希みの文 風の市兵衛 弐

本書『希みの文 風の市兵衛 弐』は、新しい『風の市兵衛 弐シリーズ』シリーズの第六弾の長編の痛快時代小説です。

本シリーズの第四弾『縁の川』以来、本シリーズに登場している大坂の本両替商「堀井」に関連した一連の事件、人物についての始末がつけられる、といえるのでしょう。

 

唐木市兵衛に返り討ちにされた刺客の一族が、復讐を誓い市兵衛の身辺探索を始めた。一方、大坂に情が移り江戸への出立を渋る小春を、亡姉の親友お茂が訪ねてきた。幼馴染みが辻斬りに遭い、生死の境をさ迷っているという。犯人捜しを始めた市兵衛だったが、己れの居場所を刺客に突き止められてしまう。良一郎らを先に発たせた市兵衛は、自ら死の罠に飛び込み…。(「BOOK」データベースより)

 

序章 小橋墓所 | 第一章 詮議所 | 第二章 武家奉公人 | 第三章 光陰 | 第四章 鈴鹿越え | 終章 大坂便り

 

東小橋村の家へと帰りを急ぐお橘を小橋墓所へと引きずり込もうとした侍は、逆らうお橘に覆面を取られたためお橘の背へ一太刀を浴びせるのだった。

お橘の不幸を知った幼馴染のお茂は、無かったことにされようとしてるお橘の事件を何とかしてくれないかと市兵衛に頼みに来た。

保科柳丈島田勘吉は北船場の本両替商「堀井」を訪ね、店主安元の母親から室生斎士郎の顛末などを聞いていた。

一方、江戸の北町奉行所の詮議所お白州では、小間物商「萬屋」の奉公人の根吉の自死は本両替商「堀井」の無慈悲な取り立てのためだとして、母親と兄は堀井の主人堀井安元と筆頭番頭の林七郎の二人の奉行所の厳正な裁きを求めていた。

江戸での本両替商「堀井」への詮議が終わった日、大坂の市兵衛富平良一郎、そして小春の四人は近江の国の草津にいた。その後土山宿に着いた市兵衛は、迎えに来た島田勘吉と共に山道へと入り、柳丈のもとへと行くのだった。

 

本書『希みの文 風の市兵衛 弐』では、本『風の市兵衛 弐シリーズ』第四弾の『縁の川』において小春と良一郎のあとを追って大阪まで来た市兵衛と富平は、未だ大坂にいます。

 

 

未だ大坂にいる市兵衛らを描いた本書『希みの文 風の市兵衛 弐』で語られるのは、大筋で三つの物語だと言えると言えます。

一つは、小春の姉が世話になっていたお茂が持ってきた、小坂源之助という侍に理不尽に斬られたお橘についての助力の頼みであり、この話が柱になっています。

もう一つは、江戸において為されている大阪に本店を持つ本両替商「堀井」の、小間物商「萬屋」奉公人の根吉の死についての詮議の話です。

そして、大坂において市兵衛により殺された野呂川白杖、室生斎士郎という二人の剣客の兄であり師匠である保科柳丈との対決という三つの物語です。

 

最初のお橘の話は、理不尽な振る舞いに及んだ小坂源之助という男の話です。源之助の父親は小坂伊平といい、大坂東町奉行・彦坂和泉守の家老をしていたのです。

この小坂伊平は「一季居り」という一年契約の武家奉公人であり、「渡り用人」をその職務とする市兵衛とは似た立場にある人物だという設定です。

ですから、仕える家の家政を司る武家奉公人とは異なり、市兵衛は主に家禄の低い旗本や御家人の勝手向きのたて直しに雇われる「算盤侍」であると言います。

そして、この小坂伊平と市兵衛との会話の場面は、伊平の収入の具体的な描写などかなり読みごたえがありました。「一季居り」とはいえ侍であり、奉公人として、また父親としての伊平の言葉は重みを感じるものだったのです。

 

奉行の家老職でさえも一季限りの奉公ということがあるのか、とネットを調べましたが、庶民や武家の奉公人の間では一季奉公はあるものの、家老職といった重要な役職での一季奉公の事実は見つけることはできませんでした。

例えば、「江戸時代の雇用等 – 一般財団法人 日本職業協会」 では「上級の者は一般に終身の奉公」であることが示唆されているだけで、一年契約の方向という事例は見つけることができなかったのです。

でも、「一季居り」という言葉自体が「無い」ということでもないのでそのままに読み続けましょう。

息子の小坂源之助との関係性はいつもの、市兵衛による痛快な仕置き場面があります。弱きものに対し高圧的な世間知らずを叩きのめす市兵衛の活躍を楽しむだけです。

 

次いで、本書『希みの文』で語られるのは、江戸で行われた本両替商「堀井」の詮議の様子です。この場面はいつものお白州の場面とは異なる進行があります。具体的な詮議の進め方が簡単ですが示されています。

ここで「本両替商」と単なる「両替商」の違いが気になりました。

そもそも、徳川家康により貨幣制度が整備され、金、銀および銭の三種類の通貨が流通することとなり、円滑な取引のために通貨間の両替が必要となって、「両替商」が成立したそうです。

この「両替商」は「脇両替」と「本両替」とに分化したそうで、脇両替は銭貨の売買を業とし、本両替は金銀両替および信用取引を仲介する業務まで行ったそうです(詳しくは ウィキペディア を参照してください)。

 

