『弥勒シリーズ』とは
この『弥勒シリーズ』は、北町奉行所の定廻り同心とその岡っ引き、それ小間物問屋主人という三人を中心に進む、「心の闇」を中心に描き出す長編の時代小説です。
『弥勒シリーズ』の作品
『弥勒シリーズ』について
本『弥勒シリーズ』の中心となる登場人物は、北町奉行所の定廻り同心の木暮信次郎とその手下の岡っ引きの伊佐治、そして小間物問屋遠野屋主人の清之介という三人です。
本『弥勒シリーズ』を通して清之介の過去が大いにかかわってきます。それは剣の使い手である周防清弥としての過去であり、父親の手札としての殺し屋という過去なのです。
清之介の過去にまつわる「闇」から救い出してくれたのが妻となる「りん」であり、普通の人間として暮らし始めた矢先の出来事として描かれるのが第一巻目冒頭で描かれる女の入水自殺です。
清之介は涙一つ流さないまま、りんは自分にとっての「弥勒」だったと言い、今ひとたびの探索を願いますが、その姿に何か不審なものを感じる信次郎でした。
こうして信次郎と清之介は出会い、このあとも何かとつきあいを続けていくのです。
このあと、巻を重ねるごとに三人それぞれの過去が少しずつ明らかになっていき、そのたびにこの物語の世界が少しづつ広がっていきます。
三人の関係も少しずつ変化していき、その様もまた本シリーズの魅力となっています。
このシリーズの対極にある時代小説のシリーズものとしては、佐伯泰英の描く物語があります。
彼の『居眠り磐音シリーズ』や『酔いどれ小籐次シリーズ』は、登場人物の心象風景に触れることはほとんどありません。あっても場面の説明に付加されたに過ぎないもので、痛快時代小説の典型であるこれらのシリーズには逆に不要なものとも思われます。
物語として見るとき、この『弥勒シリーズ』は決して明るい話ではありません。それどころか、三人それぞれが深い「闇」を抱えています。ただ、その闇を抱えた三人の人間ドラマこそが魅力だと思えます。
つまりは本『弥勒シリーズ』は、ジェットコースター的展開が好きな人には決してお勧めできる物語ではありません。というよりも、そもそも面白いと感じることなく、嫌いとすら思う作品なのでしょう。
また、近年の時代小説の中での私の好みのシリーズの一つである野口卓の『軍鶏侍シリーズ』は、上記の佐伯作品とあさの作品との間に位置すると言ってもいいかもしれません。
『軍鶏侍シリーズ』は、主人公の源太夫の心象を園瀬藩の美しい風景に託して描写していてまったく異なるタッチの物語であって私の好みに合致します。
本書のように、突き詰めると別の世界に引き込まれてしまうような人間の心の闇を描くようなこともありませんし、物語の世界が本書に比して明るく、空間的にも広く、そして高く感じられる作品です。
作者のあさの あつこは藤沢周平の『橋ものがたり』を読んで「後ろから頭をパコンとやられたような気がした」と表現されています。
そして、『バッテリー』を書きながら並行して本書を書いていたそうです。
青春小説の代名詞のようにも言える『バッテリー』と本書では正反対の性格をしていると思うのですが、著者は「『バッテリー』を書きながらも、大人の男や女を書きたいという思い」があって、そのことを担当者に言うと是非読みたいと言われ、本シリーズ第一巻目の『弥勒の月』を書き始めたのだそうです( その人の素顔|あさのあつこ : 参照 )。
ともあれ、いまだ続いているシリーズです。ただ今後の展開が待たれます。