晩節遍路 吉原裏同心(39)

晩節遍路』とは

 

本書『晩節遍路 吉原裏同心(39)』は『吉原裏同心シリーズ』の第三十九弾で、2023年3月に新潮社から344頁の文庫本書き下ろしで刊行された長編の痛快時代小説です。

神守幹次郎の台詞などが芝居調であることは前巻と同じであり、やはり敵役も結末も含めて今一つの一冊でした。

 

晩節遍路』の簡単なあらすじ

 

吉原会所の裏同心神守幹次郎にして八代目頭取四郎兵衛は、九代目長吏頭に就任した十五歳の浅草弾左衛門に面会した。そして吉原乗っ取りを目論む西郷三郎次忠継が弾左衛門屋敷にも触手を伸ばしていることを知る。一方、切見世で起きた虚無僧殺しの背後に、吉原をともに支えてきた重要人物がいることに気づく幹次郎。覚悟を持ち、非情なる始末に突き進んでいく。(「BOOK」データベースより)

 

晩節遍路』の感想

 

本書『晩節遍路 吉原裏同心(39)』は、新しく吉原会所の八代目頭取四郎兵衛となった神守幹次郎の苦悩する姿が描かれています。

非人頭の車善七に将軍家斉の御台所総用人の西郷三郎次忠継という男が吉原に触手を伸ばしていることを告げた幹次郎は、九代目長吏頭の浅草弾左衛門なる人物に会うようにと示唆されます。

そこで弾左衛門の後見人である佐七と名乗る男と、思いがけなくもさわやかさを漂わせた九代目浅草弾左衛門を継いだ十五歳の若者と面会することになるのでした。

後日幹次郎は、山口巴屋で灯心問屋彦左衛門の名で予約の入っていた佐七と会い、西郷三郎次忠継の本名が市田常一郎であり、家斉正室近衛寔子の実母の家系市田家の縁戚であることなどを教えてもらいます。

また、九代目弾左衛門就任に至るまでの間の西郷一派との確執や、次に西郷一派が狙ったのが色里吉原であることなどの話を聞き、さらには神守幹次郎一人が西郷三郎次忠継を始末することを暗黙の裡に受け止めるのでした。

 

一方、澄乃の心配事は吉原を、特に三浦屋を見張る謎の視線でした。

幹次郎が当代の三浦屋四郎兵衛に糺すと、根岸村に隠居した先代の四郎兵衛の名が浮かんできたのです。

ここに幹次郎は、西郷一派との争いと、先代四郎兵衛との問題を抱えることになるのでした。

 

本書『晩節遍路 吉原裏同心(39)』でも神守幹次郎の吉原裏同心と吉原会所四郎兵衛との掛け持ちは、まるで舞台劇だという前巻『一人二役』で感じた印象がそのままあてはまります。

百歩譲って、例えば神守幹次郎自身の、幹次郎本人が見知った事実を四郎兵衛に伝えるなどの言いまわしを受け入れるとしても、そのことは第三者が裏同心としての神守幹次郎と八代目四郎兵衛としての神守幹次郎とで態度を変えるなどの使い分けをすることまで認めるということにはなりません。

その点への著者佐伯泰英のこだわりはまさに舞台脚本であり、痛快時代小説としてはなかなかに受け入れがたいとしか感じられないのです。

 

前巻から批判的な文章ばかり続きますが、シリーズとしての面白さはまだ持っているという所に佐伯泰英という作者の不思議さがあります。

痛快時代小説としての面白さまで否定することはできず、やはり本シリーズを読み続けるのです。

荒ぶるや 空也十番勝負(九)

荒ぶるや 空也十番勝負(九)』とは

 

本書『荒ぶるや 空也十番勝負(九) 』は『空也十番勝負』の第九弾で、2023年1月に334頁の文庫本書き下ろしで刊行された、長編の痛快時代小説です。

いよいよ本シリーズも終わりに近くなっていますが、なかなか最終の目的地へと辿りつかない空也の姿が描かれる、なんとも評しようのない作品でした。

 

荒ぶるや 空也十番勝負(九)』の簡単なあらすじ

 

祇園での予期せぬ出会い。
そして、薩摩最後の刺客!

