化け者心中

化け者心中』とは

 

本書『化け者心中』は『化け者シリーズ』の第一弾で、2020年10月にKADOKAWAからハードカバーで刊行され、2023年8月に角川文庫から352頁の文庫として出版された長編のミステリー小説です。

江戸時代の文政期の歌舞伎の世界を舞台に、人間を食い殺してその人間に成り代わった鬼を探し出すという大変にユニークな作品で、一気にとりこになりました。

 

化け者心中』の簡単なあらすじ

 

ときは文政、ところは江戸。ある夜、中村座の座元と狂言作者、6人の役者が次の芝居の前読みに集まった。その最中、車座になった輪の真ん中に生首が転がり落ちる。しかし役者の数は変わらず、鬼が誰かを喰い殺して成り代わっているのは間違いない。一体誰が鬼なのか。かつて一世を風靡した元女形の魚之助と鳥屋を商う藤九郎は、座元に請われて鬼探しに乗り出すーー。第27回中山義秀文学賞をはじめ文学賞三冠の特大デビュー作!(内容紹介(出版社より))

 

化け者心中』の感想

 

本書『化け者心中』は、「鬼」というファンタジックな生き物を登場させていながらも、歌舞伎界の華やかさと役者の世界の人間臭い雰囲気に満ちた世界観を見事に再現し、ミステリアスな物語を作り上げた作品です。

驚くべきはその文章の見事さと同時に、中山義秀文学賞、第11回小説野性時代新人賞、第10回日本歴史時代作家協会賞新人賞の三冠を受賞しているという事実であり、この作品がデビュー作だという作者の力量です。

 

本書『化け者心中』の魅力は、まずはその文章にあります。

本書冒頭には、狙いを定めた娘である“おみよ”の唇を奪う寸前、「ねうねう、にゃあう」と鳴く猫に邪魔をされて江戸弁で愚痴を言いながらもなお追いかける主人公の藤九郎の姿があります。

不思議なのは、その藤九郎に対しおみよが「信さん」と呼びかけていることです。この場面には藤九郎とおみよの他には誰もいそうもないのですが、おみよはしつこく「信さん」と呼んでいるのです。

こうして、小気味いい言葉に先を促されながら読み進めると、本書の本当の主人公である田村魚之介(たむらととのすけ)という元女形が登場し、藤九郎との関係と共に藤九郎が「信さん」と呼ばれている理由もすぐに判明します。

こうした導入部から物語の世界観の一端が示され、読者はこの作品世界に一気に引きずり込まれてしまうのです。

 

次に、本書『化け者心中』で展開される世界観の異様さもまた魅力的です。

歌舞伎役者たちの暮らす現世と、鬼という妖(あやかし)の棲む世とが共存している世界であり、物語としてはファンタジーともとれますが、本書をファンタジーとは呼ばないでしょう。

娘も含めた江戸っ子たちがこぞって真似をする、歌舞伎役者が身につけている簪や笄などの小物から帯や着物に至るまでの絢爛豪華な世界がある一方、鬼が食い尽くし中身が鬼と入れ替わった存在が共に暮らしている世界です。

こうした世界で鬼が成り代わっているのは誰か、魚之介と藤九郎との捜索が始まります。

 

そして、歌舞伎の世界で生きている役者たち、それも女形の役者たちの生きざまこそが本書の主眼です。

大坂と江戸との間の歌舞伎役者同士のつば競り合いもさることながら、役者個々人の存在感が圧倒な迫力をもって迫ってきます。

その中で、屋号を「白魚屋」といい、当代一の女形と謳われたものの、とある事件で両足の脛の半ばから下を失った田村魚之介と、「百千鳥」という鳥屋を営む藤九郎とが江戸随一の芝居小屋である中村座の座元の中村勘三郎に頼まれ探偵役となるのです。

 

つい先日、第169回直木三十五賞や第36回山本周五郎賞を受賞した永井紗耶子の作品『木挽町のあだ討ち』を読んだばかりです。

この作品も江戸の「悪所」と呼ばれている芝居町の「江戸三座」の一つである森田座を背景とした作品でした。

衆人環視の中で成し遂げられたある仇討ちについて、その裏側に隠された物語が次第にあぶり出されていくというミステリー仕立ての作品です。

 

 

その作品でも芝居の裏側について書かれていましたが、本書『化け者心中』はより役者、とくに、「女形」と呼ばれている人たちの生きかたについて描き出されています。

鬼という存在を取り上げてその存在を突き止めようとしていますが、その実、役者(とくに女形)という存在について掘り下げてあるのです。

 

本書『化け者心中』は、続編として『化け者手本』という作品があるそうです。

 

 

今のところ、この二作品だけのようですが、もしかするとそれ以上のシリーズ物として紡がれていくのかもしれません。

本書は「文学賞三冠の特大デビュー作」という謳い文句もすごいのですが、実際に接してみるとこの謳い文句以上の衝撃に襲われること必至です。

それほどに素晴らしい作品だと思います。

審議官 隠蔽捜査9.5

審議官―隠蔽捜査9.5―』とは

 

本書『審議官―隠蔽捜査9.5―』は『隠蔽捜査シリーズ』の短編集としては三冊目で、2023年1月に新潮社からハードカバーで刊行された短編の警察小説集です。

『隠蔽捜査シリーズ』の隙間を埋めるスピンオフ短編集であり、当然のごとく非常に面白く読んだ作品でした。

 

審議官―隠蔽捜査9.5―』の簡単なあらすじ

 

信念のキャリア・竜崎の突然の異動。その前後、周囲ではこんな波瀾がーー!? 米軍から特別捜査官を迎えた件で、警察庁に呼び出された竜崎伸也。審議官からの追及に、竜崎が取った行動とはーー(表題作)。竜崎の周囲で日々まき起こる、本編では描かれなかった9つの物語。家族や大森署、神奈川県警の面々など名脇役も活躍する、大人気シリーズ待望のスピンオフ。本書のための特別書き下しも収録!(内容紹介(出版社より))

