ファズイーター

ファズイーター』とは

 

本書『ファズイーター』は『組織犯罪対策課 八神瑛子シリーズ』の第五弾で、2022年3月に刊行された334頁の長編の警察小説です。

警察小説ではありますが、主人公の八神瑛子自身も鍛え上げた身体を駆使して修羅場に立ち向かう、アクション小説としての一面が強烈な作品で、たしかに深町秋生の物語でした。

 

ファズイーター』の簡単なあらすじ

 

警視庁上野署の若手署員がナイフを持った男に襲われた。品川では元警官が銃弾に倒れ、犯人には逃送されている。一方、指定暴力団の印旛会も幹部の事故死や失踪が続き、混乱を極めていた。組織犯罪対策課の八神瑛子は、ご法度の薬物密売に突然手を出して荒稼ぎを始めた印旛会傘下・千波組の関与を疑う。裏社会からも情報を得て、カネで飼い慣らした元刑事も使いながら、真相に近づいていく八神。だがそのとき、彼女自身が何者かに急襲され…。手段を選ばない捜査で数々の犯人を逮捕してきた八神も、ここで終わりなのか?(「BOOK」データベースより)

 

千波組組長の有嶋章吾は、四か月前の事件により指定暴力団印旛会総本部長の地位を追われ、引退をほのめかされる身になっていた。

ところが、有嶋はそれまでの自らの千波組の方針に反し、あからさまに覚せい剤の売買ビジネスに手を染めていたのだ。

自分の病をも克服した有嶋は、ビジネスの手腕に長けた甲斐を亡くした隙間をなりふり構わない愚連隊まがいの方法で埋めようとしていたのだ。

そうした様子を知った八神瑛子は、有嶋の覚せい剤取引への関与を暴こうとしていた。

そうした折、再び警察官が暴漢に襲われるという事件が起きた。

一方、殺された甲斐の子分の妻である比内香麻里は、子分たちを使い、旦那が集めていた拳銃のコレクションを金に換えていたが、客の一人が警察官を撃った犯人ではないかと目星をつけて再びの取引を進めていた。

そこに、千波組系数佐組幹部だった片浦隆介が現れた。

 

ファズイーター』の感想

 

本書『ファズイーター』は、『組織犯罪対策課 八神瑛子シリーズ』第三弾の『アウトバーン』で夫殺しの犯人を探し出し、一応の決着がついた形のシリーズの新しい展開の第二弾という位置づけの作品です。

シリーズ前巻の『インジョーカー』で思いがけない人物との別れに遭遇した八神瑛子ですが、本書ではそうしたことを感じさせない更なるタフな活躍を見せています。

また、これまで筋目を重んじる古風なヤクザと思われていた千波組組長の有嶋章吾がかなり強烈な敵役として登場しています。

直接的な敵役としては警官殺しの疑いのある斉藤と名乗る男や、千波組系数佐組幹部だった片浦隆介という、ヤクザ仲間からもはじき出されるような男が立ちはだかります。

ほかに甲斐の子分であった比内幸司の妻の比内香麻里という女も有嶋の下で比内の子分たちとともに瑛子と対立します。

加えて警察内部においても、瑛子の警察官相手の金貸しや情報収集、それにヤクザ相手に対しての手段を選ばない捜査方法に対して監察が動き、なかでも人事一課監察官の中路高光という男が瑛子の前に現れるのです。

ただ、これまでは瑛子が所属する上野署署長の富永昌弘が瑛子に対して疑惑の目を向けていましたが、前巻あたりからは瑛子の行動にある程度の理解を示しているようです。

また、瑛子の長年の情報提供者である実業家の福建マフィアの大幹部劉英麗も健在であり、瑛子の暴力面での助っ人である落合里美も登場します。

 

本書『ファズイーター』が属する『組織犯罪対策課 八神瑛子シリーズ』は、主人公が警察官であり、ほかにも多くの警察官が登場するという意味では警察小説であり、本ブログでもそのように分類しています。

しかし、犯された犯罪についての犯人や犯行方法などを警察という組織力で解決する過程を描き出す、という意味では佐々木譲の『北海道警察シリーズ』や今野敏の『安積班シリーズ』と同じ警察小説と呼ぶにはためらいもあります。

 

 

なによりも、主人公の八神瑛子という人物のキャラクターの力が強烈で、地道な犯罪捜査の側面を見せるという構成にはなっていないからです。

八神瑛子による金貸しを手段とする警察官への脅迫まがいの強要による情報収集や、鍛え上げられた肉体やそれを助ける仲間による強烈なアクションをメインとする物語の展開は、警察の捜査の過程の描写は二の次のようです。

本書『ファズイーター』もそうであり、街中で市街戦まがいの銃撃戦を繰り広げるなど、まさにアクションメインの作品という他ありません。

つまり、シリーズ当初の三冊では夫の死の秘密を探るという目的で動いている八神瑛子ですが、それ以降のこのシリーズは瑛子の行動を主軸としたアクション小説になっています。

そういう意味では同じ深町秋生の作品の『警視庁人事一課監察係 黒滝誠治シリーズ』と同様に、警察官を主人公とする冒険アクション小説というべきなのかもしれません。

ただ、こうした分類はどうでもいいことで、作品の内容がどのような傾向のものかを示す指標として見てもらえればいいと思うだけです。

 

 

ただ、本書がアクション小説としてあるとは言っても、瑛子の前に直接に現れるのは比内香麻里やその子分だったり、斎藤と名乗っている香麻里の客の男だったりします。

その上で、千波組系数佐組幹部だった片浦隆介や、千波組組長だった有嶋章吾が控えていて、更なる対決が用意されています。

そうした捜査の過程の見せ方はさすが深町秋生の小説であり、タフな主人公が暴れまわる姿は爽快感と共に物語としての面白さを見せてくれます。

 

ただ、前巻から何となく暗示されていると勝手に思っていた、警察内部の権力争いの場面はそれほどはありません。

それどころか、瑛子のシンパが増えていっている印象すらあり、瑛子の独壇場の構図がさらに広がりそうな感じです。

今後もこの『組織犯罪対策課 八神瑛子シリーズ』は続いていくのでしょうが、更なるひねりを期待したいと思います。

アキレウスの背中

アキレウスの背中』とは

 

