マリスアングル

マリスアングル』とは

 

本書『マリスアングル』は、2023年10月に408頁のハードカバーで光文社から刊行された長編の警察小説で、『姫川玲子シリーズ』の第十弾となる作品です。

この人の作品にはずれはありませんが、中でもこの『姫川玲子シリーズ』はその一番手であり、本書もまたその例に違わない作品でした。

 

マリスアングル』の簡単なあらすじ

 

塞がれた窓、防音壁、追加錠…監禁目的の改築が施された民家で男性死体が発見された。警視庁捜査一課殺人班十一係主任、姫川玲子が特捜に入るも、現場は証拠が隠滅されていて糸口はない。犯人はなんの目的で死体を放置したのか?玲子の天性の勘と閃き、そして久江の心に寄り添う聞き込みで捜査が進展すると、思いもよらない人物が浮かび上がってきてー誉田ワールド、もう一人の重要人物・魚住久江が合流し、姫川班が鮮烈な進化を遂げるシリーズ第10作!(「BOOK」データベースより)

 

マリスアングル』の感想

 

本書『マリスアングル』は、『姫川玲子シリーズ』の第十弾となる作品です。

姫川玲子シリーズ』の出版冊数からすると十一番目になると思われるのですが、第五弾の『感染遊戯』をシリーズ関連作としてシリーズない作品としては計算してないことにあるようです。( 姫川玲子シリーズ 公式サイト : 参照 )

この点に関しては、著者の誉田哲也自身がはっきりと自身の筆で、『感染遊戯』は「姫川玲子シリーズにはカウントしないこととする。」と書かれておられます。( Book Bang : 参照 )

出版社の「内容紹介」にも『姫川玲子シリーズ』の第十弾作品と書いてあります。

 

そうした形式的なことはさておいて本書の内容ですが、『姫川玲子シリーズ』の中でも事件の解決に向けた捜査の様子がストレートに記述されている、わりとオーソドックスなタッチの物語だと言えるのではないでしょうか。

ただ、物語の展開はオーソドックスだと言えても、その語られている内容は誉田哲也の作品らしい作品です。

というのも、著者の誉田哲也の作品では、現実の政治情勢を取り込んで作品内で起きる事件の背景に据えていることが少なからずありますが、本書で犯される犯罪の根底には、現実に起きた朝日新聞の慰安婦報道に関する問題が横たわっているからです。

ただ、本書では慰安婦の記事が全くの捏造であることを前提として取り上げてあり点には注意が必要だと思われます。実際の朝日新聞の問題はネット上に多くのサイトがあふれていますが、下記サイトに詳しく書いてありますので、関心がある方は参照して見て下さい。

 

 

本書『マリスアングル』の物語は、読者がそうした社会的な出来事について知見が無かったとしても楽しめる構造になっているので問題はありません。

 

ただ、誉田哲也の作品内で取り上げられている現実の出来事についてエンターテイメントとしての取り上げ方をしてあるので、作品に書かれていることが真実であるかのように思われる危険性はあると思われます。

そのことの是非をここで取り上げるつもりもありませんが、読者自身があくまで虚構であることを認識したうえで読み進めるべきかと思います。

そうした姿勢がある以上は、誉田哲也の作品で現実の政治的な状況への関心が生まれ、正確な情報に接する気持ちが生まれればそれは作者としても一つの狙いであるのかもしれません。

 

何と言っても本書の見どころと言えば、本シリーズと誉田哲也の別の人気シリーズである『魚住久江シリーズ』が合体し、姫川玲子の班に魚住久江が加わり、新たなチームとしての魅力が加わっているところです。

魚住久江という強烈な個性を持った女性の視点が新たに加わることで、姫川玲子という人間像が一段と明確になっていくというべきかもしれません。

その上で、どちらかというと、姫川玲子個人の危うさを取り上げ、姫川の保護者的立場の存在として魚住を異動させていると思われるのです。

ということで、本書『マリスアングル』は朝日新聞の慰安婦報道問題をテーマとして取り上げながらも、シリーズとしては姫川玲子個人のキャラクターをより深く描き出してあるのです。

といっても、魚住久江が異動してきたまだ日が浅く、姫川との絡みは今後さらに深くなっていくものと思われます。

その時の姫川玲子の描写を楽しみにしつつ、続巻を期待したいと思います。

母子草 風の市兵衛 弐

母子草 風の市兵衛 弐』とは

 

本書『母子草』は『風の市兵衛 弐シリーズ』の第十二弾で、2023年8月に祥伝社から336頁で文庫化された、長編の痛快時代小説です。

 

母子草 風の市兵衛 弐』の簡単なあらすじ

 

還暦を前に大店下り酒屋の主・里右衛門が病に倒れた。店の前途もさることながら、里右衛門の脳裡を掠めたのは、若き日に真心を通わせた三人の女性だった。唐木市兵衛は、里右衛門から数十年も前の想い人を捜し出し、現在の気持ちを伝えてほしいと頼まれる。一方、店では跡とりとなる養子が、隠居しない義父への鬱憤を、遠島帰りの破落戸にうっかり漏らしてしまい…。(「BOOK」データベースより)

 

序章 新酒番船 | 第一章 根岸 | 第二章 お高 | 第三章 女掏摸 | 第四章 うしろ髪 | 終章 彼岸すぎ

 

母子草 風の市兵衛 弐』の感想

 