 

目次

空席 | 内助 | 荷物 | 選択 | 専門官 | 参事官 | 審議官 | 非違 | 信号

 

審議官―隠蔽捜査9.5―』の感想

 

本書『審議官―隠蔽捜査9.5―』は、神奈川県警本部の刑事部長に異動することになった竜崎伸也をめぐる人たちに関する短編が収められているので、『隠蔽捜査シリーズ』のスピンオフ作品集というべきでしょうか。

隠蔽捜査シリーズ』では『初陣 隠蔽捜査3.5』、『自覚 隠蔽捜査5.5』に次ぐ第三弾目の短編集ということになります。

ほとんどの話が、結局は竜崎に相談した結果やはり竜崎が常々言っている原理原則論そのままの言葉に、それまで悩んでいたことが嘘のようにすっきりと問題が解決していきます。

本『隠蔽捜査シリーズ』の魅力は何と言っても主人公である竜崎伸也というキャラクターの存在によるところが大きいででしょうが、本書はその竜崎の魅力そのままに展開されていると言えるのです。

 

「空席」
異色の署長であった竜崎伸也の後任署長が着任するまでの空白の一日の間に発生した事件について、第二方面本部の野間崎管理官に振り回される貝沼悦郎副署長を中心とする大森署員の姿が描かれています。

この後任の署長が、『署長シンドローム』での主人公となる女性キャリアの藍本百合子警視正であり、貝沼がつぶやいたように「うちの署は変わった署長ばかりやってくる」ことになるのでした。

 

「内助」
竜崎伸也の妻である竜崎冴子が、テレビで昼のニュースを見ていたときに感じた違和感から事件の真実に至るという、冴子の名推理がさえわたる異色の短編です。

推理そのものよりも、また竜崎夫婦の姿や、娘の美紀や息子の邦彦をも含めた竜崎家の様子が丁寧に描かれているところが、本シリーズのファンとしては興味深い作品でした。

 

「荷物」
竜崎伸也の息子の邦彦が、友人から預かった荷物が覚醒剤と思われるだった白い粉だったことから、誰にも相談することができずに思い悩む姿が描かれています。

邦彦はどういう方法でこの苦境を乗り越えることができるのか、に関心が集中し、結果は予想がつく範囲ではありましたが、その過程を読ませる作者の力量はさすがであり、すっきりした読後感でした。

 

「選択」
竜崎伸也の娘の美紀が電車内での痴漢騒ぎに巻き込まれる姿が描かれています。

正しいことを行ったものが理不尽に扱われてしまう現実に即しているともいえそうな、それでいて痛快な作品に仕上がっています。

加えて、美紀の会社の様子や同僚まで存在感をもって描いてある作品になっています。

 

「専門官」
神奈川県警の組織の特殊性をもとに、県警内の、特にキャリアを嫌うノンキャリア、という人間関係を描き出してあります。

専門官」とは、ベテラン捜査員のなかの警部待遇の警部補のことだそうです。

本書『審議官―隠蔽捜査9.5―』ではキャリア嫌いで通っている矢坂敬藏警部補に焦点が当たっていて、新しく刑事部長となった竜崎伸也との対立を心配する池辺渉刑事総務課長らの姿があります。

ここでも竜崎の特殊な存在感が光っています。

 

「参事官」
ここでもまた、キャリアとノンキャリアの対立、具体的には、佐藤実本部長から阿久津参事官と組織犯罪対策本部の参事官である平田清彦警視正との仲が悪いので何とかしてほしい、と頼まれた竜崎の姿が描かれています。

この話では永田優子捜査二課長という二十四歳のキャリアが登場してきますが、この人物は『横浜みなとみらい署暴対係シリーズ』でも登場してきている人物と同一人物だと思われます。

 

「審議官」
審議官という幹部でも個人的な感情で動くことがある、という組織の問題を指摘しているようです。

刑事局担当の長瀬友昭審議官が、横須賀の殺人・死体遺棄事件で、自分が米軍関係者の関与があったことを知らなかったことが問題だと、佐藤実本部長に文句を言ってきたのです。

この話の冒頭に出てくる横須賀の殺人・死体遺棄事件は、『探花 隠蔽捜査9』での事件を指していると思われます。

ちなみに、「審議官」とは、「日本の行政機関における官職の名称に使われる語」だそうです。詳しくは、「ウィキペディア(審議官)」を参照してください。

 

「非違」
竜崎伸也の後任である前出の藍本百合子新署長が赴任してから、野間崎管理官が何かにつけ大森署に来るようになったという話です。

今回の来署の理由は、強行犯係の戸高善信刑事の平和島のボートレース場に通う行為が問題だというのでした。

 

「信号」
「参事官」で登場していた永田優子捜査二課長竜崎伸也に言っていた「キャリア会」というキャリア組の飲み会で交わされた、細い路地の横断時に、車も通っておらず人の眼もない時に赤信号を守るか、という話にまつわる物語です。

渡るという佐藤本部長の言葉が記者に漏れたことで三島交通部長が怒っているのです。

しかしその裏には、三島交通部長は五十八歳のノンキャリア警視正であり、ここでもキャリア対ノンキャリアの対立の様子が描かれています。

 

本書『審議官―隠蔽捜査9.5―』でも、『隠蔽捜査シリーズ』本編ではあまり焦点が当たらないような登場人物たちに光を当て、その人物をめぐる話が展開されています。

そして、そうした中でもキャリアとノンキャリアの対立の場面が何か所か描かれていて、現実にもそうした問題があるのだろうと推察されるのです。

また、各話の出来自体も勿論面白いのですが、永田優子捜査二課長や藍本百合子大森署新署長など、今野敏の他のシリーズの出演者が少しずつ顔を見せたりして、今野ワールドのファンとしてはそうした面でも楽しみが見いだせます。