本書『アキレウスの背中』は、2022年2月に刊行された、新刊書で322頁の長編の警察小説です。

陸上のマラソンというスポーツと話題のIR(統合型リゾート)の問題とを組み合わせた物語で、これまでの長浦京作品とは少し変わったしかしとても面白い新しい感覚の作品です。

 

アキレウスの背中』の簡単なあらすじ

 

スポーツビジネスをめぐる利権と国家の威信が、東京でぶつかり合う。公営ギャンブル対象として、世界5カ国で開催されるマラソンレースの東京大会を妨害すべく、国際テロリスト集団が襲撃を仕掛けてきた。標的は日本人最速ランナーと、ランニングギアの開発をめぐる機密情報。警察庁は極秘に、特別編成の組織横断チームMITを立ち上げた。そのリーダーに抜擢された女性刑事は、アスリートを守れるのか。ランナーが、2時間切りという壁の向こうに見たものとは。(「BOOK」データベースより)

 

公営ギャンブルの対象であるワールド・チャンピオンズ・クラシック・レース(WCCR)の第一回目のレースが、2023年に東京都心部で行われることとなった。

ところが、その東京WCCRの出場選手で優勝候補の嶺川蒼選手のもとに脅迫状が届いたらしい。

そこで警察庁が考え出した新たな捜査手法であるミッション・インテグレイテッド・チーム(Mission・Integrated・Team : MIT)が乗り出すこととなった。

下水流悠宇は、一年ほど前に悠宇が担当したDAINEX(ダイネックス)でのデータ窃盗事件が関連しているらしく、警察庁警備局参事官の乾徳秋のもと、上司の間明係長と共にMITへ召集されることとなった。

下水流悠宇を班長とするチームには、警視庁の本庶譲や板東隆信、それに警察庁の二瓶茜らがおり、四人は人は千葉県鴨川市内にあるDAINEXスポーツ総合研究所へと向かうのだった。

 

アキレウスの背中』の感想

 

本書『アキレウスの背中』は、著者の長浦京のこれまでの作風とはかなり異なる印象の作品でした。

アンダードッグス』や『リボルバー・リリー』は、スケールも大きなアクション小説でしたが、本書はそうではありません。

主人公は警察官であり、あるマラソン選手へ届いた脅迫状についての捜査の状況が描かれているアクションメインではない警察小説です。

 

 

しかし、本書はアクション小説ではないということにとどまらず、いわゆる普通の警察小説ともまた異なります。

脅迫を受けた選手が出場する予定の東京ワールド・チャンピオンズ・クラシック・レース(東京WCCR)というマラソンレースが公営ギャンブルの対象レースとなっているところから、単なる脅迫事件の域を越え、国家レベルの事件となっていることがまず挙げられます。

また、脅迫を受けたマラソン選手はDAINEXスポーツ総合研究所という各種競技の選手の身体活動などを科学的に分析し、シューズやウェアの開発に資する施設と契約しており、単なる脅迫事件を超えた世界的なブランド企業のイメージにもかかわる事件なのです。

さらには問題の選手はDAINEXと契約している嶺川蒼というランナーであり、彼はマラソンの日本記録保持者でもあります。

こうして、東京WCCRで起きた何かの不祥事は日本がWCCRという世界的イベントの運営能力を欠くということを意味し、一選手の問題を越えて複数国家、もしくは国家的企業の利害が絡む事態となるのです。

 

そこで、従来の縦割りの枠組みでは対応が難しくなった新手の犯罪に対応するために警察庁が考え出した新たな捜査手法であるミッション・インテグレイテッド・チーム(MIT)が乗り出すことになります。

この件で組まれたチームはいくつかあるものの、本書『アキレウスの背中』で中心となるのは警視庁捜査三課所属の下水流悠宇警部補を班長とするチームです。

このチームには、ほかに警視庁捜査一課第一特殊班捜査二係所属の本庶譲、警察庁警備局警備運用部所属の二瓶茜、警視庁警備部警護課所属の坂東隆信が召集されています。

それに、警視庁捜査三課所属の間(まぎら)明警部補が本庁との連絡役などのために参加し、悠宇の上司として警察庁警備局参事官の乾徳秋警視長がいます。

このミッション・インテグレイテッド・チーム(MIT)という組織は作者の創造したものでしょうが、役所の縦割り行政の弊害は従来から言われているところであり、機動的に動ける組織として考え出されたものでしょう。

 

でも、『アキレウスの背中』の事案においてMITという組織を設定するだけの必要性や有効性があったのかはよく分かりません。

本書で示されているMITの捜査方法が、通常の警察小説、インテリジェンス小説で示される操作方法とは異なっている場面があまり確認できなかったのです。

本書中で間明係長が「今回の案件は、個人や少数のグループの犯行を追う通常の捜査とは違う」と断言していることなど、物語としてのMITという組織の必要性の確認はしてあります。

でも、本書で描写されている捜査のどこが従来の捜査方法では不都合だったのか、私にはよく分かりませんでした。

 

ここで、間明係長に関して言えば、悠宇との関係性がユーモアに満ちていて、じつに親しみを感じる描写でした。

こうしたことは、悠宇という主人公にしてもスーパーマンではなく普通の人間だということ、自分の班長という地位の複雑さに悩み、苦しみ、そして上司に相談するという関係性をも持っているということが読みとれて楽しくなります。

このような点も含め、悠宇のチームのリーダーとしての素質のこと以上に、心構えを丁寧に説き起こしていく様子は、主人公に感受移入するうえでとても効果的に思えます。

また、悠宇と脅迫の被害者であるランナーの嶺川蒼選手との関係性も独特なものがありました。ただ、この点は人によっては好みではないという人がいてもおかしくはないでしょう。

 

嶺川蒼選手については忘れてはならないのが実在のマラソンランナーでこのほど現役復帰を表明した大迫傑選手がモデルだということです。

何しろ、本書のカバー自体が大迫傑選手の写真を使用してあるのですから、その思い入れも相当なものなのでしょう。

本書は、大迫傑選手へのリスペクトが如実に感じられる作品でもあるのです。

 

ところが、本書『アキレウスの背中』も終盤に入り、いざレースがスタートしてからの緊迫感はさすが長浦京の作品と思わせるものでした。

スタート直後は淡々と話が進みますが、ある時点から一気に物語が動き始めます。

そして章が変わり、これまでの各作品ほどではないにしろ、長浦京ならではのアクション場面が展開するのです。

 

