ることの喜びを得ることはできたと思います。

平野屋弥市や井上勝、それに勝海舟、そして英国人技師モレルら工事にかかわった人々の鉄道敷設に対する熱量を肌に感じることができ、お仕事小説としての楽しみも味わうこともできました。

歴史上実在した人物を主人公に据え、脇を固める人物も同じくかつて我が国に生き、大きな仕事を残した先人たちですから描きにくい作品だったことは容易に想像できます。

そうした制限を乗り越え、それなりの骨太の小説として仕上がっていることは間違いないと思います。

個人的な好みとして若干の不満はあったものの、それでも読みごたえがあった、と言える作品だったと言えるでしょう。

春風譜 風の市兵衛 弐

春風譜 風の市兵衛 弐』とは

 

本書『春風譜 風の市兵衛 弐』は『風の市兵衛 弐 シリーズ』の第十一弾で、2022年6月に祥伝社文庫から337頁の文庫本書き下ろしで刊行された、長編の痛快時代小説です。

話自体は単純ですが、物語の背景や登場人物の行動の理由を会話の中で説明させることで紙数を費やしている印象がある、シリーズの中では今一つの作品でした。

 

春風譜 風の市兵衛 弐』の簡単なあらすじ

 

唐木市兵衛は我孫子宿近くの村を訪れていた。小春の兄の又造が、妹と“鬼しぶ”の息子・良一郎との縁談を知り家出したのを、迎えに出たのだ。ところが、又造は訪ね先の親戚ともども行方知れずだった。同じ頃、村近くで宿の貸元と、流れ者の惨殺体が発見された。近在では利根川の渡船業等の利権争いで、貸元たちが対立していた。市兵衛は失踪人探索を始めるが…。(「BOOK」データベースより)

目次
序章 竜ケ崎から来た男 | 第一章 欠け落ち | 第二章 血の盃 | 第三章 疑心 | 第四章 血煙り河原 | 終章 旅だち

その年の暮れ、安孫子宿の西にある根戸村の貸元の尾張屋源五郎が何者かに襲われ命を落とした。

一方、とある林道で長どすの一本差しの六十歳くらいの旅人が喉頸を絞められ、骨が折られた状態で見つかった。

この亡骸の検視をした陣屋の手代を始め、この二つの事件を結び付けて考えるものは誰もいなかった。

同じ年の暮、長谷川町の扇職人佐十郎は息子の又造に声をかけ、又造の妹小春良一郎との祝言の話を聞かせた。

その話を聞いた又造は安孫子宿の南吉のところへ行くと書置きをしたまま家を出てしまう。

唐木市兵衛は小春から頼まれ、安孫子宿の南吉のところへ又造を連れ戻しに行くことになるのだった。

 

春風譜 風の市兵衛 弐』の感想

 

本書『春風譜 風の市兵衛 弐』は『風の市兵衛 弐 シリーズ』の第十一弾の長編の痛快時代小説です。

 

本書『春風譜 風の市兵衛 弐』は、ヤクザ者の抗争に巻き込まれた小春の兄又造と、かれを連れ戻そうとする唐木市兵衛の話を中心に、その抗争の別な側面に関わる渋井鬼三次の探索の様子を描いた作品です。

全体的に話の構造自体は単純です。

市兵衛が家出をした小春の兄の又造を連れ戻しに行く話がまずあります。

それと、問屋場の公金を着服して行方をくらました安孫子宿の宿役人である七郎治という男の探索のために渋井が駆り出されるという話があります。

その上で、二つの事件が根っこでは繋がっているというのです。

 

話自体は以上の二つの話がそれぞれに単純な事件としてあり、その両事件の中心に柴崎村の牛次郎という貸元の悪行が絡んでいるだけのことです。

又造は、頼った先の南吉が牛次郎からひどい目にあっていてそこに巻き込まれてしまいます。

一方、鬼渋が追っている公金着服事件もその根は南吉の事件と同じであり、ただこちらは犯人と目される七郎治の現れるのを待つ渋井やその手下、そして陣屋の役人の田野倉順吉など張り込みの様子があるだけです。

 

本書『春風譜 風の市兵衛 弐』は、こうした単純な事件の二つの側面が描かれている作品のためか、当事者の会話の中で事件の背景説明が為される場面が多いように感じました。

具体的には、市兵衛が又造を探索する過程での聞き込みの際の会話がそうです。

また、渋井の登場する場面も張り込みだけということもあってか、渋井と田野倉との会話があり、その中で田野倉の推理として事件の背景説明が為されるという構造です。

もともと、作者辻堂魁の作風自体が会話の中で背景説明をする、という傾向が強いとは思っていたのですが、本書ではそれが強く感じられました。

会話の中での背景説明ということ自体はいいのですが、それがあまりに執拗だと少々引いてしまいがちです。

 

市兵衛の行動にしても、又造と南吉の行方を探す先に市兵衛を甘く見た悪漢たちがいるといういつものパターンです。

物語の根底が講談風であり、本書の作者辻堂魁の文章のタッチも決して明るいものではないこともいつもと同じです。

特別な展開もない本書『春風譜 風の市兵衛 弐』だけをみると、決してお勧めしたい作品とは言えないと思うほどです。

とはいえ、当たり前ではありますが、本書でも南吉には自分の村におことという思い人がいたり、七郎治も馴染みの女がいたりして、それぞれの話に花を持たせたりの工夫はあります。

ただ、本書の魅力が主人公の市兵衛というキャラクターの魅力、それに尽きると言え、物語自体の魅力があまり感じられないのは残念でした。

次巻に期待したいと思います。

一人二役 吉原裏同心(38)

一人二役 吉原裏同心(38)』とは

 

本書『一人二役 吉原裏同心(38)』は『吉原裏同心シリーズ』の第三十八弾で、2022年10月に341頁の文庫本書き下ろしで刊行された、長編の痛快時代小説です。

どうにも神守幹次郎の振る舞いや台詞回しが芝居がかっており、かなり興をそがれる一冊でした。

 

一人二役 吉原裏同心(38)』の簡単なあらすじ

 