本書『母子草 風の市兵衛 弐』は、本風の市兵衛シリーズの主人公の唐木市兵衛が、請人宿「宰領屋」主人で市兵衛の長年の友人でもある矢藤太と共に、霊岸島町の下り酒問屋《摂津屋》主人里右衛門に依頼されて三人の女を探しだし頼まれたものを渡す物語です。

とは言っても、市兵衛と矢藤太との探索の過程が主軸の物語ではなく、探し当てた女が依頼人のもとから消えた理由を聞き出すこと、つまり消えた女たちのその後の人生の在りようが語られます。

つまりは、粋人であリ、<里九>と呼ばれていた依頼人と、依頼人が惚れ抜いた女たちが依頼人の前から消えざるを得なかった理由こそが本書の主題です。

 

そこにあるのは悲しい女の立場であり、粋人の里九と呼ばれ悦に入っていた依頼人の若さの物語ともいえるかもしれません。

そして、その物語は、作者辻堂魁の作風でもある、人情物語の中でも一歩間違えれば安っぽい人情噺に堕しかねない浪花節調の物語となっているのです。

一方、市兵衛たちの三人の女の行方探しと並行して、北町奉行所定町廻り方の渋井鬼三次の探索の話が語られ、この二つの話が終盤ひとつにまとまる、という点もこれまでのシリーズの話と同様です。

 

これまで、本風の市兵衛シリーズの、また辻堂魁という作家のファンとして、本シリーズの作品も一冊も欠かさずに読み続けてきましたが、どうも風向きが変わってきました。

ここ数巻の本シリーズを読んできて、あまりにも作品の内容が似通ってきていて、読んでいて心が騒がなくなって来たのです。

そうしたことは作者も分かっていたからこそ、このシリーズも第二シーズンへと物語の環境を変えてのだと思うのですが、『風の市兵衛 弐』になっても結局は第一シリーズとほとんど変わっていないと言えます。

本来は第二シーズへと変わり、市兵衛の出自が明らかにされたり、舞台を大坂へと移したりと変化をつけてきたと思うのですが、北町奉行所同心の渋井鬼三次もやはり常連として登場してくるようになったし変化が見られなくなっています。

何とかこのマンネリとも言ってよさそうなシリーズの流れを断ち切り、当初の面白さを取り戻してほしいものです。

夢よ、夢 柳橋の桜(四)

夢よ、夢 柳橋の桜(四) 』とは

 

本書『夢よ、夢 柳橋の桜(四) 』は『柳橋の桜シリーズ』の第四弾で、2023年9月に春秋から文庫本書き下ろしで刊行され、長編の痛快時代小説です。

本巻をもってこのシリーズは完結することになりますが、どうにも焦点の定まらない物語という印象に終わってしまいました。

 

夢よ、夢 柳橋の桜(四) 』の簡単なあらすじ

 

波乱万丈の旅を経て新しい生き方を探す桜子と小龍太。魚河岸の老舗が仕掛ける異国交易の仕事に惹かれる小龍太との祝言を前に、船頭にもどるべきか悩む桜子。そんな中、オランダ人画家の「二枚の絵」が辿った運命の感動は、人々を変えてゆく。早朝の神木三本桜に願うのは、大きな儲けか、夢の実現か。事件の謎の解明と、未来への希望が詰まった最終巻。4ヶ月連続刊行、これにて完結!「BOOK」データベースより)

 

夢よ、夢 柳橋の桜(四) 』の感想

 

本書『夢よ、夢 柳橋の桜(四) 』は『柳橋の桜シリーズ』の第四弾となる作品で、このシリーズの最終巻となる物語です。

何とも感情の入れどころがよく分からない、どうにも中途半端な印象しかない作品でした。

 

本書が、幕閣のどこか上の方の問題のため桜子小龍太が江戸を抜け出し逃亡しなければならなかった事情などは些末なことであり、結局は長崎で手に入れることになった二枚の絵のその後が描かれるだけの話です。

物語の展開が二枚の絵を中心とした話になっていること自体がおかしいというのではなく、物語の主題を二枚の絵に集約させるだけの説得力がこのシリーズにあったか、ということです。

 

また、桜子という娘の成長譚というには桜子の描写は簡単に過ぎ、小龍太との二人と物語というには二人の描き方もそれほどのものではありません。

さらに、二人が困難を乗り越える話というには、二人に襲いかかった難題が何なのか、結局は物語の終わりに少しだけ語られるだけで、つまりは物語のストーリーにとっては些細なことでしかありません。

 

作者としては、オランダ(?)で見た絵に触発されてこの物語を書いたということなので、本書『夢よ、夢 柳橋の桜(四) 』で語られた二枚の絵の消息こそが書きたかったことなのでしょう( 文芸春秋特設サイト「『柳橋の桜』によせて」:参照 )。

しかし、読者としては結局二枚の絵のモデルが、現実に二枚の絵に出会うその奇跡を語られても感情移入するほどのものではありませんでした。

前巻で書いたように、結局は焦点が暈けたままだったという結論になると言うしかないのです。

 

佐伯泰英という作者の作品で女性を主人公としている作品に『照降町四季シリーズ』という話があります。

しかし、この作品は新鮮味を欠いた作品であり、本書『夢よ、夢 柳橋の桜(四) 』同様に焦点が暈けた印象の物語でした。

とすれば佐伯泰英という作家は、女性を主人公とする物語は決してうまいとは言えない、と言うしかないのかもしれません。

とにかく、私にとって本シリーズは期待外れに終わったというしかありませんでした。

777 トリプルセブン

777 トリプルセブン』とは

 

