『やっと訪れた春に』とは
本書『やっと訪れた春に』は2022年7月に247頁のハードカバーで刊行された、長編の時代小説です。
ミステリー仕立てで紡ぎ出される本書は、それでも侍の生きざまを描き出した青山文平の作品らしい、読みごたえのある作品でした。
『やっと訪れた春に』の簡単なあらすじ
橋倉藩の近習目付を勤める長沢圭史と団藤匠はともに齢六十七歳。本来一人の役職に二人いるのは、本家と分家から交代で藩主を出すー藩主が二人いる橋倉藩特有の事情によるものだった。だが、次期藩主の急逝を機に、百十八年に亘りつづいた藩主交代が終わりを迎えることに。これを機に、長らく二つの派閥に割れていた藩がひとつになり、橋倉藩にもようやく平和が訪れようとしていた。加齢による身体の衰えを感じていた圭史は「今なら、近習目付は一人でもなんとかなる」と、致仕願いを出す。その矢先、藩の重鎮が暗殺される。いったいなぜー隠居した身でありながらも、圭史は独自に探索をはじめるが…。名もなき武家と人々の生を鮮やかな筆致で映し出す。(「BOOK」データベースより)
『やっと訪れた春に』の感想
本書『やっと訪れた春に』は、長沢圭史という橋倉藩の近習目付を語り部として、圭史自身と竹馬の友である団藤匠の生きざまを見つめるとともに、橋倉藩で起きた事件の謎を解明する物語です。
当初は、主人公の圭史が六十七歳という尿意をコントロールできない歳になったことを理由に致仕をするという書き出しからして、例えば藤沢周平の『三屋清左衛門残日録』のような隠居をした侍の話になるか、と思っていました。
しかし、その思いは全くはずれ、橋倉藩で起きた事件の謎に迫るミステリー仕立てで侍の生きざまを描き出す作品だったのです。
本書『やっと訪れた春に』では、大きく分けて二つの時間の流れがあり、それぞれにキーワードが設けられているようです。
それは、ひとつは「御師」と呼ばれる圭史の家の庭にある龍のごとき大木の梅をめぐる描写です。圭史は毎年この「御師」の梅の実を梅干しとするのですが、その漬け込みの様子が描かれています。
「御師」の梅干しの漬け込みは今は亡き圭史の家族との対話の時間であり、物語を貫く圭史個人の時間軸です。
そしてもう一つ、こちらの方が物語の主となる流れで、四代藩主岩杉能登守重明の「御成敗」と呼ばれる事件を発端とする橋倉藩の時の流れです。
この「御成敗」は「鉢花衆」と呼ばれる十数人の剣士の一団による粛清事件であり、圭史の長沢家と匠の団藤家も「鉢花衆」の一員でした。
この橋倉藩の歴史という時間軸でのキーワードとしては、ほかに今も残っている「鉢花衆」の長沢家と団藤家の他の「いるかいないかもわからぬ一名」という言葉もあります。
これらのキーワードが随所で物語の核を示し、圭史の推論を導いていきます。
青山文平の作品の魅力は、ひとつには上記のような物語の構成のうまさがあるでしょう。
また、物の見方が独特であり、心象表現も含めて過不足のない簡潔で清冽な文章で描き出されているという点も挙げられると思います。
例えば、武将は「生き抜くことの過酷さが、家族にそそぐ目を粗くする。」といった文章は、他では見ない、しかし武将の生き方を簡潔に示しています。
この登場人物の心象表現も、細やかな筆致で丁寧な描写であり、また情感豊かな表現は私の好むところです。
圭史と匠の二人が「女」について語るなかで、「女は泉のようだ」と、女は水を抱いており、水さえ湧けばそこは泉になる、などという表現などは独特です。
さらには、情景の描写がそのうちに自然と物語の背景の説明へと変化しているなど、場面の展開が自然でとても読みやすいのです。
それでいて、特に本書では二人の侍のこれもまたキーワードの一つに挙げられる「斬気」を身に纏うための稽古の様子など、いろんな意味で厳しいものがあります。
また、青山文平の作品にはミステリーの要素が入っているため、物語として時代小説とは違った面白さが付加されていることもあるのではないでしょうか。
このミステリーの要素という点では、単にストーリー展開がそうだという以上に、登場人物の生きざま自体が、何故そういう生き方を選ぶか、という生き方の問題としての謎が付加されている場面が多い気がします。
もちろん、それは青山文平の作品だけに限ったことではないとは思うのですが、ほかの作家の場合は青山文平ほどの謎への展開がないと感じるのです。
冒頭の展開にしても団藤匠は、圭史が何も言っていないのに、圭史の元気そうな様子や、穿いているはずの軽衫(かるさん)ではなく着流しであることなどから、袴を穿けぬこと、つまりは下のことが理由だと見当をつけています。
たしかに、ここまで人の気持ちを推し量ることができるものだろうかという疑問はあります。
しかし、推理小説ではその論理が正当かどうかは私には問題ではなく、私を納得させてくれるものか、という点だけが重要です。
小説として存在するものである以上、その推論は多分間違った論理ではないでしょうし、またその程度の論理で十分なのです。
このような謎ときが全編にわたって展開されていて、青山文平が言う「生きてる我々が理不尽を含めた周りの変化にもがく姿を書きたい
」という思いは、圭史や匠の育ってきた環境を通して表現されており、さらにはクライマックスへと結びついていくのです。
やはり、青山文平は面白との思いをあらためて認識させられた作品でした。