『底惚れ』とは
本書『底惚れ』は2021年11月に刊行され、2024年5月に徳間文庫から272頁の文庫として出版された長編の時代小説です。
短編集『江戸染まぬ』に収められた「江戸染まぬ」という短編を長編化した作品ですが、青山文平作品にやはりはずれはなく、本書も惹き込まれて読んでしまいました。
『底惚れ』の簡単なあらすじ
江戸で一季奉公を重ね、四十も過ぎた。小藩の屋敷で奉公中、ご老公のお手つき女中・芳の故郷へ宿下がりの同行を命ぜられる。理不尽な扱いに憤り彼女の味方になりたいと願うが、芳は俺を刺し姿を消したー。一命をとりとめた俺は芳の行方を捜す。どうしても伝えたいことがあった。最底辺の女郎屋を営みながら芳が現れるのを待つ俺だったが、ある日、衝撃的な事態に遭遇し…。第35回柴田錬三郎賞、第17回中央公論文芸賞W受賞作!(「BOOK」データベースより)
『底惚れ』の感想
本書『底惚れ』は先に書いたように、短編小説集の『江戸染まぬ』の中の「江戸染まぬ」という短編を長編化したものです。
この短編「江戸染まぬ」で本書のどこまでが描かれていたのかは今では覚えてはいないのですが、主人公の男が芳という女に刺されたところまでは間違いなく描かれていました。
上記の「簡単なあらすじ」にも書かれているように、芳に惚れていた主人公の男は芳のためにお金を工面しようと芳の主人や奉公先の隠し事を売ろうとしたところ、主人に惚れていた芳に刺されてしまいます。
しかし、何とか死ぬことを免れた男は、自分を殺したと思っているだろう芳に、お前は人殺しではないのだと伝えるために芳の行方を探しはじめます。
最終的に、郷里にも帰っていない芳の行く先は岡場所しかないだろうと考え、芳が訪れやすい岡場所を経営するに至るのです。
このように、本書は芳に刺されながらも芳に対する愛情を貫く男の姿を描いた作品であって、全編を主人公の「俺」の一人称で描かれています。
本書『底惚れ』の惹句には「江戸ハードボイルド長編」という文言があります。
それは、本書全編が「俺」という一人称で語られていて、「俺」の内心を詳細に描写してあるからだと思われます。
主人公の内面が丹念に描き出されているという点では確かに「ハードボイルド」と言えなくもないのでしょうが、簡潔な描写や主人公の主観面の描き方などの細かな点で「ハードボイルド」というには疑問もあります。
本書に暴力の匂いが全くしないことなどは一番の否定要因ではないでしょうか。
ただ逆に、そうした点を捉えても、だからこそ「ハードボイルド」と言えるのではないか、という気持ちがあるのも事実です。
でも、こうした分類は本書の評価には関係のないことで、本書の面白さだけを考えれば青山文平の作品群の中で異色をはなっていることは間違いないでしょうし、なにより、青山文平らしく主人公の心象を深く追及したユニークな作品だということは言えるでしょう。
登場人物としては、主人公の「俺」と芳と同じ奉公先にいた下女の信、それに深川入江町の岡場所の路地番の銀次がいます。
他には名前だけだったり、一場面だけ登場する人物も数人いますが、物語はこの三人だけで進みます。
とにかく短めの文で「俺」の心象をくっきりと浮かび上がらせる本書『底惚れ』の様は見事の一言に尽きます。
そして、クライマックスは何となく筋道が見えなくもないのですが、青山文平の筆の力はそうしたことをはねのけて盛り上がり、おさまるべきところにおさまるのです。
やはり、青山文平の作品は読みごたえがある、そう思わせられる作品でした。