名乗らじ 空也十番勝負(八)

名乗らじ 空也十番勝負(八)』とは

 

本書『名乗らじ 空也十番勝負(八)』は『空也十番勝負シリーズ』の第八弾で、2022年9月に336頁の文庫本書き下ろしで出版された長編の痛快時代小説です。

シリーズも終盤近くなり、空也の存在も一段と剣豪らしくなっていて、まさに王道の痛快時代小説としてファンタジックな小気味のいい一冊となっています。

 

名乗らじ 空也十番勝負(八)』の簡単なあらすじ

 

安芸広島城下で空也は、自らを狙う武者修行者、佐伯彦次郎の存在を知る。武者修行の最後の地を高野山の麓、内八葉外八葉の姥捨の郷と定め、彦次郎との無用な戦いを避けながら旅を続ける空也。京都愛宕山の修験道で修行の日々を送る中、彦次郎は空也を追い、修行の最後を見届けるため霧子、眉月が江戸から姥捨の郷に入った。(「BOOK」データベースより)

 

名乗らじ 空也十番勝負(八)』の感想

 

本書『名乗らじ 空也十番勝負(八)』は『空也十番勝負シリーズ』の第八弾で、あり得ない強さを持つ主人公の坂崎空也の物語です。

異変ありや』では上海でのヒーロー空也の姿があり、『風に訊け』では痛快時代小説の定番ともいえるお家騒動ものがあって、それぞれに異なった顔を見せていました。

そして本書『名乗らじ 空也十番勝負(八)』では武者修行中の若武者の大活躍が描かれた痛快時代小説と、これまた王道のエンターテイメント時代小説です。

 

本『空也十番勝負シリーズ』の主人公坂崎空也は、単に無類の強さを誇るだけではなく、毎日一万回を超える素振りを欠かさないというその人格態度も含めて完璧な人間です。

空也は現実にはあり得ない強さを持つ痛快小説の主人公として、スーパーマン的存在といえるのです。

大衆小説としての痛快時代小説の主人公は皆無類の強さをもつものですが、本書の空也はまさに非の打ち所がありません。

父磐根の親友を斬ったという悲惨な過去も持たず、また斗酒なお辞さない酒飲みである小籐次のような嗜好もありません。

その点では、空也のような若者などいない、と遠ざける人もいそうな気さえするほどであり、そういう意味も込めて冒頭にはファンタジックな物語と書いたのです。

 

本書『名乗らじ 空也十番勝負(八)』での坂崎空也は、武者修行中の身ではあるものの、江戸の高名な道場の跡取りであることまでも知られている若侍です。

空也自身の人間性はもちろん、そうしたある種有名人ということもあって、安芸広島城下の間宮一刀流道場で暖かく迎え入れてもらえます。

この間宮道場は、前巻の『風に訊け 空也十番勝負(七)』でほんの少しだけ登場していた佐伯彦次郎という武者修行中の若侍がいた道場でした。

金十両という金を賭けて立ち合い、その金をもって修行の旅費とする佐伯彦次郎の生き方は空也には真似のできないものであり、また佐伯彦次郎の故里でも、剣を学んだ道場でも受け入れてはもらえない修行の方法だったのです。

その間宮道場で快く受け入れてもらえ、修行に励む空也でしたが、自分との対決を望んでいるらしい佐伯彦次郎との争いを避け、山陽路を東へと旅立ちます。

播磨姫路城下へと辿り着いた空也は、無外流の道場から追い出された撞木玄太左衛門という男が破れ寺の庭先で町人らを相手に教えている道場で修行をすることになります。

その撞木玄太左衛門という人物もまた高潔な男であり、空也は辻無外流道場の追手から彼を助けながらも江戸の坂崎道場へと誘うのです。

一方、江戸では尚武館へ豊後杵築藩出身の真心影流の兵頭留助という男が何も知らないままに道場破りとして現れていました。

この男と、尚武館に入門したての鵜飼武五郎という若侍とが新たに登場しています。

そこに空也からの紹介という撞木玄太左衛門も現れ、より多彩な人物が揃う道場となっているのです。

 

十六歳で武者修行へと旅立った空也も今では二十歳となり、高野山の麓にある空也が生まれた地である姥捨の郷で武者修行を終える旨の文を霧子宛に出しています。

そして、十番勝負の終わりも近い空也の今後がどのような展開になるものなのか、このシリーズの終了後の展開が気になるだけです。

もしかしたら、『空也十番勝負シリーズ』をも含めた『居眠り磐音シリーズ』自体が完結することも考えられます。

作者の「夏には、また新しい物語を届けられるよう、鋭意準備中です。」とも文言が見られるだけです。

出来れば、坂崎磐根、空也親子の物語をまだ読み続けたいと思うのですが、どうなりますか。

ただ、新たな作品を待つばかりです。

千早 茜

千早茜』のプロフィール

 

1979(昭和54)年、北海道生れ。立命館大学卒業。幼少期をザンビアで過ごす。2008(平成20)年、小説すばる新人賞を受賞した『魚神(いおがみ)』でデビュ一。2009年、同作にて泉鏡花文学賞、2013年、『あとかた』で島清恋愛文学賞、2021(令和3)年、『透明な夜の香り』で渡辺淳一文学賞を受賞した。『あとかた』と2014年の『男ともだち』はそれぞれ直木賞候補となる。

引用元:千早茜 | 著者プロフィール – 新潮社

 

千早茜』について

 

小川哲氏の『地図と拳』と共に『しろがねの葉』で第168回直木三十五賞を受賞しました。

 

しろがねの葉

しろがねの葉』とは

 

本書『しろがねの葉』は2022年9月に本文が314頁のハードカバーとして刊行された、長編の歴史小説です。

「銀山の女性は3人の夫を持つ」というガイドの言葉をもとに、ひとりの女の生涯を描き出した、第168回直木三十五賞を受賞した作品です。

 

