本書『花下に舞う』は『弥勒シリーズ』の第10弾であり、新刊書で319頁の長編の時代小説です。
本書はあい変わらず心に闇を抱えた小暮信次郎が謎解きに活躍する、シリーズの中でもかなり面白いと言える作品だと思われます。
『花下に舞う』の簡単なあらすじ
口入屋の隠居と若女房が殺された。北定町廻り同心、木暮信次郎は、二人の驚愕の死に顔から、昔、亡き母が呟いた「死の間際、何を見たのであろうか」という言葉を思い出す。岡っ引、伊佐治、商いの途に生きようと覚悟する遠野屋清之介とともに、江戸に蔓延る闇を暴く。待望の「弥勒」シリーズ最新作!(「BOOK」データベースより)
目次
信次郎は非番で八丁堀の組屋敷でまずい酒を飲んでいたが、古参の女中のおしばに母親の命日だから墓参にいくようにとしつこく声をかけられていた。
そこに伊三次の手下である源造が、相生町の口入屋夫婦が殺されたという報せをもって呼びに来た。
殺されたのは「佐賀屋」の主人の徳重とその女房のお月であり、その死に顔は恐怖にも勝る驚愕の色を浮かべていた。
死体を見つけた女中のおさいは、徳重は先妻のおこうの弟である森下町の油屋「今の屋」主人の榮三郎の葬儀から帰り、故人のことを悪しざまに言っていたので罰が当たったのだと言う。
それを聞いた伊三次は、森下町にいる「遠野屋」のことを思い浮かべ、信次郎に遠野屋は無関係だからと念を押す視線を向けてくるのだった。
『花下に舞う』の感想
本書『花下に舞う』でもこれまでと同様に、『弥勒シリーズ』の特徴である小暮信次郎、伊之助、遠野屋清之介の三人の心の闇を意識して描かれています。
これまでのシリーズ作品の内容を全部覚えているわけではないので、これまで以上に“重い”とか、“暗い”などと断言できるわけではありませんが、それでも本書自体が心の「闇」を強調している面が多いことは否定できないと思います。
例えば信次郎は、手下である伊三次の遠野屋清之介に対する思いについて、「剣呑や、異形、血の放つ匂いには人一倍敏い者である
」伊三次が、「遠野屋が刹那放つ凍えた殺気を、底なしの暗みを
」「感じ取れないはずがない
」と言います。
また、伊三次が信次郎に対する説教が減っていることについて、「自分の内側に、信次郎と同じ情動があることに
」思い至ったからだとも言っているのです。
遠野屋清之介自身も、自分の商いにも憂いは何もないはずだが何故か「心の一端に危うさが付き纏う
」が、それは信次郎という「鬼と人との間に生まれた
」と思わせられる男のせいだと言います。
こうして三人の心の闇を強く描写してありますが、ことはそれだけではなく、母親瑞穗の墓参りをする信次郎の背に吹く風を「濡れた手で肌をまさぐられたような不快
」な風と表現してあるように、負の心象を描いてある場面が多い感じがします。
このように、三人それぞれの心象を表すのに「殺気」や「暗み」などの心の闇をしつこく表現しています。
本『弥勒シリーズ』では、普通の捕物帳のように主人公やその手下が足を使い聞き込みを行い、その材料を基に推測し犯人を導き出すという流れとは少し異なります。
どちらかというと、小暮信次郎はいわゆるアームチェアディテクティブと言われる探偵のように、自らはあまり動き回らずに集まってくる証拠類をもとに、頭で犯人を見つける手法に近いように感じられるのです。
実際は、信次郎も伊三次と共に、ときには信次郎一人で探索してはいるのでしょうが、何故か、探索する場面は印象が薄いと思われます
というよりも、信次郎は現場を見、発見者などに聞き込みをした時点で当該事件のおかしな点に気付いており、犯人に近いところまで絞り込んでいるようです。
信次郎は自分の直観に応じて伊三次たちを走らせ、自分の考えの補強をし、事件の裏に隠された真実にたどり着きます。
そして、驚愕の表情を張り付かせた死体、死の恐怖よりも驚きの感情が勝つとはどういう状況なのかが明らかになっていくのです。
本『弥勒シリーズ』のここ数巻ではミステリーとしての側面が強くなっている気がします。
本書『花下に舞う』では特に、謎が明らかになったと思っても信次郎はまだ納得していません。
それは伊三次にしても、また伊佐治から報告を受けている清之介にしても同様であり、そこから一歩踏み込んだところに事件の裏に隠された本当の貌が見えてきます。
事件の当事者たちの普段の暮らしからは見えてこない、他人の目の届かない「闇」に光が当てられるのです。
その一歩踏み込むきっかけが、信次郎の抱く違和感であり、その裏付けを伊三次やその手下が行います。
事件の裏に隠された真実が次々に明らかにされていく過程で、当然のことながら登場人物たちの隠された人生までも明らかになり、彼らの抱える闇に光が当てられるのです。
そうした意味でも本書『花下に舞う』は人間ドラマとしても、またミステリーとしてもバランスよく書き込まれていると思えます。
このごろ感じていた信次郎、清之介それに伊佐治らの織りなす人間模様のマンネリ感も感じることなく、純粋に楽しむことができたように思います。
とくに信次郎の母親の瑞穗の思い出が語られ、思いもかけずに母親の思い出が事件解決へとつながったことは、若干のご都合主義的な印象は否定できないものの、本書を面白く読むことができた最大の要因ではないでしょうか。
信次郎の幼い頃の姿や、信次郎の性格のおおもとに母親の存在を確認できたことなどは『弥勒シリーズ』のファンとしてはたまらないものがあります。
本書『花下に舞う』でも信次郎が遠野屋清之介の正体を暴かずにはおれない、などの言動が何度か出てきます。
商売人としての遠野屋の明るい未来を語るかと思えば、すぐあとに庭の片隅に「闇」をみるなど、決して明るいとは思えない将来を暗示するような表現も随所にみられるのです。
この『弥勒シリーズ』が今後どのように展開するかは分かりませんが、あまり明るくはないだろうということが示唆されているようにも感じものです。