長く廓の用心棒であった神守幹次郎が吉原を率いる八代目頭取四郎兵衛に就任、御免色里の大改革が始まった。会所を救う驚くべき「金策」に始まり、大胆な改革を行う新頭取への嫌がらせや邪魔が続く中、切見世を何軒も手中に収めた主夫妻が無残にも殺される。背後に控える悪党の狙いとは。新体制で一人二役を務める大忙しの幹次郎は、荒波を乗り越えられるか?(「BOOK」データベースより)

 

 

一人二役 吉原裏同心(38)』の感想

 

本書『一人二役』では、吉原の七代目頭取の四郎兵衛が惨殺された修行の一年間のあとの、八代目頭取四郎兵衛に就任した後の幹次郎が描かれています。

就任したのはいいのですが、いざとなると会所にはほとんど金がなく、その対処に苦慮する幹次郎です。

ただ、こうした点は大きな出来事ではなく、物語の進行上はこれまでのような吉原にとっての大きな障害というのはあまりありません。

いや、まったく無いということではなく、細かな嫌がらせ的な出来事は起こりますがそれは大きな障害ではないと言った方がいいのでしょう。

 

それよりも幹次郎のある構想のほうが大きな出来事です。

本シリーズの流れとしてこの幹次郎の構想がどのような意味を持ってくるのか、今後の物語の展開がどのように変化してくるのか、非常に楽しみなのです。

 

ただ、読者として私が気になったのは、本書のタイトルの『一人二役』ということであり、神守幹次郎が吉原裏同心としての顔と八代目頭取四郎兵衛としての顔を持つことです。

というよりも、問題は二つの貌を持つ幹次郎のその描き方です。

 

本書では実際剣を振るう立場の裏同心と、吉原を率いる立場の会所頭取としての立場はかなり異なるということで、言葉遣いから変えて対処しようとする神守幹次郎の姿があります。

しかしながら、小説の中で幹次郎が四郎兵衛様に伝える、とか裏同心として応える、など、その顔を使い分ける姿がいかにも芝居かかっており、時代小説としての違和感はかなりのものがあります。

物語としてストーリー上の違和感を感じるという点もそうですが、小説の表現としても拒否感があるのです。

ただ単純に裏同心と、吉原会所頭取としての顔を使いわけるというわけには行かなかったのでしょうか。

タイトルからしても、この点こそが本書の主眼だったのでしょうが、どうにも違和感を越えた拒否感を持ってしまうほどであり、残念な描き方でした。

 

幹次郎の新たな構想は今後の本シリーズの展開を期待させるものだけに、余計なことに煩わせられた一冊、という印象の強いものになってしまった印象です。

残念でした。

ごんげん長屋つれづれ帖【五】 池畔の子

ごんげん長屋つれづれ帖【五】-池畔の子』とは

 

本書『ごんげん長屋つれづれ帖【五】-池畔の子』は『ごんげん長屋つれづれ帖シリーズ』の第五弾で、2022年9月に280頁で文庫本書き下ろしで出版された連作の短編時代小説集です。

シリーズ五冊目ともなると読み手の目も厳しくなったのか、その物語展開に、若干ですが面白味を感じなくなってきました。

 

ごんげん長屋つれづれ帖【五】-池畔の子』の簡単なあらすじ

 

お勝の息子の幸助が、顔に傷をこしらえて帰ってきた。なんでも、不忍池の畔に暮らす“池の子”と呼ばれる孤児たちと喧嘩になったのだという。青物売りのお六が川に捧げた胡瓜が喧嘩のもとだと知ったお勝は、お六とともに孤児たちのもとに向かう。これを機に、お勝とお六は“池の子”たちとの絆を深めていくのだがー。くすりと笑えてほろりと泣ける、これぞ人情物の決定版。時代劇の超大物脚本家が贈る、大人気シリーズ第五弾!(「BOOK」データベースより)

 

第一話 片恋
お勝は弥太郎と共に損料貸しの品物の引き取りを終えて帰る途中、ある武家の奥方らしき人物と出会った。その息子の小四郎を紹介する弥太郎は、弾けそうな笑みを浮かべているが、奥方は、小四郎が覇気もなくなかなか成績も上がらいことに頭を悩ませていた。

第二話 ひとごろし
ある朝、根津宮永町の妓楼でひとごろしがあったと大騒ぎになっているなか、近藤道場下働きの鶴治が沙月がお勝のことを心配していると言ってきた。翌日、沙月のもとへ行ったお勝は銀平から、鶴治の剣術の稽古は親の敵討ちのためだということを聞いた。

第三話 紋ちらし
お勝は、庄次から「安囲い」の喜代という名の女に子ができたものの、誰の子か分からずに困っている話を聞いた。男たちの話し合いの場について行くことになったお勝だったが、女の長屋の地主である日本橋の漬物問屋「大前屋」の内儀磯路と話すことになった。

第四話 池畔の子
ある日、幸助が不忍池の畔に暮らしている子供たちと喧嘩をしたと怪我をして帰ってきた。長屋のお六が子供たちが水で溺れないように河童にやっている残り物の胡瓜を横取りしていると思い注意をしたところ喧嘩になったというのだった。

 

ごんげん長屋つれづれ帖【五】-池畔の子』の感想

 

本書『ごんげん長屋つれづれ帖【五】池畔の子』も、全四編からなる連作の短編小説集となっています。

市井の長屋に暮らす普通の人達の日常を描き出すこのシリーズも五巻目となりました。

相変わらずにおせっかいなお勝の日常が語られ、江戸の庶民の暮らしが目の前に展開される興味深いシリーズとなっています。

シリーズ物として落ち着きを見せてきたこの『ごんげん長屋つれづれ帖シリーズ』ですが、一方では何となく物足りなさも感じてくるようになりました。

 

冒頭から否定的なことを述べることになり申し訳ないのですが、これまでもなんとなくは思ってきたことではありますが、このシリーズのもつ雰囲気が今一つ心に迫る場面が少ないように思えます。

おなじ人情物語ではあるのですが、例えば宇江佐真理の『髪結い伊三次捕物余話シリーズ』や、西條奈加の『心淋し川』などのように心の奥深くに染み入るような情感、余韻を感じないのです。