京の都。
祇園感神院の西ノ御門前で空也は、
往来の華やかさに圧倒されていた。
法被を着た白髪髷の古老が空也の長身に目をつけ、
ある提案を持ちかける。

姥捨の郷では眉月や霧子たちが空也の到着を待ちわび、
遠く江戸の神保小路で母おこんや父磐音がその動向を案じる中、
空也の武者修行は思わぬ展開を迎えることになる。

そこへ、薩摩に縁がある武芸者の影が忍び寄り……。(内容紹介(出版社より))

 

荒ぶるや 空也十番勝負(九)』の感想

 

本書『荒ぶるや』は『空也十番勝負シリーズ』の第九弾で、前巻『名乗らじ 空也十番勝負(八)』に書いたような「あり得ない強さを持つ主人公の坂崎空也の物語」が続きます。

空也の滝で修行を終えた坂崎空也は、霧子の待つ高野山の麓にある姥捨の郷へはいつでも向かえるのに、何故か足踏みをしています。

ここで、足踏みをする理由はよく分かりません。剣の修行者としての空也にはまだ修行を続けるべきだという勘のようなものが働いたというしかないようです。

 

それどころか、単にその大きい体格が弁慶役にうってつけだというだけで、京の祇園感神院の西ノ御門前において、桜子という名の舞妓の演じる牛若丸の相手である武蔵坊弁慶の役を演じることとなります。

一介の剣の修行者が舞妓の相手をして弁慶役を舞うというそのこと自体、あり得ない筋の運びであり、他の痛快時代小説にはない本シリーズの魅力だというべきなのでしょう。

そうした特異なストーリーをもって読者を引っ張るのですから作者である佐伯泰英の物語を紡ぐ力が素晴らしいというしかありませんし、個人的には何とも評しようがないということでもあります。

 

舞を舞ったその夜は桜子のいる祇園の置屋花木綿に泊ることになった空也ですが、そこでは一力茶屋からのとある座敷の頼みを断れずに京都所司代の牧野備前守忠精の座敷へと招かれることになります。

こうして、空也はまた時の権力者の一人へと知己を広げていき、父親の坂崎磐根の人脈に加え、自分でもその人脈を広げていきます。

こうした設定は、まさに痛快時代小説の醍醐味の一つに連なる展開であり、シリーズの終わり近くにこのような展開になるということは、このシリーズの後のさらなる展開への期待を持たせてくれることにもつながります。

 

本来であれば、空也の滝で修行を終え、姥捨の郷へ向かうはずの空也でしたが、祇園社の氏子惣領である五郎兵衛老から鞍馬山での修行を勧められ、それに従うことになります。

それどころか、五郎蔵老には鞍馬での修行のあとには鯖街道を若狭の海まで行くことをすすめられていて、それに従うことになるのです。

その後の空也は、五郎兵衛老の口利状のおかげで僧兵や法師らの修行の拠点である鞍馬寺の鎮守社由岐神社の宿坊に厄介になって修行を行い、鯖街道へと進むことになります。

 

本書『荒ぶるや 空也十番勝負(九)』では江戸の坂崎家の様子や、多分空也十番勝負の最後の相手になるだろう佐伯彦次郎という武者修行中の若侍についてもほんの少しだけ触れるにとどめてあります。

それだけ、十番勝負が描かれる次巻への期待と、この『空也十番勝負シリーズ』が終了した後の展開への興味とが増すことにもつながるようです。

今は、すでに発売されている『奔れ、空也 空也十番勝負(十)』を早く読みたいと思うばかりです。

藩邸差配役日日控

藩邸差配役日日控 』とは

 

本書『藩邸差配役日日控』は、2023年4月に250頁のハードカバーで刊行された連作の時代小説集です。

いかにも砂原浩太朗の作品らしく、情感豊かに描き出される差配役としての一人の武士の日々の奔走ぶりが深く心に染み入る作品でした。

 

藩邸差配役日日控 』の簡単なあらすじ

 

里村五郎兵衛は、神宮寺藩江戸藩邸差配役を務めている。陰で“なんでも屋”と揶揄される差配役には、藩邸内の揉め事が大小問わず持ち込まれ、里村は対応に追われる毎日。そんななか、桜見物に行った若君が行方知れずになった、という報せが。すぐさま探索に向かおうとする里村だったが、江戸家老に「むりに見つけずともよい」と謎めいた言葉を投げかけられ…。最注目の時代小説家が描く、静謐にして痛快な物語。(「BOOK」データベースより)

 

目次

拐し | 黒い札 | 滝夜叉 | 猫不知 | 秋江賦

 

藩邸差配役日日控 』の感想

 

本書『藩邸差配役日日控 』は、神宮寺藩江戸藩邸の差配役である里村五郎兵衛という男を主人公とした情感豊かな時代小説です。

ここで「差配役」とは歴史上も存在した役職だと思っていたのですが、「江戸時代における総務部総務課として想定した架空の役目」だそうです( 本の話 : 参照 )。

差配役」を具体的に言えば、「陰で何でも屋と言われている、藩邸の管理を中心に殿の身辺から襖障子の貼り替え、厨のことまで目をくばる要のお役」だという説明がありました。

 

本書『藩邸差配役日日控 』が見事に面白い作品として仕上がっているのは、こうした架空の役目を設け、そこに主人公を据えたのが最大の要因だと思われます。

本書を読みながら思い出していたのが、藤沢周平の『三屋清左衛門残日録』です。

この作品の主人公三屋清左衛門は、現役時代は用人として先代藩主に仕えていた人物で、現在は隠居をし国元で暮らしています。その人物が、持ち込まれる様々な出来事や事件の相談に乗る様子が語られます。

