夜露がたり

夜露がたり』とは

 

本書『夜露がたり』は、2024年2月に256頁のハードカバーで新潮社から刊行された短編時代小説集です。

“著者初の「江戸市井もの」 過酷にして哀切、いっそ潔く、清々しい”という惹句のとおりの物語集でした。

 

夜露がたり』の簡単なあらすじ

 

夜は溟くて重く、救いはわずかしかなかった。市井ものの正統にして新潮流。「どいつもこいつも、こけにしやがって」「難儀だね、身内って奴から逃れられないものさ」、追い詰められ女と男は危うい橋を渡ろうとする。「あの場所の生まれでなければ」と呪い、「死んどくれよ」と言葉の礫をぶつけながら、その願いが叶いそうになると惑う。ここに江戸八景の本物がある。「傑作」と呼ぶしかない短篇集。(内容紹介(出版社より))

目次(「BOOK」データベースより)

帰ってきた | 向こうがわ | 死んでくれ | さざなみ | 錆び刀 | 幼なじみ | 半分 | 妾の子

 

夜露がたり』の感想

 

本書『夜露がたり』は、著者砂原浩太朗が初めて出した市井ものということです。八編の短編が収められています。

江戸の町人の暮らしを描き出した短編と言えば、すぐに山本周五郎を思い出す人が多いでしょう。

山本周五郎に最初に接した本は新潮文庫の『深川安楽亭』でしたが、この作品は市井ものではなくいわゆる一場面物に分類される作品集ですが、そこに流れる哀愁は同様のものがあると感じています。


 

本書の読後感は藤沢周平を最初に読んだ時の感想と似たものがありました。

それは、それまで読んでいた時代小説とは異なって、ストーリー展開に山場もなく平板なもののまま終わってしまった作品だったというものです。

登場人物たちの先行きの希望などを示すこともなく、単に江戸の町民の生活の一場面を切り取り提示してあるだけのものだったのです。

ただ、それからしばらく間をおいて別な藤沢周平作品を手に取ると全くの別作品を読んだようで、今度は図書館で全作品を読み終えるほどになりました。

藤沢作品の情景描写の素晴らしさ、心象風景の描き方のうまさに惹かれ、描かれている登場人物たちの人生に引き込まれてしまったのす。

 

その再読したときの藤沢作品と似た印象を本書『夜露がたり』にも感じたのです。

そこに示されているものは思い通りにならない人生の悲哀であり、慟哭です。中にはかすかな光明を示している作品もあります。

文章のタッチは藤沢作品とは異なりますが、市井に暮らす人々の明るい側面ではなく、思い通りに行かない人生の断面を切り取った悲哀に満ちた作品集です。

 

作者の砂原浩太朗は、これまで封建制度に縛られた武家社会に生きる侍の姿を、厳しい中にも優しい目線で描いてこられました

しかし、本作では市井に生きる一般庶民の姿を描き出すというまた違った作風を読ませてくれたのです。

もちろん山本周五郎藤沢周平とはその作風をかなり異にしますが、それでもなお武家社会を描き出した作品は勿論のこと、市井に生きる人々の哀しみをも描き得ることを示したと感じました。

 

これからもまた新たな砂原浩太朗作品を期待できると思います。楽しみです。

イクサガミ シリーズ

イクサガミ シリーズ』とは

 

本『イクサガミ シリーズ』は山田風太郎を彷彿とさせるエンターテイメントに徹した作品です。

明治維新直後を時代背景にした痛快活劇小説であり、何も考えずに物語の世界に浸るだけで楽しめる作品だと言えます。

 

イクサガミ シリーズ』の作品

 

イクサガミシリーズ(2024年04月19日現在)

  1. イクサガミ 天
  2. イクサガミ 地
  1. イクサガミ 人

 

イクサガミ シリーズ』について

 

本『イクサガミ シリーズ』は1878年(明治11年)に、「武技ニ優レタル者。本年5月5日、午前零時。京都天龍寺境内ニ参集セヨ。金十万円ヲ得ル機会ヲ与フ」という文言のもとに集まった292人の闘いの物語です。

この戦いは古代中国において用いられた呪術である「蠱毒」の形態をそのままに借りてきているものであり、最後に生き残った者に賞金を与えるというものでした。

 

主人公は嵯峨愁二郎といい、妻と子のために金を必要としておりこの戦いに参加した者です。この愁二郎に助けられ共に旅をすることになるのが香月双葉という少女です。

その他に愁二郎が兄弟のようにして育った祇園三助化野四蔵衣笠彩八といった京八流の遣い手たちがいます。

また、愁二郎たち京八流の裏切り者と目される四人をつけ狙うのが朧流の岡部幻刀斎であり、今のところ愁二郎たちを助ける存在としては柘植響陣ほかの姿があります。

 

その他に数多くの個性豊かな登場人物たちが戦いを繰り広げます。

それはあたかも山田風太郎の作品世界にも似た世界観であり、近年では珍しいエンターテイメントに徹した作品です。

全部で三巻を予定されているらしく、年一冊の予定で刊行されています。現時点(2024年4月19日)で第二巻の「地の巻」まで出版されており、余すところあと一冊となっています。