しろがねの葉』の簡単なあらすじ

 

戦国末期、シルバーラッシュに沸く石見銀山。天才山師・喜兵衛に拾われた少女ウメは、銀山の知識と秘められた鉱脈のありかを授けられ、女だてらに坑道で働き出す。しかし徳川の支配強化により喜兵衛は意気阻喪し、庇護者を失ったウメは、欲望と死の影渦巻く世界にひとり投げ出されたー。繰り返し訪れる愛する者との別れ、それでも彼女は運命に抗い続ける。第168回直木賞受賞作。(「BOOK」データベースより)

 

しろがねの葉』の感想

 

本書『しろがねの葉』は、逃散百姓の親や弟ともはぐれ一人になった少女ウメが石見銀山へたどり着いて生き抜くさまを描いた直木賞を受賞した作品です。

作者の千早茜氏は、石見銀山で銀堀りをしていた男たちが過酷な作業や鉱山病のために短命であることから「石見の女性は夫を3人持った」と言われていることを聞いて本書の執筆を思い立ったそうです。

本書では背景となる自然の描写と合わせて過酷な銀堀の仕事の様子が、千早茜氏の短めの文章で畳み掛けられ胸に迫ってきます。

ただ、ウメの生き方については最初は少しの違和感を感じたものでしたが、そのうちに銀山に生きる人々の過酷な生き方を如実に示していると感じられてきました。

人々の諦念を示しながらもその中に力強さをも示しているようです。

 

本書『しろがねの葉』の主人公であるウメは、石見銀山の中心的な存在である山師の喜兵衛に拾われ育て上げられます。

本来であれば銀の産出抗である間歩に入ることは許されない「女」であるウメですが、喜兵衛が可愛がっている女児であること、また皆から一目置かれている岩爺が何も言わないこともあって、手子として間歩に入り、石見銀山で生きてゆくのです。

 

ここで手子とは、間歩で働く、雑用をこなす子らのことを言います。

また、銀気(かなけ)を含む石である鏈(くさり)を袋に詰める役割を持つ入手(いれて)、鏈を運ぶ荷負(におい)ズリと呼ばれる不要な石を運び出す柄山負(がらやまおい)などの銀山独特の用語の説明があります。

ついでに言えば、銀堀が銀を追って掘った穴が間歩であり、銀気(かなけ)を含む石を鏈(くさり)、その鏈が集まっているところを鉉(つる)と言うそうで、間歩の中のことをと呼ぶとありました。

本書では上記の岩爺を始めとして、喜兵衛のそばにいつもいるヨキという男や、幼い頃のウメにちょっかいを出し逆に腕をかじられる隼人や、後に喜兵衛のもとに貰われウメにかわいがられるという少年などが重要な人物として登場します。

この男たちがみんな魅力的に生きているのですが、特にヨキが妙な存在感を持っています。その生い立ちや性格などあまり詳しくは書いてないのですが、何故か喜兵衛のために生き、ウメの人生にもかかわってくるのです。

 

本書『しろがねの葉』の特徴を一言でいえば、全編を貫くウメの生き方の力強さでしょう。

全体としては濃密な空気感の中で決して明るくはない話なのですが、ウメの成長を語る物語自体は妙な迫力があります。

時代背景としては、登場人物の一人が関ケ原の戦いの情報を持って帰ってくるなどの話もあり、石見銀山も後には徳川幕府の体制に組み込まれていく様子が記されています。

こうしたウメの力強い生き方や成長の様子が記されているのですが、そのことは同時にウメの女としての成長をも意味し、そこで「濃密な生と官能」と描写されるような側面も持ってきます。

 

そんな中、ウメは一人石見銀山の女として喜兵衛の庇護のもと、隼人や龍、そしてそのほかの銀山の男社会の中で力強く生きていきます。

けっして私の個人的な好みの作品ではないのですが、物語の持つエネルギーは否定のしようもなく、ウメの力強い生き方に惹きつけられずにはおられません。

この作者の他の作品も併せて読もうとまでは思いませんが、本書『しろがねの葉』の持つ力強さはやはり直木賞を受賞するだけのものはあるとしか言いようがありません。

読むだけの価値のある一冊でした。

我、鉄路を拓かん

我、鉄路を拓かん』とは

 

本書『我、鉄路を拓かん』は、2022年9月に314頁のハードカバーとして刊行された長編の歴史小説です。

明治五年(1872)九月に新橋・横浜間で開業された日本初の鉄道路線の敷設に尽力した人々、特に線路の土台部分である築堤を築いた男たちの物語です。

 

我、鉄路を拓かん』の簡単なあらすじ

 

海の上に、陸蒸気を走らせる!
明治の初めに、新政府の肝煎りで、日本初の鉄道が新橋~横浜間に敷かれることになった。そのうち芝~品川間は、なんと海上を走るというのだ。
この「築堤」部分の難工事を請け負ったのが、本書の主人公である芝田町の土木請負人・平野屋弥市である。勝海舟から亜米利加で見た蒸気車の話を聞き、この国に蒸気車が走る日を夢見ていた弥市は、工事への参加をいち早く表明する。
与えられた時間はたった二年余り。弥市は、土木工事を生業とする仕事仲間や、このプロジェクト・チームを事実上率いている官僚の井上勝、そしてイギリスからやってきた技師エドモンド・モレルとともに、前代未聞の難工事に立ち向かっていく。
来たる2022年10月14日は、新橋~横浜間の鉄道開業150年にあたる記念すべき日。この日を前に刊行される本書は、至難のプロジェクトに挑んだ男たちの熱き物語であり、近代化に向けて第一歩を踏み出した頃の日本を、庶民の目で見た記録でもある。(内容紹介(出版社より))