 

 

この両作品はまったく立場が異なる人物を主人公としていますが、本書の主人公五郎兵衛は何でも屋として、三屋清左衛門は隠居の身として、共に何らかのトラブルが持ち込まれる身であることが共通しているところから連想したものでしょう。

また、本書の著者の砂原浩太朗は、時代小説の大御所である藤沢周平と文章のタッチが似ています。

個人的には時代小説の中でも一番好きな作者の一人が藤沢周平なのですが、この人の文章は情景描写が抜きんで素晴らしく、登場人物の心象をも表現しているところに惹かれます。

一方、未だ新人に近い砂原浩太朗もその文章の運びがゆったりとしていて、場面の背景描写がこれまた丁寧で見事なのです。

特に、第四話「猫不知」での親子の場面など、映画の名場面のように視覚的であり美しく心に残るものでした。

 

付け加えれば、各話の運び方にしても軽く日常的な謎を設け、その謎を解明するために主人公らが動くというミステリータッチの運びが心地よいのです。

そしてその心地よい文章に乗せて運ばれるストーリーがよく練られています。

この点は書評家の杉江松恋が「優れた時代小説に必要な三つの要素」としてうまくまとめておられます。

第一は、登場人物たちの動きが、その時代ならではの価値観、倫理観に基づいていることであり、第二に死が身近であるがゆえの生の儚さが描かれること、第三は現代の世相を照射するような部分が物語にあること、だそうです。

そして、四番目として、五感のどこかに沁みるような、味わい深い文章があることを挙げておられます。

実にうまくまとめておられますが、その通りだと思うのです。そして、私が特に大事だと思うのが、第四番目の味わい深い文章だと思うのですが、砂原浩太朗という作者はまさにピタリとあてはまるのです。

 

「続編があるなら、宇江佐真理さんの『髪結い伊三次捕物余話』のようなファミリー・ヒストリーとして描いていきたいですね」( 本の話 : 参照 )という著者ですが、可能であるならばその言葉を現実のものにして欲しいと思います

その続巻を心待ちにしたいと思います。

本売る日々

本売る日々』とは

 

本書『本売る日々』は、2023年3月に237頁のソフトカバーで刊行された三篇の小説が収められた時代小説集です。

ミステリーの手法がとられたまさに青山文平の物語であり、期待に違わない素晴らしい作品集でした。

 

本売る日々』の簡単なあらすじ

 

時は文政5(1822)年。本屋の“私”は月に1回、城下の店から在へ行商に出て、20余りの村の寺や手習所、名主の家を回る。上得意のひとり、小曾根村の名主・惣兵衛は近ごろ孫ほどの年齢の少女を後添えにもらったという。妻に何か見せてやってほしいと言われたので画譜ーー絵画の教本で、絵画を多数収録しているーーを披露するが、目を離したすきに2冊の画譜が無くなっていた。間違いなく、彼女が盗み取ったに違いない。当惑する私に、惣兵衛は法外な代金を払って買い取ろうとし、妻への想いを語るが……。

江戸期の富の源泉は農にありーー。江戸期のあらゆる変化は村に根ざしており、変化の担い手は名主を筆頭とした在の人びとである、と考える著者。その変化の担い手たちの生活、人生を、本を行商する本屋を語り部にすることで生き生きと伝える“青山流時代小説”。(内容紹介(出版社より))

 

目次

本売る日々 | 鬼に喰われた女 | 初めての開板

 

本売る日々』の感想

 

本書『本売る日々』は、「松月堂」という本屋を営む平助という男が主人公です。

平助は本屋とはいっても「書林」として<物之本>を板行することを夢見ており、今は店頭販売ではなく行商して各地の庄屋などに本を売ることを商売にしています。

そして、「物事の本質が収まった書物」である<物之本>、つまりは「仏書であり、漢籍であり、歌学書であり、儒学書であり、国学書であり、医書」が行商の際に持っていく本でした。

 

この平助の一人称視点で本書は語られますが、舞台となる土地の名前は出てきません。「この国」とか「東隣の国」などと代名詞で表現してあるだけです。

また「この国」についての描写も「この国の城下には・・・藩校の姿はない。」とあるくらいであり、また「玉井村」とか「小曾根村」などという固有名将は出てきますが、それ以上の説明はありません。

つまりは、「地名」はこことは異なる場所という意味しか持たず、ただ平助を始めとする登場人物たちの行いこそが問題であって、江戸時代であるという以外、細かな時代や具体的な場所にはそれほど意味はないということなのでしょう。

 

平助の他の登場人物としては、第一話で小曾根村の惣兵衛、とその若き妻サク、第二話では「東隣の国」にある杉瀬村の庄屋の藤助がおり、弾三話で再び小曾根村の惣兵衛が登場し、さらに小曾根村の自慢としての名医佐野淇一、平助の住む城下の医師西島晴順などがいます。