本書『777 トリプルセブン』は『殺し屋シリーズ』の第四弾で、2023年9月に296頁のハードカバーでKADOKAWAから刊行された長編のサスペンス小説です。

テンポのいい会話、回収されていく伏線の心地よさなど、この作者の特徴がはっきりと表れたとても面白く読んだ作品でした。

 

777 トリプルセブン』の簡単なあらすじ

 

そのホテルを訪れたのは、逃走中の不幸な彼女と、不運な殺し屋。そしてー。やることなすことツキに見放されている殺し屋・七尾。通称「天道虫」と呼ばれる彼が請け負ったのは、超高級ホテルの一室にプレゼントを届けるという「簡単かつ安全な仕事」のはずだったー。時を同じくして、そのホテルには驚異的な記憶力を備えた女性・紙野結花が身を潜めていた。彼女を狙って、非合法な裏の仕事を生業にする人間たちが集まってくる…。『マリアビートル』から数年後、物騒な奴らは何度でも!(「BOOK」データベースより)

 

777 トリプルセブン』の感想

 

本書『777 トリプルセブン』は、エンターテイメントに徹したサスペンス感満載の作品で、本『殺し屋シリーズ』第二作の『マリアビートル』の続編的な立場の作品です。

というのも、本書には『マリアビートル』に登場していた「天道虫」という異名を持つ殺し屋の七尾が登場していて、ある列車の中で話が展開していた『マリアビートル』と同様に基本的に「ウィントンパレスホテル」というホテルの中が舞台であり、緊迫感に満ちた展開を見せてくれます。

また、七尾や殺し屋たちから追われる身である紙野結花という女性ほかの一人称多視点で物語が進む点も同じです。

 

本書冒頭から、モウフマクラという殺し屋たちの仕事の場面に続いて、『マリアビートル』で派手なアクションを繰り広げた七尾が、これまた同様に七尾に仕事を持ってきてくれる真莉亜から、「部屋に行って荷物を渡す」簡単な仕事だと言われ荷物を届けるところから始まります。

そして、忘れるということができない驚異的な記憶力の持ち主である紙野結花という女性をターゲットにした殺し屋たちとの闘争に巻き込まれていくのです。

その能力に眼をつけ彼女を雇ったのが解剖マニアだという噂されているという男だったのであり、彼女を殺そうとしているのもその男だったのです。

その乾から命を狙われている紙野結花が依頼したのがココという名の凄腕のハッカーでもある逃がし屋であり、乾の依頼により紙野結花を殺そうとやってきたのが、エドという男をリーダーとするセンゴクアスカナラカマクラヘイアンという六人組でした。

その他に、高良奏田コーラソーダ)という二人組、それに政治家の蓬実篤、その秘書の佐藤池尾という記者などが登場します。

 

本書『777 トリプルセブン』の魅力は、第一には何と言っても登場人物の会話のテンポの良さ、その会話の魅力にあると思います。

基本的に、本書での会話の中に金言めいたものがあるとか、心に沁みる文言があるとかいうものではではありません。

ただ、登場人物の交わす雑談の中に何となくの共感を感じ、感情移入してしまうというものであり、例えば本書冒頭からモウフとマクラとの間で交わされる会話から惹き込まれてしまうのです。

 

次いで、この物語では殺し屋たちの複雑に絡みあう行動を追ってサスペンス感に満ちた展開を見せてくれていて読者の関心を引き付けて離しませんが、この点も魅力の一つでしょう。

また、強烈な個性を持った殺し屋たちの存在がそれぞれに光っていますが、このような登場人物たちの存在もまた本書の魅力に一役買っています。

さらに言えば、作品全体を包む雰囲気がスマートでスタイリッシュでありつつ、張られた伏線を丁寧に回収していくその見事さ、そして最終的にもたらされる意外性なども読者を惹き付ける要素です。

 

実を言えば本書『777 トリプルセブン』を読み進める中で、物語の展開が都合が良すぎるように感じたこともあります。

しかし、そうした思いはいつの間にか霧消しており、ケチのつけようがないエンターテイメント小説として心に残っているのです。

作者の伊坂幸太郎の作品の中でも、特にこの『殺し屋シリーズ』は私の感性にもピタリとはまったようで、早くも続巻を期待しているのです。

契り橋 あきない世傳 金と銀 特別巻(上)

契り橋 あきない世傳 金と銀 特別巻(上) 』とは

 

本書『契り橋 あきない世傳 金と銀 特別巻』は『あきない世傳 金と銀シリーズ』の番外編上巻で、2023年8月に角川春樹事務所の時代小説文庫から320頁の文庫として書き下ろされた短編時代小説集です。

『あきない世傳 金と銀シリーズ』の登場人物のシリーズ本編では描かれていない新たな姿を知ることができる作品集です。

 

契り橋 あきない世傳 金と銀 特別巻(上) 』の簡単なあらすじ

 

シリーズを彩ったさまざまな登場人物たちのうち、四人を各編の主役に据えた短編集。
五鈴屋を出奔した惣次が、如何にして井筒屋三代目保晴となったのかを描いた「風を抱く」。
生真面目な佐助の、恋の今昔に纏わる「はた結び」。
老いを自覚し、どう生きるか悩むお竹の「百代の過客」。
あのひとに対する、賢輔の長きに亘る秘めた想いの行方を描く「契り橋」。
商い一筋、ひたむきに懸命に生きてきたひとびとの、切なくとも幸せに至る物語の開幕。
まずは上巻の登場です!(上巻:内容紹介(出版社より))