そして、本書『希みの文』の最後は市兵衛の剣の見せ場が設けられています。このところの三巻の敵役として登場してきた剣客の総まとめとしての保科柳丈の登場です。

この保科柳丈は大物として、しばらくは市兵衛の敵役として登場し続けるのかと思っていましたが、そうでもなかったようです。

それでも、単なる悪役ではなく、侍としての心を持った武士として登場し、死んでいきます。その剣戟の場面は作者も慣れたもので、読みごたえがありました。

今後、また江戸にもどってからの市兵衛の新たな展開を楽しみたいと思います。

鼠草紙 新・酔いどれ小籐次(十三)

本書『鼠草紙 新・酔いどれ小籐次(十三)』は、『新・酔いどれ小籐次シリーズ』の第十三弾です。

今回は俊太郎の実の父母の故郷丹波篠山への小籐次おりょう、そして駿太郎の三人での旅がテーマで、いつもとは異なった土地での活躍が描かれます。

 

小籐次一家三人は、老中青山忠裕の国許であり駿太郎の実母・小出お英の故郷でもある丹波篠山へと旅立つ。駿太郎はお英の墓に参り、実父の須藤平八郎の足跡をたどって亡き両親への想いを募らせるが、同時に養父母である小籐次とおりょうとの絆を盤石なものとした。しかしその小籐次一行を、お英の実兄・雪之丞が付け狙っていた。(「BOOK」データベースより)

 

第一章 篠山入り
文政八年(一八二五年)秋、丹波篠山ではおしんの従妹のお鈴らの篠山藩挙げての歓迎があった。お鈴の実家の旅籠に泊まった翌日、城代家老小田切越中らと会い、さらに家臣らとの立ち合うこととなる。

第二章 国三の頑張り
小籐次らのいない江戸では、久慈屋の店先に、手代の国三が作る小籐次父子の看板代わりの人形を飾ることとなった。一方、小籐次ら三人は浄土宗高仙山少音寺にある俊太郎の母親お英の墓へと参ったのち、お英の乳母お咲の従妹うねのいる柏原家へと向かった。

第三章 人形の功徳
柏原へと着いた一行は、お鈴の親戚の旅籠へと投宿した。翌日、小籐次とおりょうは俳人田ステ女の生家を訪れ、駿太郎はお鈴とともにお英の従妹うねに会う。その俊太郎をお英の兄小出雪之丞らが襲ってきた。

第四章 篠山の研ぎ師
久慈屋店頭の小籐次父子の人形には、評判を聞いた老中青山忠祐まで見物に来る始末だった。篠山城下に戻った小籐次は、城中の道場での対抗戦が十日後と迫っていた。他方、おりょうは篠山城の蔵の中で御伽草紙の「鼠草紙」に接し驚きを隠せないでいた。

第五章 八上心地流
五日後に迫った対抗戦を前に、小籐次父子だけで馬を駆って須藤平八郎を知る高山又次郎の誘いに乗って、須藤平八郎が心地流の稽古をしたであろう八上城址へと行く。そして、いよいよ江戸へと帰る三人がいた。

 

本書の主な舞台は江戸ではなく、丹波篠山です。

駿太郎の実の親である須藤平八郎とお英の故郷へ行って二人の墓に参り、小籐次とおりょうとの親子関係をより強固なものにしようとする旅でもありました。

ただ、小籐次には、老中青山忠裕からの密かな頼み事もあったのです。

 

江戸の描写が全く無いというわけでもありません。久慈屋の店先の寂しさを紛らわせようと、小籐次父子の紙人形を飾ることになり、そのことがひと騒動を巻き起こす、その姿が描かれています。

ともあれ、丹波篠山での小籐次の姿は相変わらずです。よそ者の小籐次を素直に受け入れることができない篠山藩士の様子も当然ながらあり、それに対する小籐次父子の活躍が描かれます。

 

ここで、本書に限らずではありますが、ちょっと気になったことがあります。

一つには、小籐次の言葉遣いです。一介の浪人の物言いとして、藩の家老などの高い役職に就くものに対しては別として、一般の藩士に対しての言葉遣いはこれでいいのだろうかということです。

かつては厩番でしかなかった、それも老人と言える浪人の小籐次が、藩士に対し本シリーズで描かれているような上からの物言いに聞こえる言葉遣いをしていいのだろうかと思いました。

痛快時代小説として看過できない間違いということでもなく、物語としては面白いのでまあ無視していいことなのでしょう。

もしかしたら、年寄りであるがゆえに年齢が上のものの言葉遣いとして当たり前なのかもしれません。

 

もう一つの疑問は、小籐次と俊太郎の剣の強さが半端ではないことです。勿論、子供の頃から船を漕ぎ、父親に鍛えられてきた小籐次ですから「御槍拝借」の騒動を起こすこともできたのでしょう。

とはいえ、れっきとした一藩の指南役を名乗る剣士に対しても、小籐次は何のこともなく対処し、これを倒してしまいます。小籐次と互角近くに渡り合った剣士と言えば、駿太郎の父親である須藤平八郎くらいしか覚えていません。

他にもいたのでしょうが、あまり印象にないのです。

小籐次の剣の強さは、宮本武蔵や上泉伊勢守信綱ほかの剣豪に並ぶ強さと思えるほどです。とはいえ、この疑問もあえて異を唱えるほどでもないことと思われ、単純に小籐次の強さを楽しめばいいのでしょう。

 