 

第一話「本売る日々」は、書物の行方をめぐるミステリーです。

ここで描かれているのは、誰がとか、どうしてなどではなく、本を盗ったと思われるサクの心の動きやその行いについての惣兵衛の処置についての謎にすぎません。

そこでの「森の際」についての主人公の話が何と心に染み入ってくることか。作者の筆の力の素晴らしさはもともと知っていたつもりなのだけれど、本書の「森の際」についての語りは深く心を打ちました。

結末の見事さもやはり私の好きな青山文平の作品だと、やはりこの人は最高だと思わせる、余韻のある結末でした。

 

第二話「鬼に喰われた女」は、東隣国の杉瀬村の名主である藤助から聞いた八百比丘尼をめぐる話です。

ある名主の家で引き受けた藩士とその家の娘との間の話ですが、藤助の語りの後に交わされた藤助と私との会話の展開は意外性に満ちたものでした。

八百比丘尼の話に持っていく構成のうまさもさることながら、八百比丘尼の話から一人の娘の話へ、そしてその後の藤助の告白の驚きへと、物語としての面白さを詰め込んだ一編でした。

 

第三話「初めての開板」は、医学というものの在りように着目した好編です。

平助の弟佐助の娘の八恵の喘病があまりよくないことから、平助は、第一話に出てきた惣兵衛から聞いていた、小曾根村で「称東堂」の看板を掲げている佐野淇一という六十過ぎの医者を思い出していました。

惣兵衛は、自分の村には佐野淇一という医者がいるから医の不安なく暮らすことができ、日本一豊かな村だと言っていたのです。

一方、この国の頼りにならないと言われていた大工町の西島晴順という医者が、何故か名医と言われるほどになっていたのです。

 

本書『本売る日々』では、「世の中を変革させる力を持っていた」在郷町にいた名主などの在の人びとを中心として描かれています。

作者の青山文平は、地域の文化の拠点となっていた村の指導者層である名主の存在に焦点を当てるために、彼らを訪ねて学術書を行商する本屋を主人公とする本書を書こうと思い立ったそうです。

また、作者の小説作法として、見つけた素材が内包する物語を紡ぎ出すだけだと書かれています。ただ、本書の場合、その素材を見つけるのが大変だったとも書かれているのです( 文藝春秋BOOKS 本の話 : 参照 )。

 

事実、本書の中には聞いたこともない数々の書物が登場します。

第二話に登場する本居宣長の「古事記伝」などはその名称は聞いたことがあったものの、第一話の「芥子園画伝」などそのほとんどは聞いたこともない書物ばかりです。

第三話に至っては医学書の話であるため一段と理解しがたい話になるはずなのに、和田東郭の『蕉窓雑話』、賀川玄悦の『産論』、『医宗金鑑』、『下台秘要方』、『景学全書』等々ずらりと並びます。

これらの本をそれなりに理解したうえでなければ文章の中に取り込むことはできないでしょうから、作者の努力というべきか苦労は相当なものであっただろうことは素人にも分かります。

しかしながら、その努力の上に本書に登場して生きている書物を見つけ、その中から物語を紡ぎ出しているのですから読者はただ単に恐れ入るばかりです。

 

本書『本売る日々』は、こうした作者の努力を前提として、書物を大切に思う庶民、書物を読むことのできる財力を持つ特殊な立場にある人々の、現実を離れたところにある知的なゲームのような物語として仕上がっています。

青山文平という作者の特色がよく表れた、納得の一冊だということができる作品でした。

北野 武

北野 武』のプロフィール

 

本名は北野武。芸名はビートたけし。
漫才師、映画監督、俳優、画家、作家、歌手。
1947年1月18日生まれ、東京都足立区にある北野塗装店の御曹司として生まれる。明治大学工学部名誉卒業。
歴史に残る高視聴率番組と歴史に残る低視聴率番組を数多く生み出す。
1989年『その男、凶暴につき』で映画監督デビュー。
1997年『HANA-BI』でベネチア映画祭グランプリを受賞。
2006年 ガリレオ2000賞文化特別賞を受賞。
2008年 モスクワ国際映画祭特別功労賞を受賞。
2010年 フランス芸術文化勲章コマンドールを受章。
2016年 レジオン・ドヌール勲章を受章。
2018年 旭日小綬章を受章。
2022年 ウディネ映画祭ゴールデン・マルベリー賞
   (生涯功労賞)を受賞。
2022年 タシケント国際映画祭功労賞を受賞。

引用元:北野武 公式サイト

 

北野 武』について

 

現時点ではありません。

』とは

 

本書『首』は2019年12月に201頁のハードカバーで刊行された、長編の歴史小説です。

北野武の構想30年という歴史小説であり、映画化もされて評判もいいという話ですが、歴史小説としては今一つの印象でした。

 

