『追想の探偵』とは
本書『追想の探偵』は、2017年4月に刊行されて2020年5月に360頁で文庫化された連作短編小説集です。
本書では誰も死にませんし、アクション場面もありません。それでいて一人の女性の人探しを描く、まさに「日常のハードボイルド」という言葉がピタリと当てはまる小説です。
『追想の探偵』の簡単なあらすじ
消息不明の大物映画人を捜し出し、不可能と思われたインタビューを成功させるー“人捜しの神部”の異名を取る「特撮旬報」編集部の神部実花は、上司からの無理難題、読者からの要望に振り回されつつ、持てるノウハウを駆使して今日も奔走する。だが自らの過去を捨てた人々には、多くの謎と事情が隠されていた。次号の特集記事を書くために失われた過去を追う実花の取材は、人々の追憶を探る旅でもあった…。(「BOOK」データベースより)
『追想の探偵』の感想
本書『追想の探偵』の主人公は映画雑誌「特撮旬報」の編集長をしている神部実花という女性です。
この雑誌は不定期刊であり、特撮映画を扱う雑誌です。つまりは、この雑誌の目玉記事として往年の特撮映画の特集をし、関係者のだれもその消息を知らないその映画関連の人物を探し出し、インタビュー記事を書こうとするのです。
誰もその人の行方を知らないからこそ価値があり、雑誌の売り上げに結びつきます。しかし、誰も知らないのですからその人物を探し出すことは困難を伴います。
だからこそ「人捜しの神部」という異名があるほどの手腕のある本書『追想の探偵』の主人公の出番があります。
本書の一番の魅力は、主人公である神部実花という編集者の人捜しの過程にあります。
例えば、『流星マスク』という作品が特集される場合、この作品の特撮を担当した佐久田政光という特殊技術者が目玉となります。
この人物は特撮作品というだけでなく、国際的にも高く評価されている名の通った名作映画に多く関わった伝説の人物なのですが、三十年も前にその消息は一切不明になっているのです。
この人物の探索を始めるに際し、まず、佐久田政光のプロフィールから少しでも連絡先を知っている可能性のある人物をリストアップします。そして、アルバイトに片っ端から電話をかけさせるのです。
その後、国会図書館や大宅壮一文庫で当時の新聞、雑誌の類を全部調べ、映画雑誌に限らず学年誌や児童誌に至るまで見るのですが、ここまでは誰でもやることだそうです。大事なのはその先であって、落ち穂よりもなお細かい「綿毛」ほどの何かを見るのだといいます。
この号の場合、どこかの囲み記事にあった「佐久田の親戚の球磨美大生」という言葉がその「綿毛」です。
ただ、こうした作業の末に、熊美大生ではあっても球磨美では分からずにネットという利器のおかげで見付け出しますが、依然佐久田政光のことは不明でした。
そこで電話に戻り神部実花自身が電話をかけるのです。そうすると、今度は編集長である上司が連絡をしてきたということで、アルバイトでは聞き出せないことを話してくれたり、忘れていたことを思い出してくれることが少なからずあるのだそうです。
つまりは、人探しには限りない忍耐力が必要だということです。
本書『追想の探偵』の第一話「日常のハードボイルド」は、以上のような作業を描いてあります。
この話では上記の作業では佐久田政光は見つからず、結局は別のルートでたどり着きます。その過程もまた相応の努力が為され、その先に佐久田政光という人物にまつわる人間ドラマが待っていたのでした。
最初に書いたように、本書の魅力は人捜しの過程にあります。そして、この主人公にはモデルがあり、作者はその人物を前提にこの小説を書こうと思ったのだそうです。
本書で描かれている人捜しのエピソードのどれほどが現実の話かは分かりませんが、先に書いたようなことも現実の人捜しのノウハウの一端が示されていることは間違いなさそうです。
月村了衛という作家の作品というにはアクションも無く、いつものタッチを思う人には物足りない作品かもしれません。
私自身、本書の『追想の探偵』というタイトルのイメージから、端的に一匹狼の探偵の抒情的なハードボイルドを予想していたのですが、全く異なる内容の作品でした。しかし、戸惑いは最初のうちだけであり、やはりいつものように引き込まれていました。
本書はまた、特撮映画の専門誌が舞台ということで、そうした映画が好きな人にも満足のいく作品ではないかと思われます。
勿論、取り上げられている特撮映画や人物は全くの架空の作品ですが、語られている内容は事実の裏付けがあると思われるからです。
そもそも「人捜し」という行為はハードボイルドの基本であり、東直己の『探偵はバーにいる』を始めとして、大沢在昌の『佐久間公シリーズ』、 原りょうの『そして夜は甦る』などきりがありません。
私立探偵が人捜しを依頼されるが、その人捜しには何らかの事件性がつきまとい、探偵自らもその事件に巻き込まれていく、という王道のパターンですね。
本書『追想の探偵』では人捜しはしますが事件性はありません。それでもなおハードボイルドであり、だからこそ「日常の」という接頭語がつくのです。