長浦 京

1967年埼玉県生まれ。法政大学経営学部卒業。出版社勤務、音楽ライターなどを経て放送作家に。その後、指定難病にかかり闘病生活に入る。2011年、退院後に初めて書き上げた『赤刃』で、第6回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。17年、デビュー2作目となる『リボルバー・リリー』で第19回大藪春彦賞を受賞。19年、3作目『マーダーズ』で第2回細谷正充賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
引用元:HMV&BOOKS

 

長浦京という作家は、非常に緻密で、濃密な作品を書かれる作家さんのようです。

上記の長浦京プロファイルを見ても分かるように、デビュー作『赤刃』で第6回小説現代長編新人賞、デビュー第二作『リボルバー・リリー』で第19回大藪春彦賞、デビュー第三作『マーダーズ』で第2回細谷正充賞と、新作を出版するたびに受賞歴を重ねておられます

 

 

更には、デビュー四作目の『アンダードッグス』は第164回の直木三十五賞候補作に選ばれている驚異の作家さんです。

 

 

江戸湊の軛 – 口入屋用心棒(46)

本書『江戸湊の軛-口入屋用心棒(46)』は、『口入屋用心棒シリーズ』第四十六弾の長編の痛快時代小説です。

本書だけの単発の物語のようで、シリーズとしての醍醐味はあまり感じられない作品でした。

 

『江戸湊の軛』の簡単なあらすじ 

 

富士山の噴火によって江戸市中が混乱する中、江戸湾の入り口に三艘の船が碇を下ろし、湊に入ろうとする船を攻撃した。海上を封鎖しようとする一党の真の目的は何なのか!?秀士館の師範代、湯瀬直之進と倉田佐之助がその真相に迫る!人気書き下ろしシリーズ第四十六弾。(「BOOK」データベースより)

 

富士山が噴火する中、五十部屋唐兵衛は三艘の船で江戸へと荷物を運ぶ船を大砲で足止めし、江戸湊を封鎖しようとしていた。

一方、たまたま通りかかった倉田左之助たちが夜陰に紛れて上陸しようとする不審者を見つけその後をつけると、武家屋敷や長屋の井戸の中に何かを投げ入れる姿があった。

翌日、樺山富士太郎のもとに、その井戸の水を飲み死人が出たとの連絡が入る。

また老中の本田因幡守は、南町奉行の曲田伊予守に対し川崎沖に停泊中の三艘の大船を見てくるようにと命じ、また船手頭の清水矢右衛門に三艘の大船を沈めるようにと命じるのだった。

 

『江戸湊の軛』の感想

 

本書『江戸湊の軛』では五十部屋唐兵衛という新たな人物が登場し、何故か突然に江戸への物資搬入を阻止しようとします。

丁度富士山が爆発し、世情不遜な折でもあり、五十部屋唐兵衛の思惑は成就しそうになりますが、その暴挙を、湯瀬直之進や倉田左之助らが、というよりも左之助が中心となってこれを食い止めようと活躍するのです。

 

このところの本『口入屋用心棒シリーズ』では、物語の流れに全く関係のない事件や、日々の出来事などについての意味のない会話などが目立ってきたような気がします。

読み終えてから見ても、その場面は意味のない挿入としか思えない場面です。作品の雰囲気造りなどに役に立っていると言えばそうかもしれませんが、その頻度も限度があります。

本書『江戸湊の軛』でもそうで、湯瀬直之進が煮売り酒屋で暴れている浪人者を取り押さえる場面など、富士山の噴火ですさんだ雰囲気を表現するにしては長すぎる印象です。

 

このところ、鈴木英二という作家の本シリーズ以外の作品はあまり読んでいません。

一年ほど前に『義元、遼たり』という作品を読んだだけです。しかし、そこでもある人物の会話を「意味を見出せ」ないと記しています。

つまりは、鈴木英二の他の作品の表現に対して違和感を書いているのですから、本書に限ったことではないのです。

 

 

本書『江戸湊の軛』の内容にしても、五十部屋唐兵衛の江戸湊封鎖という前代未聞の行いに際し、その部下として少なくとも百人近くの者が参画しています。

そして、そのほとんどが死地に赴くことを理解し、納得しているというのです。五十部屋唐兵衛の個人的な思惑に、それだけの人数が一人も欠けることなく参画するというのは信じられません。

ただ、この点は部下個々人がそれぞれの遺恨を抱えていると考えればまだ理解できるかもしれません。

しかしながら、いち私人が西洋と取引をして大砲や最新式の銃などを手に入れるということ自体、無理があると思えます。さらに、大砲の訓練などを人目に触れることなく行ってもいます。

どうにも納得できないことが多すぎるのです。

 

痛快時代小説として少々の無理な設定は、それなりの舞台を用意するということで許容されても、本書のような設定は個人的には許容範囲外です。

少なくとも本『口入屋用心棒シリーズ』は、本来は本書『江戸湊の軛』のような荒唐無稽、というか緩すぎる舞台設定を受け入れるような世界観ではないと思うのです。

 

言うまでもなく以上は個人的感想であり、多くの読者は今の鈴木英二作品を支持しているのでしょうから素人の感想でしあありませんが、どうも近時の鈴木英二作品には違和感を感じる場面が多々あります。

本来、私の好みに合致した、とても面白い作品を書かれている作家さんなので、以前のような面白さを取り戻してもらいたいと思うだけです。

乱癒えず 新・吉原裏同心抄(三)

本書『乱癒えず 新・吉原裏同心抄(三)』は、『新・吉原裏同心抄シリーズ』の第三巻の長編時代小説です。

江戸吉原のために、今は京都祇園に尽くす神守幹次郎の前に禁裏と西国雄藩の影が立ちふさがります。

 

『乱癒えず 新・吉原裏同心抄(三)』の簡単なあらすじ 

 