』の簡単なあらすじ

 

羽柴秀吉と千利休に雇われ、謀反人と逃げ延びた敵を探す旅をしていた曾呂利新左衛門は、信長に反旗を翻し、有岡城から逃走する荒木村重を偶然捕らえた。この首の価値はいかに。曾呂利は、信長が狙う荒木村重の身柄を千利休に託すのだった。一方、丹波篠山の農民・茂助は、播磨へ向かう秀吉の軍勢を目撃し、戦で功を立てようと、雑兵に紛れ込むのだった。だが、思わぬ敵の襲撃が茂助の運命を狂わせていく──。信長、秀吉、光秀、家康を巻き込み、首を巡る戦国の饗宴が始まる。書き下ろし歴史長編。( 内容紹介(出版社より))

 

』の感想

 

本書『』は、本能寺の変の仕掛け人は秀吉だという説を採用した、独特のタッチの歴史小説です。

映画化が前提ではあるものの、北野武が書いた小説だということが一番の売りの作品でしょう。

 

個人的には一度は途中で読むのをやめたほどの作品でしたが、映画は見るつもりがあるので一応最後まで読んでみようという気持ちで読み終えたものの、小説としては評価できませんでした。

本書は小説ではなく脚本だと言われたほうが納得したでしょう。

ただ、私の感じた印象に反し、Amazonでの小説としての評価はあまり悪くはなさそうでした。

 

まず文章についてみると、戦国期を描いた歴史小説であるのに冒頭のプロローグの三頁だけで地の文も会話文も現代的で妙な違和感があります。

また、語り手である曾呂利新左衛門が関西弁であるのに対し秀吉は標準語であることや、いざ本編が始まっても地の文で「ムード歌謡」とか「トロイカ体制」などの現代用語が頻繁に出てくるのにもついて行けません。

次いで、ストーリーを見ても、荒木村重を探しに来た曾呂利新左衛門たちの前に当の荒木村重が飛び込んできて、チビやデカブツに簡単に取り押さえられてしまうのも都合がよすぎます。

ここまで冒頭から九頁ですが、すでに本書に対して強烈な拒否感を持ってしまったのです。

私は、ビートたけしとしての芸能活動も含めてかなりな北野武ファンだと思っていますが、この小説は受け入れることができませんでした。

頑張って読み進めはしたのですが、エンターテイメント小説として登場人物の心象への配慮も感じられないし、武将同士の相手を篭絡するための話し合いにしてもあまりにご都合主義的で受け入れがたいのです。

 

本書『』では、曽呂利新左衛門という男が秀吉に昔語りをする、という形式で物語は進んでいきます。

本能寺の変の背景という舞台設定ですから、登場人物も当時の織田信長羽柴秀吉徳川家康と言った武将たちがいるのは当然であり、加えて荒木村重千利休らが重要人物として登場します。

また、本書で独自に設けられたのが曽呂利新左衛門のボディーガード的な仲間のチビデカブツであり、さらに後に難波茂助になる百姓の茂助がいます。

この曽呂利新左衛門が秀吉の命を受け、歴史の裏側で活躍するのです。

 

先に、映画化が前提での作品だと書きましたが、先日、北野武の「首」がカンヌ映画祭でスタンディングオベーションを受けたというニュースに接しました。

監督はもちろん北野武であり、羽柴秀吉をビートたけしが演じ、織田信長を加瀬亮、明智光秀を西島秀俊が演じるなどの豪華な俳優陣がキャスティングされています。

 

 

 

ここまで書いてきて思ったのですが、映像はストーリーが簡単である方が映像として面白いという話はよく聞くところです。

ということで、本書は文字通り脚本的な存在として読むべきなのかもしれません。だとすれば、ストーリーが単純で、ある程度のご都合主義であることも許容すべきなのでしょう。

とはいえ、本書に感じた私の印象はやはり好転するものではなく、小説としては評価できないというのが結論です。

でも、予告編を見る限りは映画は面白そうです。楽しみに待ちたいと思います。

名乗らじ 空也十番勝負(八)

名乗らじ 空也十番勝負(八)』とは

 

本書『名乗らじ 空也十番勝負(八)』は『空也十番勝負シリーズ』の第八弾で、2022年9月に336頁の文庫本書き下ろしで出版された長編の痛快時代小説です。

シリーズも終盤近くなり、空也の存在も一段と剣豪らしくなっていて、まさに王道の痛快時代小説としてファンタジックな小気味のいい一冊となっています。

 

名乗らじ 空也十番勝負(八)』の簡単なあらすじ

 

安芸広島城下で空也は、自らを狙う武者修行者、佐伯彦次郎の存在を知る。武者修行の最後の地を高野山の麓、内八葉外八葉の姥捨の郷と定め、彦次郎との無用な戦いを避けながら旅を続ける空也。京都愛宕山の修験道で修行の日々を送る中、彦次郎は空也を追い、修行の最後を見届けるため霧子、眉月が江戸から姥捨の郷に入った。(「BOOK」データベースより)