 

 

本書『ごんげん長屋つれづれ帖【五】池畔の子』のような出来事中心の物語展開は、主人公お勝という人物の男勝りという人物設定のためかもしれませんが、だというよりもこの作者金子成人の文章のタッチそのものがそうだと言う方が正解だと思われます。

というのも、この作者の『付添い屋・六平太シリーズ』などを見ても、人情話ではあるもののやはり心象を深く描くというよりは種々の出来事に振り回されている人々の姿を描くほうに重点があるように思えるのです。

 

 

本『ごんげん長屋つれづれ帖シリーズ』においても、お勝の身のまわりの人物に関連して巻き起こる出来事について、黙って見過ごすことのできないお勝が、いわばおせっかいとして乗り出し、問題を収めていくという構造が殆どです。

そこではお勝の行動を追いかけ、さらにおせっかいを受ける側の事情を縷々説明してあります。

しかし、そんな中でのお勝やその相手方の心象はあまり詳しくは描いてありません。

 

本書『ごんげん長屋つれづれ帖【五】池畔の子』の第一話「片恋」にしても、お勝が番頭を務める「岩木屋」で働く弥太郎の斉木芳乃という武家の奥方らしき人物との恋心と、その奥方のその息子小四郎にかける期待などの話であり、その設定自体は特別なものではありません。

そこにお勝が絡むことで問題の親子の行く末が、少しなりともいい方向へ向かいのではないか、という若干の明かりが見えるだけですが、ただ、そこには分かれの悲しみもあったのです。

まさに通俗的な人情話そのものの物語です。

しかし、個人的には、物語の流れが俯瞰的な描写のままに流れている、と感じ、もう少しの感情のゆらぎがあれば、と思ったのです。

 

第二話「第二話 ひとごろし」も、近藤道場の下働きの鶴治の話ですが、このシリーズの登場人物のある一人の背景に目を向け、そこに焦点を当てた物語です。

確かに心打たれる話ではありますが、それだけ、という印象も否めません。

妓楼で客が女郎の腹を刺して逃げたという騒ぎを背景にしてありますが、鶴治の話との関係は今一つ分かりませんでした。

 

第三話第三話 紋ちらしは、長屋の住人の庄次が為していた「安囲い」の女が身籠ったための、その後始末の話です。

この「安囲い」という言葉は『付添い屋・六平太シリーズ』の第三話でも「安囲いの女」というタイトルの話があります。

また、他にも数人がお金を出し合って一人の女を囲うという話があったように覚えていますが、そのタイトルをはっきりとは覚えていません。

数人の男を相手にする妾ですから、この物語のような出来事も当然あったことでしょうが、この話は若干都合がよさ過ぎるようにも感じます。

 

第四話「第四話 池畔の子」は、不忍池の畔に住んでいる子供たちの話で、彼らの行く末を周りの大人たちが見守るという話です。

お六が子供達のことを思い流した胡瓜をきっかけに浮浪児との交流が始まるというのは心あたたまる話です。

江戸時代に、孤児たちの将来のことを近所の皆で考えるということは聞いたことがありますが、役人たちも加わっていることも当然あったでしょう。

ご都合主義的に思えないこともありませんが、ほのぼのとした話ではあります。

 

ここまで、このシリーズにもっと情感が欲しいという観点からの批判めいた文章を綴ってきました。

しかしながら、これまでもこのシリーズについては若干ながらもそうした印象は持っていたはずで、そうニュアンスのことも書いてはきていました。

とはいえ、それなりの魅力があればこそこれまで読んできたものですし、これからも読み続けると思います。

承継のとき 新・軍鶏侍

承継のとき』とは

 

本書『承継のとき 新・軍鶏侍』は『新・軍鶏侍シリーズ』の第五弾で、2020年10月に329頁の文庫本書き下ろしで刊行された、長編の痛快時代小説です。

三太夫の岩倉道場の跡継ぎとしての自覚も定まり、異母兄の佐一郎や、次席家老の嫡男鶴松などと共に素直に成長していく姿がまぶしい、多分シリーズの最終巻となるだろう一冊です。

 

承継のとき』の簡単なあらすじ

 

父岩倉源太夫、母みつから名を譲り受け、実子の幸司は三太夫となった。その元服を祝う剣友らとともに、三太夫は将来について語らい、胸を膨らませる。だがその裏で、三太夫が剣術を指南する次席家老九頭目一亀の嫡男鶴松には悩みがあった。それは、本心を打ち明けられる友がいないこと…(『真の友』)。齢十四の三太夫が迷い、悩みながらも大人への階梯を上る、青雲の第五巻。(「BOOK」データベースより)

 

目次
真(まこと)の友/新たな船出/承継のとき/春を待つ

 

真(まこと)の友」 元服して三太夫となった源太夫の子幸司は鶴松のもとに剣友として通っていたが、その仲間よりも一足先に元服をしたことで皆から祝いの言葉と共に元服の儀式の実際を問われていた。ただ、その中でも鶴松はひとり真の友のいないことを思い悩んでいた。

新たな船出」 下男の亀吉と女中のサトが、みつのところへやってきて夫婦になりたいと言ってきた。しかし、亀吉には兄の丑松という手強い親代わりがおり、出戻りのサトとの祝言を許してくれるかが問題だった。そこで、みつは三太夫を連れて亀吉の実家へと向かうのだった。

承継のとき」 佐一郎が三太夫に稽古を挑んできたが、三太夫の五勝で佐一郎は一本も取ることができなかった。三太夫は、口惜しさに黙り込む佐一郎に上達の秘訣として鮠釣りを教えるのだった。

春を待つ」 源太夫のもとを佐倉次郎左が訪れ、三太夫に娘を貰ってくれと言ってきたが、三太夫には既に言い交わした娘がいるとしてこれを断った。だが、問題は三太夫の気持ちが分からないことだった。

 

承継のとき』の感想

 