いずれにしろ、長浦京という作家は骨太の読みごたえのある作品の書き手としてはずれのない作品を出版し続けると思われ、次の作品を読みたいと思う作家でもあります。

フェイクフィクション

フェイクフィクション』とは

 

本書『フェイクフィクション』は2021年11月に刊行され、新刊書で390頁という分量になる、長編のエンターテイメント小説です。

変らずに誉田哲也の作品として面白いことには間違いはないのですが、既読の印象が強い作品でもありました。

 

フェイクフィクション』の簡単なあらすじ

 

東京・五日市署管内の路上で、男性の首なし死体が発見された。刑事の鵜飼は現場へ急行し、地取り捜査を開始する。死体を司法解剖した結果、死因は頸椎断裂。「斬首」によって殺害されていたことが判明した。一方、プロのキックボクサーだった河野潤平は引退後、都内にある製餡所で従業員として働いていた。ある日、同じ職場に入ってきた有川美祈に一目惚れするが、美祈が新興宗教「サダイの家」に関係していることを知ってしまい…。(「BOOK」データベースより)

 

東京都五日市警察署の管内で首が切断された死体が見つかり、鵜飼刑事が捜査を担当することになった。

一方、プロのキックボクサーであった過去を持つ河野潤平は、製餡所の社長に拾われ従業員として勤務していた。

その潤平は製餡所に新たに勤めることになった有川美祈に一目ぼれをしてしまうが、彼女は新興宗教「サダイの家」の信者であり、信者以外は悪魔だとして潤平を受け入れてくれない。

ところが、この「サダイの家」は鵜飼刑事もあることから目をつけていた団体でもあったのだった。

 

フェイクフィクション』の感想

 

やはり、誉田哲也の作品ははずれがない、と言ってもいい作品でしたが、誉田哲也の作品としては普通と感じた作品でもありました。

それは本書の構成として既読の印象が強い、ということが挙げられるでしょう。

つまり本書では、誉田哲也がよく使う、事件の当事者側と警察側の視点それぞれに物語が進み、その先で物語が収斂していくという構成になっています。

その中でも本書の構成は当事者側の比率が大きい点で、例えば『ジウII-警視庁特殊急襲部隊』であったり、『魚住久江シリーズ』の第二作目の『ドンナビアンカ』と同様の構成だと言えます。

当事者側のひと昔前の悲惨な生活状況が現在に連なる、という点でも同じです。

 

 

本書の大きなテーマとして「宗教」が挙げられる点も「普通」と感じる原因の一つかもしれません。

著者誉田哲也自身がエンタメ作品の中に『フェイクフィクション』の核である、宗教をある程度軽く考えてもいいのでは、という考えを落とし込んだのが吉田牧師の言葉だった、と発言されているように( 青春と読書 : 参照 )、本書では「宗教」が大きなテーマになっています。

たしかに、本書での主要登場人物の一人である唐津郁夫が知り合った頃の牧師吉田英夫の言葉は魅力的で、宗教のある側面を取り上げているようで「宗教」が大きな要素になっていると思います。

しかし本書での宗教の取り上げ方は、狂信的な信者を含めた登場人物の異常性や犯罪描写のきっかけとして意味があるようなのです。

もし、「宗教」を持ち出した理由が異常性の演出ではなく「宗教」そのものに対する考察、もしくは宗教を通した人間性の本質の追求にあったとしても、本書はエンターテイメントが強く、あまりその点は主張されているようには思えません。

結果として本書で表現されているのは宗教やそこにかかわる人間の異常性だと思えるのです。

いずれにしても、エンタメ作品としての面白さは否定しようもなく、その中で宗教の持つ意味も問いかけられている、と言えるのでしょう。

 

宗教を取り上げたエンタメ作品と言えば日本推理作家協会賞を受賞した中島らもの『ガダラの豚』が思い浮かびます。

普通の主婦が新興宗教に取り込まれていく様を描き、その実態を暴くというのが第一部である、文庫本では三分冊(全940頁)にもなる大長編小説です。

 

 

エンタメ作品以外としては第39回野間文芸新人賞を受賞し、また157回の芥川賞候補になり、さらに2018年本屋大賞の候補にもなった今村夏子の長編小説の『星の子』があります。

「病弱だったちひろを救いたい一心で「あやしい宗教」にのめり込んでいき、その信仰は少しずつ家族のかたちを歪めていく…。」という物語で、映画化もされました。

 

 

ともあれ、『星の子』はエンターテイメント小説である本書とは異なり文学作品としての評価が高い作品です。

その意味では本書は『ガダラの豚』に近いとは言えますが、その面白さの質は異なる作品だと言えます。

非弁護人

非弁護人』とは

 

本書『非弁護人』は、2021年4月に刊行された、新刊書で432頁の長編のサスペンス小説です。

とある事情で検察官を辞めざるを得なくなった元特捜検事の男が、末端のヤクザを食い物にする存在を追い詰める物語ですが、月村了衛の作品にしては普通だと感じた作品でした。

 

非弁護人』の簡単なあらすじ

 

元特捜検事・宗光彬。高度な法律関連事案の解決を請け負う彼は、裏社会で「非弁護人」と呼ばれる。ふとした経緯で、パキスタン人少年から「いなくなったクラスメイトを捜して欲しい」という依頼を受けた。失踪した少女とその家族の行方を追ううちに、底辺の元ヤクザ達とその家族を食い物にする男の存在を知る。おびただしい数の失踪者達の末路はあまりに悲惨なものだったー。非道極まる“ヤクザ喰い”を、法の名の下に裁く!!(「BOOK」データベースより)

 

東京地検特捜部の宗光は、親友の篠田とともに大規模な贈収賄事件に発展しそうな千葉県の「習志野開発」を捜査していくなかで、国会議員へ結びつきそうな証拠をつかむ。

上司の同意のもとで案件を進めるが突然捜査の中止を告げられ、同時に篠田と連絡が取れなくなり、自身は収賄容疑で逮捕されてしまう。

無実の罪を着せられたまま実刑判決を受けた宗光は、検事を続けることは勿論、弁護士業務にも就くことはできず、裏社会を相手に自身の法律知識を生かして非弁活動を続けるしかないのだった。