禁裏の刺客・不善院三十三坊を斬った幹次郎。その直後から、禁裏と、ある西国の雄藩の影が祇園の町にちらつきはじめる。両者の暗い思惑を断つべく幹次郎は、入江同心と共に思いがけぬ場所へと潜入する。吉原では、澄乃と身代わりの左吉の必死の探索によって、吉原乗っ取りを企てる一味の正体へ少しずつ近づくのだが―。いよいよ決戦前夜か、手に汗握る展開!(「BOOK」データベースより)

 

前巻の終わりで、祇園の旦那七人衆のうちの四条屋儀助猪俣屋候左衛門の二人を暗殺した禁裏流の不善院三十三坊を倒した神守幹次郎だった。

その幹次郎は、京都町奉行所目付同心の入江忠助から、金に困っている禁裏の中の誰かと西国大名と手を結び、祇園の金と力を取り込もうと図っているらしい、という話を聞く。

また一力の主次郎右衛門からは、その禁裏のお方とは禁裏御領方の副頭綾小路秀麿卿であり、西国大名が薩摩であることは公然の秘密で、その重臣とは用人頭の南郷皇左衛門だとの話を聞いた。

そして入江と共に函谷鉾の地下蔵がツガルと呼ばれる阿芙蓉窟へと改装されていた様子を確認した幹次郎は、帰り道に襲い来た賊を倒しつつ、一力の主次郎右衛門へと報告をするのだった。

一方、江戸では澄乃が身代わりの佐吉に、老舗の俵屋を潰し、萬右衛門一家を死に追いやるきっかけを作った色事師の小太郎について相談をしていた。

そして共に探索をし、十間川北詰近くで小太郎の住み家と、柘榴の家を襲いおあきを攫おうとしていた三人のうちの兄貴分の亡骸賭を見つけるのだった。

 

『乱癒えず 新・吉原裏同心抄(三)』の感想

 

本書『乱癒えず』では京の幹次郎、そして江戸の澄乃たちのそれぞれの物語がわりと均等に語られています。

京の幹次郎は、入江同心と共に禁裏財政を握る一味と西国のとある大名とが結託した祇園を取り込もうとする勢力と戦っています。

一方、江戸では澄乃が、身代わりの佐吉や桑平同心の力を借り、吉原を狙う一味と対峙していたのです。

 

本書『乱癒えず』でも幹次郎が活躍が描かれていますが、いつものようい幹次郎の姿を主に描き出しているのではなく、遠く離れた江戸の澄乃らの姿もそれなりに描かれていまるからか、何となく物語に違和感が残りました。

でも、やはり物語の主な舞台がこれまで慣れ親しんだ吉原ではなく、京都の祇園を中心とした街並みであるところが違和感の大きな要因だと思われます。

幹次郎の日々の日課からして、祇園社の神輿蔵で目覚めたのち清水寺での羽毛田亮禅老師と共にする読経、産寧坂の茶店のお婆おちかと孫娘のおやすとの水汲みの手伝いなどと、江戸とは全く異なるのです。

 

その上、特に本シリーズでは清水寺や祇園社など由緒ある地名が並び、それに今も名高い祇園祭、正確には祇園御霊会の由来なども述べられており、やはり雰囲気が異なります。

その祇園御霊会の山鉾の一つで、天明の大火で焼失し再建もなっていない「函谷鉾」の蔵がこの物語の中心に絡んできます。

さらには、四条大和小路にある仲源寺の地下蔵で、猪俣屋候左衛門が隠した禁裏と西国雄藩との結びつきを明確にするとある日録を見つけたりもするのです。

こうした江戸とは異なる環境がこれまでとは違い印象を生んでいるとすれば、舞台を京に移した試みは成功していると言えるのでしょう。

 

今後どのような展開が待っているものか、先の見えないこのシリーズですが、江戸吉原の先行きも全く分からないので、さらに先が見えません。

そこに禁裏や薩摩藩が絡み、また幕府倒壊後の思惑まで話が進むとなると、少々展開が大きくなりすぎるのではないかという危惧も持ってきます。

また、同じ佐伯泰英の『酔いどれ小籐次シリーズ』がひらがなの物語(これもこの頃はそうでもないのですが)だとすれば、本シリーズが舞台が京都ということで寺社が絡むためか、物語全体が幹次郎の侍言葉も含め漢字尽くしという印象です。

幹次郎の断トツの強さと共に物語の運びも重くなっているのです。

シリーズ当初はもう少しくだけて読みやすい物語だったと思います。作者の腕に力が入っている様子もあり、もう少し軽めの物語を期待したい気持ちもあります。

 

とはいえ、今後の物語展開は気になるところです。

ストーリーを追うことが目的の印象もありますが、早めの続刊を期待したいものです。

江戸染まぬ

青山文平著の『江戸染まぬ』は、新刊書で222頁という長さの短編時代小説集です。

本書は七編の物語からなっていて、各短編の悠然とした文章は読む者の心を穏やかにし、琴線に触れてきます。

 

粋がる旗本次男坊が、女で祖父に負けた時―俺は江戸者だ。意気地と張りだ。江戸に生きる人々が織りなす鮮やかな人生。青山流時代小説の真骨頂!珠玉の短編集。(「BOOK」データベースより)

 

『江戸染まぬ』の簡単なあらすじ 

 


 

「つぎつぎ小袖」
大雑把と言われる私だったが、こと長女のことに関してはそうは言えなかった。そんな私が、親戚につぎつぎ小袖を頼むのだが、いつも一番快く引き受けてくれる一軒に今年は未だ頼めないでいた。

「町になかったもの」
紙問屋の晋平は、町年寄りの成瀬庄三郎に呼ばれていく途中、一介の村から在郷町に成り上がったこの町にも飛脚問屋の嶋屋が店を開いたことで、「この町に無いものはない」という感慨を抱いていた。

「剣士」
甥の柿谷哲郎の厄介叔父として肩身の狭い思いをしていた柿谷耕造は、昼間は川へと行き、餌をつけていない鉤のついた釣竿を垂らしていた。その場所には昔の道場仲間である益子慶之助も同じ立場の者として来ていた。