今野敏のファンとしては、こうした作品も間を置かずに読みたいと思ってしまいます。

付添い屋・六平太 犬神の巻 髪切り女

付添い屋・六平太 犬神の巻 髪切り女』とは

 

本書『付添い屋・六平太 犬神の巻 髪切り女』は『付添い屋・六平太シリーズ』の第六弾で、2023年4月に274頁の文庫本書き下ろしで刊行された、連作短編の痛快時代小説集です。

 

付添い屋・六平太 犬神の巻 髪切り女』の簡単なあらすじ

 

冬空の下、浪人の秋月六平太は若党に扮して笹郷藩主登城の行列に加わっていた。かつて信州十河藩の警固役だった身としてほろ苦い思いに浸る中、突如現れた曲者たちの襲撃に遭う。藩主は難を逃れたものの、立ちはだかった六平太には影が付きまといはじめる。そんなある日、巣鴨で娘が髪を切られる事件が。最初に起こった品川から四件目だが、娘に怪我を負わせるわけでもないという。下手人の意図が気になる六平太が毘沙門の親方・甚五郎に相談すると、四つの事件には意外な繋がりがあると分かり…。六平太最愛の女に危機が迫る、王道の人情時代劇第十六弾!(「BOOK」データベースより)

第一話 日雇い浪人
天保四年の冬、笹郷藩主の登城の列に加わるため、若党に扮していた六平太。乗り物とともに御成街道を進んでいると、不意に幾つかの黒い影が飛び出し、行列を襲いはじめた。立ちはだかった六平太に、曲者は引き上げていったものの……。
第二話 髪切り女
品川で娘が髪を切られる事件が起きてから、ひと月半。巣鴨で四件目となったが、怪我を負わせるわけでもないという。いまだに手掛かりを得られない下手人の意図が気になる六平太が、毘沙門の親方・甚五郎に話を振ってみると意外な繋がりが……。
第三話 内輪揉め
「市兵衛店」で夫婦喧嘩が! やきもち屋のお常は、天気が悪いのに仕事に行くと言ってきかない大工の夫・留吉が、若い女とできてい円熟の第16弾!ると疑って引かないのだ。六平太が留吉に事情を聞くと、仕事先で妙なものを見つけてしまい、気になっているという。
第四話 春待月
六平太は『飛騨屋』の主・山左衛門の相談に乗っていた。店の養子を決めたと言うが、お登世の婿としてではないらしい。独身娘の集まり『いかず連』はどうなるのか? 翌日、六平太の恋仲のおりきが行方れずに。笹郷藩の行列を襲った者が怪しいが。(内容紹介(出版社より))

 

付添い屋・六平太 犬神の巻 髪切り女』の感想

 

本書『付添い屋・六平太 犬神の巻 髪切り女』での巻を通してのエピソードは、「第一話 日雇い浪人」での笹郷藩主登城の際の襲撃事件に関する話です。

この襲撃事件の裏にあった笹郷藩内での派閥争いに巻き込まれた秋月六平太が、その剣の腕を見込まれて派閥の双方から助力を頼まれ、また反感を買うことになります。

そこで六平太に最後までつきまとう武士として笹郷藩江戸屋敷の徒歩頭である跡部与四郎という角ばった顔の侍が配置されています。

藩主の命を救った六平太ですから、感謝されることはあっても恨みを買うことはないはずですが、そこが主持ちの武士の融通の効かないところであり、厄介なところでした。

 

前巻『河童の巻 噛みつき娘』の項で書いたように、本書『犬神の巻 髪切り女』でも魅力的な主人公とその周りの人々の人情話が語られています。

第一話 日雇い浪人」は前述したように主持ちの武士の融通の利かない振る舞いについての話でしたが、第二話「第二話 髪切り女」は近頃江戸の町で起きている娘が髪を切られるという事件の顛末です。

四谷にある相良道場で久しぶりに道場で顔を合わせた北町奉行所同心の矢島新九郎と汗を流した後に、娘が髪を切られるという事件が起きているという話を聞きます。

その後、この事件は「いかず連」の登勢お千賀らへと伝わり、彼女らも巻き込んで展開するのでした。

第三話 内輪揉め」は、「市兵衛店」に住む留吉お常夫婦の物語です。

お常が、近頃留吉がため息ばかりをついているため留吉に女ができたと思い込み、夫婦仲が険悪になっていると聞いて、二人の間に入り話を聞いた六平太でしたが、話しは意外な方向へと向かいます。

第四話 春待月」は、これまでの三話それぞれの総仕上げのようになっていて、本シリーズにしては珍しい構成です。

つまり、留吉とお常の夫婦にはお礼として届き、また「飛騨屋」の主の山左衛門からは店のために養子を決めたと聞かされます。そんなとき、おりきが行方不明になったとの知らせが届くのでした。

 

前にも書いたように、本書『付添い屋・六平太 犬神の巻 髪切り女』ではシリーズを通した大きな敵はいませんし大きな出来事もありません。

秋月六平太という素浪人の日々の生活が描かれていくだけであり、ただ、付添人である六平太の周りには人より揉め事が多く存するというだけです。

そこに痛快時代小説としてのネタがあるわけですが、若干派手さが欲しいという気がしないでもありません。

本書も、そうした流れの中に普通に位置づけられる作品だと思います。

ただ、そういう声が聞こえたのか、本書の終わりにちょっとした出来事が用意してあり、次巻へと続きますので、続巻を待ちましょう。

ジウX

ジウX』とは

 

本書『ジウX』は『ジウサーガ』の第十弾で、2023年6月に416頁のハードカバーで中央公論新社から刊行された、長編の冒険小説です。

個人的には最も好きな作家の一人である誉田哲也の作品の中で、ある政治的主張を明確に織り込んで構成されているエンターテイメント小説であり、それはそれで面白く読みました。

 

ジウX』の簡単なあらすじ

 

