『ミカエルの鼓動』とは
本書『ミカエルの鼓動』は第166回直木賞の候補作となった、新刊書で467頁の長編の医療サスペンス小説です。
手術支援ロボット「ミカエル」を使用した手術をめぐり各人の思惑が錯綜するなか、医療とは何か、命とは何かを問う柚月裕子らしい作品でした。
『ミカエルの鼓動』の簡単なあらすじ
「ミカエルは人を救う天使じゃない。偽物だ」手術支援ロボット「ミカエル」を推進する心臓外科医・西條と、ドイツ帰りの天才医師・真木。難病の少年の治療をめぐり二人は対立。そんな中、西條を慕っていた若手医師が、自らの命を絶った。情報を手に入れたジャーナリストは、大学病院の闇に迫る。天才心臓外科医の正義と葛藤を描く。(「BOOK」データベースより)
心臓外科医の西條泰己は北中大病院の十人いる病院長補佐の一人であり、手術支援ロボット「ミカエル」を使用しての心臓手術の第一人者としての地位にいた。
そして、ロボット支援下手術の推進こそが医療の未来を開き、ひいては患者のためにもなると信じ行動していた。
ところが、病院長の曽我部は、真木一義という医師をドイツから招いて循環器第一外科科長にするという。それは、西條を差し置いて真木を北中大病院の顔にするという曽我部の布石ではないかと疑う西條だった。
そこに、白石航という少年の心臓手術を行うことになった。
ミカエルによる手術を主張する西條に対し、真紀はミカエルは使えないと、自分が開胸手術をすることこそ航少年のためだと言い張るのだった。
一方、西條を慕っていた広島総生大学病院循環器外科の布施医師の自殺の知らせを受け、彼の死の背後にある秘密がミカエルの性能に関するものであることを知り、思い悩む西條の姿があった。
『ミカエルの鼓動』の感想
本書『ミカエルの鼓動』という作品は私の好みに合致し、とても面白く読めた作品でした。
西條と真木という対立する二人の関係を軸に、病院内での権力闘争、医療機器メーカーとの関係なども過不足なく描かれており、読みやすいのです。
特に、西條と真木それぞれの主義、主張がそれなりにはっきりと描かれていて、一方当事者の主張だけを正当だと評価するようなこともなく、共に患者のことを第一義とする考えであることを前提に描かれていて、好感が持てました。
本書の作者柚月裕子は、例えば『佐方貞人シリーズ』での主人公佐方貞人の「罪はまっとうに裁かれなければいけない」という言葉のように、普遍的に考えられている「正義」を純粋に貫くことをテーマとしているようです。
ベストセラーとなり、映画化もされている『孤狼の血シリーズ』の大上にしても、市民に害を与えるものを許さないという確固とした信念をもって行動しています。
そこでは、ときには「青臭い」と呼ばれる愚直なまでに純粋な「正義」が存在しており、その「青臭い正義」が貫かれるからこそ柚月裕子の作品は皆の支持を得ているのだと思えるのです。
本書『ミカエルの鼓動』でもその点は同じです。
本書で描かれているのは患者の命の救済であり、その命を救うために医者は自らの信じるところを貫こうとします。
その手段として、西條は心臓外科医として手術支援ロボット「ミカエル」の使用こそが医療のために、つまりは患者のためとなるのだと信じ、そのために自分が北中大病院で力を持つ必要があると信じているのです。
また、曽我部が新たに招へいした真木医師もまた患者のためにと自分の医療技術を磨いてきた医師です。
この両者の医者としての信念に乖離があるのではなく、ともに患者を第一義とする点は同じであり、ただ現時点での立ち位置が異なるというだけだと思われるのです。
この二人が一人の少年の命を救うためには自分が執刀することが最善だと信じて行動する姿が描かれているのであり、そこには感動すら覚えます。
こうした点に、前述のように柚月裕子という作者の考える「正義」が現れていると思われ、物語の展開としても感情移入のしやすい描きかたになっていると思われます。
また、作者はよく勉強されていると感じたのが西條と真木とが対立する場面である航の手術の場面であり、西條と真木との対立を機械弁での弁置換術と弁形成術との選択の問題としているところです。
その上で弁形成術の優位性を前提に、小児に対する弁形成術の危険性を挟むことで、西條と真木との対立の図式を作り出しているうまさがあります。
また、航の心臓手術の場面の描写は真に迫っていて、とても医学には素人の作者の描写とは思えない迫力のあるものでした。
もちろん、西條の家庭の崩壊を描くことにどんな意味があるのかや、真木の人間性として北中大病院内でのスタッフとの関係性を築くのも医者の技量の一つではないのかなど、本書の物語の運びにも小さな疑問点が無いわけではありません。
しかし、物語の中での対立する二人の医者の性格設定を明確にするという作者の意図があるのでしょから、あまり個人的な好みをもとにしての批判めいたことは言うべきではないでしょう。
ちなみに、医療小説と言えばまず思い浮かぶのは山崎豊子の『白い巨塔』でしょう。
幾度も映画やテレビで映像化され、コミック化もなされている、大学病院内での権力争いや医局制度の問題点などを取り上げたまさに問題作でもありました。
そして現在の医療小説では多くの作品がありますが私は夏川草介の『神様のカルテシリーズ』が一番だと思っています。
人間の悪い側面を斬り捨てて、ユーモア満載で描かれる主人公栗原一止たち登場人物の姿を見ていると、人間は信じていいものだと思えてくるのです。
いずれにせよ、本書の面白さはさすがのものであり、『孤狼の血シリーズ』で全く新た強い分野の作品に取り組んだ作者の、また異なる分社への挑戦を試みた作品として成功していると言えます。
なお冒頭に書いたように、本書『ミカエルの鼓動』は第166回直木三十五賞の候補作となっています。