「いたずら書き」
御小姓頭取を仰せつかっている「私」は、御藩主から内容は知る必要はないと言われた書状を、評定所前箱に入れるようにと預かった。しかし、御藩主を守るという私の職務からして、中身を見ずに入れることはできないのだ。

「江戸染まぬ」
一年限りの武家奉公人の「俺」は、殿様の子を産み相模国に戻される“芳”という女のお供をすることになった。その女に何とか十両の金を渡してやりたいと思う俺だったが、それには「中番屋」に屋敷の話を売りに行くしかないのだった。

「日和山」
跡継ぎの兄は父親と共に重追放となり、私も中追放で家屋敷の没収ということになった。そこで、腰の物を売り、中間として生きていたが、やはり本差しが落ち着くことに気付き、刀を買い戻し、伊豆で用心棒をすることとなった。

「台」
口やかましい兄が我家の下女奉公をしてきた清を女として見ていた。それを見た自分は何故か清を落とすために、遊びをやめ学問吟味と称して実家に戻った。そんな清が孕んだ。相手は隠居の祖父だというのだ。

 

『江戸染まぬ』の感想

 

青山文平の作品は、『励み場』に見られるように、特に長編ではミステリー仕立てで最後に謎解きらしきものがあって落ち着く形態の作品が多いように思えます。

また、短編集においても『半席』のように、ある人物の真意を明らかにするミステリーそのものと言ってもいい作品もあります。

それらの作品では当然のことながら謎解きという結末がきちんとつけられ、物語の落としどころがはっきりとしています。

 

 

ところが本書『江戸染まぬ』の場合、短編の落としどころがよく分かりません。「だからどうなんだ」と言いたくなるのです。

作品のタイトルは今ではもう覚えていませんが、同じことを 藤沢周平の作品を読んだ時にも思ったことがあります。

分かりやすく、明確な結末を示してもらわなければ理解できなかったのでしょう。

私も当時は若く、物語自体の持つ雰囲気や時代、登場人物の考え方や生き方そのものをじっくりと読み込むということができていなかったと思えるのです。

 

では、今はそうした読み方ができるのかと言えば、やはりそうではなかったようです。本書『江戸染まぬ』の第一話「つぎつぎ小袖」など特にそうです。

最初は、主人公の「私」が夫を愛し、「大雑把」と言われようとひたすらに夫を愛し、子に対しては「大雑把」な私が別人のように神経質になって生きてきたその姿を、結局何なのだ、と思っていました。

ただ、文章の見事さに見とれ、「私」が他人とのしがらみなどの状況に立ち向かう姿の強さに惹かれたのです。

特に、最後に「私」があらためて娘を抱き、「いろんなものがぐつぐつと入り交じったこの世とやらについっと分け入って、このこと生きていくのだ。」と再確認する文章と描かれた姿に接し、なんと美しい姿かと感じ入りました。

そして、その文章に対して感じた「私」の強さ、そうした感じ方でいいのではないか、と思うようになったのです。しかし、本当にそうでいいものか自信はありません。

 

ただ、六話目の「日和山」になると未だによく分かりません。侍の暮らしから離れながらも再び二本差しへと戻った主人公は、何故日和山であのような行動に走ったのかよく分かりません。

結局のところ、この物語で作者は何を言いたかったのは何なのか、よく分からないのです。

 

落としどころが分からないということの他に、五話目の表題作でもある「江戸染まぬ」に関しては、何となく浅田次郎の文章を思い出してしまいました。

あらためてよく読み直すまでもなく、その頁を眺めればまったく異なる文章であるのはすぐにわかるのですが、主人公の主観的目線で、畳みかけるように書いてあるところからそう思ったのかもしれません。

 

七作目の「台」は、主人公が江戸っ子であるためか、物語の運び方と文章が他とは少し異なります。

知識ではなく考える力について、「意味で覚えると、言葉に腕ができる」として、ものの見え方が違ってくるという一文は印象的でした。

また、タイトルの「台」が、ゆるぎない自分の軸を持つことに繋がってくるという、その物の味方にも驚きでした。

そして、物語の締めである「オレは江戸者だ」から始まる最後の五行が実に小気味いい文章です。

文章が見事であるのは勿論ですが、主人公の江戸っ子としての心意気を端的に表現している作者の心意気まで伝わってくるようなのです。

 

やはり、私の読解力はまだまだと自覚させられた作品でもありました。

それでもなお、青山文平の作品はすばらしく、やはり今一番の時代小説作家だと思っています。

八本目の槍

本書『八本目の槍』は、新たな視点で石田治部少輔三成の姿を再構成した、新刊書で394頁という長編の時代小説です。

それも非常に現代的な観点でから捉え直したものであり、私にとっては疑問符や感嘆符が飛び交う作品でした。

 

秀吉の配下となった八人の若者。武勲を上げた七人は「賎ケ岳の七本槍」とよばれるようになる。「出世」だけを願う者、「愛」だけを欲する者、「裏切り」だけを求められる者―。己の望みに正直な男たちは、迷いながらも、別々の道を進んだ。残りのひとりは、時代に抗い、関ケ原で散る。この小説を読み終えたとき、その男、石田三成のことを、あなたは好きになるだろう。共に生き、戦った「賎ケ岳の七本槍」だけが知る石田三成の本当の姿。そこに「戦国」の答えがある!(「BOOK」データベースより)

 


 

『八本目の槍』の簡単なあらすじ 

(括弧内は描かれている武将の名前です。)

一本槍 虎之助は何を見る ( 加藤虎之助清正 )
虎之介は肥後半国十九万五千石に封じられたが、自分の領地が九州の地に決まったのは佐吉の進言によるものだと知り、心中穏やかではなかった。しかし、佐吉の真意を知った虎之介は自分なりの方法で豊臣家を守るというのだった。

二本槍 腰抜け助右衛門 ( 志村助右衛門【 糟屋助右衛門武則 】 )
槍の名手といわれた助右衛門は、慕っていた父違いの兄糟屋朝正から槍などの稽古をつけてもらっていた。その助右衛門が賤ヶ岳の戦いで手柄を立てて以降、槍を握ることができなくなり、腰抜け助右衛門と呼ばれるようになった。