 

ちなみに、本『イクサガミ シリーズ』をもとに映画化の話が持ち上がっているそうです。

詳しくは下記サイトを参照してください。

イクサガミ 地

イクサガミ 地』とは

 

本書『イクサガミ 地』は、2023年5月に464頁の文庫本の書き下ろしとして講談社から刊行された長編のエンターテイメント小説です。

第一巻の『イクサガミ 天』で抱いた伝奇小説としての印象とは若干ですが異なった、しかしやはり山田風太郎タッチの面白さに満ちた作品です。

 

イクサガミ 地』の簡単なあらすじ

 

2巻続けて、発売即重版!

私を、今年最も興奮と陶酔の坩堝に叩き込んだ一作がこれだ。
ーー縄田一男(文芸評論家)

☆★第1巻『天』が続々ランクイン、大反響!☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

 第1位! –「時代小説SHOW」2022年時代小説ベスト10 文庫書き下ろし部門
 第2位! –読書メーター OF THE YEAR 2022 第2位

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆☆★☆★

討て。生きるため。
武士の時代の終幕ーー魂の戦い!

読者の熱烈な支持を受けた、明治バトルロイヤル譚。
待望の第2巻!

〈あらすじ〉
東京を目指し、共に旅路を行く少女・双葉が攫われた。
夜半、剣客・愁二郎を待ち受けていたのは、十三年ぶりに顔を合わせる義弟・祇園三助。
東海道を舞台にした大金を巡る死闘「蠱毒」に、兄弟の宿命が絡み合うーー。
文明開化の世、侍たちの『最後の戦い』を描く明治三部作。待望の第2巻!
【文庫書下ろし】(「BOOK」データベースより)

 

イクサガミ 地』の感想

 

本書『イクサガミ 地』は、まさに山田風太郎の世界が展開される、面白さ満載のエンタメ作品です。

本書は著者の今村翔吾の他の作品とはかなりその世界観を異にしている物語で、明治維新に登場する大久保利通や前島密、川路利良などがそのままに登場してきます。

もちろん、歴史小説の中での登場人物としてではなく、架空の歴史の中で特別の役割を担った、エンターテイメント上の役割を担った存在として登場しているのです。

 

本書『イクサガミ 地』では、明治維新をテーマにした作品では数多く登場する剣客の仏性寺弥助の紹介から始まっています。

仏性寺弥助がこの物語にどのように関わってくるのか何も示されていませんが、物語が進むうちに多分ではありますが、仏性寺弥助が登場してきた意味が明かされていきます。

仏性寺弥助の描写が少し続いた後に本書の本筋へと戻り、前巻『イクサガミ 天』の最後で義弟の祇園三助に攫われた少女香月双葉を救い出そうと追いかける主人公の愁二郎の姿へと移ります。

そこでは、京八流継承者のうちの嵯峨愁二郎(さがしゅうじろう)、化野四蔵(かのしぞう)、衣笠彩八(きぬがさいろは)、祇園三助(ぎおんさんすけ)が集まり、京八流継承者同士の殺し合いから逃げ出した愁二郎の命を狙い闘いが始まるところでした。

そこに、京八流の見届け人であり、裏切った京八流継承者の命を狙う朧流の岡部幻刀斎(おかべげんとうさい)が現れ、四人は力を合わせこの敵と戦います。

何とかその場を逃れた愁二郎らは、その後、京八流の義兄弟に加え柘植響陣などとも力を合わせて幻刀斎や蠱毒への参加者たちとの戦い、さらには蠱毒という仕掛けの謎を解明するべく戦い続けるのです。

 

本書『イクサガミ 地』は、徹底的にエンターテイメント小説として作り上げられている作品です。

特に、この物語のキモである「蠱毒」という命を懸けたゲーム、そのシステムにもそれなりの必然的な意味を持たせてあるところなど、単なるエンタメ作品というにはもったいない作りとなっているのはさすがに今村翔吾という作家の個性だと言えるのでしょう。

この蠱毒というゲームが抱える秘密の一端が明らかにされていくのも本書の醍醐味です。

そのことは、同時に大久保利通ら明治維新の立役者たちがこの物語に関係してくることを意味し、伝奇小説としての醍醐味が展開されてくることでもあります。

同時に、嵯峨愁二郎を始めとする京八流継承者が殺し合いながらも互いに相手のことを思い合っている様子が垣間見えたり、自分の身を委ねたりと、揺れ動く様子が描かれている点も見どころです。

それはまたまだ登場してきていない京八流継承者である義兄弟のこれからの関りが気になるところでもあります。

 

こうして、この物語は大きなスケールの中で展開されている謀りごととしての側面が明らかになっていくのであり、同時に「蠱毒」と同じような構造を持つ京八流継承者同士の戦いの行方も気になるところでもあります。