そのうちに、小学三年生のパキスタン人の子供のマリクから、行方不明になっている同級生を探して欲しいとの依頼を請ける。

しかし、その事件は、落ちこぼれヤクザを食い物にする“ヤクザ喰い”の存在に連なる事件でもあったのだった。

 

非弁護人』の感想

 

本書『非弁護人』は、裏社会の住人を相手に非弁活動を行う元検事だった宗光彬の姿を描くリーガルサスペンス小説です。

主人公の宗光彬は元東京地検特捜部特殊第一班に所属していた検事でしたが、巨大な悪に対峙した結果、罪に陥れられて収監されたため、検察官は勿論、弁護士業務もできません。

そのため、有する法律知識を生かして裏社会の住人を相手に法律相談に乗り、裁判を有利に導くという法廷の周辺で生きていくしかない存在となっていました。

その宗光が、とある依頼事件を調べている最中に、社会からのけ者にされている末端のヤクザやその家族を食い物にしている存在を知り、暴力団の大物と組んでその存在をあぶり出すために奮闘するのです。

 

ここで非弁活動とは、「法律で許されている場合を除いて、弁護士法に基づいた弁護士の資格を持たずに報酬を得る目的で弁護士法72条の行為(弁護士業務)を反復継続の意思をもって行うこと。」を言います( ウィキペディア : 参照 )。

この制度は、「弁護士ではない者が他人の法律事務に介入すると、法律秩序が乱され、国民の公正な法律生活が侵害され、国民の権利や利益が損なわれること」がないように設けられた制度です( 日本弁護士連合会 : 参照 )。

 

本書『非弁護人』のような元法律家が、その法律知識を生かして活躍するという作品としては柚月裕子の『合理的にあり得ない 上水流涼子の解明』という作品があります。

この作品は、弁護士資格をはく奪され、探偵エージェンシーを運営する上水流涼子という女を主人公にしたミステリー短編集で、気楽に読める面白い作品でした。

それに対し本書はシリアスであり、サスペンス感に満ちた作品です。

 

 

本書『非弁護人』の登場人物としては、まずは元東京地検特捜部特殊第一班に所属していた検事宗光彬という主人公がいて、ほかに宗光の親友であり、ともに検察を辞めることになった篠田啓太郎弁護士が挙げられます。

それに“ヤクザ喰い”が発覚する元となった事件を依頼してきた裏社会の名門千満組の若頭である楯岡や、日本の暴力世界を二分する大組織遠山連合の久住崇一、久住の部下で宗光の手伝いをする蜂野などの裏社会の人間が登場します。

他にも多くの人物が登場しますが、挙げていけば切りがないでしょう。

 

たしかに本書『非弁護人』は、その作品世界は濃密で舞台背景も丁寧に構築されていて、月村了衛らしい作品だと言えそうです。

でも、私の思う月村作品として『非弁護人』というタイトルから事前に思っていた内容とは異なる作品でした。

端的にいえば本書の内容は犯人探しの変形であって、普通の探偵小説と言ってもあながち間違いとは言えないストーリーだったということです。

ただ、中盤を過ぎたころからその探偵ものと同じと感じていた内容が、少しずつ変化し始めます。

そして、クライマックスはやはり「非弁護人」というタイトルにふさわしいものでした。

 

しかしながら、タイトルからくるイメージとは別の、内容面で感じた違和感は最後までぬぐえませんでした。

それは、自分を陥れた巨悪がはっきりとしてるのに、そのことにはあまり触れずに、新たな“ヤクザ喰い”という敵だけを相手に行動していることです。

最後まで、そちらの巨悪はそのままででいいのかという、なんとも消化不良のままだとの印象は残ったままの読書でした。

また、宗光は結果として自分を裏切った男と再びタッグを組み、犯人と対峙することになるのですが、そうした自分を見捨てた男を再び信用するに至る点も今一つ明確ではありません。

法律家としての腕は認めているなど、相棒に関しての疑問に対する答えは本書の中でそれなりに書いてはあるので、それに対しなお不満を持っているのは私の個人的な不満でしかないのでしょう。

 

ともあれ、本書『非弁護人』はかなり分厚い作品ですが、その分量をあまり感じさせずに緊張感を維持しながら最後まで読み通させる面白さはさすがです。

月村了衛作品の中では普通の面白さだとはいっても、やはり月村了衛の作品でした。

逢坂 冬馬

逢坂冬馬』のプロフィール

 

1985年生まれ。明治学院大学国際学部国際学科卒。本書で、第11回アガサ・クリスティー賞を受賞してデビュー。埼玉県在住。引用元:Amazon

 

逢坂冬馬』について

 

デビュー作である『同志少女よ、敵を撃て』が第11回アガサクリスティー賞大賞を受賞し、さらには第166回直木賞の候補作に選出されるという快挙を為している作家さんです。

さらにはこの作品は2022年本屋大賞も受賞しています。

同志少女よ、敵を撃て

同志少女よ、敵を撃て』とは

 

本書『同志少女よ、敵を撃て』は2021年11月に出版され、収められている「アガサクリスティー賞選評」まで入れて全部で492頁もある長編の戦争冒険小説です。

戦争小説でありながらも、青春小説でもあり、またアクション小説でもあって、さらには一人の少女の成長する姿を描く物語でもある作品と言えます。

また本書は2022年本屋大賞や第11回アガサクリスティー賞大賞を受賞し、さらには第166回直木賞の候補作にも選出された非常に読みごたえのある作品でした。

 

同志少女よ、敵を撃て』の簡単なあらすじ

 

1942年、独ソ戦のさなか、モスクワ近郊の村に住む狩りの名手セラフィマの暮らしは、ドイツ軍の襲撃により突如奪われる。母を殺され、復讐を誓った彼女は、女性狙撃小隊の一員となりスターリングラードの前線へ──。第11回アガサ・クリスティー賞大賞受賞作。(出版社より)

 

