本書『暴虎の牙』は、『虎狼の血シリーズ』第三巻で最終巻でもある長編の警察小説です。
個人的にもう一度読みたいと思っていた大上の話とたくましく成長した日岡の物語を共に読める作品として仕上げられており、おもろく読んだ作品でした。
博徒たちの間に戦後の闇が残る昭和57年の広島呉原。愚連隊「呉寅会」を率いる沖虎彦は、ヤクザも恐れぬ圧倒的な暴力とそのカリスマ性で勢力を拡大していた。広島北署二課暴力団係の刑事・大上章吾は、沖と呉原最大の暴力団・五十子会との抗争の匂いを嗅ぎ取り、沖を食い止めようと奔走する。時は移り平成16年、懲役刑を受けて出所した沖がふたたび広島で動き出した。だがすでに暴対法が施行されて久しく、シノギもままならなくなっていた。焦燥感に駆られるように沖が暴走を始めた矢先、かつて大上の薫陶を受けた呉原東署の刑事・日岡秀一が沖に接近する…。不滅の警察小説シリーズ、令和でついに完結!(「BOOK」データベースより)
本書『暴虎の牙』ではプロローグで三人の若者の殺しの場面が描かれ、続く第一章で昭和五十七年六月との年代表示のもと、ヤクザを相手に借金の取り立てをする三人の若者の姿が描かれています。
読み手がこの年代の指示にあまり意味を見つけられないままに本書を読み進めると、暴力の臭いが満ちた雰囲気の中、突然と大上章吾が登場します。
あの大上章吾は第一巻『暴虎の牙』で消えたはずなのにと思っていると、冒頭の昭和五十七年六月という年代指定が意味を持ってくることに気がつくのです。
読者は、この『虎狼の血シリーズ』が暴力に満ちた物語であることは知っているはずですが、冒頭からの残虐な殺しの場面やヤクザと渡り合う若者の姿を見せつけられることで、あらためて本シリーズの性格を思い知らされます。
そして、そこにに大上章吾が登場することになるのです。作者のエンターテイメント小説の書き手としてのうまさを見せつけられたと言っていいのだと思います。
そうした「暴力」の物語であるという流れの中、冒頭から沖虎彦という人物が登場します。
暴力団員であった父親からの暴力を日常のものとしていた母親と幼い沖ですが、長じた沖はある日その父親に対して殺意を抱くに至ります。
当初は本書『暴虎の牙』では、大上と日岡という第一巻と第二巻のそれぞれの主人公を再度登場させるために、沖というどうしようもないワルを登場させたのだと思って読み進めていました。
しかし、どうもこの物語の主人公はこちらの沖ではないかと思えてきました。
破滅に向かってまっしぐらに突き進む、しかし素人には決して手を出さない沖の姿は、大上、日岡らを再登場させるためのキャラクターを超えて独り歩きし始めたようにも思えたのです。
でも、物語としては大上というキャラクターと、その跡を継いだ日岡という存在の物語だというべきなのでしょう。そうした二人を背景として、破滅へ向かう若者の姿が描かれている、それが本書『暴虎の牙』という作品なのだろうと今では思えます。
破滅に向かって突き進む若者と言えば、映画ではありますが『仁義なき戦い 広島死闘篇』が頭に浮かびました。もしかしたら、作者の柚月裕子本人が『仁義なき戦い』が好きで、これを目指したと言っているほどですから、この『広島死闘篇』が頭にあったのかもしれないなどと思ってしまいました。
この作品は、北大路欣也演じる山中正治という若者の暴走と破滅とを描いていましたが、本作はの沖と映画の山中とがとても重なって見えたのです。
蛇足ですが、この映画では千葉真一が演じた大友勝利という男の印象も強く、役者という意味では千葉真一の方が印象に残ったかもしれません。
話を元に戻すと、本書『暴虎の牙』においては第一巻で消えた大上の雄姿を再び見ることができたことは非常にうれしいことです。
その上、大上のあとを継いだ日岡がまるで大上が生き返ったかのようなキャラクターになり、戻ってきているのですから喜びも倍増です。
さらに付け加えると、この物語のラストが妙に心に残りました。「えつ!?」というそのラストは微妙な余韻を残し、終わってしまったのでした。
本書が最終巻ということなので、これ以上このシリーズはありません。それが非常に残念です。