ぼくらを襲った事件はテレビのニュースよりもっとずっとどうしようもなくひどかった―。ある日、学校で起きた陰惨な事件。ぼくの幼なじみ、ふみちゃんはショックのあまり心を閉ざし、言葉を失った。彼女のため、犯人に対してぼくだけにできることがある。チャンスは本当に一度だけ。これはぼくの闘いだ。(「BOOK」データベースより)
人に自分の思い通りの行動をとらせることができる能力を持った小学四年生の“ぼく”の行動を描いた作品で、文庫本で六百頁弱という長さをもった長編の現代小説です。
この作品も入院先のベッドの上で一気に読んでしまった作品です。
“ぼく”の小学校のクラスでは十匹のウサギを飼っていたが、ある日そのウサギは無残にも殺されてしまう。犯人である二十歳の大学生市川雄太は、単に面白いと思ったから殺したというのだ。
殺されていたウサギを発見したのは“ぼく”の幼馴染の“ふみ”という女の子で、“ふみ”ちゃんはそれ以来自分の殻に閉じこもってしまい、誰とも話そうともせずに部屋から出ようともしなくなってしまう。
自分の“能力”を使ってウサギを殺した犯人の市川雄太に復讐しようとする“ぼく”を心配した母親は、同じ“能力”の遣い手でもある親戚の秋山という大学の先生に力の使い方の教わるようにと命じるのだった。
本書の中の「市川雄太が壊したもの。うさぎの身体とその命。ふみちゃんの心。」という一文が重く響きます。
子供たちが飼育していたウサギを殺すということは、たとえその行為によって子供たちの心が傷つけられたとしても、法律上は器物損壊でしかなく、それ以上の罪に問うことは出来ません。
だからこそ、“ぼく”は市川雄太に対し自分の能力を使って復讐をしようと考えるのでした。
本書は、一週間後に設定された加害者市川雄太との面会日を前に、この能力の遣い手でもある大学の先生とぼくとの間のこの能力に関する会話を中心として成立しています。
秋山一樹Ⅾ大学教育学部児童心理学科教授が「条件ゲーム提示能力」と名付けていたこの能力とは、「相手の潜在能力を引き出すための呪い」をかける力のことでした。
他の小説では、こした能力を使うことの利点や欠点やより詳しい使い方などは、この特別な能力を実際に使う中で学んでいくという設定が普通ではないかと思われます。
しかし、本書ではそうではなく、この能力を使うことの意味をまず時間をかけて学んでいきます。
そしてその学習の過程で弱者の保護や他者への加害行為の持つ意味などを学び、同時に読者に考える材料を提示していきます。
本書は、この能力について学ぶこと、この能力について話すことそのものが物語の大半を占める、あらためて考えると実に奇妙な物語でした。
辻村深月という作家は、通常人とは異なる超自然的な能力を有する人物を設定し、その能力があるからこそ普通人では考えることもない人間の本質について考察せざるを得ない状況を作り出す物語が多いようです。
例えば、この作家の『ツナグ』という作品もそうです。一生に一度だけ、死者との再会を叶えてくれるという「使者」の能力を通して人の「生」や「死」について考えさせられる物語でした。
他に梶尾真治も特殊な状況を設定し、その状況の中での独特な人間模様を描き出すという手法が得意な作家さんです。
この作者の『ボクハ・ココニ・イマス 消失刑』という作品では、個人の特殊能力ではありませんが、他者に認識されない囚人という特殊な状況を設定し、その状況のもとでの人間ドラマが描かれていました。
また浅倉卓弥の『四日間の奇蹟』という作品も、個人の特殊能力ではない人格の入れ替わりという特別な状況のもとで、人生を見つめ直すという感動的な物語でした。
本書『ぼくのメジャースプーン』では能力の主体である主人公が小学四年生であり、多分本書の読者の年齢層とは異なると思えます。
しかし小学生だからこそ、この能力を、心に傷を負った幼馴染みの哀しみの代償として犯人に対し使う行為が打算の無いものとしてあり得たと思われます。
その上で、少年の純粋な行為の持つ意味を真摯にとらえ、考察することができる状況が生まれ、感動を呼ぶ物語として仕上がっているのではないのでしょうか。
そうした状況を作りだす辻村深月という作家さんの能力のすごさに脱帽するばかりです。
今後も未読の作品が多くある作家さんです。書評家の藤田香織氏が、解説に「「思いがけない再会」があると」書いておられる『名前探しの放課後』を読んでみたいと思います。
ちなみに、タイトルの「メジャースプーン」は計量スプーンのことであり、ぼくがふみちゃんからもらって大事にしている宝物のことです。