 

名乗らじ 空也十番勝負(八)』の感想

 

本書『名乗らじ 空也十番勝負(八)』は『空也十番勝負シリーズ』の第八弾で、あり得ない強さを持つ主人公の坂崎空也の物語です。

異変ありや』では上海でのヒーロー空也の姿があり、『風に訊け』では痛快時代小説の定番ともいえるお家騒動ものがあって、それぞれに異なった顔を見せていました。

そして本書『名乗らじ 空也十番勝負(八)』では武者修行中の若武者の大活躍が描かれた痛快時代小説と、これまた王道のエンターテイメント時代小説です。

 

本『空也十番勝負シリーズ』の主人公坂崎空也は、単に無類の強さを誇るだけではなく、毎日一万回を超える素振りを欠かさないというその人格態度も含めて完璧な人間です。

空也は現実にはあり得ない強さを持つ痛快小説の主人公として、スーパーマン的存在といえるのです。

大衆小説としての痛快時代小説の主人公は皆無類の強さをもつものですが、本書の空也はまさに非の打ち所がありません。

父磐根の親友を斬ったという悲惨な過去も持たず、また斗酒なお辞さない酒飲みである小籐次のような嗜好もありません。

その点では、空也のような若者などいない、と遠ざける人もいそうな気さえするほどであり、そういう意味も込めて冒頭にはファンタジックな物語と書いたのです。

 

本書『名乗らじ 空也十番勝負(八)』での坂崎空也は、武者修行中の身ではあるものの、江戸の高名な道場の跡取りであることまでも知られている若侍です。

空也自身の人間性はもちろん、そうしたある種有名人ということもあって、安芸広島城下の間宮一刀流道場で暖かく迎え入れてもらえます。

この間宮道場は、前巻の『風に訊け 空也十番勝負(七)』でほんの少しだけ登場していた佐伯彦次郎という武者修行中の若侍がいた道場でした。

金十両という金を賭けて立ち合い、その金をもって修行の旅費とする佐伯彦次郎の生き方は空也には真似のできないものであり、また佐伯彦次郎の故里でも、剣を学んだ道場でも受け入れてはもらえない修行の方法だったのです。

その間宮道場で快く受け入れてもらえ、修行に励む空也でしたが、自分との対決を望んでいるらしい佐伯彦次郎との争いを避け、山陽路を東へと旅立ちます。

播磨姫路城下へと辿り着いた空也は、無外流の道場から追い出された撞木玄太左衛門という男が破れ寺の庭先で町人らを相手に教えている道場で修行をすることになります。

その撞木玄太左衛門という人物もまた高潔な男であり、空也は辻無外流道場の追手から彼を助けながらも江戸の坂崎道場へと誘うのです。

一方、江戸では尚武館へ豊後杵築藩出身の真心影流の兵頭留助という男が何も知らないままに道場破りとして現れていました。

この男と、尚武館に入門したての鵜飼武五郎という若侍とが新たに登場しています。

そこに空也からの紹介という撞木玄太左衛門も現れ、より多彩な人物が揃う道場となっているのです。

 

十六歳で武者修行へと旅立った空也も今では二十歳となり、高野山の麓にある空也が生まれた地である姥捨の郷で武者修行を終える旨の文を霧子宛に出しています。

そして、十番勝負の終わりも近い空也の今後がどのような展開になるものなのか、このシリーズの終了後の展開が気になるだけです。

もしかしたら、『空也十番勝負シリーズ』をも含めた『居眠り磐音シリーズ』自体が完結することも考えられます。

作者の「夏には、また新しい物語を届けられるよう、鋭意準備中です。」とも文言が見られるだけです。

出来れば、坂崎磐根、空也親子の物語をまだ読み続けたいと思うのですが、どうなりますか。

ただ、新たな作品を待つばかりです。

千早 茜

千早茜』のプロフィール

 

1979(昭和54)年、北海道生れ。立命館大学卒業。幼少期をザンビアで過ごす。2008(平成20)年、小説すばる新人賞を受賞した『魚神(いおがみ)』でデビュ一。2009年、同作にて泉鏡花文学賞、2013年、『あとかた』で島清恋愛文学賞、2021(令和3)年、『透明な夜の香り』で渡辺淳一文学賞を受賞した。『あとかた』と2014年の『男ともだち』はそれぞれ直木賞候補となる。

引用元:千早茜 | 著者プロフィール – 新潮社

 

千早茜』について

 

小川哲氏の『地図と拳』と共に『しろがねの葉』で第168回直木三十五賞を受賞しました。

 

しろがねの葉

しろがねの葉』とは

 