本書ではそうしたことよりもほかに、おりょうの関連で面白いことが書かれていました。それは「田ステ女 」であり「鼠草紙」です。

田ステ女」は実在の人で、江戸時代の女流歌人で、私も聞いたことがあった「雪の朝 二の字二の字の下駄の跡」という句は六歳の時に詠んだ句だそうです。

そして「鼠草紙」は、人間になりたい鼠が姫君と結婚するという話で、「御伽草子」の中でも絵巻物のかわいらしさから人気が高い話だそうです。

 
「田ステ女」に関しては、

 
「鼠草紙」に関しては、

をそれぞれ参照してください。
 

これらの歴史上の事柄を挟みながら、駿太郎の両親の物語と、老中青山忠裕が治める丹波篠山藩の事情が語られる話になっています。

なんとも、特別に大きな敵役が現れるわけでもなく、普通(?)に小籐次親子の話が語られるこの物語が妙な魅力を持っているのは何故でしょう。

やはり、小籐次というキャラクターの持つ魅力、そしその小籐次というキャラクターが自在に動ける世界を見事に作り出していることにあるというべきでしょうか。

今後も楽しみに読みたいシリーズです。

夏の雪 新・酔いどれ小籐次(十二)

本書『夏の雪 新・酔いどれ小籐次(十二) 』は、『新・酔いどれ小籐次シリーズ』の第十二弾です。

特別に大きな事件が起きるわけではないのですが、小籐次というキャラクターがいいためなのか、あい変らずに面白く読み終えることができた作品でした。

 

小籐次父子は公方様に拝謁し、見事な芸を披露して喝采を浴びた。数日後、小籐次は駿太郎の乳母を務めたおさとと再会する。彼女の舅は名人と呼ばれる花火師だったが怪我を負って引退し、さらに余命数か月という。半端な花火職人の義弟が作った花火を舅に見せてやりたいというおさとの願いを知った小籐次は、一計を案じる―。(「BOOK」データベースより)

 

第一章 書院の舞
十一代将軍家斉と対面をすることとなった小籐次父子だったが、御目見えの際、将軍の御詰衆との立ち合いを避けるために、小籐次は久慈行灯とともに白の紙束を数度切り分けて座敷に夏の雪を、更には色とりどりの紙で夏の花火を見せる。

第二章 墓参り
小籐次父子の将軍家斉との対面が騒動になり仕事ができないからと、駿太郎の父須藤平八郎の墓参りに行った帰り、望外川荘で待っていたのは四十樽を超える四斗樽だった。そこで、駿太郎の乳の面倒を見てもらったおさとの義父のことを聞いていた小籐次は一計を案じる。

第三章 八右衛門新田の花火屋
息子の華吉が作った花火を見て死にたいという名人と呼ばれたおさとの義父の望みをかなえようと、小籐次は八衛門新田にある花火屋の緒方屋の六左衛門をたずねた。そして、命を懸けた俊吉の指図のもと華吉らが一丸となって墨田の花火を盛り上げることを依頼するのだった。

第四章 義兄と義弟
一方、小籐次のもとには美人局にあって困っているとの、義兄弟の契りを交わした成田屋こと市川團十郎からの相談が持ち掛けられる。その相手は悪清水の名で通っている南町奉行所非常取締係石清水正右衛門であり、奉行も困っている人物だった。

第五章 夏の夜の夢
悪清水を退けた小籐次は、おさとの義父の俊吉の指導のもと造られた花火の打ち上げを楽しみながら、老中青山忠裕のすすめに従い、おりょうと駿太郎とを連れて、駿太郎の故郷へと旅することを考えるのだった。

 

今回の小籐次では、「夏の雪」というタイトルの裏にある「夏の花火」が主なテーマになっています。

隅田川の川開きの花火をメインに据え、不景気で下火に終わるかもしれない今年の川開きをより華やかにするために小籐次が活躍する舞台を考えてあるのです。

そのために本書『夏の雪 新・酔いどれ小籐次 』は、まずは駿太郎とともに将軍家斉への拝謁という大事件から始まります。

その御目見えの場で小籐次は余興として、剣により座敷に「夏の雪」を降らせ、さらに「夏の花火」を打ち上げるのです。

また、この将軍への拝謁は、あとで花火を打ち上げるための費用捻出にも役立つ仕掛けとなっています。

 

その後、花火師親子の人情物語があって隅田川の川開きの花火となるのですが、さすがに作家の想像力は見事なもので、いかにも小籐次らしい人情物語として仕上げられています。

ただ、ここでの花火師の人情話の場面で、死期を迎えた名人と呼ばれた花火師の父親と未だ半人前の花火師でしかない息子との描写自体はあまりありません。

佐伯泰英という作家は、人物の心象を深く掘り下げ情感豊かに描写する、という手法は取らないようです。本書『夏の雪』でのこの場面でも、どちらかというと物語は淡々と進みます。

それでいて、物語全体として、小籐次の関係した話の一場面としてきれいに成立しているのですから見事です。

そして、本書『夏の雪』では市川團十郎の絡んだ事件を語ってあり、小さくではありますが小籐次の剣戟の場面もはさんで見どころを作ってあります。

 

本書『夏の雪 新・酔いどれ小籐次』は、素浪人小籐次の人情噺ここにありという話です。小籐次がその多方面にわたる顔の広さを思い知らせる一編にもなっています。

この調子で進んでいってもらいたいものです。

春淡し: 吉原裏同心抄

本書『春淡し: 吉原裏同心抄(六) 』は、吉原裏同心抄シリーズの第六弾です。

いよいよ本『吉原裏同心抄シリーズ』も最終巻となったようです。今後の神守幹次郎と汀女、麻、それに吉原の行く末はどうなるのか、今後の展開が待たれます。

 

高齢の四郎兵衛に代わり、廓を御する吉原会所の八代目頭取を誰が継ぐのか。五丁町名主の話し合いは紛糾し、画策や探り合いが始まった。新春の吉原、次期頭取候補と目される神守幹次郎を狙い、送りこまれる刺客に、張られる罠。危機を覚えた幹次郎は、故郷の豊後岡藩藩邸を訪れるとともに、ある決意を固める。吉原百年の計を思い、幹次郎の打つ、新たな布石とは。(「BOOK」データベースより)

