『アキレウスの背中』とは
本書『アキレウスの背中』は、2022年2月に刊行された、新刊書で322頁の長編の警察小説です。
陸上のマラソンというスポーツと話題のIR(統合型リゾート)の問題とを組み合わせた物語で、これまでの長浦京作品とは少し変わったしかしとても面白い新しい感覚の作品です。
『アキレウスの背中』の簡単なあらすじ
スポーツビジネスをめぐる利権と国家の威信が、東京でぶつかり合う。公営ギャンブル対象として、世界5カ国で開催されるマラソンレースの東京大会を妨害すべく、国際テロリスト集団が襲撃を仕掛けてきた。標的は日本人最速ランナーと、ランニングギアの開発をめぐる機密情報。警察庁は極秘に、特別編成の組織横断チームMITを立ち上げた。そのリーダーに抜擢された女性刑事は、アスリートを守れるのか。ランナーが、2時間切りという壁の向こうに見たものとは。(「BOOK」データベースより)
公営ギャンブルの対象であるワールド・チャンピオンズ・クラシック・レース(WCCR)の第一回目のレースが、2023年に東京都心部で行われることとなった。
ところが、その東京WCCRの出場選手で優勝候補の嶺川蒼選手のもとに脅迫状が届いたらしい。
そこで警察庁が考え出した新たな捜査手法であるミッション・インテグレイテッド・チーム(Mission・Integrated・Team : MIT)が乗り出すこととなった。
下水流悠宇は、一年ほど前に悠宇が担当したDAINEX(ダイネックス)でのデータ窃盗事件が関連しているらしく、警察庁警備局参事官の乾徳秋のもと、上司の間明係長と共にMITへ召集されることとなった。
下水流悠宇を班長とするチームには、警視庁の本庶譲や板東隆信、それに警察庁の二瓶茜らがおり、四人は人は千葉県鴨川市内にあるDAINEXスポーツ総合研究所へと向かうのだった。
『アキレウスの背中』の感想
本書『アキレウスの背中』は、著者の長浦京のこれまでの作風とはかなり異なる印象の作品でした。
『アンダードッグス』や『リボルバー・リリー』は、スケールも大きなアクション小説でしたが、本書はそうではありません。
主人公は警察官であり、あるマラソン選手へ届いた脅迫状についての捜査の状況が描かれているアクションメインではない警察小説です。
しかし、本書はアクション小説ではないということにとどまらず、いわゆる普通の警察小説ともまた異なります。
脅迫を受けた選手が出場する予定の東京ワールド・チャンピオンズ・クラシック・レース(東京WCCR)というマラソンレースが公営ギャンブルの対象レースとなっているところから、単なる脅迫事件の域を越え、国家レベルの事件となっていることがまず挙げられます。
また、脅迫を受けたマラソン選手はDAINEXスポーツ総合研究所という各種競技の選手の身体活動などを科学的に分析し、シューズやウェアの開発に資する施設と契約しており、単なる脅迫事件を超えた世界的なブランド企業のイメージにもかかわる事件なのです。
さらには問題の選手はDAINEXと契約している嶺川蒼というランナーであり、彼はマラソンの日本記録保持者でもあります。
こうして、東京WCCRで起きた何かの不祥事は日本がWCCRという世界的イベントの運営能力を欠くということを意味し、一選手の問題を越えて複数国家、もしくは国家的企業の利害が絡む事態となるのです。
そこで、従来の縦割りの枠組みでは対応が難しくなった新手の犯罪に対応するために警察庁が考え出した新たな捜査手法であるミッション・インテグレイテッド・チーム(MIT)が乗り出すことになります。
この件で組まれたチームはいくつかあるものの、本書『アキレウスの背中』で中心となるのは警視庁捜査三課所属の下水流悠宇警部補を班長とするチームです。
このチームには、ほかに警視庁捜査一課第一特殊班捜査二係所属の本庶譲、警察庁警備局警備運用部所属の二瓶茜、警視庁警備部警護課所属の坂東隆信が召集されています。
それに、警視庁捜査三課所属の間(まぎら)明警部補が本庁との連絡役などのために参加し、悠宇の上司として警察庁警備局参事官の乾徳秋警視長がいます。
このミッション・インテグレイテッド・チーム(MIT)という組織は作者の創造したものでしょうが、役所の縦割り行政の弊害は従来から言われているところであり、機動的に動ける組織として考え出されたものでしょう。
でも、『アキレウスの背中』の事案においてMITという組織を設定するだけの必要性や有効性があったのかはよく分かりません。
本書で示されているMITの捜査方法が、通常の警察小説、インテリジェンス小説で示される操作方法とは異なっている場面があまり確認できなかったのです。
本書中で間明係長が「今回の案件は、個人や少数のグループの犯行を追う通常の捜査とは違う」と断言していることなど、物語としてのMITという組織の必要性の確認はしてあります。
でも、本書で描写されている捜査のどこが従来の捜査方法では不都合だったのか、私にはよく分かりませんでした。
ここで、間明係長に関して言えば、悠宇との関係性がユーモアに満ちていて、じつに親しみを感じる描写でした。
こうしたことは、悠宇という主人公にしてもスーパーマンではなく普通の人間だということ、自分の班長という地位の複雑さに悩み、苦しみ、そして上司に相談するという関係性をも持っているということが読みとれて楽しくなります。
このような点も含め、悠宇のチームのリーダーとしての素質のこと以上に、心構えを丁寧に説き起こしていく様子は、主人公に感受移入するうえでとても効果的に思えます。
また、悠宇と脅迫の被害者であるランナーの嶺川蒼選手との関係性も独特なものがありました。ただ、この点は人によっては好みではないという人がいてもおかしくはないでしょう。
嶺川蒼選手については忘れてはならないのが実在のマラソンランナーでこのほど現役復帰を表明した大迫傑選手がモデルだということです。
何しろ、本書のカバー自体が大迫傑選手の写真を使用してあるのですから、その思い入れも相当なものなのでしょう。
本書は、大迫傑選手へのリスペクトが如実に感じられる作品でもあるのです。
ところが、本書『アキレウスの背中』も終盤に入り、いざレースがスタートしてからの緊迫感はさすが長浦京の作品と思わせるものでした。
スタート直後は淡々と話が進みますが、ある時点から一気に物語が動き始めます。
そして章が変わり、これまでの各作品ほどではないにしろ、長浦京ならではのアクション場面が展開するのです。
いずれにしろ、長浦京という作家は骨太の読みごたえのある作品の書き手としてはずれのない作品を出版し続けると思われ、次の作品を読みたいと思う作家でもあります。