生きながらにして臓器を摘出された死体が発見された。東弘樹警部補らは懸命に捜査にあたるが、二ヶ月が経っても被害者の身元さえ割れずにいた。一方、陣内陽一の店「エポ」に奇妙な客が集団で訪れた。緊張感漂う店内で、歌舞伎町封鎖事件を起こした「新世界秩序」について一人の女が話し始める。「いろいろな誤解が、あったと思うんです」-。各所で続出する不気味な事件。そして「歌舞伎町セブン」に、かつてない危機が迫る…。(「BOOK」データベースより)

 

ジウX』の感想

 

本書『ジウX』が属する『ジウサーガ』は、誉田哲也という作家の作品の中でも一、二位を争う人気シリーズです。

このシリーズは斬新な警察小説として始まり、後に新宿を舞台とする仕事人仲間の物語へと変化し、さらには「ジウ三部作」での敵役であった「新世界秩序」という集団を敵役として、新たな冒険小説として展開しつつあります。

本書では、そんな変化していく『ジウサーガ』においての敵役としての「新世界秩序」という集団が、これまでのような漠然とした存在ではなく明確な存在としてその姿を見せてきます。

そして、問題は「新世界秩序」の主張もまた明確になってきたことであり、その主張が国家の存立にかかわることだということです。

 

こうして、「新世界秩序」という組織の実態、その目的が明確になってきたことが本書の一番の見どころでしょう。

といっても、「新世界秩序」という組織の詳細まで明らかになったわけではありません。

ただ、『ジウ三部作』での黒幕と言われたミヤジでさえも下っ端と言い切る集団が登場します。

その集団が「新世界秩序」の特殊なメンバーである「CAT」と呼ばれる一団です。

この「CAT」は暴力を振るうのにためらいが無く、また残虐であって、誉田哲也の特徴の一つでもあるグロテスクな描写が展開されています。

本書『ジウX』の冒頭から示される殺人事件の描写からして、あるカップルの女性の身体の解体であり、男性への陵虐です。

 

そして、その「CAT」の傍若無人な活動と、それに伴う警察の動き、特に東弘樹警部補の活動、そして「歌舞伎町セブン」の活躍から目を離せません。

この「CAT」は明確な政治的主張を持った一団です。その主張は単純であり、「相互主義」という言葉を直接的に用いています。

外交の世界で使われる言葉の正確な意味は分かりませんが、近年のテレビでは「相互主義」という言葉を主張するコメンテーターがいるのも事実です。

相互主義」とは、外交の場面では「相手国の自国に対する待遇と同様の待遇を相手国に対して付与しようとする考え方」を言います( ウィキペディア : 参照 )。

 

そうした言葉の意味をそのままに持ってきているのか分かりませんが、エンターテイメント小説の中にこれだけ政治性の強い単語を、それもその意味の詳細な定義もないままに物語の中心的なテーマとして、しかし情緒的に使っている作品も珍しいのではないでしょうか。

大沢在昌の『新宿鮫シリーズ』や月村了衛の『黒警』のような作品ではよく外国人が登場しますが、それは犯罪者としての役割を担っている場合が多いようで、政治的な主張を示しているわけではありません。

 

 

また、麻生幾の『ZERO』(幻冬舎文庫 全三巻)のようなインテリジェンス小説でも現場の諜報員としての物語という場合が殆どです。

 

 

しかし、本書『ジウX』の場合は特定の中国という国に対する憎悪を持った集団が、情緒的ではあっても明確な、そしてそれなりに現実性を持った政治的な主張をしているのです。

そして、その主張こそが「CAT」の存在意義であり、本書の核にもなっている点で独特です。

また、現代の世相の一部を切り取って、エンターテイメント小説として成立させている点でもユニークだと思うのです。

 

新宿セブンのメンバーも当初から少しずつ変化してはいますが、本書ではまた一人抜けそうであり、その後釜についても問題になっています。

その候補として挙がっているのが、「新世界秩序」の一員であり、「セブンのメンバーから、最も嫌われている女」である、土屋昭子でした。

 

本書『ジウX』は、エンターテイメント小説としての面白さを十分に備えた作品として、その後の展開が期待され、続巻が待たれる作品として仕上がっている作品だといえます。

ごんげん長屋つれづれ帖【六】-菩薩の顔

ごんげん長屋つれづれ帖【六】-菩薩の顔』とは

 

本書『ごんげん長屋つれづれ帖【六】-菩薩の顔』は『ごんげん長屋つれづれ帖シリーズ』の第六弾で、2023年3月に276頁の文庫本書き下ろしで刊行された、連作の短編小説集です。

シリーズ六冊目ともなると読み手の目も厳しくなったのか、その物語展開に、若干ですが面白味を感じなくなってきました。

 

ごんげん長屋つれづれ帖【六】-菩薩の顔』の簡単なあらすじ

 

お勝たちの隣に住まう足袋屋『弥勒屋』の番頭治兵衛。二十六夜待ちで月光の中に菩薩様のお姿を見たと言ってご機嫌だったはずのこの男が、ここ数日浮かぬ顔をしているという。『弥勒屋』の主の徳右衛門から話を聞いたお勝は仕事帰りに店の前を通りかかるが、そこで船頭姿の若者と揉めている治兵衛の姿を目にしてー。くすりと笑えてほろりと泣ける、これぞ人情物の決定版。時代劇の超大物脚本家が贈る、大人気シリーズ第六弾!(「BOOK」データベースより)

 

第一話 貸家あり
お勝の住む「ごんげん長屋」の空き家に三、四日寝泊まりすると挨拶に来た米助という男が、その夜長屋の決まりや近隣の様子などを聞く集まりをするといってきた。そこに八卦見のお鹿が、あの米助は以前はキンジと呼ばれていたという話をするのだった。