 

契り橋 あきない世傳 金と銀 特別巻(上) 』の感想

 

本書『契り橋 あきない世傳 金と銀 特別巻(上) 』は、それぞれに主人公を異にする四編の短編からなる作品集です。

まず「第一話 風を抱く」は、五代目の五鈴屋店主であり、の前夫であった惣次を主人公にした物語です。

その惣次は、本『あきない世傳金と銀 シリーズ』本編では本両替商「井筒屋」三代目保晴として再登場しますが、惣次の失踪から三代目保晴として登場するまでの空白の時を埋める物語です。

五鈴屋が江戸へと進出し、大きな壁にその行く手を遮られたとき、どこからともなく幸の前に現れてしてくれたさりげない助言や、その窮地からの脱出に手を貸してくれた惣次は、如何にして現在の地位を得たのかが明らかになります。

 

次の「第二話 はた結び」は、シリーズ本編で五鈴屋江戸本店で支配人を務める佐助を主人公にした物語です。

ある日佐助の目の前に、佐助と二世を誓い、十七年前に行方不明となったさよによく似た娘が現れますが、その娘はさよの妹だったのです。

五鈴屋江戸店の支配人佐助の恋心を描いた掌編です。

 

そして「第三話 百代の過客」は、本『あきない世傳金と銀 シリーズ』本編の当初から登場してきている五鈴屋の女衆で、今では小頭役となっているお竹を主人公とする物語です。

五鈴屋に奉公しておよそ六十年。江戸に出て来てからだけでも十八年になるお竹でしたが、近江屋支配人の久助が郷里へ帰るのに伴い、一度大坂へと帰省するかどうか悩んでしました。

 

第四話 契り橋」は、「五鈴屋の要石」と呼ばれた治兵衛の一人息子で、型染めの図案を担当しヒット商品を送り出すなど、五鈴屋江戸店の発展に大いに寄与した賢輔の物語です。

この賢輔は、次の五鈴屋店主久代目徳兵衛をつくことになっている人物でもありますが、密かに抱いている女主人の幸への想いの行方が気になる存在でもあります。

本当は、この話の後の二人の消息を知りたいのですが、その話は書かれるときが来るのでしょうか。それとも、もしかしたら本書に続く下巻でその一端でも明かされるのでしょうか。

 

以上のように、本書『契り橋 あきない世傳 金と銀 特別巻(上) 』では、惣次佐助お竹賢輔の四人が物語の中心となっています。

また本書は既に終わってしまったシリーズのスピンオフ作品ではありますが、本編シリーズが非常に人気の高いベストセラーシリーズであったため、本編では語られていなかった様々な事柄を追加で書かれたものでしょうか。

本編中では語られてこなかった事情や、本編終了後の登場人物たちの消息などが、高田郁の丁寧な筆致で紡がれていきます。

本シリーズのファンにとっては、もう読めないと思っていたシリーズ作品を再び読むことができるのですから喜びもひとしおです。

 

本『あきない世傳金と銀 シリーズ』はシリーズの番外編であるため、本書だけを読んでも当然のことですがその意味が分かりにくい作品です。

ですが、既に終了してしまった本『あきない世傳金と銀 シリーズ』本編の間隙を埋める作品であり、続編が読めないシリーズの淋しさを埋めてくれる作品でもあります。

本編の『あきない世傳金と銀 シリーズ』が好評のうちに終わってしまったのは非常に残念なことではあるのですが、こうしてスピンオフ作品として提供してくれるのはまた楽しみでもあります。

今後、このような形でもいいので、本シリーズが紡がれていくことを願いたいものです。

二枚の絵 柳橋の桜(三)

二枚の絵 柳橋の桜(三)』とは

 

本書『二枚の絵 柳橋の桜(三)』は、2023年8月に文藝春秋社から336頁の文庫として刊行された長編の痛快時代小説です。

本書での桜子は大河内小龍太と共に江戸を離れることになり、長崎の地でしばらくの間を過ごすことになりますが、佐伯泰英の作品としては普通との印象の作品でした。

 

二枚の絵 柳橋の桜(三)』の簡単なあらすじ

 

柳橋で評判をとった娘船頭の桜子。父・広吉の身を襲った恐ろしい魔の手から逃れるため、大河内道場の棒術の師匠・小龍太とともに江戸から姿を消した。異国船で出会ったカピタン、その娘の杏奈と接し、初めての食べ物や地球儀に柳橋を遠く感じる二人は、磨きぬいた棒術で心身を整える。そんな中、プロイセン人の医師に招かれた長崎の出島で、二枚の絵を見た桜子はあまりの衝撃に涙を止められないーオランダ人の絵描きコウレルと柳橋の桜子。その不思議な縁とは?(「BOOK」データベースより)

 

二枚の絵 柳橋の桜(三)』の感想

 

本書『二枚の絵 柳橋の桜(三)』では、主人公の桜子やその恋人でもある大河内小龍太たちは江戸の町を離れることになります。

二人は、その理由については何も知らされないままに船宿さがみの親方夫婦に挨拶をするひまもなく、その足で長崎の地へと赴くのです。

そこには桜子の後ろ盾と言ってもいい魚河岸の江の浦屋五代目彦左衛門の世話がありました。

 