さらには、京八流継承者と岡部幻刀斎との戦い、加えて貫地谷無骨という正体不明の剣客との争いなど、最終巻へ持ち越されている戦いや未だ明らかになっていない謎は最終巻へと持ち越されているのです。

多分、一年後の刊行となるであろう最終巻の刊行が待ち望まれます。

恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六)

恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六)』とは

 

本書『恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六)』は『新・酔いどれ小籐次シリーズ』の第26弾で、2024年1月に文庫書き下ろしで出版された長編の痛快時代小説です。

一旦は終了したはずの『新・酔いどれ小籐次シリーズ』が、赤目駿太郎の剣術家としての成長と淡い恋を書きたいとの思いから再開した、と作者自身のあとがきにありましたが、ハードルが上がっただけに若干期待とは違った印象でした。

 

恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六)』の簡単なあらすじ

 

江戸・三十間堀の小さな町道場が、怪しい証文を盾にした男たちから狙われている。道場主と孫娘の愛を救うため、十八歳の駿太郎は名を秘して入門する。親分や読売屋と協力して活躍する息子を見守るおりょう、隠居を考える小籐次。しかし親子への挑戦状がー伊勢まいりが大流行する中、あの鼠小僧も登場!?恋と勝負と涙の感動作。(「BOOK」データベースより)

序章

第一章 細やかな町道場
湯屋にいる小籐次駿太郎のもとに、難波橋の秀次親分がある道場の難題を相談に来た。その道場の加古李兵衛正高とその孫娘ののもとに、愛が幼い頃に出奔した父親の署名がある借用書を持って夢想谷三兄弟が道場の沽券を渡せとやってきたというのだった。

第二章 もうひとりの娘
加古道場で稽古をするようになった駿太郎が、加古正行と愛の二人を望外山荘へと連れてきた。すると、愛は駿太郎の新しい姉となり、またおりょうの娘となり、新しく望外山荘に住むこととなった薫子を姉と呼ぶようになるのだった。

第三章 お手当一両二分
師走のある日、小籐次親子が研ぎの仕事を終え帰る途中、竹屋の渡しの近くで浪人者からある姫君と奉公の女中の娘を助けた。また大晦日の大雪のため二人が川向うを見廻りに行くと、ある奇妙な一団が久慈屋に押し入ろうとするところに出会った。

第四章 新春初仕事
年の瀬から降り始めた雪のため稽古ができなくなった駿太郎は、望外山荘に近にある越後長岡藩の抱屋敷にある道場で稽古を願うことを思いつく。その後正月六日になり、望外山荘きた桃井春蔵が、十一日の桃井道場での具足開きに来てくれと言ってきた。

第五章 愛の活躍
小籐次親子が久慈屋店先での研ぎ仕事をしていると、夢想谷三兄弟が加古道場に訪れるとの空蔵からの伝言があった。日時は明記してなかったらしく、正月半ばを過ぎても、空蔵がいろいろと仕掛けでも一向に姿を見せないのだった。

あとがき

 

恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六)』の感想

 

本書『恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六)』は、一旦は終わりを迎えた『酔いどれ小籐次留書シリーズ』でしたが、作者の希望により再開されることになったシリーズ二十六巻目の作品です。

かなりの期待をもってさっそく読んでみたのですが、期待が高すぎてハードルが上がったためか、今一つという印象に終わってしまいました。

 

駿太郎の淡い恋を描きたいとの作者の意向があっての再会だそうですが、本書では新しく二人の娘が登場します。

一人は加古李兵衛道場の孫娘の愛であり、もう一人は望外山荘近くに住む片桐家の十四歳の娘の麗衣子です。

一人目の愛については、駿太郎がすぐに姉と呼び始めたので不思議に思っていると、今度は麗衣子という娘が突然に登場します。

それも前後の脈絡もなく何の背景の説明もない浪人者に攫われそうになっている娘を助けたことが知り合うきっかけです。

 

この出会いは物語のストーリーとは何の脈絡もなく突然の登場であるため、どうにもあまりに突然すぎて単なるご都合主義としか思えず、違和感しかありません。

とはいえ、この頃の佐伯泰英 作品はそうしたストーリーの進行とは無関係な登場人物がしばしば登場することがあり、そういう意味ではあまり驚きはないとも言えそうです。

ただストーリー展開とは関係のない人物の登場が多いとは言っても、それは単なる賑やかし的な浪人者やチンピラなどが主であり、今回のようなストーリー上重要な位置を占める人物については無かったことと思います。

 

また、愛の実家である加古李兵衛道場に押しかけてきた夢想谷三兄弟にしても、愛の父親である加古卜全正行の直筆と思われる二百九十両の借用証を持参しての押しかけですから、そのままに道場の土地と敷地の沽券状を取得できたと思われるのです。

それをわざわざ自分たちと加古道場の沽券状をかけて尋常の勝負を願ってくるのですから妙な話です。

このような展開は物語のリアリティを欠く展開としか言えず、読者の作品に対する感情移入を妨げるだけだと思います。というよりも私にとってはそうなのです。

せっかく一旦はシリーズ終了宣言したものを撤回するのですから、もう少しこうした点の物語の運びを考えて欲しいと思ってしまいました。

蘇れ、吉原 吉原裏同心(40)