第二話 鶴太郎災難
七月十六日の盆の送り火を済ませた長屋に、十八五文の薬売りの鶴太郎を訪ねて神田の目明しの丈八親分と南町奉行所の同心の佐藤利兵衛がやってきた。鶴太郎が売った薬で死人が出たというのだ。死んだのは神田須田町二丁目の乾物屋「栄屋」の主の丹治だという。

第三話 身代わり
七月下旬のある日お勝は医者の白岩導円から、導円の屋敷の女中のお玉が身籠ったという相談を受けた。相手は備中国から江戸に来て導円の屋敷に寄宿している祐筆の中村権十郎だという。問題は、中村には国許に妻女と二人の子がいるということだった。

第四話 菩薩の顔
ある日、足袋屋「弥勒屋」の主の徳右衛門が、この頃番頭の治兵衛の様子がおかしくはないか、と<岩木屋>のお勝を訪ねてきた。お勝は、治兵衛が自分が二十六夜待ちの夜に自分が見た菩薩は「常光寺」で見た阿弥陀如来像の脇に立つ勢至菩薩像に間違いない、と言ってきたことを思い出していた。

 

ごんげん長屋つれづれ帖【六】-菩薩の顔』の感想

 

本書『ごんげん長屋つれづれ帖【六】-菩薩の顔』は、これまでと変わらない四編の連作の短編小説からなる人情小説集です。

本『ごんげん長屋つれづれ帖シリーズ』の基本的な流れである主人公のお勝のおせっかいぶりもいつも通りで、さまざまな事柄に首を突っ込っ込まずにはおれないお勝の姿が描かれています。

前巻で書いた本シリーズの何となくの物足りなさ、も残念ながら本書でも何らの変更もありません。

これまでと変らずに、今一つ心に迫るものがないままに終わってしまった作品でした。

 

第一話 貸家あり」では、本書の主な舞台となるごんげん長屋の一軒だけ空いている貸家についての話です。

この話については、あまり書くこともないほどでした。七夕や七月十日の四万六千日などの季節の行事についての記述はあるものの、出来事自体は特に語るべきものはありません。

貸し家を借りに来た人物についての話ですが、その顛末があまりに都合がよすぎ、何とも言いようもない話としか言えません。

 

第二話 鶴太郎災難」は、ごんげん長屋の住人である十八五文の薬売りの鶴太郎に関する話です。

神田須田町二丁目の乾物屋「栄屋」の主の丹治が薬物により亡くなったが、その薬物というのが鶴太郎の売った薬らしいというのでした。

この話も事件自体は特別なことは無く、その後の展開も取り立てて言うべきこともありません。

 

第三話 身代わり」は、お勝が日頃世話になっている医者の白岩導円に絡んだ話です。

導円の屋敷の女中のお玉が身籠ったというのですが、その相手とされた侍の振る舞いが何とも気にかかる振舞でした。

読む人にとっていろいろな感想が出てくる話ではなかったでしょうか。

 

第四話 菩薩の顔」は、ごんげん長屋の住人である治兵衛についての話です。

自分が夢で見たのは「常光寺」にある阿弥陀如来像の脇に立つ勢至菩薩像に間違いないという治兵衛の、来歴が明らかにされます。

この話は、人情物語としてそれなりに読みがいがある物語でした。

猪牙の娘 柳橋の桜

猪牙の娘 柳橋の桜』とは

 

本書『猪牙の娘 柳橋の桜』は『柳橋の桜シリーズ』の第一弾で、2023年6月に文春文庫から刊行された長編の痛快時代小説です。

佐伯泰英の最近の作品にある女性が主人公となった全四編というミニシリーズですが、個人的には今一つ感情移入できない作品でした。

 

猪牙の娘 柳橋の桜』の簡単なあらすじ

 

吉原や向島などへ行き交う舟が集まる柳橋。神田川と大川が合流する一角に架けられていたその橋の両側には船宿が並び、働く人、遊びに行く人で賑わっていた。柳橋の船宿さがみで働く船頭の広吉には一人娘がいた。名前は桜子。三歳で母親が出奔するが、父親から愛情を受けて育ち、母譲りの器量よしと、八歳から始めた棒術の腕前で、街で人気の娘となる。夢は父親のような船頭になること。そんな桜子に目を付けた、船宿の亭主による「大晦日の趣向」が、思わぬ騒動を巻き起こしー。(「BOOK」データベースより)

 

猪牙の娘 柳橋の桜』の感想

 

本書『猪牙の娘 柳橋の桜』は、船頭になることを夢見ている一人の娘の奮闘記です。

ここで市井の人情ものの時代小説ではよくその名を聞く「柳橋」とは、神田川が大川へと流れ込む土地の名前であり、神田川に設けられた橋の名前でもあります。

近くに両国広小路が控えていることもあり、船宿が増え、花街として繁栄したそうで、本書の主人公の父親も柳橋の船宿「さがみ」で船頭として働いています。

 

柳橋」という地名からは、個人的にはすぐに山本周五郎の『柳橋物語』を思い出していました。

『柳橋物語』は山本周五郎の市井ものに分類される、ただ自分の心を信じて不器用に生き抜いていくおせんという娘の話です。

 

本書『猪牙の娘 柳橋の桜』の主人公桜子は、柳橋の「船宿さがみ」で船頭を務める広吉の娘です。

桜子が三歳の時に母親は男と共に出ていき、父親の乗る猪牙舟と共に育ちました。

母親の美しさを受け継いだ桜子は、父親の愛情のもと、寺子屋を営む横山向兵衛の娘で背は低いけれども才女のお琴こと横山琴女を友として、人気の娘として明るく育っていました。