 

我、鉄路を拓かん』の感想

 

本書『我、鉄路を拓かん』は、新橋・横浜間で開業された日本初の鉄道路線の敷設に尽力した人々、特に線路の土台部分である築堤を築いた男たちの物語です。

具体的には、新橋と横浜の間にある、現在「高輪築堤」と呼ばれその遺構も見つかっている部分を担当した人物を描き出した感動的な物語です。

 

本書『我、鉄路を拓かん』を読みながら、かつてテレビで放映された、品川沖に築かれた堤防の上を鉄道が走り、その跡が今でも残っている、という場面を思い出していました。

その番組は多分NHKの「ブラタモリ」であったと思うのですが、定かではありません。

それとは別に本書について調べていると、本書がテーマとしている「築堤」の遺構、が、平成三十一(2019)年四月にJR東日本の品川駅周辺の再開発工事で見つかっていたという記事を見つけました。

私はこのことを知らずにいたのですが、「高輪築堤」と呼ばれているこの築堤の遺跡は一般にも公開され、見学者を募っていたようで、詳しくは下記のサイトをご覧ください。

 

本書『我、鉄路を拓かん』の主人公は、土木請負人である平野屋弥市というもとは雪駄や下駄を商っていた男です。

その男が日の本のために普請がしたい、いつの日にか勝海舟がアメリカで見たという蒸気で走る鉄の車を日の本でも走らせてみたい、と思うようになっていたのです。

平野屋弥市が、同じ土木請負業の山内政次郎、その義理の息子である重太郎、それに長州藩士であり伊藤らと共に英国への密航歴がある井上勝、それに英吉利人技師のエドモンド・モレルらと共に鉄道を敷設することになります。

ただ日本初の蒸気車は、鉄路沿線住民や、政府内部でも兵部省らの強行な反対などがあり、前途は決して明るいものではなかったのです。

そうした困難を乗り越えて日本初の鉄道を走らせる礎を築くことになる、彼らの姿は感動的ですらあります。

 

しかし、陸蒸気を走らせるまでの話は、主人公平野屋弥市の紹介を兼ねた話でもあるためか今一つ盛り上がらない印象がありました。

本書『我、鉄路を拓かん』のような土木作業のような世界を描くには山本一力のような骨太の文章の方が似合っただろう、などと思っていたものです。

とはいっても、第二章の終わりあたり、蒸気車の話が具体的に見えてくるところあたりから、この物語は面白くなります。

物語の展開が本題に入り、伊藤勝を中心として事業が動き出すダイナミズムが文章にも表れているようです。

 

ただ、重太郎が人を見下すような人物として描かれているのは若干の疑問が残りました。

義理の父親である政次郎が侠気溢れる大人物であるのであるのならば、自分の養子としてそのような人物を選ぶかと思ったのです。

その狭量な性格に気付かない筈はなく、気づいたらその性根を叩き直すのが通常でしょう。

本書の場合、この点については話しの進行の中でそれなりの手当てをしてあり、それなりの納得感はありましたが、それでも若干ではありますが、違和感は残りました。

 

それでも、本書『我、鉄路を拓かん』を読み終えたときには自分の知らない世界を垣間見ることの喜びを得ることはできたと思います。

平野屋弥市や井上勝、それに勝海舟、そして英国人技師モレルら工事にかかわった人々の鉄道敷設に対する熱量を肌に感じることができ、お仕事小説としての楽しみも味わうこともできました。

歴史上実在した人物を主人公に据え、脇を固める人物も同じくかつて我が国に生き、大きな仕事を残した先人たちですから描きにくい作品だったことは容易に想像できます。

そうした制限を乗り越え、それなりの骨太の小説として仕上がっていることは間違いないと思います。

個人的な好みとして若干の不満はあったものの、それでも読みごたえがあった、と言える作品だったと言えるでしょう。

春風譜 風の市兵衛 弐

春風譜 風の市兵衛 弐』とは

 

本書『春風譜 風の市兵衛 弐』は『風の市兵衛 弐 シリーズ』の第十一弾で、2022年6月に337頁の文庫本書き下ろしで刊行された、長編の痛快時代小説です。

話自体は単純ですが、物語の背景や登場人物の行動の理由を会話の中で説明させることで紙数を費やしている印象がある、シリーズの中では今一つの作品でした。

 

春風譜 風の市兵衛 弐』の簡単なあらすじ

 

唐木市兵衛は我孫子宿近くの村を訪れていた。小春の兄の又造が、妹と“鬼しぶ”の息子・良一郎との縁談を知り家出したのを、迎えに出たのだ。ところが、又造は訪ね先の親戚ともども行方知れずだった。同じ頃、村近くで宿の貸元と、流れ者の惨殺体が発見された。近在では利根川の渡船業等の利権争いで、貸元たちが対立していた。市兵衛は失踪人探索を始めるが…。(「BOOK」データベースより)

 

序章 竜ケ崎から来た男 | 第一章 欠け落ち | 第二章 血の盃 | 第三章 疑心 | 第四章 血煙り河原 | 終章 旅だち

 

その年の暮れ、安孫子宿の西にある根戸村の貸元の尾張屋源五郎が何者かに襲われ命を落とした。

一方、とある林道で長どすの一本差しの六十歳くらいの旅人が喉頸を絞められ、骨が折られた状態で見つかった。

この亡骸の検視をした陣屋の手代を始め、この二つの事件を結び付けて考えるものは誰もいなかった。

同じ年の暮、長谷川町の扇職人佐十郎は息子の又造に声をかけ、又造の妹小春の良一郎との祝言の話を聞かせた。

その話を聞いた又造は安孫子宿の南吉のところへ行くと書置きをしたまま家を出てしまう。

市兵衛は小春から頼まれ、安孫子宿の南吉のところへ又造を連れ戻しに行くことになるのだった。

 