本書『承継のとき』は『新・軍鶏侍シリーズ』の第五弾です。

この『新・軍鶏侍シリーズ』は、これまでも何度か書いてきたことではありますが、岩倉源太夫自身というよりもその子らの成長ぶりが描かれる方に重点が置かれています。

特に、幸司こと元服後の三太夫を中心に描かれていて、なかでも三太夫が剣術を教えに行っている鶴松との仲、また佐一郎との仲が描かれています。

そして、本書では岩倉道場の下男の亀吉と女中のサトの祝言を挟みながら、三太夫の剣士としての成長、そして将来の嫁取りの話と、岩倉道場の跡継ぎとしての三太夫の自覚が描かれています。

 

ここにおいて、『軍鶏侍シリーズ』そして『新・軍鶏侍シリーズ』と全部で十一巻の長きにわたり展開されてきたこのシリーズも、本書をもって、多分ですが完結するのでしょう。

というのも、シリーズ完結、という情報はどこにも出てはいないものの、本書の終わりにこれまではなかった(完)という文字が書かれていること、さらには本書以降2022年11月の現時点まで続編が刊行されていないことからしても本シリーズの完結は間違いのないことと思われるのです。

私の好きな時代小説シリーズとして一、二位を争うシリーズだっただけに、非常に残念なことではあります。

しかしながら、新旧の『軍鶏侍シリーズ』の主人公である源太夫も、子らの成長を楽しく見守る姿が描かれるようになり、自身の剣士としての姿よりも、弟子たちや自身の子の成長を楽しみにしている姿が中心になってきた以上はそれもやむをえないことでしょう。

 

できることであれば、もう一回、今度は三太夫を主人公とした新しいシリーズを刊行してくれないかと願いたいのですが、どうもその気配はないようです。

この作者の他のシリーズもそれなりに面白くはあるのですが、野口卓が描く町人が主人公のシリーズ作品は、情報量は多くても物語に起伏が少なく、何となく手に取る気持ちが失せてきています。

本『新・軍鶏侍シリーズ』にしても、若干その傾向は見えており、ここ数巻は軍鶏や釣りの蘊蓄にかなりの紙数を費やしてあるのが気にはなっているところでした。

とはいえ、三太夫らの成長の様子を見るのは楽しみでもあり、続巻が出るのをを心待ちにしていたものです。

近年、青山文平砂原浩太朗のような情感豊かな作風の時代小説作家も出てきてはいますが、できれば野口卓も武家ものを書き続けてほしいと願っています。

できれば本シリーズが続けばいいのですが、でなければ新しい侍を主人公にしたシリーズ作品を期待したいものです。

木鶏 新・軍鶏侍シリーズ

木鶏 新・軍鶏侍』とは

 

本書『木鶏 新・軍鶏侍』は『新・軍鶏侍シリーズ』の第四弾で、2020年3月に298頁の文庫本書き下ろしで刊行された、長編の痛快時代小説です。

ただ主人公である源太夫や息子の幸司の日常が描かれるだけの作品ですが、そのゆっくりとした時の流れが心地よい物語です。

 

木鶏』の簡単なあらすじ

 

次席家老の子息の剣術指南に抜擢され、岩倉道場を継ぐ決心を固めた幸司。ところが父源太夫は中老に「御前さまに任された道場は世襲ではない」と釘を刺される。幸司の兄龍彦は遊学中で将来を嘱望される身、これで岩倉家は安泰よと、藩内から羨む声も聞こえ…(『笹濁り』)。軍鶏侍を父に持つゆえの重圧に堪え、前髪立ちの少年が剣友とともに、剣の道を駆け上がる。(「BOOK」データベースより)

 

目次
笹濁り/孟宗の雨/木鶏/若軍鶏/お礼肥

 

笹濁り」 源太夫は、鮠(はや)を釣りながらいまさらながらに亡き権助の博識ぶりを思い出していた。そんな源太夫に中老の芦原讃岐は、源太夫の岩倉道場は世襲ではないということを念押ししてきた。

孟宗の雨」 ある日、道場で稽古を見ている源太夫のもとに弟子の大久保逸実が、祖父で源太夫の相弟子である無逸斎の様子がおかしいので一度会って貰えないかと言ってきた。

木鶏」 岩倉道場に見学に来ていた次席家老九頭目一亀の継嗣である鶴松は、道場の壁面に掲げられた道場訓に見入っていた。その後、年少組の投避稽古をみた鶴松は、自分たちもやると言い出すのだった。

若軍鶏」 源太夫が行っている鶏合わせ(闘鶏)の会を見た鶴松とその学友たちは、闘鶏の奥深さに打たれ自分たちも軍鶏を買うと言い出していた。一方、岩倉道場では、女中のサトの元夫がサトを追い出した姑が死んだので戻ってほしいと言ってきた。

お礼肥」 源太夫と幸司が母屋に戻ると、藩校「千秋館」の教授方の池田秀介、それに花の友人のすみれと布美とが遊びにきていた。そこに酢橘を持ってきた亀吉は、源太夫の屋敷の酢橘の美味さの源である権助の栽培方法について話し始めるのだった。

 

木鶏』の感想

 

本書『木鶏』は『新・軍鶏侍シリーズ』の第四弾ですが、前巻の『羽化』あたりから岩倉源太夫の子ら、特に幸司を中心にこの物語が動くようになっていた流れをそのままに受け継いでいます。

本書ではほかの痛快時代小説とは異なり、悪徳商人やお代官様は登場せず、藩内の争いに巻き込まれる主人公もいなければ、胸のすく剣戟の場面もありません。ただ主人公である源太夫や息子の幸司の日常が描かれるだけです。

その日常も主人公家族が暮らす園瀬藩の美しい自然の中での釣りや、軍鶏の闘いなどが主に描かれ、流れる時間がとてもゆっくりとしています。

そのゆっくりとした情景描写が私にはたまらないのです。

 

幸司の日常と言えば、鶴松とのことが挙げられると思います。

鶴松は次席家老九頭目一亀の継嗣ですが、学友たちの誘いに乗ってしまい藩の道場にも通わなくなってしまったことを心配した一亀により、鶴松に権を教えてくれるように頼まれたものでした。