十二歳となった桜子はそこらの大人と比べても背が高くなっており、娘の将来を心配する広吉に対し、自分の夢は父親のような船頭になることだといいます。

また、桜子が八歳のことから通っていた薬研堀にある棒術道場の道場主の孫である大河内小龍太もまた桜子の支援者の一人となっています。

この棒術は、いざ桜子が船頭として船を操るときも桜子の船頭の腕の上達に役立っていたのでした。

そんな桜子が船頭として、お琴とお琴の従妹で刀の砥師で鑑定家の相良謙左衛門泰道の息子の相良文吉、それに小龍太との都合四人を乗せての舟遊びの帰り、ちょっとした事件に巻き込まれてしまうのです。

 

新しいシリーズが始まるのは佐伯泰英ファンとして実に喜ばしいことですが、本シリーズのようなミニシリーズは微妙なところがあります。

本書の場合でいうと、確かに主要なキャラクターはそれなりに立っていて面白さを感じますが、どうにも『居眠り磐音シリーズ』のようなシリーズと比べると今一つ乗り切れません。

でも、『居眠り磐音シリーズ』は佐伯泰英の作品の中でも一番の人気シリーズなので、そういうシリーズと比べること自体がおかしいのでしょう。

ただ、桜子たちが舟遊びの途中で遭遇する火事騒ぎなど、全四巻という短いシリーズの第一巻である本書で桜子たちを紹介するエピソードとしても、とってつけたとの印象があり、何となくシリーズとしての弱さを感じたのだと思います。

 

そういえば、佐伯泰英が娘を主人公にしたミニシリーズとして『照降町四季シリーズ』(文春文庫全四巻)がありました。

そしてこのシリーズでは「期待が高すぎた」との心象を書いています。もしかしたら本シリーズでも同様のことが言え、当方の期待が高すぎたと言えるのかもしれません。

 

 

ついでに、もう一点不満点を書いておきますと、佐伯泰英の作品に共通して感じる台詞の大時代的な言いまわしがやはり気になります。

如何に侍の子とは言え、老成した印象緒のそのしゃべり方はどうにも素直には受け入れることができないのです。

とはいえ、やはり読み物としての面白さはありますので、続巻を楽しみに待つことになる作品でした。

トランパー 横浜みなとみらい署暴対係

トランパー 横浜みなとみらい署暴対係』とは

 

本書『トランパー 横浜みなとみらい署暴対係』は『横浜みなとみらい署暴対係シリーズ』の第七弾で、2023年5月に刊行された384頁の長編の警察小説です。

途中までは普通の作品だと思いながらの読書だったのですが、途中から予想外の展開を見せ、なかなかに面白く読むことができた作品でした。

 

トランパー 横浜みなとみらい署暴対係』の簡単なあらすじ

 

港ヨコハマを暴力から守る「チーム諸橋」の活躍を描く
「横浜みなとみらい署暴対係」シリーズ第七弾!

商品を受け取るも代金を支払わない「取り込み詐欺」。
暴力団の懐を肥やす資金源を断ち切るため、“ハマの用心棒”が倉庫街を駆ける!

神奈川県警みなとみらい署刑事第一課暴力犯対策係係長・諸橋夏男。〈ハマの用心棒〉と呼ばれ、
暴力団から一目も二目も置かれる存在だ。
大量の商品を注文して代金を支払わない「取り込み詐欺」に管内の暴力団・伊知田組が
関与しているらしいが、確証がないという。
県警本部の永田二課長から問い合わせを受けた諸橋は、
県警本部と合同で張り込みを開始、
伊知田が所有する倉庫に品物が運ばれたのを確認するが、ガサ入れは空振りに終わった。
誰かが情報を洩らしたのか!?

好評警察小説シリーズ最新刊。(内容紹介(出版社より))

 

トランパー 横浜みなとみらい署暴対係』の感想

 

本書『トランパー 横浜みなとみらい署暴対係』は、いつもの通りの諸橋と城島の二人が活躍する物語で、これまで以上に面白く感じた作品でした。

 

県警捜査二課からの問い合わせを受け、管内の小さな暴力団である伊知田組の取り込み詐欺事件にまつわる捜査から幕を開けます。

依頼に応じて目星をつけた倉庫に食材が運び込まれたのを確認、撮影し、確信をもって令状を取り家宅捜索のために乗り込みますが、荷物は既に運び出されていました。

内部からの情報漏洩を疑いますが、そのうちに事態は思いもかけない方向へと動き始めます。

 

もともと本『横浜みなとみらい署暴対係シリーズ』の魅力と言えば、まずは主役の二人、諸橋夏男警部と係長補佐の城島勇一警部補とのコンビのキャラクターが挙げられるでしょう。

「ハマの用心棒」と呼ばれる諸橋警部とラテン系と言われるほどにポジティブな城島警部補との取り合わせが、その会話も含めてうまく機能しているのです。

その諸橋の下でチームとして動く浜崎吾郎巡査部長を始めとする係員たちそれぞれの個性、さらにはシリーズではおなじみの神奈川県警察本部警務部監察官の笹本康平警視の存在も魅力的です。

 

また、本書『トランパー』の魅力についていえば、、今回初登場の県警本部刑事部捜査第二課課長の永田優子警視、その部下で知能犯捜査第一係の牛尾主任、県警本部組織犯罪対策本部暴力団対策課平賀松太郎警部補などの登場人物たちもうまく機能しているところも挙げられると思います。

それに、物語が第二段階に入って話が一段と広がりを見せてきたときの県警本部警備部外事第二課の保科武昭警部補たちの存在や、なによりも福富町のビルのオーナーの郭宇軒が重要な存在として登場している点も見逃せません。

 

でも、本書『トランパー』での一番の魅力はやはり物語展開の意外性と、そこで繰り広げられる捜査員同士のやり取りにあります。

神奈川県警内部での部署の違いによる捜査員の立場に即した主張があったり、そうした声を乗り越えたところに現れる人間同士の会話に読みごたえがあります。

また、ちかごろ今野敏の物語によく登場する女性のキャリアの活躍も面白いところです。

本書で言えば二課長の永田優子警視ですが、他のシリーズで言えば、『署長シンドローム』に登場する藍本小百合が一番の存在でしょう。

この藍本小百合は『隠蔽捜査シリーズ』で竜崎伸也の後任として大森署に赴任してきた美貌のキャリアの新署長として登場する人物です。

ただ、本書の永田警視はあくまで県警の課長として脇役での登場ですから、藍本小百合ほどの活躍は見せませんが、それなりの存在感は持っています。

 