三本槍 惚れてこそ甚内 ( 脇坂甚内安治 )
もと浅井家に仕えていた甚内は、ゆくゆくは一国一城の主となりお市様のようないい女を嫁に持つことを夢に見るようになっていた。そんな甚内が明智光秀の援軍として間者働きのため亀山城へと入り、八重という女と知り合う。

四本槍 助作は夢を見ぬ ( 片桐助作且元 )
関ヶ原の戦いの前に、助作は佐吉から徳川内府の動きについて意見を聞き、佐吉のいない世についての話を聞いた。佐吉は、秀頼が秀吉の才覚や魅力には到底及ばぬことを知り、ゆえに負けたときのことを助作に頼んだのだった。

五本槍 蟻の中の孫六 ( 加藤孫六嘉明 )
自分一人、蟻の行列に紛れ込んだ異端の者であることを感じていた孫六だった。己の好きなことに打ち込めるそんな国になればよいという佐吉の言葉を信じ、佐吉の言う通りに動いた孫六。しかしその道は修羅の道でもあった。

六本槍 権平は笑っているか ( 平野権平長泰 )
故郷では文武共に突出した存在の権平は秀吉の小姓組へと配置されたが、井の中の蛙であったことを思い知らされる。常に「笑う」ことで非才を隠す権平は賤ヶ岳の七本槍として一目置かれるようになったものの、加増が無いのだった。

七本槍 槍を捜す市松 ( 福島市松正則 )
大津城の城門の前に市松が晒し者にされていた。市松は黒田長政を隣にしたまま佐吉を罵り、佐吉もまた怒鳴り返す。しかし、二人の会話はその裏に多くの意味を秘めていた。ただ、無言の会話では佐吉の真意をくみ取れない箇所も多く、市松はその真意を探り始めた。

『八本目の槍』の感想

 

本書を読んだ第一印象は、石田佐吉という人物を再構成するというのはいいのだけれど、その試みがあまりに現代的に過ぎ、いくら何でも戦国期に生きた人間の思考方法の解釈としてはあり得ないというものでした。

また、現代的な解釈とまではいかないとしても、例えば関ケ原の戦いで、佐吉が自軍の勝ちを三割程度とみているなどの描写はやはり考えにくいのではないでしょうか。

たしかに、各短編が有機的に繋がり合い、全体として佐吉という人間を愛した武将たちの青春記ともいうべき作品となっているとは言えるでしょう。

しかし、七本槍の各人を佐吉という人間一人を肯定するために動かしたため、物語が無理な運びになってはいないかとおもえるのです。

ほとんど終わり近くまで、この作品は無理があると思いながら読んでいました。

 

たしかに、石田三成という人物を賤ヶ岳の七本槍として挙げられた人物たちの視点を借り、現代的な視点で再構成するという意図はユニークだし、素晴らしいものです。

こうしたユニークな解釈が目立つ作品として 垣根涼介の『信長の原理』という作品がありました。

この作品は、信長の生き方を、「パレートの法則」や「働きアリの法則」と呼ばれている現象を通して組み立てているものです。

つまり、「経済において、全体の価値はそのうちの一部が生み出している」という考えであり、「働きアリの法則」とは「組織全体の二割程が大部分の利益をもたらす」という考えです。

この考えで信長の生き方を再構成しているのです。

 

 

しかし、『信長の原理』の場合はまだ許容範囲にあったと言えるのではないでしょうか。

本書『八本目の槍』の場合、武士階級の否定に始まり、男女平等、最終的には民主主義まで持ち出されているのですから、いくら何でも行き過ぎだ、との印象が強いのです。

物語としては強引に過ぎるという気持ちしか持てませんでした。

つまり、小説として新たな視点で再構成したこの物語は、読み終えたときの感慨はそれなりに持ったのですが、やはり時代小説として読んだ時、石田三成という人間を美化しすぎている、との思いはぬぐえませんでした。

 

とは言いながらも、今村翔吾という作者はそうしたことは十二分に解ったうえであえて書いているのでしょう。

そうした観点で本書を見直すと、時代小説としてのカテゴリーを離れ、戦国期の佐吉を中心とした若者たちの青春記として捉えればなかなか読みごたえのある作品だとも言えます。

時代小説の形を借りた青春小説であり、佐吉という図抜けた存在を心の底では認めつつも、表面的には喧嘩せざるを得なかった仲間たち。

その彼らが、佐吉の死後、その真の意図に気付き、彼の思いに各々の形で答えようとする青春記です。

 

更には、本書『八本目の槍』には佐吉が考えた「米と金(きん)」との相場などの関係や、佐吉が見つけた戦いの「理」など、作者の思考のすばらしさを感じさせる新たな視点もあふれています。

また、最終話では佐吉がこれまで仕掛けてきた数々の仕掛けが一気に種明かしされます。

そのさまはまるで良質のミステリーの種明かしにも似て小気味よく、本書の無理な解釈の上に感じていた違和感も一気に拭われた気がしたものです。

 

本書を青春小説としてみればかなり面白い作品だといえ、作者の新解釈の苦労がしのばれる作品だと言えます。ですから、一般的には本書『八本目の槍』は面白いと受け入れる人が多いのではないでしょうか。

ただ、個人的には全体としての違和感を完全に払拭することはできず、私の好みとは少しではありますが異なる作品だと言わざるを得ないようです。

残照の剣 風の市兵衛 弐

本書『残照の剣 風の市兵衛 弐』は、『風の市兵衛 弐』シリーズ第七弾の320頁という長さの長編痛快時代小説です。

いつもの市兵衛の物語として安定した面白い物語ですが、新鮮味がない、とも言えそうな作品です。

 

“宰領屋”矢藤太の許に大店両替商“近江屋”から、唐木市兵衛を名指しで口入の周旋依頼があった。蟄居閉門中の武州川越藩士に手紙を届けてほしいという。二人は川越藩主に国替えの噂があり、資金調達のため圧政下にあると知る。異論を唱えた藩士も改易は必定、その時は江戸に迎えたいというのだ。市兵衛は矢藤太と共に赴くが、到着するや胡乱な輩に囲まれ…。(「BOOK」データベースより)