次席家老の息子であるからということで手を抜かない幸司との稽古により、大きく成長を遂げていく鶴松やその学友たちの姿が描かれています。

同時に、幸司自身も道場主である源太夫の跡継ぎとしての自覚を持ちつつある姿がほほ笑ましく、またすこしの痛みをもって描かれている点も好ましいのです。

 

さらに、本書『木鶏』では前巻で亡くなった下男の権助についての描写が多いことも特徴として得げることができるでしょう。

もともと、この『軍鶏侍シリーズ』ではシリーズ第一巻の『軍鶏侍』から権助の存在がかなりの位置を占めていました。

源太夫が軍鶏を飼い始めたときはもちろん、釣りをする時も権助の助言で助けられており、源太夫に権助とは「何者か」と言わせるほどの存在感を持っていたのです。

権助は源太夫の知恵袋であると同時に、門弟たちの良き相談相手でもありました。第一巻『軍鶏侍』での大村圭二郎や、第四巻『水を出る』での市蔵のことなど、シリーズの中でもいくつかのエピソードが取り上げてあります。

 

こうして、普通の痛快時代小説とは異なる雰囲気を持ったこの『軍鶏侍シリーズ』は、シリーズも新しくなりさらに源太夫自身やその子供たちの成長まで含めた人間味のあふれた成長小説としての一面を強く見せているようです。

その意味では、この作者の他のシリーズである、『ご隠居さんシリーズ』や『めおと相談屋奮闘記シリーズ』のような作者の多方面にわたる知識を展開する物語に近くなっているように思えます。

ただ、そちらの作品は個人的には好みとは異なった空気感を醸し出しているのですが、本シリーズは若干の説教臭さが漂ってはいるものの、なお私の好みに合致するのです。

源太夫とその家族の暮らし、そして各々の生き方は、読者にとっても一読の価値があると思います。

御留山 新・酔いどれ小籐次(二十五)

御留山 新・酔いどれ小籐次(二十五)』とは

 

本書『御留山 新・酔いどれ小籐次(二十五)』は『新・酔いどれ小籐次シリーズ』の第二十五弾で、2022年8月に文庫書き下ろしで刊行された、編集者による巻末付録まで入れて365頁の長編の痛快時代小説です。

新・旧の『酔いどれ小籐次シリーズ』全四十五巻が本書をもって終了します。

 

御留山 新・酔いどれ小籐次(二十五)』の簡単なあらすじ

 

玖珠山中に暮らす刀研ぎの名人「滝の親方」は、小籐次にそっくりだという。もしや赤目一族と繋がりが?森藩の事情を憂う小籐次のもとに藩主・久留島通嘉からの命が届く。「明朝、角牟礼城本丸にて待つ」-山の秘密を知った小籐次は。『御鑓拝借』から始まった物語が見事ここに完結!記念ルポ「森藩・参勤ルートを行く」収録。(「BOOK」データベースより)

 

第一章 山路踊り
森陣屋でしばらく放っておかれた小籐次だったが、連れていかれた陣屋の中庭では、都踊りかとも見紛う山路踊りなる宴が催されているのに驚くばかりだった。翌朝、一人稽古を済ませた駿太郎はなんでも屋のいせ屋正八方を訪ねた。

第二章 二剣競演
久留島武道場で最上と稽古をした駿太郎は小籐次らと共にいせ屋正八を訪ね、鉄砲鍛冶の播磨守國寿師の鍛冶場を訪ねることとなった。その後、國寿の勧めに従い、次直の研ぎを頼むために十一丈滝の親方の求作に会いに向かうのだった。

第三章 血とは
久慈屋に届いた小籐次からの文が空蔵の手により読売へと仕上げられていた。一方小籐次親子は放っておかれ、何日も無視をされたままだったが、やっと森藩主久留島通嘉からの言伝が届いた。

第四章 山か城か
久留島通嘉は、長年の夢のために穴太積みの石垣を完成させていたのだが、しかし、その夢は森藩御取潰しになる夢でもあった。小籐次らが帰る途中、石動源八なる男が待っていた。

第五章 事の終わり
この夜、茶屋の栖鳳楼で嶋内主石らの酒盛りの席に小籐次が現れた。翌日、小籐次の働きを聞き八丁越に来た石動源八は、谷中弥之助、弥三郎兄弟の待ち受けを知るが、そこに小籐次親子が現れるのだった。

終章
文政十年(1827)七月五日、愛宕切通の曹洞宗万年山青松寺で、不在の間に亡くなった新兵衛の弔いが催され、小籐次親子がそれぞれに剣技を披露し、この物語も幕を閉じるのだった。

 

御留山 新・酔いどれ小籐次(二十五)』の感想

 

本書『御留山 新・酔いどれ小籐次(二十五)』は本シリーズの最終巻であり、小籐次親子が旧主久留島通嘉の参勤交代に同行してやっと森藩陣屋へとたどり着いた後の出来事が語られています。

森藩藩主久留島通嘉が小籐次を参勤交代に同行し、国表まで同行するように命じた理由も明らかにされます。

それは、小籐次の物語の最初である『酔いどれ小籐次シリーズ』第一巻『御鑓拝借』へと連なるものであり、最終巻をまとめるのにふさわしい理由付けだったとは思います。

また、その理由付けによって、前巻でも疑問であった藩主の参勤交代の旅での国家老一派の傍若無人な振舞いに対する「設定が甘い」という私の疑問も、それなりに、一応納得できる理由付けが為されたものでした。

そういう点では最終巻として納得できるものだったと言えます。

 

 

しかしながら、この小籐次親子の参勤交代への同行劇全体は、シリーズを通しての評価としては決して満足のいくものではありませんでした。

というのも、最終巻にしては小籐次の敵役としての国家老の存在が小者に過ぎ、今一つの緊張感が見られなかったからです。

この新旧の『”酔いどれ小籐次シリーズ”のシリーズ作品の中でも私が一番好きだった作品だったので、シリーズが終わること自体がまず残念でした。

そして、どうせ終わるのならば、シリーズ第一巻『御鑓拝借』での小籐次の大活躍のように、最終巻らしい活躍をさせてほしかった、という思いがあったのです。

ただ、こうした思いは藩主久留島通嘉が小籐次に同行を命じた理由そのものは納得できるものだったのですから、全く私の身勝手な好みで満足できなかったと言っているに過ぎないとも言えるでしょう。