本書『しろがねの葉』は2022年9月に本文が314頁のハードカバーとして刊行された、長編の歴史小説です。

「銀山の女性は3人の夫を持つ」というガイドの言葉をもとに、ひとりの女の生涯を描き出した、第168回直木三十五賞を受賞した作品です。

 

しろがねの葉』の簡単なあらすじ

 

戦国末期、シルバーラッシュに沸く石見銀山。天才山師・喜兵衛に拾われた少女ウメは、銀山の知識と秘められた鉱脈のありかを授けられ、女だてらに坑道で働き出す。しかし徳川の支配強化により喜兵衛は意気阻喪し、庇護者を失ったウメは、欲望と死の影渦巻く世界にひとり投げ出されたー。繰り返し訪れる愛する者との別れ、それでも彼女は運命に抗い続ける。第168回直木賞受賞作。(「BOOK」データベースより)

 

しろがねの葉』の感想

 

本書『しろがねの葉』は、逃散百姓の親や弟ともはぐれ一人になった少女ウメが石見銀山へたどり着いて生き抜くさまを描いた直木賞を受賞した作品です。

作者の千早茜氏は、石見銀山で銀堀りをしていた男たちが過酷な作業や鉱山病のために短命であることから「石見の女性は夫を3人持った」と言われていることを聞いて本書の執筆を思い立ったそうです。

本書では背景となる自然の描写と合わせて過酷な銀堀の仕事の様子が、千早茜氏の短めの文章で畳み掛けられ胸に迫ってきます。

ただ、ウメの生き方については最初は少しの違和感を感じたものでしたが、そのうちに銀山に生きる人々の過酷な生き方を如実に示していると感じられてきました。

人々の諦念を示しながらもその中に力強さをも示しているようです。

 

本書『しろがねの葉』の主人公であるウメは、石見銀山の中心的な存在である山師の喜兵衛に拾われ育て上げられます。

本来であれば銀の産出抗である間歩に入ることは許されない「女」であるウメですが、喜兵衛が可愛がっている女児であること、また皆から一目置かれている岩爺が何も言わないこともあって、手子として間歩に入り、石見銀山で生きてゆくのです。

 

ここで手子とは、間歩で働く、雑用をこなす子らのことを言います。

また、銀気(かなけ)を含む石である鏈(くさり)を袋に詰める役割を持つ入手(いれて)、鏈を運ぶ荷負(におい)ズリと呼ばれる不要な石を運び出す柄山負(がらやまおい)などの銀山独特の用語の説明があります。

ついでに言えば、銀堀が銀を追って掘った穴が間歩であり、銀気(かなけ)を含む石を鏈(くさり)、その鏈が集まっているところを鉉(つる)と言うそうで、間歩の中のことをと呼ぶとありました。

本書では上記の岩爺を始めとして、喜兵衛のそばにいつもいるヨキという男や、幼い頃のウメにちょっかいを出し逆に腕をかじられる隼人や、後に喜兵衛のもとに貰われウメにかわいがられるという少年などが重要な人物として登場します。

この男たちがみんな魅力的に生きているのですが、特にヨキが妙な存在感を持っています。その生い立ちや性格などあまり詳しくは書いてないのですが、何故か喜兵衛のために生き、ウメの人生にもかかわってくるのです。

 

本書『しろがねの葉』の特徴を一言でいえば、全編を貫くウメの生き方の力強さでしょう。

全体としては濃密な空気感の中で決して明るくはない話なのですが、ウメの成長を語る物語自体は妙な迫力があります。

時代背景としては、登場人物の一人が関ケ原の戦いの情報を持って帰ってくるなどの話もあり、石見銀山も後には徳川幕府の体制に組み込まれていく様子が記されています。

こうしたウメの力強い生き方や成長の様子が記されているのですが、そのことは同時にウメの女としての成長をも意味し、そこで「濃密な生と官能」と描写されるような側面も持ってきます。

 

そんな中、ウメは一人石見銀山の女として喜兵衛の庇護のもと、隼人や龍、そしてそのほかの銀山の男社会の中で力強く生きていきます。

けっして私の個人的な好みの作品ではないのですが、物語の持つエネルギーは否定のしようもなく、ウメの力強い生き方に惹きつけられずにはおられません。

この作者の他の作品も併せて読もうとまでは思いませんが、本書『しろがねの葉』の持つ力強さはやはり直木賞を受賞するだけのものはあるとしか言いようがありません。

読むだけの価値のある一冊でした。

我、鉄路を拓かん

我、鉄路を拓かん』とは

 

本書『我、鉄路を拓かん』は、2022年9月に314頁のハードカバーとして刊行された長編の歴史小説です。

明治五年(1872)九月に新橋・横浜間で開業された日本初の鉄道路線の敷設に尽力した人々、特に線路の土台部分である築堤を築いた男たちの物語です。

 

我、鉄路を拓かん』の簡単なあらすじ

 