 

序章 赤間川 | 第一章 百代の過客 | 第二章 江戸街道 | 第三章 居合斬り | 第四章 蝉の国 | 終章 養子縁組

 

寛政十二年(1800)閏四月末に武州川越城下で上位討ちがあった。そしてその二十五年後の文政八年(1825)夏、十吉郎という男が永富町の滝次郎店で遺体で見つかった。

それから十日近くが過ぎ、大坂から帰っていた唐木市兵衛のもとに口入屋「宰領屋」の矢藤太が仕事を持ってきた。依頼主は銀座町の両替屋の《近江屋》だが、依頼の内容に嫌な予感がするという。

近江屋の主の隆明とその母親の季枝は、先に死んだ十吉郎は二十五年前の上意討ちから逃れた堤連三郎であり、季枝と隆明は連三郎の妻と子だという。

そして当時傷を負った連三郎が世話になり、現在は川越で蟄居閉門の身の村山永正へ手紙を届けた上で、閉門が解けたら村山永正とその娘の早菜とを江戸まで警護して連れ帰ってほしいというのだった。

その仕事を請けた市兵衛と矢藤太は、早速川越へ向け旅立つが、川越へ着いた市兵衛らは早速正体不明の敵に襲われる。

 

前巻『希みの文 風の市兵衛 弐』までしばらく大坂にいた市兵衛たちがやっと江戸へと帰ってきました。

まるで駆け落ちのように大坂へと旅立った小春と北町奉行所同心の渋井鬼三次の息子の良一郎の二人を無事に連れ戻したのはいいのですが、今度は小春と良一郎が一緒になると言いはじめます。

小春は義兄の又造と夫婦になることを願う義理の両親の思いに、良一郎は老舗扇子問屋《伊東》の主である文八郎の跡継ぎになるという両親の思いにこたえられないと言い出したのです。

今度のこの二人の行く末に振り回されそうな市兵衛です。

 

ところが、そうした話を追いやるような川越行きの話が巻き起こります。その裏には、二十五年前に上意討ちにあった堤錬三郎の事件が絡んでました。

その事件の陰には借金に苦しめられている川越藩松平大和守家の事情もあり、国替という幕閣の政策にも係わる事態へと連なる事情があったのです。

市兵衛への依頼主である近江屋の季枝や隆明らの依頼内容にあった村山永正の蟄居閉門の理由も松平大和守家の国替に対する異論と殿様への直言という無礼な振る舞いにあるというのです。

更には、蟄居閉門が解けたあと、堤連三郎とおなじ目に逢うのではないかとの危惧もあると言います。

そこで、村山永正とその娘早菜の身の安全を確保したいとの近江屋の願いでもありました。

 

本書『残照の剣』で図られた国替は、後に「三方国替え」として歴史上有名な事件へとして記録されることになります。

すなわち、「三方国替え」自体は江戸時代を通して何度も行われたようですが、後の天保11年(1840年)に行われ、「天保義民事件」と称される反対運動にまで発展し失敗した「三方国替え」がもっとも有名なようです。

この事件は 藤沢周平もその作品『義民が駆ける』で取り上げています。

第十一代将軍である徳川家斉が、その子斉省が養子として入った川越藩のために、内実の豊かな庄内藩との国替えを命じます。時の老中水野忠邦は、川越藩を庄内へ、庄内藩を長岡へ、長岡藩を川越へと順次転封する三方国替えの案を命じるのでした。

実質減俸ともいうべき措置を命じられた庄内藩の対応などが描かれていて、特定の主人公を据えるのではなく、この事件に対してのいわゆる群像劇として、俯瞰的な視点で描かれています。

さすが 藤沢周平の作品であり、講談社文庫版で解説まで入れて390頁弱のボリュームの作品です。なお、中公文庫版も出ています。

 

 

本書『残照の剣 風の市兵衛 弐』は、この作品とは異なり、三方国替えという事件自体ではなく、その政策を進める殿様も含めた藩の重鎮たちに対する異論を唱えた男を助けようとする市兵衛の姿が描かれます。

異論を唱える姿もあまり詳しくは描かれません。国替えを図るという藩の政策に関しても、男を蟄居平穏させるための事件として持ってきただけという印象です。

できれば、もうすこしそこらから掘り下げてもらえれば、後の市兵衛の行動にも深みが出るのではないかと素人ながらに思ってしまいました。

端的に言えば、市兵衛の物語も若干のマンネリ化に陥っているのではないでしょうか。

 

本書『残照の剣』では久しぶりに市兵衛の盟友弥陀ノ介が登場します。しかし、兄片岡信正との席に同席するだけで、活躍の場面は見られません。

できれば、弥陀ノ介の妻である青も含めた、三人の活躍が見たいものです。

あきない世傳 金と銀(九) 淵泉篇

本書『あきない世傳 金と銀(九) 淵泉篇』は、『あきない世傳金と銀シリーズ』の第九巻目「淵泉篇」です。

幸の商売、人生に立ちはだかる壁を設定する作者の努力が目に浮かぶ、シリーズとして変わらぬ面白さを維持している作品です。

 

大坂から江戸に出店して四年目、まさにこれから、という矢先、呉服太物商の五鈴屋は、店主幸の妹、結により厳しい事態に追い込まれる。形彫師の機転によりその危機を脱したかと思いきや、今度は商いの存亡にかかわる最大の困難が待ち受けていた。だが、五鈴屋の主従は絶望の淵に突き落とされながらも、こんこんと湧き上がる泉のように知恵を絞り、新たなる夢を育んでいく。商道を究めることを縦糸に、折々の人間模様を緯糸に、織りなされていく江戸時代中期の商家の物語。話題沸騰の大人気シリーズ第九弾!!(「BOOK」データベースより)

 