 

寛政三年(一七九一)師走、吉原会所で開かれた町名主の集まりで神守幹次郎の八代目頭取就任についての話し合いがもたれた。当然のことながら反対意見はあり、なかでも駒宮楼六左衛門の反対は激しいものがあった。

新たな年を迎えた幹次郎らが浅草寺へと初詣に行った留守宅が襲われ、仔犬の地蔵が攫われる。しかし、同心桑原市松の助けを借り、駒宮楼の娘婿の直参旗本小普請組淀野孟太郎を倒し、地蔵を助け出すのだった。

旧藩の豊後岡藩江戸藩邸への年賀の挨拶の帰りに読売屋に自身の旧藩への復縁を漏らしてしまった幹次郎は、そのことで会所の七代目四郎兵衛から永の謹慎処分を受けることになる。

 

本『吉原裏同心抄シリーズ』も最終巻となってしまいました。

神守幹次郎の吉原会所八代目就任という思惑は、吉原の町名主全員の承諾という難題が待ち構えていて、案の定、この問題は紛糾することになります。

結局は自らが会所の頭になりたいという名主の存在がある以上は意見の一致を見ることは叶わないでしょう。

そこで本書『春淡し』では、幹次郎の八代目就任反対の旗頭である駒宮楼関係者の暗躍に対する幹次郎の姿が描かれることになります。

とはいえ、物語としての大きな流れは幹次郎の八代目就任の前に、一旦、京の島原遊郭という吉原の手本となった地へと主人公らを動かすことにあったようです。

その京への旅は一人旅なのか、それとも幹次郎の傍にはだれかいるのかが気になります。

 

京の島原遊郭を描いた作品としては、最初に思い浮かべるのは 浅田次郎が書いた新撰組三部作の一冊である『輪違屋糸里』です。

この作品は、新選組の話の中でも芹沢鴨の暗殺を中心に据えた物語であり、直接的には新選組を取り巻く女たちの物語でした。映画化もされた作品です。

 

 

そこに出てきた「角屋」という大店は今でもあります。

 

ともあれ、本書『春淡し: 吉原裏同心抄』では自らが八代目頭取になろうとする駒宮楼の主六左衛門とその娘のお美津などの画策を退ける幹次郎の姿が描かれます。

ただ、定番の構図とは言え、駒宮楼の主父娘の行動は少々雑に過ぎ、魅力的な敵役とは到底言えない存在ではあります。

その点は少々残念ではありますが、今後の展開が読めないだけに、そちらに期待が持たれます。

夢を釣る: 吉原裏同心抄

本書『夢を釣る: 吉原裏同心抄(五)』は、吉原裏同心抄シリーズの第五弾です。

長期シリーズ物に見られるマンネリの雰囲気が若干ですが見えないこともありません。それでも、多方面に活躍する幹次郎の姿は相変わらずに楽しめる作品です。

 

廓の用心棒・神守幹次郎は、姉妹の売れっ子見番芸者が、禁忌を犯し客と床入りをしているとの噂を聞く。同時に年の瀬、煤払いの賑やかな吉原で、二人の間抜けな掏摸が捕まる。二つの小さな出来事の陰には、吉原を貶める大胆な企てが蠢いていた。命を懸け大捕物に挑む幹次郎は、苦悩の果てに、新たな使命を心に誓うことになる―。急展開を迎えるシリーズ第五弾。(「BOOK」データベースより)

 

引手茶屋「山口巴屋」の女将の玉藻の懐妊の知らせがある中、神守幹次郎は局見世の初音のもとにいる桜季を五丁町へと戻す心積もりをしていた。

そうした折、引手茶屋浅田屋出入りの見番芸者の二人が吉原の決まりに反して客と床入りをしているとの話がもたらされる。

また、吉原で掏摸を働き捕まった吉祥天の助五郎らを村﨑同心が取り逃がしてしまうが、すぐに殺害されて発見される事態となった。

村﨑同心によれば、吉祥天の助五郎は中山道筋で押し込み強盗を繰り返してきた赤城の十右衛門一味の下働きをしていたらしかった。

 

五丁町へ復帰する桜季、吉原の決まり事を破った浅田屋、吉原の操りやすい村﨑同心の復帰、赤城の十右衛門らの押し込み、それに幹次郎の抱える屈託と、いつも以上に忙しく、多方面で活躍する幹次郎の姿が描かれます。

本書『夢を釣る: 吉原裏同心抄』では、多くの出来事が一度に押し寄せますが、吉原自体の一番の事件としては赤城の十右衛門一味が吉原のいずこかを押し込み先としている可能性があることでしょう。

その押し込みを未然に防ごうと調べに走る幹次郎であり、桑平市松でした。

 

新しいシリーズとなって五作目となる本書ですが、シリーズが新しくなった意味がいまだに分かりません。

確かに、花魁の“薄墨”こと加門麻が、幹次郎と汀女夫婦と共に同じ屋根の下で住むようになりましたが、それ以外のシリーズとしての変化が分からないのです。

ただ、本書で幹次郎の抱える個人的な問題が次巻で対外的に表面化し、それが大きな変化と言えば変化になるのでしょう。

ところが、本『吉原裏同心抄シリーズ』も、次の第六巻をもって一旦終わり、あたらしく『新・吉原裏同心抄シリーズ』として舞台も新たに始まっています。

勿論、江戸吉原の話はそのままに残っており、本シリーズの延長線上にある物語ではあるようです。

 