母エカチェリーナと一緒に狩りから帰る途中に高台から自分たちの村を見ると、ドイツ兵によって村人が皆殺しにされようとしているところだった。

抱えていた猟銃でドイツ兵を撃とうとする母エカチェリーナだったが、逆にドイツの狙撃兵によって頭を撃ち抜かれてしまう。

ドイツ兵に捕らえられたセラフィマは、母親を撃ったイェーガーという名の男に殺されようとする寸前、ソ連兵により助けだされる。

その一団を率いていた赤軍の女性イリーナに、「戦いたいか、死にたいか」と問われたセラフィマは、イリーナの所属する狙撃兵の育成学校へと連れられることになるのだった。

 

同志少女よ、敵を撃て』の感想

 

本書『同志少女よ、敵を撃て』は、第二次世界大戦のソヴィエト戦線、それも悲惨な戦争の舞台としても有名なスターリングラード攻防戦などを主な舞台とした戦争冒険小説です。

猟師であった母親や村の仲間の全員をドイツ兵に殺された一人の少女が、母親を撃ち殺した兵隊に復讐すべく狙撃兵として成長していく様子が描かれています。

 

本書『同志少女よ、敵を撃て』の主人公の少女はセラフィマという名で、彼女を狙撃兵として育て上げる人物が狙撃兵を育てる訓練校の教官であるイリーナでした。

そして、セラフィマと共に狙撃兵になるべく学ぶ生徒としてモスクワ射撃大会の優勝者であるシャルロッタ、カザフ人の猟師であったアヤ、最年長の生徒でありママという愛称で呼ばれたヤーナ、そしてウクライナ出身のコサックであるオリガがいます。

他に、看護兵として行動を共にするターニャや、スターリングラードで共に闘った第十二歩兵大隊長のマクシム、同隊の狙撃兵ユリアン、兵士のフョードルなどがいます。

また歴史上実在した狙撃兵としてリュドミラ・パヴリチェンコヴァシリ・ザイツェフ、それに後に第一書記・首相となったフルシチョフらの名前も出てきます。

 

本書『同志少女よ、敵を撃て』では戦争そのものの悲惨さが描かれているのは勿論ですが、第二次世界大戦でのソヴィエト戦線での女性の存在に焦点が当てられています。

それは、戦争下での女性の位置付けという普遍的な問いかけにもなっているのです。

そもそも、それまでの戦争では後方支援は別として女性が前線で戦うことは殆どなかったそうですが、本書で描かれている第二次世界大戦下でのソヴィエト軍では多くの女性兵士が男性同様に前線で戦ったそうです( ソ連の女性兵士はなぜ、スカートで戦ったのか? : 参照 )。

本書で描かれているような女性だけの狙撃兵部隊も旧ソヴィエト軍には実在していたそうで、「約2000人のロシア人女性が狙撃兵として軍に入隊した」のだと言います( 1万2000人をも狙撃 : 参照 )。

 

本書『同志少女よ、敵を撃て』における戦争の描き方ですが、かつてはよくあった敵国は残虐で悪であり自国はそれを正す善であるという単純な描写ではなく、ソヴィエトとドイツ双方の正義が示されていて、互いの憎しみ、少なくとも一般国民や最前線で戦う兵士たちの戦う理由をそれぞれの立場で描いてあります。

もちろん、セラフィマたちにとってはドイツは家族や仲間を殺した悪であり、それに対する復讐心が自らを生かす原動力になっています。

そして、セラフィマたちが狙撃兵の仲間と共に過酷な訓練に耐え、人間性を少しずつ失っていくさまが描かれます。

単純に必要に迫られて動物を撃っていたセラフィマが、狙撃兵として「敵を殺すという明確な意志を持つ」ことが兵士と猟師とを分かつものだと自覚し成長していきます。

仲間を守り、女性を守り、復讐を果たすために自分はフリッツを殺すというセラフィマが、笑いながら敵兵を撃った自分が怪物に近づいてゆくという実感を描く場面は秀逸です。

 

このような過程で、例えばオリガの出身がウクライナのコサックであり、コサックが自己武装した遊牧民として帝政ロシアで帝国に仕える軍事集団として扱われていたことなどが語られます。

また、射撃および砲撃の照準に用いられる「ミル」という単位などの説明もあり、このミルを用いての訓練の様子も描かれています。

こうした細かな知識は本書で語られる物語に少しずつリアリティーを与えていきます。

 

ここで狙撃手を主人公にした小説と言えば、スティーヴン・ハンターの『極大射程』(扶桑社ミステリー)をまずは思い出します。

ボブ・リー・スワガーというベトナム戦争の名を成した狙撃手を主人公とした冒険小説で、のちに『スワガー・サーガ』として父親が主人公となる『アール・スワガー・シリーズ』と合わせた一大シリーズを構成している作品です。

マーク・ウォールバーグ主演で映画化もされていますが、原作はトップクラスの面白さをもっていたものの、映画は普通の出来だったと覚えています。

 

 

他には、実際にあったフィンランドとソビエト連邦との間の「冬戦争」をモデルとした一人の女狙撃手の姿を描く長編の戦争小説である柳内たくみの『氷風のクルッカ』や、和田竜が描く、雑賀衆の少年、雑賀小太郎の狙撃手としての腕をめぐる長編の時代小説である『小太郎の左腕』などが挙げられます。

しかし、これらの作品は本書とは異なり冒険小説の色合いが強かったり、エンターテイメント色が強かったりと、本書とはその趣をかなり異にするようです。

 

 

ちなみに、本書で戦いの舞台となるスターリングラード攻防戦については、ジュードロウが主人公の狙撃手を演じた「スターリングラード」という映画がありました。

内容はほとんど覚えていないものの、ジュードロウの姿だけを覚えています。

 

 

同時に、須賀しのぶの『また、桜の国で』という作品をも思い出していました。

この作品は第二次世界大戦前夜の、ドイツとソ連とに翻弄されるポーランドの姿を描いた作品で、本書の時代背景と重なる部分があるのです。

 

 

本書は先に述べたように2022年本屋大賞を受賞し、「第11回アガサクリスティー賞大賞」を受賞しています。

本屋大賞受賞のインタビューのとき、ロシアによるウクライナ侵攻という作者の思いとは真逆の現実を前に、複雑な表情の作者の姿があったのが印象的でした。

「アガサクリスティー賞」についてはその性格を正確には知らないのですが、本書は「アガサクリスティー」という名称からくるミステリーの印象とは異なると思われる作品です。