前巻『あきない世傳 金と銀(八) 瀑布篇』の終わりにの妹であるが小紋の型紙を抱えての失踪という事件が起きました。

本書『あきない世傳 金と銀(九) 淵泉篇』ではそれを受け、結の思いつめたとんでもない行動の末に振り回される幸の姿から始まります。

 

 

手代の賢輔が図案を考え、型彫師の梅松が精魂傾けて彫った、十二支の漢字を散らした文様の伊勢型紙を持ち出した結の行方はすぐに判明します。

その結の行き先がこれからの五十鈴屋に大きな影を落とすことになるのです。

ただ、梅松が問題の型紙に施したという仕掛けが予想外の効果をもたらすことになります。

 

その後も、結が日本橋音羽屋の女主人となったのに合わせて「五鈴屋江戸本店」店主となった幸に、新たに為した商いが、呉服商いができなくなるという災難をもたらします。

そんな幸の前に再び現れた儒学者が、父親の重辰のもとで兄の雅由と共に学んだお人だったことが判明し、新たな芽生えは何もかも失ったとき既に在る、との言葉を告げるのでした。

この機会に大坂へと帰る気になった幸は、旅慣れた茂作と梅松と共に旅立ちます。

大坂で、そのうちに江戸へと出るという菊栄にも会った幸は、新たに豆七と大吉という小僧たちを連れて再び江戸へと向かうのでした。

 

この『あきない世傳金と銀シリーズ』で、これまでも多くの困難を乗り越えてきた幸ですが、今回の危難は自分の妹がもたらした危難です。

その結は姉の心も知らず、自分の気持ちだけを大切に、単に五十鈴屋に困難をもたらしたというだけにとどまらずに、今度は新たな商売敵としての立場で幸の前に現れるのでした。

次から次へと困難が襲い来る幸の商売ですが、物語としての興味は幸がどのようにしてこの困難を乗り越えていくのかということにあります。

その乗り越える手段、アイディアこそが作者の腕の見せ所です。

 

こうした困難を乗り越え、さらにその困難をもたらした相手に「倍返し」を行い、爽快感をもたらし大成功した作品として、池井戸潤の『半沢直樹シリーズ』を思い出しました。

勧善懲悪の痛快経済小説としての『半沢直樹シリーズ』は、その時の敵に対して報復にも近い行動をとることで読者にカタルシスをもたらしてくれます。

しかし本『あきない世傳金と銀シリーズ』の場合、幸、そして五十鈴屋に危難をもたらした相手に対する報復措置をとることはまずありません。

あくまで、当面の危難を幸や五十鈴屋の奉公人、出入りの業者などの仲間が力を合わせ乗り越えていくその姿が心を打つのです。

 

 

ここで、本『あきない世傳金と銀シリーズ』の、「買うての幸い、売っての幸せ」という言葉を胸に商売をする五十鈴屋の一同の姿は、半沢直樹の「仕事は客のためにする。ひいては世の中のためにする」という信念と通じるものがあります。

共に、現実には通りにくい青臭い書生論に過ぎないと言われるような言葉です。

物語の中ではその言葉が貫かれ、主人公らは数々の困難を乗り越えていきます。読者はそこに喝采を送りカタルシスを得ると思います。

花登筺の『どてらい男』の昔からこうした物語の根底に流れる、正直に生きる、という基本的なことを誰しもが望んでいるということだと思います。

今後もはらはらしながらこの物語を読み続けていきたいものです。

 

夜叉萬同心 風雪挽歌

本書『夜叉萬同心 風雪挽歌』は、『夜叉萬同心シリーズ』の第七弾の長編の痛快時代小説です。

定町廻り同心に取り立てられたばかりの萬七蔵と、その八年後の隠密廻り同心になっている萬七蔵とが描かれています。シリーズの中では若干ですが個性に欠ける作品という印象でした。

 

北町奉行が異例の若さで定廻り同心に抜擢したのは、萬七蔵、三十五歳。袖の下を使った出世だと噂が広がる中、深川の貸元が何者かに殺害される。あと一歩まで下手人を追い詰める七蔵だったが―。まだ夜叉萬と呼ばれる前の七蔵が取り逃がした凶悪な男と再び対決。侍の世の不条理と、敵への憐憫と、人の心に巣くう何かをも斬る。夜叉萬の始末が胸を抉る傑作小説。(「BOOK」データベースより)

 


 

序 洲崎
北町奉行所の年番方の古参与力の殿山竜太郎の供侍である若侍は、洲崎の平野川にかかる平野橋のたもとで大島町の貸元の岩ノ助の首をはね、船饅頭の船で去っていった。

第一章 三一侍
岩ノ助の件は、七蔵が三十五歳で北町奉行所の定町廻り方になった夏の出来事だった。目撃者はなく、骸の発見者は近くに船饅頭を一艘見かけたという。その後、首を斬られた猫が見つかり、犯人は北御番所の殿山さまの奉公人の田島享之介らしいとの噂がたった。

第二章 十五夜
紀州家下屋敷内での月例の句会からの帰り、紀州家御用達の菓子屋・檜屋の番頭の羽左衛門は、享之介に出逢い首を落とされてしまう。その享之介は、夜分の抜け出しを咎められ、また賭場での遊びを同心に見つかり辱めを受けたことなどから次第に追い詰められていく。

第三章 上州無宿
七年の後、中山道鏑川の河原でのヤクザの出入りで、負けそうな一家が一人の男の活躍で勝ちを得た。岩ノ助の事件から八年後、今では隠密廻りの四十七歳となっていた七蔵は、主らを斬り出奔していた享之介が八州の無職渡世となっていると聞き、嘉助らを連れ現地へと行く。

第四章 地の果て
お桑と忠治がここらを縄張りにする百右衛門の世話で営んでいた「お宿 竹屋」に享之介が訪れていた。そこに、萬七蔵らの捕り方が現れ、百右衛門も捕り方の一員として「竹屋」を襲うのだった。

結 箱崎まで
箱崎の堤道の先にある永久橋あたりへ来た七蔵は、享之介の産みの母に享之介のことを知らせるべきか迷っているのだった。

 