 

ただ、それだけ市井に生きる小籐次の姿が好きだったのです。

ところが、いつの頃からか小籐次が神格化され、市井に生きる一浪人としての小籐次ではなくなってしまっていたのは残念でした。

このことは、『居眠り磐音シリーズ』でも同じことが言え、普通の腕が立つ浪人であった主人公の磐根が、そのうちに孤高の剣豪へと変っていったのと似ています。

それは、作者の佐伯泰英の変化に伴うものだったのかもしれず、長い間続くシリーズ物では仕方のないことなのでしょう。

それどころか、変化のないシリーズ物は逆に人気を維持できないのかもしれません。

 

 

ともあれ、本『酔いどれ小籐次シリーズ』は本書『御留山』をもって終了しました。

読者としては、作者の佐伯泰英氏にはお疲れ様でしたというほかありません。

ご苦労様でした。

あとは、『吉原裏同心シリーズ』などの他のシリーズ作品へ力を注いでいただけることを楽しみにするばかりです。

 

夜叉萬同心 一輪の花

夜叉萬同心 一輪の花』とは

 

本書『夜叉萬同心 一輪の花』は『夜叉萬同心シリーズ』の第九弾で、2022年2月に340頁の文庫本書き下ろしとして出版された、長編の痛快時代小説です。

 

夜叉萬同心 一輪の花』の簡単なあらすじ

 

夜叉萬と恐れられ、また揶揄される北町の隠密廻り同心・萬七蔵。品川宿の旅籠・島本が押しこみに遭い、主らが殺害された事件の探索を任される。夫亡き後、島本を守る女将に次なる魔の手が伸びようとしていた。島本には、相州から来た馬喰の権三という男が泊っていたのだがー。品川宿の風景の中で、男女の人生の一瞬が交差する。情感溢れる傑作シリーズ最新作。(「BOOK」データベースより)

 

序 浪士仕切
相模川沿いの明音寺に、四村の村名主と十三人の無宿渡世の浪士たちが、川尻村の麹屋直弼を引受人として浪士仕切契約を結ぼうとしていた。その集まりの隅に、ひっそりと渡世人風体の権三が控えていた。

第一章 品川暮色
品川南本宿の旅籠島本で、主人の佐吉郎が斬られ使用人の一人が殺されるという事件が起きた。萬七蔵が話を聞くと、道中方とも懇意の邑里総九郎という江戸の高利貸が品川宿の南本宿に新しく遊技場を開こうとしている話を聞き込むのだった。

第二章 鳥海橋
萬七蔵が来た時に島本に宿をとっていた権三は、青江権三郎と名乗っていた二十一歳の自分が島本の先代の女将に助けられたことを思い出していた。また、七蔵は南品川の様子などについて話を聞くのだった。

第三章 店請人
翌日、七蔵は押し込みの一味の逃走の現場にいた怪しい一団の話が道中方の福本武平にも伝わっていることを知った。一方、手下のお甲から、邑里総九郎は実は甲州無宿の重吉であり、世間を騒がせている天馬党の首領の弥太吉と知り合いである可能性が高いと報告を受けた。

第四章 矢口道
島本では二人の子供が攫われ、丁度居合わせた権三が女将の浩助と共に天馬党の弥太吉のもとにいる子供たちを助けに向かうのだった。一方、道中方組頭の福本武平は悪事が明らかになり、邑里総九郎は逃亡を図るが七蔵に阻止されていた。

結 旅烏
七蔵は久米と、天馬党の壊滅など、事件のその後について話しているのだった。

 

夜叉萬同心 一輪の花』の感想

 

本書『夜叉萬同心 一輪の花』は、夜叉萬こと萬七蔵は脇に回り、島本の女将の櫂と権三という流れ者に焦点が当たった、古き義理人情の物語です。

渡世人の権三が若い頃に世話になった品川南本宿の島本という旅籠の主人が殺され、女将の櫂がひとり旅籠を守り苦労していました。

権三は島本に投宿し、一人残された櫂の行く末を案じていたところに、島本の押し込みの一件を調べに来た夜叉萬たちと同宿することになります。

この島本の押し込みをめぐっては、その裏では品川南本宿での遊技場を造る計画が浮かび上がってきます。

こうして、品川南本宿の旅籠島本でおきた事件は、道中方をも巻き込んて闇に葬られようとしているところを、夜叉萬らの探索で明るみに出ることになります。

しかし、島本の恨みを晴らすのは夜叉萬ではなく、権三だった、というのが本書の大枠の流れということになります。

 

つまりは、本書『夜叉萬同心 一輪の花』では権三という渡世人が隠れた主役であり、島本の先代の女将とその娘櫂から若い頃に受けた恩を返すために島本に泊っていたのでした。

本書の作者辻堂魁の作品には、例えば『仕舞屋侍シリーズ』の『夏の雁』や、『日暮し同心始末帖シリーズ』の『天地の螢』などの例を挙げるまでもなく、かつて虐げられた本人、またはその関係者による復讐に絡んだ物語が多いようです。


本書『夜叉萬同心 一輪の花』も大きくはそうした復讐譚の一つとして挙げられるのかもしれませんが、復讐譚というよりは、ひと昔前に流行った義理人情の絡んだ人情話を根底に持つ仇討ち話というべきでしょうか。

とは言っても、痛快時代小説という物語のジャンル自体が、ある種の復讐譚を一つの構造として持っていると言えそうなので、この点を特徴とするのはおかしいかもしれません。

 

そうした小説としての構造の話はともかく、本書のような痛快時代小説は、浪曲、講談の義理人情話の延長線上にあると言っても過言ではないと思われます。

辻堂魁の描き出す痛快時代小説の作品群では特にそうした印象が強く感じ、本書もその例に漏れないのです。

 

結局、本書『夜叉萬同心 一輪の花』は主人公の夜叉萬こと萬七蔵の活躍が満喫できる作品ではなく、物語の展開自体も若干の甘さが感じられないわけではありません。

しかし、安定した面白さを持っている作品だったと言えるでしょう。

八丁越 新・酔いどれ小籐次(二十四)