本書『夢を釣る: 吉原裏同心抄』は、そんな新しいシリーズに連なる下地を固める物語としての意味もあるようで、これまで吉原で起こってきた数々の事件なども、本書で一応の区切りをつけていると思われます。

ただ、前巻の『木枯らしの: 吉原裏同心抄(四)』で登場していた「公用人」の坂寄儀三郎という人物は本書では全く登場してきませんでした。

前巻での何となく匂わせてあった吉原の敵の存在がどうなるものか、新しいシリーズに引き継がれるものか、本書の時点では何もわかりません。

今後の展開を待つのみです。

任侠シネマ

本書『任侠シネマ』は、『任侠シリーズ』第五巻目となる長編小説です。

古風なヤクザが経営再建に乗り出すこのシリーズは今野敏の多くの作品の中でも楽しみなシリーズの一つで、面白く読み終えることができました。

 

義理人情に厚いヤクザの親分・阿岐本雄蔵のもとには、一風変わった経営再建の話が次々と舞い込んでくる。今度の舞台は、北千住にある古い映画館!TVやネットに押されて客足が落ち、映画館の社長も閉館を覚悟。その上、存続を願う「ファンの会」へ嫌がらせをしている輩の存在まで浮上する…。マル暴に監視されながら、阿岐本組の面々は、存続危機の映画館をどう守る!?笑いあり、涙ありの「任侠」シリーズ第5弾! (「BOOK」データベースより)

 

まず最初に、本稿では本書『任侠シネマ』に対する不満点を強調して書いていますが、それは本書が面白い小説であることを否定するものではありません。面白い作品であることは間違いないのです。

 

ということで、今回も例によって阿岐本組組長阿岐本雄三の兄弟分である永神がある映画館の経営立て直しの話を持ってきたところから始まります。

『出版』『学校』『病院』『浴場』と続いてきたこのシリーズの今回の仕事の分野は『映画』です。

映画好きの私としては期待のテーマです。でも、このシリーズ当初から比べると魅力が薄れてきた印象があります。

というのも、シリーズ第三作の『任侠病院』までは建て直し対象の仕事自体に問題を見出し、ヤクザの筋目を通すことで業務を正常に戻すという流れがはっきりとしていました。

 

しかし、前作の『任侠浴場』はそうではなく、再建すべき対象が家族の問題などであり、なにも再建対象が「浴場」でなくても成立する物語であるように感じたのです。

その点は一歩譲るとしても、阿岐本組長自身が乗り出す場面が多いのはいいのですが、少々都合がよすぎます。組長の言葉のとおりに物語が進みすぎであり、違和感を感じてしまいました。

 

 

それと同様のことが、前作ほどではないのですが本書でも言えます。

本書『任侠シネマ』で書かれていることは映画館でなくても言えることが多いと思われます。

確かに、本書では「千住シネマ・ファンの会」という映画ファンクラブが登場したり、日村や近所に住む高校生の坂本香苗らが健さんの任侠映画などにはまる姿などが描かれてはいます。

しかし、それは物語の本筋ではなく、経営再建すべき今回の問題点は何も映画館でなくても起きうる事態だったのです。

 

以上の個人的文句に対し、本シリーズが面白くなりそうな点もあります。

今回は新しく北綾瀬署のマル暴刑事の甘糟達男の上司として仙川修造という係長が登場します。ヤクザは存在自体が悪であり、ヤクザを根絶するためならば何でもするという男です。

若干、現実の警察を皮肉っている側面も見えるこの男の存在は、かなりデフォルメされているとはいえ本書のようなユーモア小説ではなかなかに面白そうな人物でした。

本シリーズのスピンオフ作品である『マル暴甘糟シリーズ』の第三巻が待たれると同時に、そのシリーズの『マル暴総監』で登場するユニークな警視総監がこのシリーズにもゲスト出演すれば面白いのにと思ってしまいました。

 

 

また、さすがに本書では高倉健の「昭和残侠伝・血染めの唐獅子」や「日本侠客伝」などを見た日村の姿があり、また「ニュー・シネマ・パラダイス」を語る阿岐本組長の姿があります。

そうした姿は映画好きならではのものであり、家庭でのDVDもいいですが、映画館で映画を見ることの面白さ、総合芸術と言われる映画の魅力が存分に語ってあります。

残念ながら映画館で映画を見る機会が少なくなってしまった私ですが、やはり大画面と迫力のある音量での映画を見たいものです。

 

 

映画をテーマにした作品といえば、 原田マハに『キネマの神様』という作品があります。映画に対する愛情があふれている、ファンタジックな長編小説です。

また、 金城一紀の『映画篇』という作品は、誰もが知る映画をモチーフに、人と人との出会い、友情、愛を心豊かに描く短編集でした。

共に映画の楽しさ、面白さ、映画の魅力について存分に語ってある作品で、小説としても読むべき本の一冊だと思っています。

本書『任侠シネマ』でも、同様に映画の魅力を語る阿岐本組長や、その魅力にはまった日村や坂本香苗の姿を通して映画のすばらしさを語りかけているのです。

 

 

話を元に戻すと、本書『任侠シネマ』で描かれている出来事は「映画館」でなくても良さそうだと思え、更に阿岐本組長の言葉のとおりに展開しすぎないか、という点で前巻の『任侠浴場』と似た印象を持ったのです。

今野敏という作家が多作であり、忙しいのは分かりますが、作品全体として何となく荒っぽい構成になってきている感じがあるこの頃です。

できればもう少し丁寧な推敲、構成を願いたいところだと、素人ながらにファンとして思ってしまいました。

あきない世傳 金と銀(八) 瀑布篇

本書『あきない世傳 金と銀(八) 瀑布篇』は、「あきない世傳金と銀」シリーズの第八巻目です。

あい変らずに面白い物語の運びです。商いも順調な五鈴屋江戸店ですが、いつものように次から次へと降りかかってくる難題をどうやって乗り越えるのか、幸の活躍が気になります。