春風譜 風の市兵衛 弐』の感想

 

本書『春風譜 風の市兵衛 弐』は、ヤクザ者の抗争に巻き込まれた小春の兄又造と、かれを連れ戻そうとする唐木市兵衛の話を中心に、その抗争の別な側面に関わる渋井鬼三次の探索の様子を描いた作品です。

全体的に話の構造自体は単純です。

市兵衛が家出をした小春の兄の又造を連れ戻しに行く話がまずあります。

それと、問屋場の公金を着服して行方をくらました安孫子宿の宿役人である七郎治という男の探索のために渋井が駆り出されるという話があります。

その上で、二つの事件が根っこでは繋がっているというのです。

 

話自体は以上の二つの話がそれぞれに単純な事件としてあり、その両事件の中心に柴崎村の牛次郎という貸元の悪行が絡んでいるだけのことです。

又造は、頼った先の南吉が牛次郎からひどい目にあっていてそこに巻き込まれてしまいます。

一方、鬼渋が追っている公金着服事件もその根は南吉の事件と同じであり、ただこちらは犯人と目される七郎治の現れるのを待つ渋井やその手下、そして陣屋の役人の田野倉順吉など張り込みの様子があるだけです。

 

本書『春風譜 風の市兵衛 弐』は、こうした単純な事件の二つの側面が描かれている作品のためか、当事者の会話の中で事件の背景説明が為される場面が多いように感じました。

具体的には、市兵衛が又造を探索する過程での聞き込みの際の会話がそうです。

また、渋井の登場する場面も張り込みだけということもあってか、渋井と田野倉との会話があり、その中で田野倉の推理として事件の背景説明が為されるという構造です。

もともと、作者辻堂魁の作風自体が会話の中で背景説明をする、という傾向が強いとは思っていたのですが、本書ではそれが強く感じられました。

会話の中での背景説明ということ自体はいいのですが、それがあまりに執拗だと少々引いてしまいがちです。

 

市兵衛の行動にしても、又造と南吉の行方を探す先に市兵衛を甘く見た悪漢たちがいるといういつものパターンです。

物語の根底が講談風であり、本書の作者辻堂魁の文章のタッチも決して明るいものではないこともいつもと同じです。

特別な展開もない本書『春風譜 風の市兵衛 弐』だけをみると、決してお勧めしたい作品とは言えないと思うほどです。

とはいえ、当たり前ではありますが、本書でも南吉には自分の村におことという思い人がいたり、七郎治も馴染みの女がいたりして、それぞれの話に花を持たせたりの工夫はあります。

ただ、本書の魅力が主人公の市兵衛というキャラクターの魅力、それに尽きると言え、物語自体の魅力があまり感じられないのは残念でした。

次巻に期待したいと思います。

一人二役 吉原裏同心(38)

一人二役 吉原裏同心(38)』とは

 

本書『一人二役 吉原裏同心(38)』は『吉原裏同心シリーズ』の第三十八弾で、2022年10月に341頁の文庫本書き下ろしで刊行された、長編の痛快時代小説です。

どうにも神守幹次郎の振る舞いや台詞回しが芝居がかっており、かなり興をそがれる一冊でした。

 

一人二役 吉原裏同心(38)』の簡単なあらすじ

 

長く廓の用心棒であった神守幹次郎が吉原を率いる八代目頭取四郎兵衛に就任、御免色里の大改革が始まった。会所を救う驚くべき「金策」に始まり、大胆な改革を行う新頭取への嫌がらせや邪魔が続く中、切見世を何軒も手中に収めた主夫妻が無残にも殺される。背後に控える悪党の狙いとは。新体制で一人二役を務める大忙しの幹次郎は、荒波を乗り越えられるか?(「BOOK」データベースより)

 

 

一人二役 吉原裏同心(38)』の感想

 

本書『一人二役』では、吉原の七代目頭取の四郎兵衛が惨殺された修行の一年間のあとの、八代目頭取四郎兵衛に就任した後の幹次郎が描かれています。

就任したのはいいのですが、いざとなると会所にはほとんど金がなく、その対処に苦慮する幹次郎です。

ただ、こうした点は大きな出来事ではなく、物語の進行上はこれまでのような吉原にとっての大きな障害というのはあまりありません。

いや、まったく無いということではなく、細かな嫌がらせ的な出来事は起こりますがそれは大きな障害ではないと言った方がいいのでしょう。

 

それよりも幹次郎のある構想のほうが大きな出来事です。

本シリーズの流れとしてこの幹次郎の構想がどのような意味を持ってくるのか、今後の物語の展開がどのように変化してくるのか、非常に楽しみなのです。

 

ただ、読者として私が気になったのは、本書のタイトルの『一人二役』ということであり、神守幹次郎が吉原裏同心としての顔と八代目頭取四郎兵衛としての顔を持つことです。

というよりも、問題は二つの貌を持つ幹次郎のその描き方です。

 

本書では実際剣を振るう立場の裏同心と、吉原を率いる立場の会所頭取としての立場はかなり異なるということで、言葉遣いから変えて対処しようとする神守幹次郎の姿があります。

しかしながら、小説の中で幹次郎が四郎兵衛様に伝える、とか裏同心として応える、など、その顔を使い分ける姿がいかにも芝居かかっており、時代小説としての違和感はかなりのものがあります。

物語としてストーリー上の違和感を感じるという点もそうですが、小説の表現としても拒否感があるのです。

ただ単純に裏同心と、吉原会所頭取としての顔を使いわけるというわけには行かなかったのでしょうか。

タイトルからしても、この点こそが本書の主眼だったのでしょうが、どうにも違和感を越えた拒否感を持ってしまうほどであり、残念な描き方でした。

 