八丁越 新・酔いどれ小籐次(二十四)』とは

 

本書『八丁越 新・酔いどれ小籐次(二十四)』は『新・酔いどれ小籐次シリーズ』の第六弾で、2022年7月に336頁の文庫本書き下ろしで刊行された、長編の痛快時代小説です。

 

八丁越 新・酔いどれ小籐次(二十四)』の簡単なあらすじ

 

頭成の湊に着き、森藩の国家老・嶋内と商人・小坂屋の不穏な結びつきを知った小籐次は、ある過去の出来事を思い出した。一方、瀬戸内海の旅を経て新技「刹那の剣」を生み出した駿太郎は、剣術家としての生き方を問うべく大山積神社での勝負に臨むー。森城下を目指す参勤の一行を難所・八丁越で待ち受ける十二人の刺客とは!(「BOOK」データベースより)

 

大山積の石垣
文政十三年(1827)、小籐次たちはやっと速見郡辻間村頭成の湊へとたどり着いた。駿太郎は船問屋の塩屋で待つ間、塩屋の武道場で来島水軍流序の舞を奉納し、翌朝、塩屋の娘のお海から、お海の兄は小坂屋の新頭成組頭領の朝霞八郎兵衛に殺されたという話を聞かされた。

剣術とは
その後、小籐次はかつて関わりがあった小坂屋に会いに行き、当時の詳細を語るのだった。一方、駿太郎のもとには立ち会う約束をしていた朝霞八郎兵衛から文が届いていたものの、小籐次はそれに対し何もしないままであり、駿太郎は一人立ち合いに向かうのだった。

野湯と親子岩
森城下へと向かうその朝、小坂屋金左衛門は小籐次に自分の勘違いだったと告げるが、小籐次は小坂屋の言葉はそのままには受け取れないというのだった。行列は明礬山の照湯に投宿したが、人足の留次の案内で野湯へと行く駿太郎のもとには、一人の剣術家が試合を挑んできた。

十二人の刺客
三河では薫子姫のもとに江戸の老中青山忠裕からの手紙が届いていた。一方、小籐次親子の姿が行列から消えていた。深い霧がかかるなか行列が八丁越に差し掛かると、参勤行列の一行に矢や鉄砲が仕掛けられるが、最上が現れて𠮟りつけ、これをしりぞけるのだった。

新兵衛の死
玖珠街道では八丁越の霧が晴れると石畳には小籐次が佇んでいて、林埼との立ち合いは一瞬で終わった。やっと行列が陣屋に到着した後、駿太郎はなんでも屋のいせ屋正八方を訪ね、小籐次は森藩久留島家の表向玄関の一角の控えの間に一刻以上も待たされていた。

 

八丁越 新・酔いどれ小籐次(二十四)』の感想

 

本書『八丁越 新・酔いどれ小籐次(二十四)』は、頭成の湊にたどり着いてから森藩陣屋に至るまでの出来事を記しただけの作品です。

本書では、玖珠街道今宿村辺りが舞台となっていますが、佐伯泰英の作品では、物語の流れに合わせて話の中に登場する土地土地の事情や、来歴などが詳しく描写してあります。

例えば『空也十番勝負シリーズ』の『声なき蝉』では、肥後国の人吉や薩摩藩などの描写があり、本書での描写以上に心が躍ったものです。

それが、今回は別府から湯布院へとの旅路が語られるのですから隣県に住む身としては、よく聞く地名が登場するとやはり心が騒ぎます。

ちなみに、序盤で出てきた「勧請」という言葉を知りませんでした。調べてみると、「神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること」を言うそうです( goo国語辞書 : 参照 )。

 

前巻『狂う潮』もそうでしたが、本書『八丁越』は、小籐次と駿太郎の森藩藩主久留島通嘉の参勤交代に同行しての旅の様子を描くだけの話の続編であり、小籐次の、また小籐次親子の物語として目新しいものでもありません。

さらに言えば、そもそも森藩藩主久留島通嘉の参勤交代の旅に反藩主派の国家老一派である御用人頭の水元忠義と船奉行の三崎義左衛門もに同行し、その水元の命により小籐次たちを亡き者にしようという一団が参勤交代の行列に襲い掛かってくるというのですから、どうにも設定が甘いという印象がぬぐえません。

それだけ反藩主派の力が強いと言えばそれまでですが、どうにもその状況をそのままに受け入れることが難しいのです。(この点は、後にそれなりに理由付けがなされるので、私の勘違いだったということが明らかになります。)

 

また、刺客の頭領の林埼郷右衛門も一応は武芸者として尋常の勝負として小籐次の前に立ちふさがるという設定そのものはいいのですが、そうであれば、刺客としてではなく、いち武芸者として立ち合いを願うこともできたのではないという気もします。

尋常の立ち会いを願うのであれば、刺客としての依頼を受けること自体が変、とも感じてしまうのです。

しかしながら、以前にも書いた気がしますが、痛快時代小説作品としては、この程度の物語の流れはある程度は認めるべきなのかもしれません。

 

とはいえ、本書では森藩の飛び地である頭成の湊での船問屋の塩屋という新たな商人との繋がりを得るなど、物語の展開に新たな要素が持ち込まれてもいて、全く面白くない作品だというわけではありません。

駿太郎が三島丸での船旅で得た自分なりの剣として「刹那の剣」を編み出し、剣客としてさらに成長を見せていることも楽しみの一つではあります。

 

ただ、なにより残念なのは、本シリーズも余すところあと一冊となっていることです。

本来であれば、武芸者として大きな成長を見せている駿太郎のあらたな活躍を中心に、その背後に小籐次が控える、という物語の展開もあってよさそうな気もします。

でも、作者が、中途半端に歳をとった小籐次をその年齢以上の活躍をさせるのもいかがなものか、という判断をされた結果なのでしょう。

不自然な小籐次の物語を読むよりはいいのかもしれません。

 