 

また、今野敏の小説では他部署の警察官などでしばしばみられるのが、印象が良くない警察官が、実は根は悪いやつではないという展開です。

本書でもそうで、どの人物かはここでは書きませんが、そうした設定は読者が物語に感情移入するのに一役買っているような気がします。

 

総じて、本書『トランパー』はまさに今野敏の小説として、とても読みやすく、また惹きつけられる物語の展開もあり、私の好みに合致した作品だということができます。

続編を期待したいシリーズであり、本書はその期待に十分に応えた一冊だったと言えるのです。

悩め医学生 泣くな研修医5

悩め医学生 泣くな研修医5』とは

 

本書『悩め医学生 泣くな研修医5』は『泣くな研修医シリーズ』の第六弾で、2023年4月に320頁の文庫本書き下ろしで刊行された、長編の青春医療小説です。

よく知らなかった医学部生の毎日が描かれていて、お仕事小説的な面白さとともに青春小説の爽やかさも持った作品でした。

 

悩め医学生 泣くな研修医5』の簡単なあらすじ

 

一浪で憧れの医学部に入学した雨野隆治を待ち受けていたのは、ハードな講義と試験、衝撃の解剖実習・病院実習。自分なんかが医者になれるのか?なっていいのか?悩みながらも、仲間と励ましあい、患者さんに教えられ、隆治は最後の関門・国家試験に挑むー。現役外科医が鹿児島を舞台に医者の卵たちの青春をリアルに描く、人気シリーズ第五弾。(「BOOK」データベースより)

 

悩め医学生 泣くな研修医5』の感想

 

本書『悩め医学生 泣くな研修医5』は、主人公の雨宮隆治の医学生時代が描かれている、青春医療小説です。

これまでこのシリーズでは、東京の下町の総合病院で新人外科医となった主人公の一年目から成長していく姿が描かれていました。

ところが本書では舞台となる病院へ赴任する以前の鹿児島の国立大学医学部を目指す受験制時代から合格後の医学部時代までが描かれています。

医学生時代の過酷な講義に加えての病院実習や解剖実習、そののち研修医となる主人公の姿は、青春小説の一場面であるとともに医療小説として「命」というものをあらためて考えさせられる作品でもありました。

 

私自身は文系の大学生活を送っていたこともあっていわゆる普通の大学生生活を送っていましたが、理系の学部に行った仲間はそれなりに忙しくしていたのを思い出します。

なかでも医学部に進んだ同級生たちは確かに勉強ばかりしていたそうです。

と言うのも私の周りにいたのは出来の良くない仲間ばかりでしたので医学部生は卒業以来殆ど会っていなかったというのが本当のところなのです。

ですから、かれら医学部生の忙しさが本書でよく理解できたといっても過言ではありません。

 

今では夏川草介などを始めとしてかなりの数の医療小説が出版されていますが、医学生時代を正面から描いた作品は私が知る限りではありません。

ただ、夏川草介の『神様のカルテシリーズ』の短編集である『神様のカルテ 0』の第一話「有明」が信濃大学医学部学生寮の「有明寮」での出来事を描いた作品として思い浮かぶだけです。

他にも、作品の中で登場人物の学生時代が描かれていた医療小説はあったかもしれませんが、明確に覚えているものはありません。

 

 

もっとも、佐竹アキノリ著の『ホワイトルーキーズ』という作品が四人の研修医の話らしいので、もしかしたらその中に医学生時代の話が出てくるかもしれませんが、未読なので不明です。

近いうちに読んでみたいと思っている作品です。

 

蒼路の旅人

蒼路の旅人』とは

 

本書『蒼路の旅人』は『守り人シリーズ』の第六弾で、2005年04月に偕成社からハードカバーで刊行され、2010年8月に新潮文庫から著者のあとがきと大森望氏の解説まで入れて380頁の文庫として出版された、長編のファンタジー小説です。

チャグムが主人公の作品としては『虚空の旅人』に続く作品であり、国家間の思惑なども加味された新たにダイナミックに展開される物語としてバルサの話とはまた違った面白さを持った作品となっています。

 

蒼路の旅人』の簡単なあらすじ

 

生気溢れる若者に成長したチャグム皇太子は、祖父を助けるために、罠と知りつつ大海原に飛びだしていく。迫り来るタルシュ帝国の大波、海の王国サンガルの苦闘。遙か南の大陸へ、チャグムの旅が、いま始まる!-幼い日、バルサに救われた命を賭け、己の身ひとつで大国に対峙し、運命を切り拓こうとするチャグムが選んだ道とは?壮大な大河物語の結末へと動き始めるシリーズ第6作。(「BOOK」データベースより)

 

蒼路の旅人』の感想

 

本書『蒼路の旅人』では、チャグムが主人公となってタルシュ帝国を舞台として冒険物語が繰り広げられます。

これまで、バルサが主人公の作品では「新ヨゴ国」(『精霊の守り人』『夢の守り人』)、「カンバル王国」(『闇の守り人』)、「ロタ王国」(『神の守り人』)が、またチャグムが主人公の作品としては「サンガル王国」(『虚空の旅人』)がそれぞれに物語の舞台として設定されていました。

そしてバルサが主人公の場合は、舞台となっている土地に伝わる伝説と異世界との絡みを中心に、短槍使いのバルサならではの活劇を絡めた物語として構成されていました。

一方、チャグムが主人公の物語では、新ヨゴ皇国の皇子としてのチャグムという立場に応じた国家間の対立を前提とした構成になっています。

そして本書は『虚空の旅人』の続編として、今後の国家間の争いを前にしてのタルシュ帝国が舞台になっているのです。

 