幹次郎の新たな構想は今後の本シリーズの展開を期待させるものだけに、余計なことに煩わせられた一冊、という印象の強いものになってしまった印象です。

残念でした。

ごんげん長屋つれづれ帖【五】 池畔の子

ごんげん長屋つれづれ帖【五】-池畔の子』とは

 

本書『ごんげん長屋つれづれ帖【五】-池畔の子』は『ごんげん長屋つれづれ帖シリーズ』の第五弾で、2022年9月に280頁で文庫本書き下ろしで出版された連作の短編時代小説集です。

シリーズ五冊目ともなると読み手の目も厳しくなったのか、その物語展開に、若干ですが面白味を感じなくなってきました。

 

ごんげん長屋つれづれ帖【五】-池畔の子』の簡単なあらすじ

 

お勝の息子の幸助が、顔に傷をこしらえて帰ってきた。なんでも、不忍池の畔に暮らす“池の子”と呼ばれる孤児たちと喧嘩になったのだという。青物売りのお六が川に捧げた胡瓜が喧嘩のもとだと知ったお勝は、お六とともに孤児たちのもとに向かう。これを機に、お勝とお六は“池の子”たちとの絆を深めていくのだがー。くすりと笑えてほろりと泣ける、これぞ人情物の決定版。時代劇の超大物脚本家が贈る、大人気シリーズ第五弾!(「BOOK」データベースより)

 

第一話 片恋
お勝は弥太郎と共に損料貸しの品物の引き取りを終えて帰る途中、ある武家の奥方らしき人物と出会った。その息子の小四郎を紹介する弥太郎は、弾けそうな笑みを浮かべているが、奥方は、小四郎が覇気もなくなかなか成績も上がらいことに頭を悩ませていた。

第二話 ひとごろし
ある朝、根津宮永町の妓楼でひとごろしがあったと大騒ぎになっているなか、近藤道場下働きの鶴治が沙月がお勝のことを心配していると言ってきた。翌日、沙月のもとへ行ったお勝は銀平から、鶴治の剣術の稽古は親の敵討ちのためだということを聞いた。

第三話 紋ちらし
お勝は、庄次から「安囲い」の喜代という名の女に子ができたものの、誰の子か分からずに困っている話を聞いた。男たちの話し合いの場について行くことになったお勝だったが、女の長屋の地主である日本橋の漬物問屋「大前屋」の内儀磯路と話すことになった。

第四話 池畔の子
ある日、幸助が不忍池の畔に暮らしている子供たちと喧嘩をしたと怪我をして帰ってきた。長屋のお六が子供たちが水で溺れないように河童にやっている残り物の胡瓜を横取りしていると思い注意をしたところ喧嘩になったというのだった。

 

ごんげん長屋つれづれ帖【五】-池畔の子』の感想

 

本書『ごんげん長屋つれづれ帖【五】池畔の子』も、全四編からなる連作の短編小説集となっています。

市井の長屋に暮らす普通の人達の日常を描き出すこのシリーズも五巻目となりました。

相変わらずにおせっかいなお勝の日常が語られ、江戸の庶民の暮らしが目の前に展開される興味深いシリーズとなっています。

シリーズ物として落ち着きを見せてきたこの『ごんげん長屋つれづれ帖シリーズ』ですが、一方では何となく物足りなさも感じてくるようになりました。

 

冒頭から否定的なことを述べることになり申し訳ないのですが、これまでもなんとなくは思ってきたことではありますが、このシリーズのもつ雰囲気が今一つ心に迫る場面が少ないように思えます。

おなじ人情物語ではあるのですが、例えば宇江佐真理の『髪結い伊三次捕物余話シリーズ』や、西條奈加の『心淋し川』などのように心の奥深くに染み入るような情感、余韻を感じないのです。

 

 

本書『ごんげん長屋つれづれ帖【五】池畔の子』のような出来事中心の物語展開は、主人公お勝という人物の男勝りという人物設定のためかもしれませんが、だというよりもこの作者金子成人の文章のタッチそのものがそうだと言う方が正解だと思われます。

というのも、この作者の『付添い屋・六平太シリーズ』などを見ても、人情話ではあるもののやはり心象を深く描くというよりは種々の出来事に振り回されている人々の姿を描くほうに重点があるように思えるのです。

 

 

本『ごんげん長屋つれづれ帖シリーズ』においても、お勝の身のまわりの人物に関連して巻き起こる出来事について、黙って見過ごすことのできないお勝が、いわばおせっかいとして乗り出し、問題を収めていくという構造が殆どです。

そこではお勝の行動を追いかけ、さらにおせっかいを受ける側の事情を縷々説明してあります。

しかし、そんな中でのお勝やその相手方の心象はあまり詳しくは描いてありません。

 

本書『ごんげん長屋つれづれ帖【五】池畔の子』の第一話「片恋」にしても、お勝が番頭を務める「岩木屋」で働く弥太郎の斉木芳乃という武家の奥方らしき人物との恋心と、その奥方のその息子小四郎にかける期待などの話であり、その設定自体は特別なものではありません。

そこにお勝が絡むことで問題の親子の行く末が、少しなりともいい方向へ向かいのではないか、という若干の明かりが見えるだけですが、ただ、そこには分かれの悲しみもあったのです。

まさに通俗的な人情話そのものの物語です。

しかし、個人的には、物語の流れが俯瞰的な描写のままに流れている、と感じ、もう少しの感情のゆらぎがあれば、と思ったのです。

 

第二話「第二話 ひとごろし」も、近藤道場の下働きの鶴治の話ですが、このシリーズの登場人物のある一人の背景に目を向け、そこに焦点を当てた物語です。

確かに心打たれる話ではありますが、それだけ、という印象も否めません。

妓楼で客が女郎の腹を刺して逃げたという騒ぎを背景にしてありますが、鶴治の話との関係は今一つ分かりませんでした。

 

