『感傷の街角』とは
本書『感傷の街角』は『佐久間公シリーズ』の第一弾で、1982年2月に双葉ノベルスから刊行され、1994年9月に角川文庫から384頁の文庫として出版された、短編の青春ハードボイルド小説集です。
『感傷の街角』の簡単なあらすじ
早川法律事務所に所属する失踪人調査のプロ佐久間公がボトル一本の報酬で引き受けた仕事は、かつて横浜で遊んでいた”元少女”を捜すことだった。著者23歳のデビューを飾った、青春ハードボイルド。(「BOOK」データベースより)
『感傷の街角』の感想
本書『感傷の街角』は『大沢在昌のデビュー作の短編の青春ハードボイルド小説集です。
本書は出版年だけを見ると本シリーズの第二作である『標的走路』の方が古いようですが、表題作の「感傷の街角」は1979年に書かれていて、この作品が文壇デビューということになるようです。
なお、この表題作の「感傷の街角」は第一回小説推理新人賞を受賞しています。
このところ大沢作品を読む機会が多いためか大沢在昌の描く本格派のハードボイルド小説を読んでみたくなり、かなり前に一度読んだことがある本作品集を読み直してみたものです。
最初に読んだのは三十年以上も前のことであり、その印象は覚えていないのですが、再読してみようと思ったのは何となくの面白さを覚えていたからでしょう。
本書の主人公は早川法律事務所の調査二課(失踪人調査専門)に勤め、とくに若者の失踪人を中心の調査では腕利きと言われる佐久間公という人物です。
まさに“人探し”というハードボイルド小説の王道をいく設定の小説であり、ただ、普通は「探偵」であるところを法律事務所の調査員としているところはユニークです。
年齢は二十代後半であり、ヤクザ相手にも腰が引けないだけの度胸は持っています。
ただ、今回本書『感傷の街角』がその期待に十分に応えてくれたかというと、微妙なものがあります。
何しろ、主人公がとにかくキザです。今の大沢ハードボイルドとはかなり異なります。
そして、そんな今の大沢作品を読んでいるからか、本書は、という当時の大沢在昌の持つ「ハードボイルド」のパターンに表面だけを当てはめて描写しているような、型にはまった印象なのです。
例えば、第一話も早くに、とあるディスコに行ったことがあるかと聞かれ、「チークタイムにスタイリスティックスがかからなくなってからは行かないな。」と答えています。二十歳代の男が初対面の暴走族の親玉に言う台詞とは思えません。少なくとも、違和感がある台詞でした。
気障であることは全く構わないのです。その気障さが物語にきちんと解消されていれば何の問題もありません。
例えば、北方謙三の『ブラディ・ドール シリーズ 』など、気障の最たる作品と思われます。しかし、小説としては見事に成立しています。
本書『感傷の街角』はそうではなく、台詞も浮き気味だし、行動も感覚的なことが多く、読んでいて微妙な疑問を覚えることが少なからずありました。
ですが、それらの疑問を覚えた事柄については、読後に読んだ「解説」で納得しました。本書の「解説」は池上冬樹氏が書いておられますが、この「解説」がなかなかにシビアに本書を分析してあります。
そこでは、本書についての作者の言葉として「もうトロトロに甘いんですよね。」という言葉を紹介してありました。そして、池上氏自身も「この“甘さ”には眉をしかめた」とも書いてありました。「二十台の作家が同じ年代のヒーローを十分に客観化していない憾(うら)みがあった」とも書いておられるのです。
ただ、作者としては、チャンドラーの描く大人の「渋さ」に対抗するには自分の「青さ」しかないと考えた、とも書いてありました。作者なりの計算もあったわけです。
実を言えば、「気障」であるとか、「甘い」だとかは主観的なものであり読者個々人で感じるところは異なるものでしょう。ただ、私はそう感じたのです。
とはいえ、大沢在昌という作家の若い頃の作品として、作品の未完成さを感じながらも面白く読んだ小説でもありました。
池上氏は、生島治郎が本書について「ハードボイルドのフィーリングを持った小説」と評している点をあげ、本書について「つまり、“私”でも“俺”でもない、“僕”という人称が似合う若者の“ハードボイルドのフィーリング”こそ味わうべきなのである」と書いておられます。
つまりは、本書『感傷の街角』はまだまだ男として甘さを持った一人の若者の「フィーリング」を楽しむ小説であって、渋い大人のハードボイルド小説ではありません。
しかし、そのことを前提としてみると読みごたえがある小説と言え、この先もシリーズを読み続けたい作品でした。