本書『蒼路の旅人』では、サンガル王国からの援軍の要請に対し、チャグムの祖父の海軍大提督トーサに主力軍の三割ほどの艦隊を任せ派遣するという帝の決定に反対し帝の怒りを買ったチャグムは、トーサと共に出陣することを命じられます。

チャグムには護衛兵として<帝の盾>で別名<狩人>と呼ばれる暗殺者のジンユンが同行しており、帝のチャグムへの決別の意思を見ることができるのでした。

本書でのチャグムは、父王の怒りをかった結果従軍することになりますが、サンガル軍にとらわれた後、チャグムの父である帝の命によりチャグム暗殺の任を担っているジンの助けを得てサンガル軍から脱出した後が本来の物語に入ります。

というのも、チャグムはタルシュ帝国の密偵であるアラユタン・ヒュウゴに捕らわれ、タルシュ帝国の実情をその目で見ることになるのです。

このヒュウゴという人物が本書での要となる人物であり、新ヨゴ皇国の母国でもあるタルシュ帝国の枝国となった元ヨゴ皇国の出身だったのです。

チャグムはこの虜囚となった経験により、タルシュ帝国の枝国となることの意味を思い知らされ、同時に新ヨゴ皇国の存続、新ヨゴ皇国の民の平和な生活のためには現在の帝、即ちチャグムの父が如何に障害になっているかをも思い知らされるのです。

 

こうしてチャグムが虜囚となっている間に、タルシュ帝国のハザールラウルという二人の皇子、それにラウル皇子に仕えるヒュウゴの話などを通して、ものの見方の多様性などを学んでいきます。

つまりは、読者は著者上橋菜穂子の「歴史には絶対の視点などなく、関わった人の数だけ視点があり、物語がある。」(文庫版あとがき「蒼い路」:参照)という視点が明確に示されていることに理解が及びます。

ただ、新ヨゴ皇国の民の幸せに帝がいかに障害となっているかを思い知らされたチャグムの決断は哀しみに満ち溢れたものにならざるを得ません。

 

本シリーズは個人の視点が主になるバルサの物語と、ダイナミックな国家間の物語が描かれるチャグムの物語とではかなりその色合いを異にします。

その二つの物語が合流することになる『天と地の守り人』はどのような物語になるのか、楽しみでなりません。

晩節遍路 吉原裏同心(39)

晩節遍路』とは

 

本書『晩節遍路 吉原裏同心(39)』は『吉原裏同心シリーズ』の第三十九弾で、2023年3月に新潮社から344頁の文庫本書き下ろしで刊行された長編の痛快時代小説です。

神守幹次郎の台詞などが芝居調であることは前巻と同じであり、やはり敵役も結末も含めて今一つの一冊でした。

 

晩節遍路』の簡単なあらすじ

 

吉原会所の裏同心神守幹次郎にして八代目頭取四郎兵衛は、九代目長吏頭に就任した十五歳の浅草弾左衛門に面会した。そして吉原乗っ取りを目論む西郷三郎次忠継が弾左衛門屋敷にも触手を伸ばしていることを知る。一方、切見世で起きた虚無僧殺しの背後に、吉原をともに支えてきた重要人物がいることに気づく幹次郎。覚悟を持ち、非情なる始末に突き進んでいく。(「BOOK」データベースより)

 

晩節遍路』の感想

 

本書『晩節遍路 吉原裏同心(39)』は、新しく吉原会所の八代目頭取四郎兵衛となった神守幹次郎の苦悩する姿が描かれています。

非人頭の車善七に将軍家斉の御台所総用人の西郷三郎次忠継という男が吉原に触手を伸ばしていることを告げた幹次郎は、九代目長吏頭の浅草弾左衛門なる人物に会うようにと示唆されます。

そこで弾左衛門の後見人である佐七と名乗る男と、思いがけなくもさわやかさを漂わせた九代目浅草弾左衛門を継いだ十五歳の若者と面会することになるのでした。

後日幹次郎は、山口巴屋で灯心問屋彦左衛門の名で予約の入っていた佐七と会い、西郷三郎次忠継の本名が市田常一郎であり、家斉正室近衛寔子の実母の家系市田家の縁戚であることなどを教えてもらいます。

また、九代目弾左衛門就任に至るまでの間の西郷一派との確執や、次に西郷一派が狙ったのが色里吉原であることなどの話を聞き、さらには神守幹次郎一人が西郷三郎次忠継を始末することを暗黙の裡に受け止めるのでした。

 

一方、澄乃の心配事は吉原を、特に三浦屋を見張る謎の視線でした。

幹次郎が当代の三浦屋四郎兵衛に糺すと、根岸村に隠居した先代の四郎兵衛の名が浮かんできたのです。

ここに幹次郎は、西郷一派との争いと、先代四郎兵衛との問題を抱えることになるのでした。

 

本書『晩節遍路 吉原裏同心(39)』でも神守幹次郎の吉原裏同心と吉原会所四郎兵衛との掛け持ちは、まるで舞台劇だという前巻『一人二役』で感じた印象がそのままあてはまります。

百歩譲って、例えば神守幹次郎自身の、幹次郎本人が見知った事実を四郎兵衛に伝えるなどの言いまわしを受け入れるとしても、そのことは第三者が裏同心としての神守幹次郎と八代目四郎兵衛としての神守幹次郎とで態度を変えるなどの使い分けをすることまで認めるということにはなりません。

その点への著者佐伯泰英のこだわりはまさに舞台脚本であり、痛快時代小説としてはなかなかに受け入れがたいとしか感じられないのです。

 

前巻から批判的な文章ばかり続きますが、シリーズとしての面白さはまだ持っているという所に佐伯泰英という作者の不思議さがあります。

痛快時代小説としての面白さまで否定することはできず、やはり本シリーズを読み続けるのです。