第三話第三話 紋ちらしは、長屋の住人の庄次が為していた「安囲い」の女が身籠ったための、その後始末の話です。

この「安囲い」という言葉は『付添い屋・六平太シリーズ』の第三話でも「安囲いの女」というタイトルの話があります。

また、他にも数人がお金を出し合って一人の女を囲うという話があったように覚えていますが、そのタイトルをはっきりとは覚えていません。

数人の男を相手にする妾ですから、この物語のような出来事も当然あったことでしょうが、この話は若干都合がよさ過ぎるようにも感じます。

 

第四話「第四話 池畔の子」は、不忍池の畔に住んでいる子供たちの話で、彼らの行く末を周りの大人たちが見守るという話です。

お六が子供達のことを思い流した胡瓜をきっかけに浮浪児との交流が始まるというのは心あたたまる話です。

江戸時代に、孤児たちの将来のことを近所の皆で考えるということは聞いたことがありますが、役人たちも加わっていることも当然あったでしょう。

ご都合主義的に思えないこともありませんが、ほのぼのとした話ではあります。

 

ここまで、このシリーズにもっと情感が欲しいという観点からの批判めいた文章を綴ってきました。

しかしながら、これまでもこのシリーズについては若干ながらもそうした印象は持っていたはずで、そうニュアンスのことも書いてはきていました。

とはいえ、それなりの魅力があればこそこれまで読んできたものですし、これからも読み続けると思います。

承継のとき 新・軍鶏侍

承継のとき』とは

 

本書『承継のとき 新・軍鶏侍』は『新・軍鶏侍シリーズ』の第五弾で、2020年10月に329頁の文庫本書き下ろしで刊行された、長編の痛快時代小説です。

三太夫の岩倉道場の跡継ぎとしての自覚も定まり、異母兄の佐一郎や、次席家老の嫡男鶴松などと共に素直に成長していく姿がまぶしい、多分シリーズの最終巻となるだろう一冊です。

 

承継のとき』の簡単なあらすじ

 

父岩倉源太夫、母みつから名を譲り受け、実子の幸司は三太夫となった。その元服を祝う剣友らとともに、三太夫は将来について語らい、胸を膨らませる。だがその裏で、三太夫が剣術を指南する次席家老九頭目一亀の嫡男鶴松には悩みがあった。それは、本心を打ち明けられる友がいないこと…(『真の友』)。齢十四の三太夫が迷い、悩みながらも大人への階梯を上る、青雲の第五巻。(「BOOK」データベースより)

 

目次
真(まこと)の友/新たな船出/承継のとき/春を待つ

 

真(まこと)の友」 元服して三太夫となった源太夫の子幸司は鶴松のもとに剣友として通っていたが、その仲間よりも一足先に元服をしたことで皆から祝いの言葉と共に元服の儀式の実際を問われていた。ただ、その中でも鶴松はひとり真の友のいないことを思い悩んでいた。

新たな船出」 下男の亀吉と女中のサトが、みつのところへやってきて夫婦になりたいと言ってきた。しかし、亀吉には兄の丑松という手強い親代わりがおり、出戻りのサトとの祝言を許してくれるかが問題だった。そこで、みつは三太夫を連れて亀吉の実家へと向かうのだった。

承継のとき」 佐一郎が三太夫に稽古を挑んできたが、三太夫の五勝で佐一郎は一本も取ることができなかった。三太夫は、口惜しさに黙り込む佐一郎に上達の秘訣として鮠釣りを教えるのだった。

春を待つ」 源太夫のもとを佐倉次郎左が訪れ、三太夫に娘を貰ってくれと言ってきたが、三太夫には既に言い交わした娘がいるとしてこれを断った。だが、問題は三太夫の気持ちが分からないことだった。

 

承継のとき』の感想

 

本書『承継のとき』は『新・軍鶏侍シリーズ』の第五弾です。

この『新・軍鶏侍シリーズ』は、これまでも何度か書いてきたことではありますが、岩倉源太夫自身というよりもその子らの成長ぶりが描かれる方に重点が置かれています。

特に、幸司こと元服後の三太夫を中心に描かれていて、なかでも三太夫が剣術を教えに行っている鶴松との仲、また佐一郎との仲が描かれています。

そして、本書では岩倉道場の下男の亀吉と女中のサトの祝言を挟みながら、三太夫の剣士としての成長、そして将来の嫁取りの話と、岩倉道場の跡継ぎとしての三太夫の自覚が描かれています。

 

ここにおいて、『軍鶏侍シリーズ』そして『新・軍鶏侍シリーズ』と全部で十一巻の長きにわたり展開されてきたこのシリーズも、本書をもって、多分ですが完結するのでしょう。

というのも、シリーズ完結、という情報はどこにも出てはいないものの、本書の終わりにこれまではなかった(完)という文字が書かれていること、さらには本書以降2022年11月の現時点まで続編が刊行されていないことからしても本シリーズの完結は間違いのないことと思われるのです。

私の好きな時代小説シリーズとして一、二位を争うシリーズだっただけに、非常に残念なことではあります。

しかしながら、新旧の『軍鶏侍シリーズ』の主人公である源太夫も、子らの成長を楽しく見守る姿が描かれるようになり、自身の剣士としての姿よりも、弟子たちや自身の子の成長を楽しみにしている姿が中心になってきた以上はそれもやむをえないことでしょう。

 

できることであれば、もう一回、今度は三太夫を主人公とした新しいシリーズを刊行してくれないかと願いたいのですが、どうもその気配はないようです。

この作者の他のシリーズもそれなりに面白くはあるのですが、野口卓が描く町人が主人公のシリーズ作品は、情報量は多くても物語に起伏が少なく、何となく手に取る気持ちが失せてきています。