ということで、本書では長崎までの船旅の様子が描かれ、桜子と小龍太の船上での修行の様子や、襲い来る海賊を退ける様子などが描かれていきます。

その際利用することとなった船のカピタンと呼ばれる船長(ふなおさ)のリュウジロや、その娘杏奈たちが本書での新たな登場人物として現れます。

ちなみに、この杏奈の伯父は長崎会所の総町年寄の高島東左衛門であり、二人の長崎での生活に重要な役割を果たします。

 

こうして舞台は江戸を離れ、長崎への船旅と長崎での暮らしの様子が描かれることになります。

そういう意味では佐伯節満載の物語ということはできるのですが、どうにも話はすっきりとしません。

というのも、今回桜子たちが江戸を離れざるを得ない理由や、桜子たちに敵対する相手の正体は全く示されることなく、ただ、幕閣の上部での出来事らしいということが示されるだけだからです。

 

ただ、本書『二枚の絵 柳橋の桜(三)』では前巻で少しだけ示された二枚の絵の意味が少しだけ明かされていくので、その点が若干満たされるということはできるでしょうか。

本書で一番の要点は、長崎会所のプロイセン人のアントン・ケンプエル医師から示されたこの二枚の絵の物語だと言えるのでしょう。

 

とはいえ、私にとっては本シリーズの主人公桜子という娘自体にそれほどの魅力を感じていないためか、二枚の画の秘密に関してもあまり気にかかることでもありません。

こうしてみると、この二枚の絵に関しては、本シリーズの冒頭からもっとこの物語に絡め、物語を貫く謎として設定されていればもう少し感情移入して読めたのではないかという思いがぬぐえません。

最終巻を読まずに書くのも不謹慎かもしれませんが、本書『二枚の絵 柳橋の桜(三)』に至るまでの三巻の内容が、結局は焦点がぼけたままで終わってしまい、つまりは最終巻『夢よ、夢 柳橋の桜(四)』だけで事足りたのではないかという思いが残ってしまいそうです。

ともあれ、すべては最終巻『夢よ、夢 柳橋の桜(四)』を読んでみてからのことにしたいと思います。

遠火 警視庁強行犯係・樋口顕

遠火 警視庁強行犯係・樋口顕』とは

 

本書『遠火 警視庁強行犯係・樋口顕』は『警視庁強行犯係・樋口顕シリーズ』の第八弾で、2023年8月に360頁のハードカバーで幻冬舎から刊行された長編の警察小説です。

本書は「女性の貧困」の問題を取り上げていますが、あくまで今野敏作品として重すぎることなく、いつも通りに読みやすい作品でした。

 

遠火 警視庁強行犯係・樋口顕』の簡単なあらすじ

 

東京・奥多摩の山中で他殺体が発見された。警視庁捜査一課の樋口班は現場に急行。調べを進めていくと、殺されたのは渋谷署の係員が職質をしたことがある女子高生で、売春の噂があったことが判明する。樋口顕は被害者の友人である美人女子高生と戸外で面会。すると、その様子を撮影した何者かによってインターネット上に写真を流され、同僚やマスコミから、あらぬ疑いをかけられてしまう。秀でた能力があるわけではなく、他人を立てることを優先し、家族も大切にしながら、数々の難事件を解決してきた樋口。謀略を打ち破り、殺人事件の真相に辿り着くことができるのか。女性の貧困、性の商品化、SNSの悪意、親子関係の変質…。現代日本の歪みを照らし出す社会派ミステリーの白眉。(「BOOK」データベースより)

 

遠火 警視庁強行犯係・樋口顕』の感想

 

本書『遠火 警視庁強行犯係・樋口顕』は、『警視庁強行犯係・樋口顕シリーズ』の第八弾となる作品です。

 

本書の帯には「女性の貧困、性の商品化、SNSの悪意、親子関係の変質・・・」とあり、さらに「現代日本の歪みを照らし出す社会派ミステリーの白眉。」という文言がありました。

今野敏の作品の中には社会的な問題をテーマとして掲げてある少なからずの作品があるようです。

しかしながら、例えば本シリーズで言えば前作の『無明 警視庁強行犯係・樋口顕』のように、どちらかといえば警察組織内での人間関係に光を当ててあるような作品が主のように思えます。

 

 

本書の場合、組織内の人間関係も描いてはあるのですが、それよりも「女性の貧困」の問題を取り上げ、そこから性の商品化などの社会的な問題を取り上げてあります。

とは言っても、正面から社会派の推理小説として構えているのではなく、軽く読めるエンターテイメント作品として仕上げてあります。

そうしたタッチこそが今野敏の作品の特徴であり、皆から支持されている由縁でしょう。

 

さらには、軽く読める作品だとはいっても、心に残る言葉などが随所に挟まれているところも読者の支持を得ている理由の一つになっているのだと思われます。

例えば、刑事としての自分の仕事を理由に家族に苦労を強いてきた自分の、仕事だからと許されるとの思いがあったことについて、それは「自分の大切なものを他人に押し付け、相手の大切なものを軽視するということなのだ。」と指摘しています。

こうした警句めいた文言が随所にあるため、言葉が読み手の心に少しずつ積み重なっていき、この作者の描き出す物語は言葉を、そして人間存在を大切にしているという印象へと繋がり、それは今野敏の著作に、ひいては本書の評価へもつながっていくのでしょう。

 

また、主人公の樋口顕の性格を描写するに際し、樋口は相手が誰であろうと落ち着かなくなると言っています。

樋口は約束の時間に遅れたくないという気持ちが強いけれど、それは「待たされるより待たせることの方が苦手」だからだと、自分よりも相手の立場をより慮っているのです。

 