 

遠目には無地、近づけば小さな紋様が浮かび上がる「小紋染め」。裃に用いられ、武士のものとされてきた小紋染めを、何とかして町人のものにしたい―そう願い、幸たちは町人向けの小紋染めを手掛けるようになった。思いは通じ、江戸っ子たちの支持を集めて、五鈴屋は順調に商いを育てていく。だが「禍福は糾える縄の如し」、思いがけない禍が江戸の街を、そして幸たちを襲う。足掛け三年の「女名前」の猶予期限が迫る中、五鈴屋の主従は、この難局をどう乗り越えるのか。話題沸騰の大人気シリーズ第八弾!!(「BOOK」データベースより)

 

町人は身につけるものではないとの思い込みから、町屋では売られていなかった小紋染めを売り出した幸の思惑は見事に当たり、五鈴屋は売り上げを伸ばしていました。

そこに襲い掛かったのが思いもかけない流行り病です。身近な人が病に倒れる中身を飾ることがためらわれる、という思いは五鈴屋のような商売には正面からの逆風となったのです。

更には幸の妹の結のことも大きな問題となっていました。二十七歳という嫁に行くにも遅い年齢となっていた結に縁談の話が起きますが、結自身の秘めた思いもあったのです。

そんな中、今度はお上からの難題が押し付けられます。

 

本書『あきない世傳 金と銀(八) 瀑布篇』はこれまでにも増して盛沢山の内容になっています。

五鈴屋江戸店が出店したのは二年前の師走十四日のことでしたが、今では小紋染めの売り上げも順調であり、結やお竹らの「帯結び指南」も町屋のおかみさんたちにも受け入れられています。

基本的にお客様のことを思い、その上で店の利益をも考えるという『買うての幸い、売っての幸せ』という言葉のもと、五鈴屋七代目の幸や店の皆の努力もあって順風満帆な五鈴屋の商売です。

そこに流行り病が襲い、順調だった商売は停滞してしまいます。

また今年になって型紙商人の型売りが株仲間として正式に認められ、型売りの行商が見られるようになりました。つまり、色々な伊勢型紙も江戸へ入ってくるということです。

そのこと自体は喜ばしいことという幸でしたが、幸には天満組呉服仲間からの「女名前禁止」の期限も間近となっていました。

そこにお上からの上納金の申し渡し、そして惣次の再登場、加えて最後の予想もしない展開へとつながる本書『瀑布篇』なのです。

 

ただ、こうした障害も、幸自身の必死の努力があればこそ乗り越えられたものです。

また、小紋の新しいデザインを考え抜いている手代の賢輔や、これまでとは異なる手法での染めを考えたりもする、五鈴屋が染めを頼んでいる型付師の力造などの知恵や努力が実を結んだ結果でもあったのです。

そんな五鈴屋全員の働きの結果として今の五鈴屋があるのですが、それにしても本書『あきない世傳 金と銀(八) 瀑布篇』のラストはこれまで以上に驚きの出来事だったと言えるかもしれません。

この苦境を幸たちはどのように乗り越えるのか、五鈴屋の皆はこの衝撃に耐えられるのか。もうすぐ出版されるだろう『あきない世傳 金と銀(九) 淵泉篇』を待つしかありません。

付添い屋・六平太 妖狐の巻 願掛け女

浪人・秋月六平太が付添い屋として稼ぐ手当てを得てからそろそろ十年になろうとしていた。ある夜、頬被りをした男に刃物で寝床を襲われて以来、只ならぬ殺意が六平太の身辺を漂いはじめる。訝しみつつも、『飛騨屋』のお内儀・おかねの咳止め願掛けの付添いや、日本橋堀江町の湯屋『天津湯』での見張り番など、慌ただしい日々を送っていた。一方江戸では「行田の幾右衛門」一味による残忍な手口の押し込みが頻発していた。その幾右衛門の素性に心当たりを得た六平太は盗賊の捕縛に助力し始めるが…。伝説のドラマ脚本家が贈る、王道の人情時代劇十三弾!(「BOOK」データベースより)

付添い屋六平太シリーズの第十三弾です。

●第一話 幽霊息子
ある夜、刃物を手にした何者かに襲われた六平太。知らず知らずのうちに恨みを買ったかと思案するも、心当たりが見つからない。そんな折、音羽の顔役・甚五郎から、一人息子の穏蔵に婿養子の口がかかったと告げられる。
※ なお、この話のタイトルはAmazonには「幽霊息子」とありましたが、文庫本では「幽霊虫」とあります。そのままに載せておきます。
●第二話 願掛け女
六平太に湯屋での見張りの仕事が舞い込むも、居眠りをし、盗っ人に入られてしまう。一方で、「市兵衛店」の弥左衛門の家に通う女中・お竹から、殺された弟の敵打ち成就の為、願掛けの付添いをしてほしいと依頼される。
●第三話 押し込み
六月の晦日、六平太は妹の佐和と亭主の音吉たちに連れられ、橋場にある明神社に参拝に訪れていた。賑わう境界を歩いていると、背後から女の悲鳴と男の怒鳴りが聞こえ、振り返ると見覚えのある女が包丁を持って立っていた。
●第四話 疫病神
六平太が足繁く通う料理屋「吾作」の料理人・菊次と、お運びのお国が所帯を持つことになった。六平太とおりきで二人の家移りを手伝っていると、佐和と伜の勝太郎が人質に取られたと知らせが届く。色めきたつ六平太は一人覚悟を決め、助けに向かう!(「内容紹介」より)