蘇れ、吉原 吉原裏同心(40)』とは

 

本書『蘇れ、吉原 吉原裏同心(40)』は『吉原裏同心シリーズ』の第40弾で、2023年10月に光文社から320頁で文庫化された、長編の痛快時代小説です。

巻を重ねるにつれて特に会話文に対する違和感が増していくだけで、どうにも拒否感が強くなっていくように思えます。

 

蘇れ、吉原 吉原裏同心(40)』の簡単なあらすじ

 

寛政五年十月、江戸を見舞った大火事のあと、吉原に大勢の客が押し寄せる。その正体を巡り、会所八代目頭取四郎兵衛と一人二役の裏同心神守幹次郎は苦悩する。さらに困窮する切見世女郎らを救うため、幹次郎の密命を帯びた澄乃を、これまでにない危機が襲う!新たな敵が触手を伸ばす中、吉原を苦境から救い出そうとする廓の人々、それぞれの祈りが交差するー。(「BOOK」データベースより)

 

蘇れ、吉原 吉原裏同心(40)』の感想

 

本書『蘇れ、吉原 吉原裏同心(40)』は、江戸の町を襲った大火の影響で遊びに来る客の数も減った吉原の現状に立ち向かおうとする神守幹次郎らの姿が描かれています。

しかしながら、物語としては台詞回しが一段と芝居調に感じられ、さらに違和感を感じるようになってきました。

この頃の佐伯泰英作品の殆どがそうであるように、登場人物の会話が芝居の台詞のようで大時代的であり、感情移入しにくい文章になってきているのです。

本『吉原裏同心シリーズ』の場合それが顕著であって、特に神守幹次郎と会所八代目頭取四郎兵衛の一人二役が始まってから如実に感じるようになり、会話の中で幹次郎が四郎兵衛に伝えておくと言い切るなど、違和感ばかりです。

さらにいえば、女裏同心の澄乃が幹次郎の命で行った先で、澄乃に教える立場の娘や老人が歳を経た師匠と呼ばれる人が教え諭すような口調で話すなど、違和感しかありませんでした。

 

本書では、吉原は江戸の町を襲った大火災の直接の被害こそありませんでしたが、客である町人、商人が被災したため客が減り、大籬の女郎たちを除けば、三度の食事も苦労するようになりそうな苦境に陥ります。

そこに、大勢の客が押し寄せることになり、吉原は一息をつくことができますが、また吉原にとって新たな敵を産むことにもつながることになります。

また、その客たちはあくまで一時しのぎであり、下層の女郎たちが困窮に陥るであろうことは明白であり、そこで、幹次郎は女裏同心の澄乃をある場所へと送り出すのでした。

 

本書『蘇れ、吉原 吉原裏同心(40)』のストーリー自体が十全の面白さを持っているかと言えば、全面的に賛成とは言えません。マンネリ感がないとは言えないのです。

それに加えて、台詞回しの違和感までもあると、もういいかと思ってしまいそうになります。

でも、ここまで読んできたということ、また全面的に否定してしまうほどに拒否感を持っているわけでもないので続巻が出れば読むでしょう。

しかし、以前のように続巻が出るのを待ちかねるということはありません。それが非常に残念です。

なんとか、持ち直してくれることを期待したいと思います。

父がしたこと

父がしたこと』とは

本書『父がしたこと』は、2023年12月に256頁のハードカバーでKADOKAWAから刊行された長編の時代小説です。

青山文平という作家は、新刊が出るたびに前著を越える作品を提供してくれる作家さんであり、本書もその例にもれず実に面白く、感動的な作品でした。

 

父がしたこと』の簡単なあらすじ

 

目付の永井重彰は、父で小納戸頭取の元重から御藩主の病状を告げられる。居並ぶ漢方の藩医の面々を差し置いて、手術を依頼されたのは在村医の向坂清庵。向坂は麻沸湯による全身麻酔を使った華岡流外科の名医で、重彰にとっては、生後間もない息子・拡の命を救ってくれた恩人でもあった。御藩主の手術に万が一のことが起これば、向坂の立場は危うくなる。そこで、元重は執刀する医師の名前を伏せ、手術を秘密裡に行う計画を立てるが……。御藩主の手術をきっかけに、譜代筆頭・永井家の運命が大きく動き出す。(内容紹介(出版社より))

 

父がしたこと』の感想

 

本書『父がしたこと』は、本書の「武士が護るべきは主君か、家族か」という惹句にそのテーマが端的に表現されています。

これまでも青山文平の作品では主君に忠実に生きる侍の生きざまが描いてありましたが、本書でもまた侍の生きる姿が描かれています。

ただ、本書が特殊なのは、侍の生きる姿と同時に家族の大切さが描かれていることに加え、さらに医療のあり方をも問うている感動作であることです。

 