本『新・軍鶏侍シリーズ』にしても、若干その傾向は見えており、ここ数巻は軍鶏や釣りの蘊蓄にかなりの紙数を費やしてあるのが気にはなっているところでした。

とはいえ、三太夫らの成長の様子を見るのは楽しみでもあり、続巻が出るのをを心待ちにしていたものです。

近年、青山文平砂原浩太朗のような情感豊かな作風の時代小説作家も出てきてはいますが、できれば野口卓も武家ものを書き続けてほしいと願っています。

できれば本シリーズが続けばいいのですが、でなければ新しい侍を主人公にしたシリーズ作品を期待したいものです。

木鶏 新・軍鶏侍シリーズ

木鶏 新・軍鶏侍』とは

 

本書『木鶏 新・軍鶏侍』は『新・軍鶏侍シリーズ』の第四弾で、2020年3月に298頁の文庫本書き下ろしで刊行された、長編の痛快時代小説です。

ただ主人公である源太夫や息子の幸司の日常が描かれるだけの作品ですが、そのゆっくりとした時の流れが心地よい物語です。

 

木鶏』の簡単なあらすじ

 

次席家老の子息の剣術指南に抜擢され、岩倉道場を継ぐ決心を固めた幸司。ところが父源太夫は中老に「御前さまに任された道場は世襲ではない」と釘を刺される。幸司の兄龍彦は遊学中で将来を嘱望される身、これで岩倉家は安泰よと、藩内から羨む声も聞こえ…(『笹濁り』)。軍鶏侍を父に持つゆえの重圧に堪え、前髪立ちの少年が剣友とともに、剣の道を駆け上がる。(「BOOK」データベースより)

 

目次
笹濁り/孟宗の雨/木鶏/若軍鶏/お礼肥

 

笹濁り」 源太夫は、鮠(はや)を釣りながらいまさらながらに亡き権助の博識ぶりを思い出していた。そんな源太夫に中老の芦原讃岐は、源太夫の岩倉道場は世襲ではないということを念押ししてきた。

孟宗の雨」 ある日、道場で稽古を見ている源太夫のもとに弟子の大久保逸実が、祖父で源太夫の相弟子である無逸斎の様子がおかしいので一度会って貰えないかと言ってきた。

木鶏」 岩倉道場に見学に来ていた次席家老九頭目一亀の継嗣である鶴松は、道場の壁面に掲げられた道場訓に見入っていた。その後、年少組の投避稽古をみた鶴松は、自分たちもやると言い出すのだった。

若軍鶏」 源太夫が行っている鶏合わせ(闘鶏)の会を見た鶴松とその学友たちは、闘鶏の奥深さに打たれ自分たちも軍鶏を買うと言い出していた。一方、岩倉道場では、女中のサトの元夫がサトを追い出した姑が死んだので戻ってほしいと言ってきた。

お礼肥」 源太夫と幸司が母屋に戻ると、藩校「千秋館」の教授方の池田秀介、それに花の友人のすみれと布美とが遊びにきていた。そこに酢橘を持ってきた亀吉は、源太夫の屋敷の酢橘の美味さの源である権助の栽培方法について話し始めるのだった。

 

木鶏』の感想

 

本書『木鶏』は『新・軍鶏侍シリーズ』の第四弾ですが、前巻の『羽化』あたりから岩倉源太夫の子ら、特に幸司を中心にこの物語が動くようになっていた流れをそのままに受け継いでいます。

本書ではほかの痛快時代小説とは異なり、悪徳商人やお代官様は登場せず、藩内の争いに巻き込まれる主人公もいなければ、胸のすく剣戟の場面もありません。ただ主人公である源太夫や息子の幸司の日常が描かれるだけです。

その日常も主人公家族が暮らす園瀬藩の美しい自然の中での釣りや、軍鶏の闘いなどが主に描かれ、流れる時間がとてもゆっくりとしています。

そのゆっくりとした情景描写が私にはたまらないのです。

 

幸司の日常と言えば、鶴松とのことが挙げられると思います。

鶴松は次席家老九頭目一亀の継嗣ですが、学友たちの誘いに乗ってしまい藩の道場にも通わなくなってしまったことを心配した一亀により、鶴松に権を教えてくれるように頼まれたものでした。

次席家老の息子であるからということで手を抜かない幸司との稽古により、大きく成長を遂げていく鶴松やその学友たちの姿が描かれています。

同時に、幸司自身も道場主である源太夫の跡継ぎとしての自覚を持ちつつある姿がほほ笑ましく、またすこしの痛みをもって描かれている点も好ましいのです。

 

さらに、本書『木鶏』では前巻で亡くなった下男の権助についての描写が多いことも特徴として得げることができるでしょう。

もともと、この『軍鶏侍シリーズ』ではシリーズ第一巻の『軍鶏侍』から権助の存在がかなりの位置を占めていました。

源太夫が軍鶏を飼い始めたときはもちろん、釣りをする時も権助の助言で助けられており、源太夫に権助とは「何者か」と言わせるほどの存在感を持っていたのです。

権助は源太夫の知恵袋であると同時に、門弟たちの良き相談相手でもありました。第一巻『軍鶏侍』での大村圭二郎や、第四巻『水を出る』での市蔵のことなど、シリーズの中でもいくつかのエピソードが取り上げてあります。

 

こうして、普通の痛快時代小説とは異なる雰囲気を持ったこの『軍鶏侍シリーズ』は、シリーズも新しくなりさらに源太夫自身やその子供たちの成長まで含めた人間味のあふれた成長小説としての一面を強く見せているようです。

その意味では、この作者の他のシリーズである、『ご隠居さんシリーズ』や『めおと相談屋奮闘記シリーズ』のような作者の多方面にわたる知識を展開する物語に近くなっているように思えます。