さらには、主人公以外の登場人物の描き方でも、例えば田端捜査一課長天童管理官との間で交わされた言葉で、せっかちな田端と天童のブレーキを掛ける会話などがあります。

こうした会話から「この二人の呼吸は絶妙だ」と樋口は感じ、結局、捜査員の尻を叩きつつ慎重にやれと言っているのだ、と結論付けているのです。

このような描写が随所に描かれていて、登場人物の性格が知らずのうちに刷り込まれ、読者はより一層感情移入することとなり、とりこになっていくのです。

 

本書『遠火 警視庁強行犯係・樋口顕』では、青梅署の管轄内で起きた殺人事件の被害者が未成年の女性の可能性があるということで、少年課の氏家の助けを求め、樋口と共に捜査本部に詰めることになります。

被害者の女性が渋谷署の生活安全課の捜査員梶田邦夫巡査部長などが見知った人物で、ポムという女子高校生の企画集団が浮かんで来るのです。

その中で「女性の貧困」、性の商品化などの社会的な問題提起が為され、樋口らの活躍で事件は解決します。

 

繰り返しになりますが、そんな問題を仲間の力を借りつつ解決していくこの作品は、面白いと言わざるを得ない作品です。

と同時に、本書を含む本『警視庁強行犯係・樋口顕シリーズ』は、今野敏の多くのシリーズ作品の中でも人気が高いシリーズであることがよく理解できる、次回作が待たれるシリーズなのです。

あだ討ち 柳橋の桜(二)

あだ討ち 柳橋の桜(二)』とは

 

本書『あだ討ち 柳橋の桜(二)』は『柳橋の桜シリーズ』の第二弾で、2023年7月に文庫本書き下ろしで文春文庫から刊行された長編の痛快時代小説です。

本書では現実に父が世話になっている船宿の船頭となる主人公の姿が描かれていて、前巻とは異なり、痛快時代小説としての面白さを持った作品でした。

 

あだ討ち 柳橋の桜(二)』の簡単なあらすじ

 

猪牙舟の船頭を襲う強盗が江戸の街を騒がせていた。父のような船頭を目指す桜子だが、その影響もあってか、親方から女船頭の許しがおりない。強盗は、金銭強奪だけでなく、殺人を犯すこともあったのだ。そして舟には謎の千社札が…。仕事を続ける父親の身を案じる桜子へ、香取流棒術の師匠である大河内小龍太が、ある提案をする。船頭ばかりを狙う強盗の正体と、その本当の狙いとは?物語が急展開をするシリーズ第二弾!(「BOOK」データベースより)

 

あだ討ち 柳橋の桜(二)』の感想

 

本書『あだ討ち 柳橋の桜(二)』は『柳橋の桜シリーズ』の第二弾となる作品で、主人公の娘の成長を描く長編の痛快時代小説です。

棒術の達人という設定の主人公桜子の活躍は本書でも十分にみられるのは勿論で、前巻よりは面白く読むことができます。

しかしながら、主人公の桜子にそれほどの魅力を感じることができないため今一つ、という印象はぬぐえず、のめり込んで読むとまではいきませんでした。

 

本書は父親のような船頭になることを夢見る娘の物語ですが、主役の桜子はついに一人前の猪牙舟の船頭としてデビューすることが許されます。

それも、北町奉行の小田切土佐守自らが少しでも世間を明るくしてほしいとの願いから、北町奉行直筆の木札を許されたというのでした。

しかしながら、近頃猪牙舟の船頭を狙う猪牙強盗(ぶったくり)が頻発していて、死人まで出ているため、素性が判明している贔屓筋の客だけを乗せることを条件に親方の許しも出たのでした。

そんななか、薬研堀にある香取流棒術大河内道場の道場主の孫の大河内小龍太は、桜子の身の安全を心配し、桜子の身を守ると行動を共にするのです。

 

猪牙強盗(ぶったくり)という明確な敵役が登場する本書であり、桜子とその師匠筋の小龍太との活躍が十分に描かれた物語で、痛快時代小説として軽く読める作品でしたが、やはり敵役の軽さは否めません。

桜子が一人前の船頭として認められたというのはいいのですが、それ以上の物語の展開がどうにも素直に受け入れられないのは、読み手の私の第一巻を読んだ際の大時代的な台詞回しへの不満などの先入観のためでしょうか。

でもそれだけが原因ではなく、先に述べたように主人公の桜子に感情移入するだけの魅力に欠け、またシリーズとしての意図が明確ではないということが本シリーズに対する印象の根底にあるのではないかと思っています。

 

とはいえ、佐伯泰英作品らしく物語の展開そのものの面白さは持っているので、単にストーリー、物語の展開だけを軽く読む、という点では普通だと言えると思います。

佐伯作品には『酔いどれ小籐次シリーズ』に出てくるクロスケのような犬が登場しますが、本書でも薬研堀にその名の由来を持つヤゲンという犬が登場し、物語にゆとりが与えられていたりします。

佐伯作品らしい物語世界の広がりをゆったりと感じさせる工夫などは施されていて、ストーリー展開を楽しむことができる作品ではあります。

 

 