本書の独特な表現として挙げていいと思うのは、舞台となる藩の名前や場所などの藩に関する具合的な情報は殆ど示してない点と、藩主の名前は明記せずに御藩主としか示してないことです。

でも、主役である永井家として元重登志夫婦とその子の重彰佐江夫婦とその子のについては詳細に描き出してあります。

本書の主人公永井重彰は役職が目付であり、父親は小納戸頭取であって御藩主の身近にいてその世話を一身に執り行っている、などの詳しい説明がなされているのです。

 

また、名前も明らかにされていない御藩主や、名医と言われる向坂清庵についてもその人となりについてはそれなりに頁数を費やしてあります。

重要なのは中心となる永井家の人々であって個々人の特定は必要ですが、永井家が尽くすべき藩主は藩に一人しかおらず御藩主というその地位にいる人物が重要なのだということでしょう。

また向坂清庵という名の医者にしても、藩内に多数存在する医者を名乗るものの中でも向坂清庵という名医が重要だから明記してあると思われるのです。

その上で、本書では物語の中心となる永井一家と御藩主それに名医の向坂清庵以外は登場しないと言い切ってもいいほどに誰も登場しません。

 

当初、本書の「父がしたこと」というタイトルからして、本書の主題は侍のあり方、つまり主君のために尽くすか、それとも家族のため生きるかが問われる父の姿が描かれている物語だと思っていました。

ところが読み進めるうちに永井重彰の子の拡の生まれつきの病に関連した医療関係の描写に重きが置かれており、単にこれまでのような侍の生き方を正面から問う作品とは違いそうだと思えてきたのです。

しかしながら、ネタバレになるので詳しくは書けませんが、主君に尽すことを本分とする侍の生き方を描いてきた青山文平の作品である本書は、やはり本分を尽くした侍の物語でした。

そこに、医療の本質を絡めた感動の物語として仕上がっていたのです。

 

本書『父がしたこと』ではその冒頭から重要な登場人物である向坂清庵という名医についての描写から始まります。

物語の中心となる、向坂清庵医師に御藩主の治療を依頼した件についての永井重彰とその父親の元重との会話に関連して向坂清庵についての人物紹介が始まるのです。

その際の話の中で、『蔵志』や『瘍科秘録』などの具体的な書物名と共に当時の華岡流外科の説明が為されます。

その話の流れは、そのまま前作『本売る日々』で紹介されていた実在の書物名が取り上げられ語られた流れそのままでした。

もしかして、前作で詳しく調べられた書物の中にあった医療関係の書物から本書のアイデアを得られたのではないかと思ったほどです。

そういう意味では本書は前作『本売る日々』の続編的な位置にある作品かもしれないなどと思ったものです。

しかし物語としては関係のないものでした。

ただ、前作での、民間における「地域の文化の核にもなっていた」( 本の話 : 参照 )名主らの物語に対する「官」側の核の話だということができるかもしれません。

同時に、前作『本売る日々』で描かれていた佐野淇一という村医者の話が本書に結びついているとも言えそうです。

 

 

それはさておき、本書は侍の物語であると同時に医療小説でもあるという珍しい作品で、江戸時代末期で行われた二件の外科手術、即ち「痔漏」と「鎖肛」という手術を華岡青洲の流れを汲む向坂清庵という名医が執行する話が中心になっています。

つまり、藩主の痔ろうと息子の閉ざされた肛門の新設ついて外科処置を施す話であって、蘭方の外科医による処置を手順まで詳しく描写するというこれまでにない蘭方医の描き方が為されているのです。

医学の歴史にも言及することで、本書の主題となる侍のあり方、主君のために尽くすのか、家族のため生きるのかという問いの背景を堅実なものとして、侍の生き方についての問い掛けを明確にするという効果を期待しているのでしょう。

 

同時に、本書で見るべきは御藩主や重彰の子の拡の病に関連しての永井親子の関わり方だけではなく、永井重彰の妻佐江とその母登志の侍の妻としてのあり方もまた見どころの一つとなっています。

御藩主に尽す永井元重、重彰親子の姿に焦点が当たるのは当然のことですが、永井親子の妻たちの姿も現代に生きる一人の人間の姿としてもあてはまるものだと思えたのです。

こうした妻の姿を通して、夫である侍たちが主君のために尽すことができたのだと、あらためて感じ入ったものです。

 

読後に調べていると、この「鎖肛」という名前は華岡青洲がつけたものであり、華岡青洲の医業であったとの記載がありました。

同じ頁には「数多の資料から説得力ある心の動きを抽出できるのは時代小説の強みです」との言葉もありましたし、母親の登志についても「武家の妻らしい肝の据わり具合を見せる彼女は、唯々諾々と慣習に従うようなこともない」と記してあります( カドブン: 参照 )

やはり、この作家の作品にはずれはなく、作品ごとに新たな感動をもたらしてくれる素晴らしい作家さんだと恐れ入るしかない作品でした。

奔れ、空也 空也十番勝負(十)