しかしながら、冒険小説やサスペンスをも含む「総合的なミステリ小説を対象」とするとあるところから対象作品となったと思われます( 早川清文学振興財団 : 参照 )。

いずれにしろ、戦争小説としてはかなり読みごたえのある、面白い作品でした。

ブラックガード

ブラックガード』とは

 

本書『ブラックガード』は『矢能シリーズ』の第五弾で、2021年11月に講談社からハードカバーで刊行され、2023年10月に講談社文庫から288頁の文庫として出版された、長編のハードボイルドミステリー小説です。

シリーズを重ねるにつれ、主人公である矢能のキャラクターが明確になり、また栞の存在が際立ってきているように思え、物語の面白さが増しているようです。

 

ブラックガード』の簡単なあらすじ

 

きっかけは、謎の資産家からの依頼だった。
2億円の価値ある商品。
購入の条件はただ一つ。
最も危険な探偵を雇うこと。

小学三年生の娘と二人暮らしの私立探偵・矢能。久しぶりの仕事は「2億円の商品取引」の交渉人。
だが、なぜ彼が選ばれたのかは明かされなかった。
そして、取引現場で目的不明の殺人が起きる。

立て続けに起きる誘拐と殺人。
次々に現れる新たな依頼人と行方不明者。
シリーズ史上、最も難解な事件の幕が上がる。

元ヤクザの探偵×掟破りのミステリー
「なにが起こっているんです?」「俺にもわからん」
「矢能シリーズ」第5作!(内容紹介(出版社より))

以前依頼を請けて働いた鳥飼美枝子弁護士から紹介を受けたという竹村という弁護士が、矢能でなければできないという仕事を依頼してきた。

竹村弁護士の事務所で待っていた正岡道明という依頼人によれば、取引相手のサトウという男が矢能を指名し、矢能を介してだけ取引を行うと言ってきたのだそうだ。

サトウが取引を持ちかけてきた商品は正岡が欲しがっているものらしく、矢能が引き受けなければその品物が手に入らないのだというのだった。

依頼を断った矢能は、の哀しそうな顔を見ることになったが、その翌日、正岡からサトウに孫娘が誘拐されたという連絡が入り、矢能は依頼を請けざるを得なくなるのだった。

 

ブラックガード』の感想

 

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

昨年末から本稿を書きつつあったのですが、本日のアップとなってしまいました。

2022年という新しい年なり、私も後期高齢者まであと少しです。

思い切り走れない身体となり、歳をとるにつれ、楕円形のボールを追いかけて思う存分グラウンドを走り回っていたのがほんの少し前のように思えるのが不思議です。

今年も私の駄文にお付き合いのほどをよろしくお願いいたします。

 

さて、本書『ブラックガード』は、個人的には『矢能シリーズ』のなかで一番面白いと思えた作品です。

ストーリー自体はもちろん、作品としての雰囲気が一番落ち着いていて、久しぶりに読みごたえのあるハードボイルド作品を読んだと思えたのです。

この『矢能シリーズ』は、巻を重ねるごとに矢能の個性、自信の生き方へのこだわりがよりはっきりと打ち出されてきていて、本書ではまさにハードボイルド小説と断言していい物語になっています。

前作『ドッグレース』も殆どハードボイルド小説と呼んでもいいかと思うほどの作品でしたが、ハードボイルド作品とは主人公の内面が丹念に描き出されていることが必要だと個人的に思っているので、前作は「エンターテインメントとしての」という修飾語付きのハードボイルド小説と書いたものでした。

これでまでは、ヤクザの世界に片足を残しつつも探偵の仕事をこなしていく矢能の世界が確立する過程であって、本書で日本的なハードボイルド小説として主張できるようになったということです。

ですからこれまではハードボイルドチックなエンターテイメント小説と言わざるを得なかったのです。

 

木内一裕という作者はいわゆる面白いストーリーを展開させることがうまく、本書でも、探偵業を掲げていながら普通の浮気調査のような仕事を請けたくない矢能の探偵としての働きを描き出しています。

そのことは、本書『ブラックガード』での依頼者が矢能を担ぎ出さざるを得ない状況が、同時に矢能に依頼しなくてはならない謎に直結しているという物語の構造にも表れていて、以後の物語へと自然に展開していきます。

また、仕事の依頼をなかなか請けない矢能の態度に栞が悲しそうな顔を見せるため、栞のいる事務所での仕事の依頼に対し「栞の前で、断る、とは言えなかった。ため息が出た。」という場面や、矢能が仕事を請けたときに栞が作ってくれる鍋料理を思い出す矢能の姿などが読者の心に溜まっていき、作品の全体の印象が決まるのでしょう。

同時に栞と矢能との関係、栞と矢能との性格など様々な背景が構築されていき、シリーズの印象が出来上がっていくのです。

 

こうした『矢能シリーズ』一番の特徴でもある栞という女の子の存在もまた矢能の行動原理の一部になっていて泣かせます。

とくに、物語の中での栞の位置や栞と矢能の会話が絶妙で、強面ではあるが底は優しい矢能の内面も含めてうまいこと描き出してあります。

それは、美容院のお姉さんとの食事の場面でもそうで、ハードな面での矢能とソフトな一面を見せる矢能との描き分けがとても楽しく、面白く読むことができるのです。

 

ちなみに、名前が出てきた鳥飼美枝子という弁護士はシリーズ前作の『ドッグレース』に登場してきた弁護士です。

ビタートラップ

ビタートラップ』とは

 

本書『ビタートラップ』は、新刊書で215頁の長編のエンターテイメント小説です。

月村了衛の描く軽く読めるエンターテインメント小説群の中の一冊で、単純に物語自体を楽しむべき、また楽しめる作品でした。

 

ビタートラップ』の簡単なあらすじ

 

わたしは中国の女スパイーノンキャリア公務員の並木は、恋人から告白される。狙われた理由は、上司から預かった中国語の原稿。両国組織を欺くために、ふたりは同棲を始めるが…。警視庁公安部から地下鉄で追尾され、中国の国家安全部からは拉致される。何が真実で、誰を信じればいいのか?実力派作家が放つ、大人のサスペンス。極上のビターがここにある。(「BOOK」データベースより)

 