 

今回の物語『妖狐の巻 願掛け女』でも、おりきとの中も含め六平太自身の暮らしぶりに特別な変化はありません。

今回の物語では、少し前から市兵衛長屋に移り住んできた弥左衛門こと行田の幾右衛門との話が中心になります。

と同時に、六平太の息子である穏蔵に養子の話が起こり、親代わりである音羽の甚兵衛や竹細工師の作蔵、養い親の豊松らが穏蔵のために奔走します。

幾右衛門が絡んだ話と穏蔵の養子の話が本書の全編を貫き、他に音羽の「吾作」の菊次お国との話や木場の「飛騨屋」の娘登世のいかず連の話なども息抜きのように語られます。

 

どうもこのところこの『付添い屋・六平太シリーズ』にはあまり変化がありません。

長尺のテレビシリーズのようにその回での中心人物の活躍だけが取り上げられて、痛快時代小説のシリーズ物としての面白さがマンネリ化しているように思えます。

 

 

それは一つには、シリーズ物としては各巻での細かなエピソードの積み重ねがあるにしても、そのエピソードが現実感を欠いている場面が少なからず感じられるようになってきたことがあるのでしょう。

例えば、本書『付添い屋・六平太 妖狐の巻 願掛け女』でそのことを最も感じた個所として、お竹自身が六平太を衆人環視の中で襲い殺そうとした点です。

いくら何でも六平太の剣の腕が立つことを知っているはずのお竹が、人ごみの中を書き分けつつ六平太を殺しに来るとは設定が荒いと感じられます。

また、六平太がしくじった湯屋での盗難事件の解決にしても偶然に頼っており、あり得ない話だと思ってしまいました。

確かに、先に述べた行田の幾右衛門の登場などはそうしたマンネリを避けるための仕掛けの一つなのでしょうが、このシリーズに変化をもたらしたとまでは言えないようです。

 

こうした違和感が積み重なり、この物語への感情移入もしにくくなり、面白味を失ってくる、そんな危惧を感じてしまうのです。

稚児桜

『稚児桜』は、「能」の楽曲をもとに作者が想起したイメージをもとに書かれた作品集だそうで、第163回直木賞の候補作となりました。

短編集として面白いかと問われれば、当初は首をかしげざるを得ませんでした。

読みごたえがない、とか、つまらないなどということはないのですが、どうにも捉えどころのない作品が多い、というのが現在ではない、読了後の正直な感想です。

破戒、復讐、嫉妬、欺瞞、贖罪―。情念の炎に、心の凝りが燃えさかる。能の名曲からインスパイアされた8編のものがたり。(「BOOK」データベースより)

※ 上記括弧内のリンク文字列は「能」の演目命であり、「the能ドットコム 演目辞典」の当該箇所にリンクしています。ただ、「雲雀山」だけはサイトが異なります。

 

本書の発想もとである「能」について、私個人としては何も知りません。ただ、謡に乗せて舞い、幽玄の世界を表現する芸術だという認識を持っていただけです。

しかし、本書に収められた作品は「幽玄」を感じさせる作品はありません。

ほとんどの物語が人間の持つ業について書かれていて、むしろ哀切と言えるほどにもの悲しさをたたえています。暗いと言い切るまではない、昏さであり、陰鬱さを抱えています。

どの物語も短編小説として重厚感は感じられるものの、救いのない話だという場面を多く感じたものです。

 

「能」について何も知らない私は、能の一分野として「笑い」を担当する狂言がある、と思っていました。

しかし今回「能」に関してネットで調べると、共に奈良時代に中国から渡来した「散楽」を源流としているとありました。

 

例えば第一話の「やま巡り」に関してはこのサイトの「演目辞典 山姥(やまんば)」を見ていただくとこの演目の内容が解説してあります。

そこでは「百ま山姥」という遊女が善光寺参詣の途中一夜の宿を借りることとなった山姥とのやり取りが説明されています。

本書の作者澤田瞳子は、このように能の演目に題を求め、澤田瞳子なりの解釈を施して短編小説として仕上げているのです。

 

このサイトを読んでからは私にとって本書『稚児桜』の持つ意味が確かに変わりました。

「能」の演目としての「山姥」の内容を見ると、本書『稚児桜』での「やま巡り」のストーリー自体は能の「山姥」をそのままに追ってあることが分かります。

その上で、登場人物を増やし、個々の登場人物の背景、人間関係を新たに構築し、新たな物語としての命を吹き込んであります。

つまり本書で描かれているのは幽玄の世界の物語ではなく、現実の人間の営みの中で紡ぎ出される愛憎劇だったのです。

他の物語にしても同様で、具体的に各短編の内容については触れませんが、人間が根源的に持つであろう憾みや欲望といった側面を前面に押し出して描き出してあります。

 

ところで、小説で歌舞伎をテーマにした作品は、芸人の芸道に生きるものとしての心を真摯に描き第128回直木賞の候補作となった作品集である 松井今朝子の『似せ者』など、推理小説も含めこれまでにいくつかありました。

しかし、「能」をテーマした作品というと、 青山文平の『跳ぶ男』しか思い浮かびません。

この作品は、道具役(能役者)の家に生まれた一人の若者の生き様を描いた長編の時代小説で、かなり読みごたえのある作品でした。

 

 

冒頭に書いたように、本書『稚児桜』を物語としてみた場合、各短編はいわゆるエンターテイメント小説としての面白さは感じないかもしれません。しかし、そこで示されている人間の愛憎劇は読むに値するものでした。