ただ、そちらの作品は個人的には好みとは異なった空気感を醸し出しているのですが、本シリーズは若干の説教臭さが漂ってはいるものの、なお私の好みに合致するのです。

源太夫とその家族の暮らし、そして各々の生き方は、読者にとっても一読の価値があると思います。

御留山 新・酔いどれ小籐次(二十五)

御留山 新・酔いどれ小籐次(二十五)』とは

 

本書『御留山 新・酔いどれ小籐次(二十五)』は『新・酔いどれ小籐次シリーズ』の第二十五弾で、2022年8月に文庫書き下ろしで刊行された、編集者による巻末付録まで入れて365頁の長編の痛快時代小説です。

新・旧の『酔いどれ小籐次シリーズ』全四十五巻が本書をもって終了します。

 

御留山 新・酔いどれ小籐次(二十五)』の簡単なあらすじ

 

玖珠山中に暮らす刀研ぎの名人「滝の親方」は、小籐次にそっくりだという。もしや赤目一族と繋がりが?森藩の事情を憂う小籐次のもとに藩主・久留島通嘉からの命が届く。「明朝、角牟礼城本丸にて待つ」-山の秘密を知った小籐次は。『御鑓拝借』から始まった物語が見事ここに完結!記念ルポ「森藩・参勤ルートを行く」収録。(「BOOK」データベースより)

 

第一章 山路踊り
森陣屋でしばらく放っておかれた小籐次だったが、連れていかれた陣屋の中庭では、都踊りかとも見紛う山路踊りなる宴が催されているのに驚くばかりだった。翌朝、一人稽古を済ませた駿太郎はなんでも屋のいせ屋正八方を訪ねた。

第二章 二剣競演
久留島武道場で最上と稽古をした駿太郎は小籐次らと共にいせ屋正八を訪ね、鉄砲鍛冶の播磨守國寿師の鍛冶場を訪ねることとなった。その後、國寿の勧めに従い、次直の研ぎを頼むために十一丈滝の親方の求作に会いに向かうのだった。

第三章 血とは
久慈屋に届いた小籐次からの文が空蔵の手により読売へと仕上げられていた。一方小籐次親子は放っておかれ、何日も無視をされたままだったが、やっと森藩主久留島通嘉からの言伝が届いた。

第四章 山か城か
久留島通嘉は、長年の夢のために穴太積みの石垣を完成させていたのだが、しかし、その夢は森藩御取潰しになる夢でもあった。小籐次らが帰る途中、石動源八なる男が待っていた。

第五章 事の終わり
この夜、茶屋の栖鳳楼で嶋内主石らの酒盛りの席に小籐次が現れた。翌日、小籐次の働きを聞き八丁越に来た石動源八は、谷中弥之助、弥三郎兄弟の待ち受けを知るが、そこに小籐次親子が現れるのだった。

終章
文政十年(1827)七月五日、愛宕切通の曹洞宗万年山青松寺で、不在の間に亡くなった新兵衛の弔いが催され、小籐次親子がそれぞれに剣技を披露し、この物語も幕を閉じるのだった。

 

御留山 新・酔いどれ小籐次(二十五)』の感想

 

本書『御留山 新・酔いどれ小籐次(二十五)』は本シリーズの最終巻であり、小籐次親子が旧主久留島通嘉の参勤交代に同行してやっと森藩陣屋へとたどり着いた後の出来事が語られています。

森藩藩主久留島通嘉が小籐次を参勤交代に同行し、国表まで同行するように命じた理由も明らかにされます。

それは、小籐次の物語の最初である『酔いどれ小籐次シリーズ』第一巻『御鑓拝借』へと連なるものであり、最終巻をまとめるのにふさわしい理由付けだったとは思います。

また、その理由付けによって、前巻でも疑問であった藩主の参勤交代の旅での国家老一派の傍若無人な振舞いに対する「設定が甘い」という私の疑問も、それなりに、一応納得できる理由付けが為されたものでした。

そういう点では最終巻として納得できるものだったと言えます。

 

 

しかしながら、この小籐次親子の参勤交代への同行劇全体は、シリーズを通しての評価としては決して満足のいくものではありませんでした。

というのも、最終巻にしては小籐次の敵役としての国家老の存在が小者に過ぎ、今一つの緊張感が見られなかったからです。

この新旧の『”酔いどれ小籐次シリーズ”のシリーズ作品の中でも私が一番好きだった作品だったので、シリーズが終わること自体がまず残念でした。

そして、どうせ終わるのならば、シリーズ第一巻『御鑓拝借』での小籐次の大活躍のように、最終巻らしい活躍をさせてほしかった、という思いがあったのです。

ただ、こうした思いは藩主久留島通嘉が小籐次に同行を命じた理由そのものは納得できるものだったのですから、全く私の身勝手な好みで満足できなかったと言っているに過ぎないとも言えるでしょう。

 

ただ、それだけ市井に生きる小籐次の姿が好きだったのです。

ところが、いつの頃からか小籐次が神格化され、市井に生きる一浪人としての小籐次ではなくなってしまっていたのは残念でした。

このことは、『居眠り磐音シリーズ』でも同じことが言え、普通の腕が立つ浪人であった主人公の磐根が、そのうちに孤高の剣豪へと変っていったのと似ています。

それは、作者の佐伯泰英の変化に伴うものだったのかもしれず、長い間続くシリーズ物では仕方のないことなのでしょう。

それどころか、変化のないシリーズ物は逆に人気を維持できないのかもしれません。

 

 

ともあれ、本『酔いどれ小籐次シリーズ』は本書『御留山』をもって終了しました。

読者としては、作者の佐伯泰英氏にはお疲れ様でしたというほかありません。

ご苦労様でした。

あとは、『吉原裏同心シリーズ』などの他のシリーズ作品へ力を注いでいただけることを楽しみにするばかりです。