与えられた仕事を淡々とこなすだけの公務員の仕事に違和感を抱くこともない毎日を送っていた並木は、付き合っていた中国人の彼女慧琳から意外な事実を打ち明けられた。

自分は並木が知人から預かった原稿を手に入れるために遣わされた中国のスパイであり、主人公の並木に対してハニートラップを仕掛けるために近づいたのだというのだ。

しかし、本当に並木に恋してしまい、嘘をついていることに耐えられなくなったという。

ところが、そんな並木に公安警察官を名乗る男が近づいてきて、女は並木の職場である農林省の情報を得るために接近したのであり、原稿の話は嘘だというのだ。

何が本当のことなのか、嘘に塗り固められた世界でどうすればいいのか、一人悩む並木だった。

 

ビタートラップ』の感想

 

月村了衛の作品には、重厚で読み応えのある『機龍警察シリーズ』のような作品群と、ガンルージュ』のような徹底してエンターテインメントに徹した読みやすい作品群とに分けられると思います。

本書『ビタートラップ』はそうした中でも軽く読める作品であり、後者に属する作品だと言えるでしょう。

 

主人公の並木承平は農林省勤務のノンキャリアの係長補佐であり、その彼女である黄慧琳は、並木の行きつけの中華料理店「湖水飯店」のアルバイト留学生です。

その慧琳が突然、自分は、並木が知り合いから預かっている原稿の所在、奪取のために送り込まれた中国のハニートラップだと言い始めたのです。

その並木には公安警察からの接触もあり、慧琳がハニートラップとして送り込まれたのは、並木の農林省勤務で知り得る農業技術の知識を得るためだというのでした。

こうして、並木は慧琳を信じることもできず、また公安警察官の男に対する疑惑もうまれてきて、誰を信じていいのか分からなくなります。

いち下級公務員が諜報戦のただなかに放り込まれたのですから、混乱するのも当然であり、この並木の様子が軽いユーモアをも交えて語られるのです。

 

このように、並木がハニートラップにかかったことを知ったり、並木に公安が接触してきたり、中国の工作員と直接に会うことになったりと、普通ではない状況がいとも簡単に襲い掛かってきます。

こうした物語の展開は、月村了衛のもう一つの作品群では考えられない展開であり、ある種のファンタジーとさえ言えます。

こうした気楽さだからこそ、その後の展開もまた気楽であり、読むほうも肩の力を抜いて軽く読むことができるのです。

 

このような気楽なタッチのエスピオナージと言えば、大沢在昌の気楽に読める長編小説である『俺はエージェント』がありました。

エージェントにあこがれる村井は、行きつけの居酒屋で親しくなった白川という爺さんのスパイ活動に巻き込まれ、あこがれのスパイ活動をすることになるというコメディタッチのスパイものの長編小説です。

この作品はコメディタッチではあるものの展開は意外性に満ちていて、かなり読みごたえのある作品でした。

 

 

では本書『ビタートラップ』に関して何の文句もないかというと、本書の結末のつけ方などには個人的にも少々疑問は残るものがあります。

しかし、本書のような作品は先にも書いたように物語世界に浸って気楽に読むべき作品でしょうから、そのストーリー展開の不都合さなどをあげつらっても仕方のないことでしょう。

慧琳という女性の優しさ、もしかしたらしたたかさに振り回される並木という男とともに、めまぐるしく展開する物語の流れに乗ってただ楽しめばよいと思うのです。

QUEEN スカイマーシャル 兼清涼真

QUEEN スカイマーシャル 兼清涼真』とは

 

本書『QUEEN スカイマーシャル 兼清涼真』は、新刊書で291頁の長編の冒険小説です。

スカイマーシャルという珍しい職に就いている人物を主人公とする麻生幾らしい作品ですが、この人の作品にしてはあまり面白いとは言えない作品でした。

 

QUEEN スカイマーシャル 兼清涼真』の簡単なあらすじ

 

日本から米国に向かういずれかの旅客機に不審者“QUEEN”が乗り込み危険行為を行う可能性が高い、という情報を得た警視庁。警備部特務班の兼清、上司の矢島、2名のスカイマーシャルを14時羽田発ニューヨーク行きの“さくら212便”に搭乗させた。だが兼清の警戒を嘲笑うように、離陸から1時間半後、一般客には知られていないクルーバンクで遺体が発見された。いったい何者が、どうやって?そして、スカイマーシャル・兼清の孤独な戦いが始まる…。(「BOOK」データベースより)

 

さくら航空のさくら212便のチーフパーサーである立花咲来は、エコノミークラスのパーサーである水野清香が未だ現れないままにブリーフィングをすすめていた。

ところが、羽田のオペレーションセンターでは水野綾香のIDでの出社確認は済まされており、客室部ドアのカードリーダーにも記録されているというのだ。

しかし、水野綾香は現れないままに、代わりの緊急時待機要員を乗せて出発するのだった。

一方、スカイマーシャルの兼清涼真は、この最後のフライトで「航空保安を損なう可能性が高い危険人物」を意味する符牒の搭乗が知らされる。

しかも、に関しては性別、国籍、搭乗対象の航空会社、便のいずれも不明という厄介な情報だった。

また、さくら212便の離陸後に水野清香が殺されていたという情報がもたらされ、さらには兼清の上司である矢島班長がクルーバンクで殺されているのが発見されるのだった。

 

QUEEN スカイマーシャル 兼清涼真』の感想

 

本書『QUEEN スカイマーシャル 兼清涼真』のタイトルにもなっている「スカイマーシャル」とは、警視庁警備部に属する東京国際空港テロ対処部隊「特務班」所属の「航空機警乗警察官」のことだと本文にありました。

そのスカイマーシャルは一般客を装い旅客機に乗り込み、自動式拳銃で武装してハイジャック等のテロリズムなどの事案への対処を任務としているのです。

そして本書の主人公兼清涼真は、航空機内という特殊環境での対テロ対策のためにも、アメリカで近接格闘の技能を習得しているスペシャリストでもあります。

ただ、激務のなか妻の死にも立ち会えなかった兼清涼真は、残された小学生の娘のためにも今回の常務を最後とするつもりでいたのです。

 