本書『夜叉萬同心 風雪挽歌』では、未だ夜叉萬と呼ばれる前の若かりし頃の萬七蔵の姿が描かれ、七蔵の手下を務める嘉助との関係などもはっきりと書かれています。

そして、その時の事件が未解決のままに、隠密同心になり夜叉萬と呼ばれるようになった八年後の萬七蔵がその事件の決着をつけるのです。

 

そうした七蔵の過去の出来事、とくに嘉助との付き合いなどについての描写はファンにとっては関心事であり、楽しみに読める事柄です。

しかしながら、本書『夜叉萬同心 風雪挽歌』の物語としての面白さとしては、先にも書いたように辻堂魁の作品の中では平凡な作品としか思えませんでした。

それは一つには、敵役としての田島享之介にそれほどの魅力がないということにあると思えます。

享之介のキャラクターが暗いこともありますが、決して明るくはない痛快時代小説の設定としては特別なものではないでしょう。

幼いころから水呑百姓の子として育っていたものの、無理やり母親と引き離された、後に享之介となる正吉の哀しみに満ちた暮らしの描写も心に響くものではなかったのです。

 

また、殿山竜太郎が約束を破って享之介を使用人の子として育てた理由もよく分からず、、粗さばかり目立ち、違和感が残ります。

剣の腕は尋常ではないものを持っていながら報われることはなく、日々鬱屈を抱え生きている男が、ついには耐えかねて暴発してしまう、ただそれだけの物語なのです。

そこに田島享之介の人間性などについては、ただ鬱屈を抱えていたというだけであり、猫の首をはねるなどの異常性を見出すだけです。

もちろん、幼くして母親から引き離され、使用人の子として育てられるという過去については書いてありますが、それ以上のものではありません。

 

ただ、萬七蔵の若かりし姿や定町廻り同心になり立ての頃などの描写は楽しく読めました。

先に書いたように、若い七蔵の描写に合わせて、嘉助の八年前の姿も描写してあり、シリーズ物としての面白さはあります。

結局、本書『夜叉萬同心 風雪挽歌』は辻堂魁の描く痛快小説としては普通だった、という他ありませんでした。

 

ちなみに、「第一章 三一侍」の「三一」とは、「三両一人扶持」という安い給料を意味します。

時代劇でよくヤクザが侍に「サンピン」と呼びかけるように、身分の低い武士を卑しんでいう言葉です。

詳しくは

などを参照してみてください。

黙(しじま)

本書『黙(しじま)』は、『介錯人別所龍玄シリーズ』の第二弾の連作短編時代小説集です。

仕置の場に現れ、自分が首を切るべき相手の人生に思いを馳せる龍玄の姿が心を打つ作品です。

 

不浄な首斬人と蔑まれる生業を祖父、父から継いだ別所龍玄は、まだ若侍ながら恐ろしい剣の使い手。親子三代のなかで一番の腕利きとなった彼は、武士が切腹するときの介添役を依頼されるようになる。御家人や旗本相手の金貸業で別所家を守ってきた母・静江、五つ年上で幼い頃から龍玄の憧れだった妻・百合と幼子の娘・杏子。厳かに命と向き合い、慈愛に満ちた日々を家族と過ごす、若き介錯人の矜持。傑作と絶賛された前作『介錯人』の世界が、さらに静かに熱く迫る!!(「BOOK」データベースより)

 


 

「妻恋坂」
別所龍玄は、その日首打ちをした罪人の曹洞宗明星山出山寺の修行僧慈栄人が、首を討たれるまで念仏を唱えるように「母ちゃん、堪忍」との言葉を繰り返すのを聞いた。後に龍玄は、その男が幼ない頃に共に遊んだこともある十之助だったことを知る。

「破門」
幼い頃の龍玄は剣術に関心が向かなかったが、九歳になったとき、父親勝吉から大沢道場に入門させられた。次第に上達をしていく龍玄が十四歳になった折、旗本山本重之助の倅である晋五が大けがを負った。突然龍玄が襲い掛かってきたというのだ。

「惣領除」
龍玄は、公儀小十人衆七番組の平井喜八から自身の介錯を頼まれた。平井家存続のために惣領の伝七郎に詰め腹を切らせたが、平井家存続のためには自分自身も腹を切る必要があると言う。事情を聞く龍玄に対し平井は、最後は武士らしくありたい、というのみだった。

「十両首」
金貸しのお倉という老女が龍玄を尋ねてきたきた。近く打ち首になる夫の郡次郎の首打役を龍玄に頼みたいというのだ。何とかその願いを聞き届けようと、北町奉行所平同心の本条孝三郎に頼み込み、軍次郎の素性をも聞く龍玄だった。

 

前巻同様に、本書『黙』のトーンもかなり暗い雰囲気を維持したままです。

その暗さを、別所龍玄の美しい妻百合と可愛い幼子の杏子の存在がかなり和らげてくれるのも前作と同様です。

 

本書『黙』の第一話と第二話では龍玄の幼い頃の姿が描かれています。

第一話「妻恋坂」では、父の勝吉に連れられて幼い頃の慈栄である十之助の家へ行き、十之助と遊んだ姿が描かれています。

第二話「破門」では十四歳の龍玄の大沢道場でのエピソードが語られます。

そして、その大沢道場でのエピソードの後に、十八歳になった龍玄は首打の手代わりを務め、胴体の試し斬りも終え刀剣鑑定の勤めも果たし、十九歳で切腹場の介添え役、すなわち介錯人となり、二十歳で百合を妻に迎えることが語られています。

 

つぎの第三話「惣領除」は、すさまじい話です。一番衝撃的であり、心惹かれたと言ってもいいかもしれません。

とはいっても、体面というものを重視する当時の社会を描くとき、ありがちとまでは言いませんが、似たような設定は目にしたような気がしないでもありません。

ただ、決して特別とはいえない話であっても、龍玄が介錯人という立場から武士の切腹場を守るために立ちはだかる場面を構築する辻堂魁という作者の筆は感動的ですらあります。