奔れ、空也 空也十番勝負(十) 』とは

 

本書『奔れ、空也 空也十番勝負(十) 』は『空也十番勝負シリーズ』の第十弾で、文春文庫から2023年5月に文庫本書き下ろしで刊行された、長編の痛快時代小説です。

このシリーズ最終巻となる本書ですが、この作者の近時の他の作品と同様に、何となくの物足りなさを感じた作品でした。

 

奔れ、空也 空也十番勝負(十) 』の簡単なあらすじ

 

京の袋物問屋の隠居・又兵衛と知り合った空也は、大和国室生寺に向かう一行と同道することになった。途中、柳生新陰流正木坂道場で稽古に加わるのだが、次第にその有り様に違和感を抱く。一方、空也との真剣勝負を望む佐伯彦次郎が密かに動向を探っていた。空也の帰還を待ちわびる人々の想いは通じるか、そして勝負の行方は!?(「BOOK」データベースより)

 

奔れ、空也 空也十番勝負(十) 』の感想

 

本書『奔れ、空也 空也十番勝負(十) 』は『空也十番勝負シリーズ』の第十弾で、いよいよこの物語も終わりを迎えることになります。

つまり、『居眠り磐音シリーズ』全五十一巻に続いて、本『空也十番勝負シリーズ』も完結することになるのです。

ところが、本書の著者自身の「あとがき」で、八十一歳を超えた佐伯泰英氏自身が『磐根残日録』を書きたいとの思いがあると書いておられます。

本シリーズのファンとしては大いに喜ばしいことで、『居眠り磐音シリーズ』も未だ終わることなく続行すると思ってよさそうです。

 

ただ、著者佐伯泰英の近年の著作に関しては全般的に芝居がかってきた印象が強く、往年のキレが亡くなってきたように感じてなりません。

そんな印象を抱えたまま、本書『奔れ、空也 空也十番勝負(十) 』を読むことになったのです。

 

いよいよ大和へと赴くことになる坂崎空也ですが、途中で知り合った京の袋物問屋の隠居の又兵衛に連れられて柳生道場へと向かうことになります。

そこで、旧態依然とした柳生剣法に違和感を抱き、ついに皆が待つ姥捨の山へと向かいますが、やはり途中で修行のために山にこもります。

その後、襲い来る薩摩の刺客を退け、最後の対決相手として用意されていた佐伯彦次郎との勝負に臨む空也でした。

 

こうして、前述したように痛快時代小説である『居眠り磐音シリーズ』の続編的な立場のシリーズ作品として始まった本『空也十番勝負シリーズ』も最終巻を迎えることになりました。

でありながら、先に述べたように物足りなさを感じてしまいました。

それは多分、空也の強さが予想以上のものになってしまったことにもあるのではないかと考えています。

その生活態度も含めて常人の域を超えたところで生きている空也は、もう普通の人間ではなく超人と化しているのです。

そしてその超人はいかなる問題が起こっても単身で剣一振りを抱えただけで敵役を倒して問題解決してしまい、他の人達の問題解決の努力も意味がないものとしてしまいます。

一般的な痛快時代小説ではスーパーマンすぎる人物はいらず、頭をそして肉体を使い共に苦労して涙しながら問題解決の方途を探ることこそが求められていると思います。

つまり、皆で力を合わせて努力し、そのひと隅に主人公の剣の力がある、という設定がいるのではないでしょうか。

 

他の剣豪小説でも、主人公は常人以上の努力をして名人と言われる域に達しているはずなのですが、本シリーズでの空也の場合、そうした名人たちの努力をも楽に超えているような印象を持ってしまったように思えます。

加えて、芝居がかった印象まで持っているのですから物語をそのままに楽しめないのも当然なのでしょう。

そうした印象を持ったのは私だけかもしれませんが、非常に残念です。

とはいえ、全く面白くなくなったのかといえばそうではなく、痛快時代小説としての面白さをそれなりに持っているので悩ましいのです。

今はただ、続巻を楽しみに待ちたいと思います。

母子草 風の市兵衛 弐

母子草 風の市兵衛 弐』とは

 

本書『母子草』は『風の市兵衛 弐 シリーズ』の第十二弾で、2023年8月に祥伝社文庫から337頁の文庫本書き下ろしで刊行された、長編の痛快時代小説です。

 

母子草 風の市兵衛 弐』の簡単なあらすじ

 

還暦を前に大店下り酒屋の主・里右衛門が病に倒れた。店の前途もさることながら、里右衛門の脳裡を掠めたのは、若き日に真心を通わせた三人の女性だった。唐木市兵衛は、里右衛門から数十年も前の想い人を捜し出し、現在の気持ちを伝えてほしいと頼まれる。一方、店では跡とりとなる養子が、隠居しない義父への鬱憤を、遠島帰りの破落戸にうっかり漏らしてしまい…。(「BOOK」データベースより)

目次
序章 新酒番船 | 第一章 根岸 | 第二章 お高 | 第三章 女掏摸 | 第四章 うしろ髪 | 終章 彼岸すぎ

 