海の上に、陸蒸気を走らせる!
明治の初めに、新政府の肝煎りで、日本初の鉄道が新橋~横浜間に敷かれることになった。そのうち芝~品川間は、なんと海上を走るというのだ。
この「築堤」部分の難工事を請け負ったのが、本書の主人公である芝田町の土木請負人・平野屋弥市である。勝海舟から亜米利加で見た蒸気車の話を聞き、この国に蒸気車が走る日を夢見ていた弥市は、工事への参加をいち早く表明する。
与えられた時間はたった二年余り。弥市は、土木工事を生業とする仕事仲間や、このプロジェクト・チームを事実上率いている官僚の井上勝、そしてイギリスからやってきた技師エドモンド・モレルとともに、前代未聞の難工事に立ち向かっていく。
来たる2022年10月14日は、新橋~横浜間の鉄道開業150年にあたる記念すべき日。この日を前に刊行される本書は、至難のプロジェクトに挑んだ男たちの熱き物語であり、近代化に向けて第一歩を踏み出した頃の日本を、庶民の目で見た記録でもある。(内容紹介(出版社より))

 

我、鉄路を拓かん』の感想

 

本書『我、鉄路を拓かん』は、新橋・横浜間で開業された日本初の鉄道路線の敷設に尽力した人々、特に線路の土台部分である築堤を築いた男たちの物語です。

具体的には、新橋と横浜の間にある、現在「高輪築堤」と呼ばれその遺構も見つかっている部分を担当した人物を描き出した感動的な物語です。

 

本書『我、鉄路を拓かん』を読みながら、かつてテレビで放映された、品川沖に築かれた堤防の上を鉄道が走り、その跡が今でも残っている、という場面を思い出していました。

その番組は多分NHKの「ブラタモリ」であったと思うのですが、定かではありません。

それとは別に本書について調べていると、本書がテーマとしている「築堤」の遺構、が、平成三十一(2019)年四月にJR東日本の品川駅周辺の再開発工事で見つかっていたという記事を見つけました。

私はこのことを知らずにいたのですが、「高輪築堤」と呼ばれているこの築堤の遺跡は一般にも公開され、見学者を募っていたようで、詳しくは下記のサイトをご覧ください。

 

本書『我、鉄路を拓かん』の主人公は、土木請負人である平野屋弥市というもとは雪駄や下駄を商っていた男です。

その男が日の本のために普請がしたい、いつの日にか勝海舟がアメリカで見たという蒸気で走る鉄の車を日の本でも走らせてみたい、と思うようになっていたのです。

平野屋弥市が、同じ土木請負業の山内政次郎、その義理の息子である重太郎、それに長州藩士であり伊藤らと共に英国への密航歴がある井上勝、それに英吉利人技師のエドモンド・モレルらと共に鉄道を敷設することになります。

ただ日本初の蒸気車は、鉄路沿線住民や、政府内部でも兵部省らの強行な反対などがあり、前途は決して明るいものではなかったのです。

そうした困難を乗り越えて日本初の鉄道を走らせる礎を築くことになる、彼らの姿は感動的ですらあります。

 

しかし、陸蒸気を走らせるまでの話は、主人公平野屋弥市の紹介を兼ねた話でもあるためか今一つ盛り上がらない印象がありました。

本書『我、鉄路を拓かん』のような土木作業のような世界を描くには山本一力のような骨太の文章の方が似合っただろう、などと思っていたものです。

とはいっても、第二章の終わりあたり、蒸気車の話が具体的に見えてくるところあたりから、この物語は面白くなります。

物語の展開が本題に入り、伊藤勝を中心として事業が動き出すダイナミズムが文章にも表れているようです。

 

ただ、重太郎が人を見下すような人物として描かれているのは若干の疑問が残りました。

義理の父親である政次郎が侠気溢れる大人物であるのであるのならば、自分の養子としてそのような人物を選ぶかと思ったのです。

その狭量な性格に気付かない筈はなく、気づいたらその性根を叩き直すのが通常でしょう。

本書の場合、この点については話しの進行の中でそれなりの手当てをしてあり、それなりの納得感はありましたが、それでも若干ではありますが、違和感は残りました。

 

それでも、本書『我、鉄路を拓かん』を読み終えたときには自分の知らない世界を垣間見ることの喜びを得ることはできたと思います。

平野屋弥市や井上勝、それに勝海舟、そして英国人技師モレルら工事にかかわった人々の鉄道敷設に対する熱量を肌に感じることができ、お仕事小説としての楽しみも味わうこともできました。

歴史上実在した人物を主人公に据え、脇を固める人物も同じくかつて我が国に生き、大きな仕事を残した先人たちですから描きにくい作品だったことは容易に想像できます。

そうした制限を乗り越え、それなりの骨太の小説として仕上がっていることは間違いないと思います。

個人的な好みとして若干の不満はあったものの、それでも読みごたえがあった、と言える作品だったと言えるでしょう。