最後にもう一点。

本書では、物語の前後にオランダのロッテルダムの情景が描かれ、一枚のフェルメール風の絵画についての語りが載っています。

これは、作者が現地で感じたことをそのまま取り込んだと書いてありましたが、本書だけを見るととってつけたような印象であまり意味が分かりませんでした。

ただ、次巻のタイトルを見ると『二枚の絵』であることを見るともっと具体的に何らかの絡みがあるのでしょう。

このことは、そもそもが作者の頭の中に浮かんできた一枚の絵の印象が本シリーズのモチーフになっているということなので、間違いのないことでしょう( 佐伯泰英 特設サイト :参照 )。

そうしたことも含めて次巻を期待したいと思います。

レーエンデ国物語 月と太陽

レーエンデ国物語 月と太陽』とは

 

本書『レーエンデ国物語 月と太陽』は『レーエンデ国シリーズ』の第二弾で、2023年8月に講談社からソフトカバーで刊行された、長編のファンタジー小説です。

シリーズ第一巻『レーエンデ国』にくらべ、よりアクション要素が増えている気がしますし、恋愛要素が少なくなっている分、より惹き込まれた印象です。

 

レーエンデ国物語 月と太陽』の簡単なあらすじ

 

名家の少年・ルチアーノは屋敷を何者かに襲撃され、レーエンデ東部の村にたどり着く。そこで怪力無双の少女・テッサと出会った。藁葺き屋根の村景や活気あふれる炭鉱、色とりどりの収穫祭に触れ、ルチアーノは身分を捨てて、ここで生きることを決める。しかし、その生活は長く続かなかった。村の危機を救うため、テッサは戦場に出ることを決める。ルチアーノと結婚の約束を残してー。封鎖された古代樹の森、孤島城に住む法皇、変わりゆく世界。あの日の決断が国の運命を変えたことを、二人はまだ知らない。大人のための王道ファンタジー。(「BOOK」データベースより)

 

レーエンデ国物語 月と太陽』の感想

 

本書『レーエンデ国物語 月と太陽』は、『レーエンデ国物語』の第二巻であり、第一巻と同様に聖イジョルニ帝国に対し反旗を翻した人々の物語です。

第一巻は、「レーエンデの聖母」と呼ばれることになるユリア・シュライヴァの物語と言ってもいい話でしたが、本書はその百年後の話です。

前巻での物語の後、帝国北方に位置する七州が「北方七州の乱」ののちに為したレーエンデからの独立の宣言により、聖イジョルニ帝国は南北に分裂し、長い闘いへと突入していました。

本書は、そのような状況下の聖イジョルニ帝国で、ユリアの父のヘクトル・シュライヴァの病没の約百年後にダンブロシオ・ヴァレッティ家に生まれた、のちに「残虐王」と呼ばれることになるルチアーノ・ダンブロシオ・ヴァレッティを主人公とする物語です。

 

本書『レーエンデ国物語 月と太陽』では、序章が終わって直ぐからヴァレッティ家が何者かに襲われ、燃え落ちる場面から始まります。

そして、ルチアーノはルチアーノの両親を殺し家に火をつけたという男に救出され、その男の言うままに逃走し、ティコ族の村であるダール村のテッサに助けられるのです。

ダール村ではイジョルニの民であることがばれると殺されかねないと、ルーチェという偽名を使い、暮らすことになります。

ルチアーノは、テッサの姉のアレーテやテッサ姉妹の友人であるキリルや、ウル族のイザークらと友達になります。

テッサは村の男の誰もかなわないほどの怪力の持ち主であり、ルチアーノは誰にも負けない頭脳の持ち主としてこの後の苦難を乗り越えていくのです。

 

テッサらがレーエンドの開放を叫ぶ理由は、帝国による理不尽な差別や弾圧に対する抵抗であり、そのための団結でした。

テッサは、村のために徴兵に応じて帝国軍に参画し、帝国軍第二師団第二大隊第九中隊、通称「斬り込み中隊」の異名を持つほどに常に最前線に配属されている部隊に配属され、兵士として鍛えられることになります。

そして、テッサはこの第九部隊での中隊長であるギヨム・シモンと出会い、兵士として、また人間として鍛え上げられていきます。

同様に、キリルも弓の腕を上げ、そしてイザークもまた一人前の兵士として育っていたのです。

その彼らが、郷里のダール村が帝国軍に襲われ皆殺しにあったことを聞かされ、軍隊を脱走し、ダール村の惨状を目の当たりにして帝国に対する決起を決意することになるのです。

 

この物語は、第一巻でもそうだったのですが、場面展開がかなりテンポよくなされているため、とてもリズムよく読み進めることができました。

ただ、これは賛否両論があるでしょうが、敵方である聖イジョルニ帝国側の登場人物の描き方があまり明確ではありません。

というよりも、表立ってテッサやルーチェに味方する人々、もしくは陰ながらでもレーエンデ地方の独立を願う民衆に属する人たちの描写はそれなりに書き込んであるのですが、それに敵対する人としては個人はあまり出てこないのです。

ダール村襲撃を命じた人物としては、東教区の司祭長グランコ・コシモという人物が序盤に登場しますが、その人物さえも人物像はそれほど書き込みがあるわけではありません。

そういう意味では、敵側の人物のほとんどは類型的とさえいえます。

 

でも、その分テッサやルーチェやその仲間たちの人物、行動の描写には力が入れられており、場面展開のテンポの良さなどもあって六百頁を越える長編の物語でありながら、あまりその長さを感じさせないのだと思います。

革命の物語ですから、主人公たちの原動力はやはり「自由」の獲得ということが第一義に語られます。横暴な権力に対する民衆の抵抗であり、自由獲得のための抗争です。

その自由とは、もちろん横暴な権力からの自由であり、理不尽な暴力からの自由であり、また好きな人に好きだと言える自由です。

 