森藩藩主久留島通嘉の思惑も未だよく分かっていませんし、国家老嶋内主石との対決も最終巻へと持ち越されています。

そしてもう一点、三河にいる薫子姫と小籐次一家との関係も未だ確定しているわけではありません。

そうした諸々の未解決の事柄を残したまま最終巻へとなだれ込むことになります。

 

この『酔いどれ小籐次シリーズ』も旧シリーズ十九巻、新シリーズ二十五巻、それに別巻一冊を合わせて全四十五巻をもって完結することになります。

佐伯泰英という時代小説作家の作品の中で個人的には一番好きなシリーズでもありましたので、非常に残念な思いです。

もしかしたら、『居眠り磐音シリーズ』と同様に、駿太郎の物語として新たなものが語りが続いてくれないか、と願うばかりです。

とりあえず、残りあと一巻を待ちたいと思います。

乱鴉の空

乱鴉の空』とは

 

本書『乱鴉の空』は『弥勒シリーズ』の第十一弾で、2022年8月に光文社からハードカバーで刊行され、2023年9月に光文社文庫から ‎ 376頁の文庫として出版された、長編の時代小説です。

ユニークな雰囲気を持つこのシリーズですが、その中でも本書は独特な構成を有する読みがいのある作品でした。

 

乱鴉の空』の簡単なあらすじ

 

北町奉行所定町廻り同心の木暮信次郎の姿が消えた。奉行所はおろか屋敷からも姿を消し、信次郎から手札を預かる岡っ引きの伊佐治は、大番屋に連れていかれる。伊佐治の解き放ちに奔走した小間物問屋『遠野屋』主・清之介は伊佐治と二人で信次郎を捜し始める。一方、北町奉行所に不審な者の影が。最後に待っている衝撃のラスト! 100万部突破シリーズ、驚愕の第十一弾。(内容紹介(出版社より))

 

目次

序 / 一 鳶 / 二 雛 / 三 雀 / 四 五位鷺 / 五 地鳴き / 六 夜鳥

 

八丁堀にある小暮家の屋敷で熱い茶を淹れようとしていたおしばだったが、突然現れた同心らしき三人から小暮信次郎はどこに行ったかと聞かれた。

昨夜は確かに寝所にいた筈の新次郎の姿が見えないというのだ。おしばにも、小者の喜助にも何が起こったのか分からないままに、男たちは消えてしまう。

一方、遠野屋清之介は筆頭番頭の信三と共にある武家屋敷を訪ねた帰り、尾上町の伊佐治の店である「梅屋」で食事をしようと向かうが、暖簾が出ていないことに気付いた。

信三を帰した清之介は、伊佐治が大番屋に連れていかれたと知らされるのだった。

 

乱鴉の空』の感想

 

本書『乱鴉の空』は、気付いてみると『弥勒シリーズ』の第十一弾にもなる作品です。

時代小説としては珍しく深い「闇」を基本にしたシリーズであり、あさのあつこの作品によくみられるように、登場人物の心象を深く掘り下げてあります。

ただ、例えば同じ著者あさのあつこの『バッテリー』のような青春小説と異なり、おなじ詳しい心象表現にしても、人の心に一歩踏み込んで本人も気づいていないだろう真意を暴き出すことを喜びとする男を主人公としています。

 

 

その主人公が小暮信次郎という北町奉行所の定廻り同心で、もう一人の主人公ともいえる存在が小間物問屋遠野屋の主人である清之介という商人です。

この遠野屋清之介という商人が、その正体は腕の立つ暗殺者であったという過去を持ち、強烈なキャラクターである小暮信次郎に相対しうるだけの存在感を持った存在です。

さらにもう一人、小暮信次郎の手下として働いている岡っ引の伊佐治を加えた三人が本『弥勒シリーズ』の重要な中心人物になっています。

 

本書『乱鴉の空』では冒頭から上記の小暮信次郎が行方不明にっているところから始まります。

それも単なる行方不明ではなく、突然、信次郎の家に役人が乗り込んできて信次郎を引き立てようとするのですから尋常ならざる事態です。

そして場面は変わり、信次郎の手下である伊佐治もまた役人に連れていかれたことが明かされます。

清之介の手配で、何とか伊佐治は無事に戻ってくることができましたが、信次郎の行方は依然として不明のままです。

そこで、清之介と伊佐治は信次郎の行方を探し始めるのです。

 

以上のように、本書『乱鴉の空』では信次郎が行方不明になったところから幕を開け、信次郎はどこに消えたのか、また信次郎が行方不明となった理由は何のか、が清之介と伊佐治の二人によって明らかにされていきます。

そもそも、信次郎の身に何かあったのではないか、とも考えられるのですが、あの新次郎が簡単に何者かの手に落ちる筈もなく、自ら身を隠したのだろうとあたりをつける二人でした。

つまりは、清之介と伊佐治の二人の信次郎を探す様子が描かれる一冊、ということになっている本書ですが、それはこれまでにない新たな視点の物語でもありました。

 

とはいえ、本シリーズの基本的な色調である「闇」というキーワードはそのままに生きています。

本シリーズの独特の表現、例えば、清之介にとって「おりんの死が結び付けた男たちは、闇の底で淡く光を放っている。」とか、小暮信次郎について「もう一人の男は闇底で青白く燃えている。炎なのに冷えている」という言い回しは変わりません。

また、信次郎が清之介に対し、芝居に関して放った、「芝居は人間の情に働きかけるが、お前には情など不要だろう。」などという言葉も同様です。

人間が生きていくというそのこと自体、単純にまっとうに生きる明るさだけではないということを言っているのでしょう。

 

人間の「闇」を深掘りする本書は、久しぶりに清之介のかつての姿を彷彿とさせる場面もあったりと、本『弥勒シリーズ』のちょっとした変調のような一冊とも言えそうです。

とはいえ、いつもの信次郎節も見られないこともなく、結局は安定の一冊としての面白さを持った作品でした。

 

ちなみに、同心職が一年ごとの抱席だということの説明の時に、大晦日の夜に支配与力が同心を銓衡する、という私の知らない言葉がありました。

この「銓衡」という言葉ですが、能力・人柄などをよく調べて適格者を選び出すこと、を意味するそうです( goo国語辞書 : 参照 )。