北町奉行所同心の中根興三郎は、朝顔栽培を唯一の生きがいとしている。世の中は井伊大老と水戸徳川家の確執や、尊王攘夷の機運が高まり不穏だが、無縁だ。だが江戸朝顔界の重鎮、鍋島直孝を通じ宗観と呼ばれる壮年の武家と知り合ったことから、興三郎は思いも寄らぬ形で政情に係わっていく。松本清張賞受賞(「BOOK」データベースより)
朝顔栽培を生きがいとする北町奉行所同心を主人公とした連作の人情小説集です。
幕末の江戸、元北町奉行鍋島直孝の屋敷前で絶命していた武家の死体が消えた。一方、町人や商人が四人続けて辻斬りの犠牲になるという事件が起きる。
しかし、両組御姓名掛りという奉行所員の名簿作成役に過ぎない中根興三郎は、相変わらず唯一の趣味である朝顔の栽培に夢中になっているのだった。
ところが、元北町奉行鍋島直孝が江戸朝顔界の重鎮であるところから、宗観と呼ばれる武家と知り合うことになる。そうして武家の死体の消失事件や辻斬り事件とも関わり、更には時代の波にも無関係ではいられなくなるのだった。
本作を評して「町方や市井の物語の向こうに常に歴史が透けて見える、そんな作風」だと、大矢博子氏が書いておられます。
評論家という方もまた文章のプロだとは常々思わされるのですが、言い得て妙だと思いました。読者が知っている歴史的事実の隙間を「ドラマティックに埋めていく」のが歴史小説ですが、本作品は「年表の隙間を埋めるのではなく、年表に半透明の幕を張り、その手前でドラマを展開する」というのです。
本書では、歴史的人物だけを取り上げて物語の中に放り込み、幕末の歴史的な出来事は間接的に読者の前に示されるにすぎません。歴史的な事実は背景に過ぎず、ドラマはその前で展開されます。
人が良いばかりで、朝顔に関してだけは人一倍の知識を有するオタクである中根興三郎だからこそ、歴史的事件には関わらず、その人物に朝顔を通じて交流するだけという展開が可能なのでしょう。
「どんなに美しく咲いても花は一日で萎れてしまう」朝顔は「一朝の夢」であり、だからこそ愛おしいと言う中根興三郎に、宗観が贈った「一期一会」という言葉、茶席に臨むとき「再び返らぬ生涯の一時とする。」というその言葉が心に残ります。
本書の主人公の中根興三郎が夢中になっている趣味の「朝顔」とは、朝顔の変種を生み出し生まれた新種の朝顔のあり様を競う「変化朝顔」のことです。
時代的には本書より前の話ですが、本書の続編として出された『夢の花、咲く』も勿論変化朝顔が取り上げられています。
また、田牧 大和の『花合せ 濱次お役者双六』は、中二階女形を主人公にした変化朝顔をめぐる人情小説ですし、時代小説ではありませんが東野圭吾の『夢幻花』もやはり変化朝顔が主要テーマになった推理小説です。
派手さは無いけど、読んでいてゆっくりとした時間が流れる、そうした心地よい時間を持てる一冊です。第15回松本清張賞受賞作品です。