『春山入り』とは
本書『春山入り』は、2014年8月に『約定』というタイトルで新潮社から刊行され、2017年4月に新潮文庫から『春山入り』と改題されて288頁の文庫として出版された長編の時代小説です。
全部で六編の短編が収められた著者初の短編集で、侍という存在を青山文平らしいミステリーの手法で描き出した、読みごたえのある作品集でした。
『春山入り』の簡単なあらすじ
藩命により友を斬るための刀を探す武士の胸中を描く「春山入り」。小さな道場を開く浪人が、ふとしたことで介抱した行き倒れの痩せ侍。その侍が申し出た刀の交換と、劇的な結末を描く「三筋界隈」。城内の苛めで病んだ若侍が初めて人を斬る「夏の日」。他に、「半席」「約定」「乳房」等、踏み止まるしかないその場処でもがき続ける者たちの姿と人生の岐路を刻む本格時代小説の名品。(「BOOK」データベースより)
『春山入り』の感想
本書『春山入り』は、当初は『約定』というタイトルで刊行されましたが、新潮文庫から文庫化されるに際し『春山入り』と改題された短編の時代小説集です。
著者初の短編小説集であって、侍の生きざまをミステリーの手法で描き出してあります。
どの物語も、主人公の身近な人物が侍としての矜持を貫くその姿から、主人公自らの姿勢を正す様が描かれています。
例えば表題作の「約定」では、望月清志郎(もちづきせいしろう)という侍が果たし合いの約定の場所に来ない相手をいぶかりながら腹を切ります。
その後、その果たし合いの場所に来なかった相手が、何故に望月はその日その場所で腹を切ったのか、その理由を推し量る様が描かれています。
その考察の前提には自分も望月も侍である、ということがあり、だからこそ腹を切る理由が分からない。次第に、漠然とした理由は浮かんでくるのですが、断定はできないのです。
読者には、望月清志郎が腹を切る前に何故に相手が来ないのか自問する場面が示されていて、そのことが果たし合いの相手方の推量を一段と考えさせるものにしています。
このほか「三筋界隈」は生き倒れの浪人、「半席」では矢野作佐衛門の死に様、「春山入り」では幼馴染の島崎鉄平の行動というように、主人公に身近な人の行いを見て主人公が思料する、という形をとっています。
身近な人の心情は明示してはありません。読者は主人公の推量を示されるだけで、主人公の判断が正しいのか否かは読者の判断にゆだねられています。
勿論、主人公がそのように考えるだけの根拠は提示されていて、その推量の根底には侍としての振舞いのあるべき姿があるのです。
ほかの短編も侍の姿を追求する好短編ばかりです。
凛としたその文章といい、侍の生き方を追求するその筋立てといい、やはりこの作家の作品は私の好みにぴたりとはまります。
藤沢周平や山本周五郎の作品とは異なり硬質ではありますが、同じ様に情感豊かで心に染み入ってくるのです。
前述のように、本書は以前『約定』というタイトルで出版されていましたが、今回の文庫化に当たり改題されたものです。
また、本書の中の短編「半席」に、主人公の片岡直人の新たな五編の物語を加えた全六編の短編集として『半席』という新しい短編集が出版されています。