母子草 風の市兵衛 弐』の感想

 

本書『母子草 風の市兵衛 弐』は『風の市兵衛 弐 シリーズ』の第十二弾の長編の痛快時代小説です。

 

本書は、主人公の唐木市兵衛が、請人宿「宰領屋」主人で市兵衛の長年の友人でもある矢藤太と共に、霊岸島町の下り酒問屋《摂津屋》主人里右衛門に依頼されて三人の女を探しだし頼まれたものを渡す物語です。

とは言っても、市兵衛と矢藤太との探索の過程が主軸の物語ではなく、探し当てた女が依頼人のもとから消えた理由を聞き出すこと、つまり消えた女たちのその後の人生の在りようが語られます。

つまりは、粋人であリ、<里九>と呼ばれていた依頼人と、依頼人が惚れ抜いた女たちが依頼人の前から消えざるを得なかった理由こそが本書の主題です。

 

そこにあるのは悲しい女の立場であり、粋人の里九と呼ばれ悦に入っていた依頼人の若さの物語ともいえるかもしれません。

そして、その物語は、作者辻堂魁の作風でもある、人情物語の中でも一歩間違えれば安っぽい人情噺に堕しかねない浪花節調の物語となっているのです。

一方、市兵衛たちの三人の女の行方探しと並行して、北町奉行所定町廻り方の渋井鬼三次の探索の話が語られ、この二つの話が終盤ひとつにまとまる、という点もこれまでのシリーズの話と同様です。

 

これまで、本風の市兵衛シリーズの、また辻堂魁という作家のファンとして、本シリーズの作品も一冊も欠かさずに読み続けてきましたが、どうも風向きが変わってきました。

ここ数巻の本シリーズを読んできて、あまりにも作品の内容が似通ってきていて、読んでいて心が騒がなくなって来たのです。

そうしたことは作者も分かっていたからこそ、このシリーズも第二シーズンへと物語の環境を変えてのだと思うのですが、『風の市兵衛 弐』になっても結局は第一シリーズとほとんど変わっていないと言えます。

本来は第二シーズへと変わり、市兵衛の出自が明らかにされたり、舞台を大坂へと移したりと変化をつけてきたと思うのですが、北町奉行所同心の渋井鬼三次もやはり常連として登場してくるようになったし変化が見られなくなっています。

何とかこのマンネリとも言ってよさそうなシリーズの流れを断ち切り、当初の面白さを取り戻してほしいものです。

夢よ、夢 柳橋の桜(四)

夢よ、夢 柳橋の桜(四) 』とは

 

本書『夢よ、夢 柳橋の桜(四) 』は『柳橋の桜シリーズ』の第四弾で、2023年9月に春秋から文庫本書き下ろしで刊行され、長編の痛快時代小説です。

本巻をもってこのシリーズは完結することになりますが、どうにも焦点の定まらない物語という印象に終わってしまいました。

 

夢よ、夢 柳橋の桜(四) 』の簡単なあらすじ

 

波乱万丈の旅を経て新しい生き方を探す桜子と小龍太。魚河岸の老舗が仕掛ける異国交易の仕事に惹かれる小龍太との祝言を前に、船頭にもどるべきか悩む桜子。そんな中、オランダ人画家の「二枚の絵」が辿った運命の感動は、人々を変えてゆく。早朝の神木三本桜に願うのは、大きな儲けか、夢の実現か。事件の謎の解明と、未来への希望が詰まった最終巻。4ヶ月連続刊行、これにて完結!「BOOK」データベースより)

 

夢よ、夢 柳橋の桜(四) 』の感想

 

本書『夢よ、夢 柳橋の桜(四) 』は『柳橋の桜シリーズ』の第四弾となる作品で、このシリーズの最終巻となる物語です。

何とも感情の入れどころがよく分からない、どうにも中途半端な印象しかない作品でした。

 

本書が、幕閣のどこか上の方の問題のため桜子小龍太が江戸を抜け出し逃亡しなければならなかった事情などは些末なことであり、結局は長崎で手に入れることになった二枚の絵のその後が描かれるだけの話です。

物語の展開が二枚の絵を中心とした話になっていること自体がおかしいというのではなく、物語の主題を二枚の絵に集約させるだけの説得力がこのシリーズにあったか、ということです。

 

また、桜子という娘の成長譚というには桜子の描写は簡単に過ぎ、小龍太との二人と物語というには二人の描き方もそれほどのものではありません。

さらに、二人が困難を乗り越える話というには、二人に襲いかかった難題が何なのか、結局は物語の終わりに少しだけ語られるだけで、つまりは物語のストーリーにとっては些細なことでしかありません。

 

作者としては、オランダ(?)で見た絵に触発されてこの物語を書いたということなので、本書『夢よ、夢 柳橋の桜(四) 』で語られた二枚の絵の消息こそが書きたかったことなのでしょう( 文芸春秋特設サイト「『柳橋の桜』によせて」:参照 )。