そして、その後の場面での龍玄一家の姿、それも杏子の姿は、緊迫した場面の後に置かれた純真無垢な幼子の姿として心地よさをもたらしてくれるのです。

 

第四話「十両首」もまた哀しみに満ちた物語です。

首打場に臨み、死を悟り暴れる罪人に語り掛け静かにさせる龍玄の姿が浮かび上がります。

 

本書『黙』でもそうであるように、本シリーズではほとんどの場合、首打人、また介錯人としての別所龍玄個人の活躍が描かれるわけではありません。

龍玄は自分が首を落とす、もしくは落とした罪人や侍の人物を知り、首を落とされなければならなかった人々の来し方に思いを馳せるだけです。

そこに至るまでの罪人や切腹をする侍の思いは単純ではなく、隠されたドラマがあります。

そのドラマを浮かび上がらそうとするのが本シリーズであり、架空ではありますが別所龍玄という介錯人の物語なのです。

そのドラマを見事に浮かび上がらせる辻堂魁という作者の手腕に期待しつつ、続刊を待ちたいと思います。

鑓騒ぎ 新・酔いどれ小籐次(十五)

本書『鑓騒ぎ 新・酔いどれ小籐次(十五)』は、『新・酔いどれ小籐次シリーズ』の第十五弾です。

今回は、このシリーズの初回に戻るかのような「御鑓頂戴」事件が全編を貫く事柄として挙げられ、安定した面白さを持ったシリーズの一作品として楽しめる作品になっています。

 

文政9年正月。今年こそは平穏な日々を送りたいと願う小籐次のもとに元日早々、藤藩の近習頭・池端が訪ねてくる。旧主久留島通嘉が床に伏せって新年の登城を拒んでおり、窮状を救えるのは小籐次だけだという。じつは通嘉は何者かから、初登城の折、森藩の御鑓先を頂戴すると脅されていた。「御鑓頂戴」をもくろむのは何者か?(「BOOK」データベースより)

 

第一章 御節振舞
これ以上厄介ごとに巻き込まれないことを願う小籐次だったが、元旦早々、森藩近習頭池端恭之介から旧主久留島通嘉が二日の総登城を遠慮すると言っている、と伝えてきた。久留島通嘉は、森藩の御鑓先をを頂戴するという手紙を受け取っていたというのだった。

第二章 御鑓頂戴
元日の夜を豊後森藩江戸藩邸御長屋に泊まった小籐次は、初登城の鑓持ちの中間頭水邨勢造から鑓持ちの稽古をつけてもらう。おしんにこの騒ぎの真の犯人の探索を頼み、付け髭などで変装した小籐次は、二日の登城に二本鑓の一人として参加するのだった。

第三章 松の内騒ぎ
正月七日、研ぎ仕事のために深川へ行く途中、永代橋で降りた小籐次を見た駿太郎は、お夕のすすめに従い、新兵衛長屋で仕事をするのだった。案の定、下城の森藩行列に御鑓頂戴と七人が襲い掛かってきた。しかし、近くで休んでいた大黒舞の一人が立ちふさがり、池端恭之介と共にこれを撃退するのだった。

第四章 道場稽古
数日後、深川蛤町裏河岸の小籐次父子のもとに来た定町廻り同心の近藤精兵衛が、桃井道場の稽古開きへの同道を言ってきた。翌日、桃井道場へと行った俊太郎は、鏡心明智流道場へと通い同年代の仲間と稽古に励むこととなった。一方、望外川荘へ帰った小籐次に中田新八とおしんとが過日の騒ぎの報告をするのだった。

第五章 空蔵の災難
望外川荘を訪れた家斉は、竹藪蕎麦の美造親方の蕎麦に舌鼓を打ち、おりょうの「鼠草紙」に喜んで帰っていった。その折青山忠裕と共に望外川荘に来ていた田沼玄蕃守意正こそ、「御槍拝借」騒ぎの背後にいた人物であり、主君の知らないうちに家臣が為した騒ぎというのだった。
 

新たな年の幕開けに際し、本書『鑓騒ぎ』で突然降ってわいた事件は、今度は小籐次がかつて引き起こした事件が、自分が属していた旧藩の森藩に降りかかってきたという話です。

すなわち、正月二日の総登城に際し、森藩の御鑓先を頂戴するという手紙が森藩主のもとへ届き、そのことを一人胸に抱え込んだ藩主をやはり小籐次が助けるというのです。

ただ、今回の御鑓頂戴騒ぎは、小籐次が起こした「御槍拝借」騒ぎに対する四藩による報復合戦とは異なり、全くの新しい事件として小籐次の前に現れたのです。

 

シリーズ物につきものの、主人公に対する新たな敵が現れたのかと思い読み進めましたが、どうもそこまでの話ではありませんでした。

こう書くこと自体がネタバレといえそうなのですが、このくらいの情報は読書する上で邪魔になる情報ではないでしょう。

この事件に対し、老中青山忠裕の密偵のおしんや中田新八らの力を借り、事件の背後にいる勢力を調べることになります。

一方、おりょうの「鼠草紙」の模写もひろく噂になり、将軍の耳にまではいることになるのです。

 

本書『鑓騒ぎ』で特筆すべきは、駿太郎の生活環境への配慮といえます。

南町奉行所定町廻り同心の近藤精兵衛の助けによって江戸の四大道場の一つといわれる桃井道場へと通うことになるという環境の変化です。

ここで、江戸の四大道場とは、千葉周作(北辰一刀流)の「玄武館」、斎藤弥九郎(神道無念流)の「練兵館」、桃井春蔵(鏡新明智流)の「士学館」といういわゆる江戸三大道場に、伊庭秀業(心形刀流)の「練武館」を加えたものです( ウィキペディア : 参照 )。

こうした駿太郎への配慮は、前巻でも書いたように一人の親としても、また読書人としても、作者の目線の人間性が垣間見える気配りとして安心できるのです。

あらためて、本『酔いどれ小籐次』シリーズの今後の展開が楽しみです。