能の演目としての筋立てを読み、その上で本書の各短編を見直すとその様相を異にするのですから、私という読み手の浅薄さを思い知らされるものでもありました。

たんに個人の好みだけで物語を判断してはいけないということでしょうか。なかなかによい読み手になるということも難しいものです。

流人道中記

万延元年(一八六〇年)。姦通の罪を犯したという旗本・青山玄蕃に、奉行所は青山家の安堵と引き替えに切腹を言い渡す。だがこの男の答えは一つ。「痛えからいやだ」玄蕃には蝦夷松前藩への流罪判決が下り、押送人に選ばれた十九歳の見習与力・石川乙次郎とともに、奥州街道を北へと歩む。口も態度も悪い玄蕃だが、道中で行き会う抜き差しならぬ事情を抱えた人々を、決して見捨てぬ心意気があった。(上巻 : 「BOOK」データベースより)

「武士が命を懸くるは、戦場ばかりぞ」流人・青山玄蕃と押送人・石川乙次郎は、奥州街道の終点、三厩を目指し歩みを進める。道中行き会うは、父の敵を探し旅する侍、無実の罪を被る少年、病を得て、故郷の水が飲みたいと願う女…。旅路の果てで明らかになる、玄蕃の抱えた罪の真実。武士の鑑である男がなぜ、恥を晒して生きる道を選んだのか。(下巻 : 「BOOK」データベースより)

 

江戸時代も末期の万延元年、一人の流人を蝦夷松前藩まで押送する若き与力の姿を描いて侍とは、法とは何かを問う、長編の時代小説です。

 

姦通の罪を犯した青山玄蕃が切腹を拒んだため、三人の奉行が知恵を絞り出した結論が預かりという処置でした。

そこで玄蕃を青森の三厩まで押送する役目を仰せつかったのが十九歳の見習い与力の石川乙次郎だったのです。

 

史料に残りえなかった歴史を書きたい」という作者の言葉がありました。読了後、あらためてそういう目で本書を眺め直してみると、江戸末期の世相および種々の手続き、流人押送の前例等々が微に入り細にわたって記されていました。

実際、よくもまあこれだけ詳しく調べたとあらためて感心させられます。その上で「そのためには、残りえた史料をなるたけ多く深く読み、名もなき人々の悲しみ喜びを想像しなければならない。」と続くのです(『流人道中記』浅田次郎 : 参照)。

例えば冒頭から二十頁まで、三人の奉行による議論の場面がありますが、雨にけむる和田倉御門外評定所までの描写には短いながらも素晴らしいものがあります。

ちなみに、この場面の挿絵の出来栄えのもまた見事です(挿絵が語る 二人の旅路 : 参照)

加えて、ここでの三人の奉行の青山玄蕃に対する処遇についての議論自体が、前提となる当時の世相、旗本としての面目、侍という存在のもつ思考方法などの理解が無ければかけるものではないのです。

 

このように、本書の頁を繰る場面ごと描かれる、今とは異なる当時の建物や部屋のたたずまい、そこにいる武士や町人の発する言葉、振る舞いなど、当時の細かな知識が必要なことがよく分かります。

更に例をあげると、旅に際し与力は馬に乗ってもよいが同心は駄目だとか、天領内は直参の面目からも馬に乗れなどの言葉、また、目的地の三厩までの概ね一月の旅程で一人片道二両掛かるという叙述、後に出てくる「宿村送り」という制度など。

また、知行二百石の旗本であっても、御目見以下の分限では冠木門しか許されず、長屋門は駄目、それでも、奴、女中をそれぞれ三人、都合六人の使用人を使う、などきりがありません。

そして、こうした細かな知識がこれでもかと物語の流れの中に記されていながらもなぜか読書の邪魔をしません。さらりと書かれているので、読み手もさらりと読み流してしまうのでしょう。

でありながらも、どこかで見た、読んだ豆知識として頭の片隅には残っているようで、再度似た情報に接していくうちに固定されていくのです。

 

このような点を背景に、何といっても押送人である石川乙次郎の成長の様子が読みごたえがあります。

旅の途中で巻き起こる様々な出来事に対する玄蕃の対処、それに対する乙次郎の見方の変化は小気味がよく感動的です。

ただ、上巻を読み進めるうちは、旅の途中の初めて食べた鰻の味や次の按摩や稲葉小僧のエピソードなどは浅田次郎の名作『壬生義士伝』や『黒書院の六兵衛』などの感動からは遠い印象しかありませんでした。

 

 

しかし、下巻に入り小僧の亀吉の哀しみに満ちたエピソードや、「宿村送り」などという聞いたこともない話などを読み進むうちに様子が変わってきます。

これまでのエピソードの小さな興奮が読み手の心に積み重なっていたのでしょう。クライマックスに至っては強烈な感慨を抱くまでに至っていました。

本来であれば、その間の状況をこそ述べるべきなのかもしれませんが、ネタバレなしで書く自信はありません。

旧態依然とした社会制度、そうした制度を顧みることもない役人、人間が制度の中で生きるということを体現する侍の生き方、などに対する浅田次郎の思いが凝縮されたラストだと思います。

先日読んだ浅田次郎の『大名倒産』などで示された繫文縟礼で示される幕府の制度も同様の思いから書かれたと思われます。

 

 

ただ、残された青山玄蕃の家族を思うと、玄蕃の自己満足ではないか、もっと他の方法があったのではないか、との思いがあるのも事実です。

玄蕃の貫いた人間としての生き方、玄蕃なりの武士道は結局は残された家族らの犠牲の上に在るのではないでしょうか。

そうしたことも含めて、浅田次郎ここにあり、と明言できるさすがの小説でした。