こうした自由のための抗争が様々な人間ドラマと共に語られているところが本書の魅力です。

若干、単純化されすぎている印象が無きにしも非ずではありますが、その分、本書の文章がテンポ良く構成されていることになっていると思われ、単純に欠点とばかりも言えないようです。

ともあれ、本シリーズの語る革命の話は、今後も展開していくと思われ、続巻を待ちたいと思います。

化け者心中

化け者心中』とは

 

本書『化け者心中』は『化け者シリーズ』の第一弾で、2020年10月にKADOKAWAからハードカバーで刊行され、2023年8月に角川文庫から352頁の文庫として出版された長編のミステリー小説です。

江戸時代の文政期の歌舞伎の世界を舞台に、人間を食い殺してその人間に成り代わった鬼を探し出すという大変にユニークな作品で、一気にとりこになりました。

 

化け者心中』の簡単なあらすじ

 

ときは文政、ところは江戸。ある夜、中村座の座元と狂言作者、6人の役者が次の芝居の前読みに集まった。その最中、車座になった輪の真ん中に生首が転がり落ちる。しかし役者の数は変わらず、鬼が誰かを喰い殺して成り代わっているのは間違いない。一体誰が鬼なのか。かつて一世を風靡した元女形の魚之助と鳥屋を商う藤九郎は、座元に請われて鬼探しに乗り出すーー。第27回中山義秀文学賞をはじめ文学賞三冠の特大デビュー作!(内容紹介(出版社より))

 

化け者心中』の感想

 

本書『化け者心中』は、「鬼」というファンタジックな生き物を登場させていながらも、歌舞伎界の華やかさと役者の世界の人間臭い雰囲気に満ちた世界観を見事に再現し、ミステリアスな物語を作り上げた作品です。

驚くべきはその文章の見事さと同時に、中山義秀文学賞、第11回小説野性時代新人賞、第10回日本歴史時代作家協会賞新人賞の三冠を受賞しているという事実であり、この作品がデビュー作だという作者の力量です。

 

本書『化け者心中』の魅力は、まずはその文章にあります。

本書冒頭には、狙いを定めた娘である“おみよ”の唇を奪う寸前、「ねうねう、にゃあう」と鳴く猫に邪魔をされて江戸弁で愚痴を言いながらもなお追いかける主人公の藤九郎の姿があります。

不思議なのは、その藤九郎に対しおみよが「信さん」と呼びかけていることです。この場面には藤九郎とおみよの他には誰もいそうもないのですが、おみよはしつこく「信さん」と呼んでいるのです。

こうして、小気味いい言葉に先を促されながら読み進めると、本書の本当の主人公である田村魚之介(たむらととのすけ)という元女形が登場し、藤九郎との関係と共に藤九郎が「信さん」と呼ばれている理由もすぐに判明します。

こうした導入部から物語の世界観の一端が示され、読者はこの作品世界に一気に引きずり込まれてしまうのです。

 

次に、本書『化け者心中』で展開される世界観の異様さもまた魅力的です。

歌舞伎役者たちの暮らす現世と、鬼という妖(あやかし)の棲む世とが共存している世界であり、物語としてはファンタジーともとれますが、本書をファンタジーとは呼ばないでしょう。

娘も含めた江戸っ子たちがこぞって真似をする、歌舞伎役者が身につけている簪や笄などの小物から帯や着物に至るまでの絢爛豪華な世界がある一方、鬼が食い尽くし中身が鬼と入れ替わった存在が共に暮らしている世界です。

こうした世界で鬼が成り代わっているのは誰か、魚之介と藤九郎との捜索が始まります。

 

そして、歌舞伎の世界で生きている役者たち、それも女形の役者たちの生きざまこそが本書の主眼です。

大坂と江戸との間の歌舞伎役者同士のつば競り合いもさることながら、役者個々人の存在感が圧倒な迫力をもって迫ってきます。

その中で、屋号を「白魚屋」といい、当代一の女形と謳われたものの、とある事件で両足の脛の半ばから下を失った田村魚之介と、「百千鳥」という鳥屋を営む藤九郎とが江戸随一の芝居小屋である中村座の座元の中村勘三郎に頼まれ探偵役となるのです。

 

つい先日、第169回直木三十五賞や第36回山本周五郎賞を受賞した永井紗耶子の作品『木挽町のあだ討ち』を読んだばかりです。

この作品も江戸の「悪所」と呼ばれている芝居町の「江戸三座」の一つである森田座を背景とした作品でした。

衆人環視の中で成し遂げられたある仇討ちについて、その裏側に隠された物語が次第にあぶり出されていくというミステリー仕立ての作品です。

 

 

その作品でも芝居の裏側について書かれていましたが、本書『化け者心中』はより役者、とくに、「女形」と呼ばれている人たちの生きかたについて描き出されています。

鬼という存在を取り上げてその存在を突き止めようとしていますが、その実、役者(とくに女形)という存在について掘り下げてあるのです。

 

本書『化け者心中』は、続編として『化け者手本』という作品があるそうです。

 

 

今のところ、この二作品だけのようですが、もしかするとそれ以上のシリーズ物として紡がれていくのかもしれません。

本書は「文学賞三冠の特大デビュー作」という謳い文句もすごいのですが、実際に接してみるとこの謳い文句以上の衝撃に襲われること必至です。

それほどに素晴らしい作品だと思います。