しかし、読者としては結局二枚の絵のモデルが、現実に二枚の絵に出会うその奇跡を語られても感情移入するほどのものではありませんでした。

前巻で書いたように、結局は焦点が暈けたままだったという結論になると言うしかないのです。

 

佐伯泰英という作者の作品で女性を主人公としている作品に『照降町四季シリーズ』という話があります。

しかし、この作品は新鮮味を欠いた作品であり、本書『夢よ、夢 柳橋の桜(四) 』同様に焦点が暈けた印象の物語でした。

とすれば佐伯泰英という作家は、女性を主人公とする物語は決してうまいとは言えない、と言うしかないのかもしれません。

とにかく、私にとって本シリーズは期待外れに終わったというしかありませんでした。

雇足軽 八州御用

雇足軽 八州御用』とは

 

本書『雇足軽 八州御用』は、2023年9月に296頁のハードカバーで祥伝社から刊行された連作の短編時代小説集です。

ただ、それぞれの物語が普通の短編小説のようにはきちんとまとめられていないため、どうにも中途な印象の作品集でした。

 

雇足軽 八州御用』の簡単なあらすじ

 

己が命、武士の矜持のみに賭す
大ヒット「風の市兵衛」の著者の新たなる代表作!
日当わずか八十文。関八州取締出役の
艱難辛苦の旅の一年を、郷愁豊かに描く!

我々が農村の治安と繁栄を、ひたすらに歩いて愚直に守る。
越後宇潟藩の竹本長吉は上役の罪に連座し失職、故郷に妻子を残して江戸に仕事を求めてきた。様々な職の中、請人宿で選んだのは《雇足軽》だった。関八州取締出役の蕪木鉄之助の元、数名で一年をかけて関東の農村を巡回し治安を維持する、勘定所の臨時雇いである。日当わずか八十文。二八蕎麦が十六文、鰻飯なら二百文が相場だった。討捨ても御免だが、刀を抜くことは珍しい。多くは無宿の改め、博奕や喧嘩、風俗の取り締まり、農間渡世の実情調査や指導などの地道なものだった。巡る季節のなか、土地土地で老若男女の心の裡に触れる長吉は、妻子を想い己が運命と葛藤する。そんな時、残忍非道な押し込み強盗一味の捕縛を命じられーー
ときに鬼神と化し、ときに仏の慈悲を施す八州廻りを、郷愁豊かに描く!
(内容紹介(出版社より))

 

雇足軽 八州御用』の感想

 

本書『雇足軽 八州御用』は、関東取締出役(関八州取締出役)の蕪木鉄之助の巡回の旅を描く、連作の短編小説集です。

「関八州取締出役」とは、「八州廻り」とも呼ばれ、「関八州の天領・私領の区別なく巡回し、治安の維持や犯罪の取り締まりに当たったほか、風俗取締なども行っている。 」そうです( ウィキペディア:参照 )。

また、「八州廻り」の「「八州」とは、「江戸時代、関東八か国の総称。すなわち、武蔵、相模、上野、下野、上総、下総、安房、常陸」のことを言います( コトバンク:参照 )。

 

本書の登場人物として、まずは主人公は誰かというと、それが明確ではありません。

当初は、本書の『雇足軽 八州御用』というタイトルからして関八州取締出役が雇う足軽の物語だと思っていました。

そして、越後宇潟藩浪人の竹本長吉という人物についてわりと詳しくその来歴が説明してあったので、この長吉こそがタイトルの雇足軽だろうし、主人公だろうとの検討で読み進めていたのです。

しかし、どうもそうではないらしく、物語の内容からすると、本書の主人公は関八州取締出役の蕪木鉄之助と言った方がよさそうな印象です。

ただ、そう断言できるわけでもないほどに蕪木鉄之助に焦点が当たっているわけでもないので悩ましいのです。

とはいえ、本書全体を通した物語としてみると、この蕪木鉄之助こそが主人公というにふさわしいと思えます。

 

主人公が誰でも関係ないと言えばないのですが、物語は締まらず物語としての面白さに欠けることになるでしょう。

事実、読み終えた今でもなんとなくいつもの辻堂魁の作品とは異なり、何とも曖昧な読後感が残っています。

それは単に主人公が定まっていないから、というだけでなく、それぞれの物語自体の曖昧な処理の仕方にも原因がありそうです。

連作短編集として読んだので、各話が半端に感じたのではないかとも思いましたが、やはり物語の完成度が足りないと言うしかないのでしょう。

 

本書『雇足軽 八州御用』では、関東取締役という職務の紹介はかなり詳しくなされていて、その点は自分の中でもかなり好印象ではあります。

ただ、辻堂魁の特徴の一つである登場人物の衣装や状況の詳細な描写がことのほか強調されていて、若干詳しすぎないかという印象はありました。

加えて、上記の全五話にわたる連作短編の各物語がどうにもまとまりがないという印象もあります。

 

結局、本書の評価としては、辻堂魁という作者らしくない何ともまとまりに欠けた物語だというしかない、という結論になった次第です。