『ビタートラップ』とは
本書『ビタートラップ』は、新刊書で215頁の長編のエンターテイメント小説です。
月村了衛の描く軽く読めるエンターテインメント小説群の中の一冊で、単純に物語自体を楽しむべき、また楽しめる作品でした。
『ビタートラップ』の簡単なあらすじ
わたしは中国の女スパイーノンキャリア公務員の並木は、恋人から告白される。狙われた理由は、上司から預かった中国語の原稿。両国組織を欺くために、ふたりは同棲を始めるが…。警視庁公安部から地下鉄で追尾され、中国の国家安全部からは拉致される。何が真実で、誰を信じればいいのか?実力派作家が放つ、大人のサスペンス。極上のビターがここにある。(「BOOK」データベースより)
与えられた仕事を淡々とこなすだけの公務員の仕事に違和感を抱くこともない毎日を送っていた並木は、付き合っていた中国人の彼女慧琳から意外な事実を打ち明けられた。
自分は並木が知人から預かった原稿を手に入れるために遣わされた中国のスパイであり、主人公の並木に対してハニートラップを仕掛けるために近づいたのだというのだ。
しかし、本当に並木に恋してしまい、嘘をついていることに耐えられなくなったという。
ところが、そんな並木に公安警察官を名乗る男が近づいてきて、女は並木の職場である農林省の情報を得るために接近したのであり、原稿の話は嘘だというのだ。
何が本当のことなのか、嘘に塗り固められた世界でどうすればいいのか、一人悩む並木だった。
『ビタートラップ』の感想
月村了衛の作品には、重厚で読み応えのある『機龍警察シリーズ』のような作品群と、ガンルージュ』のような徹底してエンターテインメントに徹した読みやすい作品群とに分けられると思います。
本書『ビタートラップ』はそうした中でも軽く読める作品であり、後者に属する作品だと言えるでしょう。
主人公の並木承平は農林省勤務のノンキャリアの係長補佐であり、その彼女である黄慧琳は、並木の行きつけの中華料理店「湖水飯店」のアルバイト留学生です。
その慧琳が突然、自分は、並木が知り合いから預かっている原稿の所在、奪取のために送り込まれた中国のハニートラップだと言い始めたのです。
その並木には公安警察からの接触もあり、慧琳がハニートラップとして送り込まれたのは、並木の農林省勤務で知り得る農業技術の知識を得るためだというのでした。
こうして、並木は慧琳を信じることもできず、また公安警察官の男に対する疑惑もうまれてきて、誰を信じていいのか分からなくなります。
いち下級公務員が諜報戦のただなかに放り込まれたのですから、混乱するのも当然であり、この並木の様子が軽いユーモアをも交えて語られるのです。
このように、並木がハニートラップにかかったことを知ったり、並木に公安が接触してきたり、中国の工作員と直接に会うことになったりと、普通ではない状況がいとも簡単に襲い掛かってきます。
こうした物語の展開は、月村了衛のもう一つの作品群では考えられない展開であり、ある種のファンタジーとさえ言えます。
こうした気楽さだからこそ、その後の展開もまた気楽であり、読むほうも肩の力を抜いて軽く読むことができるのです。
このような気楽なタッチのエスピオナージと言えば、大沢在昌の気楽に読める長編小説である『俺はエージェント』がありました。
エージェントにあこがれる村井は、行きつけの居酒屋で親しくなった白川という爺さんのスパイ活動に巻き込まれ、あこがれのスパイ活動をすることになるというコメディタッチのスパイものの長編小説です。
この作品はコメディタッチではあるものの展開は意外性に満ちていて、かなり読みごたえのある作品でした。
では本書『ビタートラップ』に関して何の文句もないかというと、本書の結末のつけ方などには個人的にも少々疑問は残るものがあります。
しかし、本書のような作品は先にも書いたように物語世界に浸って気楽に読むべき作品でしょうから、そのストーリー展開の不都合さなどをあげつらっても仕方のないことでしょう。
慧琳という女性の優しさ、もしかしたらしたたかさに振り回される並木という男とともに、めまぐるしく展開する物語の流れに乗ってただ楽しめばよいと思うのです。