『母の待つ里』とは
本書『母の待つ里』は2022年1月に刊行された、新刊書で297頁のハートフルな心に沁みる長編小説です。
『壬生義士伝』での東北の訛りと同じ方言が、故郷の言葉として再び読者の前に登場して、仕事や家族、そして母親の存在をあらためて考えさせられる物語が展開します。
『母の待つ里』の簡単なあらすじ
家庭も故郷もない還暦世代の3人の男女の元に舞い込んだ“理想のふるさと”への招待。奇妙だけれど魅力的な誘いに半信半疑で向かった先には、かけがえのない“母”との出会いが待っていた。彼らが見出す人生の道しるべとは?あなたを迎えてくれる場所が、ここにある。至高の名作誕生!(「BOOK」データベースより)
知らぬ人のない大企業の社長である松永徹は、親も故郷も捨てた男の四十数年ぶりの里帰りのために在来線のホームに降り立った。
その後バスを乗り継いで相川橋停留所で降りた松永は、通りかかった老人による声掛けという予期しない旧知の出現に胸が鳴り、どう応じてよいのかもわからないでいた。
四十年ぶりの故郷に、帰る道を忘れてはいないかと道を教えてくれた老人の言うとおりに歩いていくと、何もかも忘れ去ってしまったけれど、松永徹が生まれ育ったであろう茅葺屋根の曲がり家が見えてきてた。
庭続きの小さな畑からこんな人だったろうかと思う母が立ち上がり、「けえってきたが」と声をかけてきたのだった。
『母の待つ里』の感想
本書『母の待つ里』の導入部である第一章は上記のように幕を開けました。
浅田次郎の文章は言うまでもなく美しく、郷愁を誘う故郷の風景描写はいかにもの実家の様子を簡単に思い描くことができます。
四十年も無沙汰をしたふる里、そのふる里に一人暮らす母親との久しぶりの邂逅は他人行儀な言葉遣いになってしまうのです。
その様子が冒頭からうまい導入の仕方だなと感じ入ってしまい、流れるような郷愁を誘う文章のなせる業かと思ってしまいました。
ところが、読み進めるうちに微妙な違和感が生じてきます。
いくら四十年が経っているからと言って自分の母親の顔や名前を覚えていないことがあるだろうか。実家の間取りを忘れてしまうだろうか。
そしてこの章の最後にその違和感の種明かしがされ、こういう設定だとは夢にも思わずにいた自分は見事に騙されました。
いや、それほどに浅田次郎の筆のうまさが勝っていたというべきでしょう。
本書『母の待つ里』の登場人物は、先にも出てきた松永徹、室田精一、古賀夏生といったそれぞれに故郷に戻り感慨を深くする人たちです。
それに彼らを温かく迎えてくれるふる里で待つ母親ちよに加え、佐々木商店や背戸(裏の家)の一家の人々といった村人たちがいます。
そのほか、松永徹の学生時代からの親友である秋山光夫や有能な秘書の品川操、室田精一の妹の小林雅美、古賀夏生の後輩の小山内秀子など、物語の中心となる三人の周囲の人々が登場します。
彼ら三人は、松永は大企業の社長、室田は製薬会社の営業部長、古賀は大学病院の准教授まで勤めた独身の勤務医で、それぞれに相応の年収を得た成功者というところでしょうか。
彼らはユナイテッドカード・プレミアムクラブの会員であるという共通項があったのです。
まさに日本人が心に描く「ふるさと」を美しく描き出した作品です。
しかしながら、現実のふる里、「いなか」を考えると決して本書『母の待つ里』に描かれているようなきれいごとだけではすみません。
今はそうでもないかもしれませんが、都会で個人のプライバシーがかたく守られた生活に慣れた人たちにとっては耐え難いものになると思います。
かつての「いなか」は閉鎖的であり、よそ者は村の仲間として溶け込むことは困難でもあったのです。
本書で描かれている美しい「ふるさと」は一面の真理ですが、それはあくまで日本人の心情に沿った「ふるさと」であり、現実のふる里、「いなか」ではないのではないでしょうか。
だからこそ、作者浅田次郎の名作『壬生義士伝』での東北の訛りが読み手の心に染み入ってくるのだと思われます。
とはいえ、本書で描かれているのは日本人の心のふる里であり、ふる里に一人住む母への想いですから、こうした現実を指摘することに何の意味もないと思われます。
浅田次郎の美しい文章で紡ぎ出される心のふる里に思いを馳せ涙する、それで充分です。
ただ、本書『母の待つ里』の結末に関しては、浅田次郎という作家であればもう少し他の結末もあったのではないかという気はします。
本書の結末は少々哀しくもあり、ありふれてもいて、もっと他の心温まるクライマックスを期待していたのです。
でもそれは浅田次郎ファンとしての無茶な、贅沢な希望にすぎないものであることも分っています。
本書『母の待つ里』はやはり浅田次郎の心に残る物語であることは間違いありません。