スカイマーシャルという職務のことは、名称は別として聞いたことがあります。しかし、そのスカイマーシャルを主人公に据えた小説は初めて読みました。

本書『QUEEN スカイマーシャル 兼清涼真』は、いかにも麻生幾の作品らしく、緻密な状況描写と背景の説明が為されています。

主人公の性格に関しても、独立心の旺盛な一匹狼タイプであり、これまでの公安小説に出てくるチームプレイで動く登場人物とは若干異なってはいます。

しかし、主人公の意志の強さなどには共通するものを感じますし、そもそも『ZERO』での主人公なども本書のような独行タイプだったと思います。

 

本書『QUEEN スカイマーシャル 兼清涼真』がこれまでの麻生幾の作品と違うと思ったのは、何よりもその説明的な文章です。

それは、「兼清は拙い! と思った。」などという説明的な文章が少なからず出てきて、物語の流れになじんでいないのです。

というよりも、本書での文章の流れが全体的に説明的な印象を醸し出しています。

兼清の行動の理由を一つずつ解説していく流れ自体は麻生幾という作家らしく緻密に積み上げていくものではありますが、本書ではそれが状況を説明しているとしか感じないのです。

近年はこうした文章になっているのかとも思いましたが、この人の作品である『アンダーカバー ―秘録・公安調査庁―』という面白く読んだ作品は2018年3月という新しい出版であるため、それも違うようです。

 

 

とすれば、本書『QUEEN スカイマーシャル 兼清涼真』の場合、全く新しい職種を主人公の職務としていることや、アクションの舞台が航空機内という限定された場所であることなどが考えられますが、それも経験豊かな作者には当たらない気がします。

ということは、ほかではそうした感想を見ませんから読み手の私の問題だ、ということになるのかもしれません。

 

ついでに個人的な違和感としてもう一点挙げておきます。

それは、本書『QUEEN スカイマーシャル 兼清涼真』では航空機内で発砲事件がおきますが、そもそも機内での発砲が可能なのでしょうか?

高高度を飛ぶ航空機内で弾丸が機体を撃ち抜いたらとんでもないことになりそうです。仮に機体が撃ち抜かれることはないとしても、万が一窓にでも当たったらどうでしょう。

犯人側はそうしたことは考えないにしても、警察官はましてやスカイマーシャルは発砲しないと思うのです。

もしかしたら、これまで書物や映像で見聞きしてきた航空機内での発砲は危険すぎる行為だという事実が間違っていたのでしょうか。

 

結局、本書『QUEEN スカイマーシャル 兼清涼真』を読んだ感想としては、麻生幾という作家の作品としては幾重にも腑に落ちない個所のある作品だったと追う他ないようです。

七つの試練 池袋ウエストゲートパークXIV

七つの試練 池袋ウエストゲートパークXIV』とは

 

本書『七つの試練 池袋ウエストゲートパークXIV』は、『池袋ウエストゲートパークシリーズ』の十四作目の、文庫本で294頁の四編の中編からなるハードボイルド作品集です。

今回もまた、社会の様々な事件を映し出した物語であり、マコトの小気味いい会話とスピーディーな行動が読者をひきつけています。

 

七つの試練 池袋ウエストゲートパークXIV』の簡単なあらすじ

 

ネットで広がるデスゲーム。次々と提示される試練をクリアすると積みあがる「いいね」の山。しかし、試練は次第にエスカレートし、七番目に課されるのは、死を招く危険なものだった。けがをした高校生のために、マコトが「管理人」の正体を追う!表題作ほか3篇を収録、時代を色濃く映す人気シリーズ第14弾。(「BOOK」データベースより)

 

泥だらけの星
人のスキャンダルを無制限に楽しむのは、そろそろやめたほうがいい。
タカシから呼び出しがかかり、ダチが困っているから助けてくれといってきた。若手俳優のトップをいく鳴海一輝が抱いた咲良野エレンは市岡エンターテインメントの社長の市岡という男が慰謝料を請求してきたのだった。

鏡の向こうのストラングラー
欲望の形が見えにくい時代になった。セックス産業も不人気になっても、変態はなくならない。
マコトが解決した最初の事件、『池袋ウエストゲートパークシリーズ』の第一話に登場した首絞め魔(ストラングラー)が再び現れた。タカシによれば、知人の出会い系カフェの女の子が狙われたというのだった。

幽霊ペントハウス
ネット時代の現代でも、都会にも、地方にも、高層マンションにも闇はいくらでも転がっている。
祖師谷の墓地を見下ろすマンションに住む中学時代の同級生のスグルから、真夜中になると寝室の天井から音がするため、相談ン折ってくれと言ってきた。問題は、スグルの住む部屋はペントハウスであり、最上階だということだった。

七つの試練
「いいね」が人を殺し、「いいね」によって、人が死ぬ。おれたちの死は軽く、ほんの数メガバイトの情報にすぎなくなっている。
ネット上で「七つの試練」などと呼ばれているゲームが流行っているという。一つの試練をクリアするごとに押される“いいね”の数を誇り、最終的には建物の屋上から飛び降りて死ぬやつまで出る始末だった。

 

七つの試練 池袋ウエストゲートパークXIV』の感想

 

本書『七つの試練 池袋ウエストゲートパークXIV』は、これまでのシリーズの各作品と比べて特に変わっているわけではありません。

持ち込まれた相談事を広範な人脈の助けを借りつつ解決していくマコトの姿が描かれているのはいつものとおりです。

 

それでもなお、マコトの物語は読者をひきつけるのは、世相を反映しているストーリーがよくできているし、なによりも、マコトを始めとする登場人物たちの個性的なキャラクターが魅力的だからでしょう。

その登場人物として、当然のごとくマコトの相棒とも言えそうな、池袋のカラーギャング「Gボーイズ」のキングであるタカシも登場します。

今回はそれに加え、「鏡の向こうのストラングラー」では本シリーズの第一巻から登場している似顔絵かきが得意なシュンが登場しています。

また、「七つの試練」ではサンシャインシティの向かいにあるデニーズをオフィスとする北東京一のハッカーであるゼロワンも登場しているのです。

 

今回も、ネット社会で一層ひどくなった他人のスキャンダルを喜ぶ一般庶民、同様にネット社会でのSNSの弊害の一つでもある“いいね”を得るために無茶をする若者らの姿があります。

また、出会い系カフェを襲う変態や都会に潜む闇に関するトラブルを解決するいつものとおりのマコトの姿があるのです。

これから先もこのシリーズは続いていくのでしょうし、あらためてその面白さを見直した本書でした。