黒船来航から十二年、江戸亀戸村で三代豊国の法要が営まれる。広重、国芳と並んで「歌川の三羽烏」と呼ばれた大看板が亡くなったいま、歌川を誰が率いるのか。娘婿ながら慎重派の清太郎と、粗野だが才能あふれる八十八。兄弟弟子の二人が、尊王攘夷の波が押し寄せる江戸で、一門と浮世絵を守り抜こうとする。(「BOOK」データベースより)
幕末から明治初期の市井の様子を交えながら、浮世絵が忘れられていく姿が丁寧に描かれている長編小説です。第154回直木賞の候補作品です。
「浮世絵」とは、当代の風俗を描く風俗画であり、その題材は人物、静物、風景など多岐にわたります。
本書の冒頭で「浮き世は憂(う)き世。はかなく苦しい現の世なら、憂(うれ)うよりも、浮かれ暮らすほうがいい。極彩色に彩られた浮き世の絵は、俗世に生きる者たちの欲求そのものだ。」と、うまい表現で紹介してあります。
「浮世絵」は一人の人間の作業で完結するものでもなく、下絵を書く絵師がいて、その下絵にそって版木に彫りこむ掘師がいて、更にその版木を手作業で印刷する摺師がいます。
そのそれぞれが職人であり、高度な技術を有していました。(ここらの事情は「浮世絵ができるまで」に詳しく説明してあります。)通常浮世絵師として有名な歌川広重、葛飾北斎といった人たちはこの絵師であったわけです。
本書の主人公の清太郎は、師匠である三代豊国の死去に当たり、その後を継ぐか否かで迷っていますが、歌川派の中興の祖と言われた初代豊国の名跡は浮世絵界における最大派閥であり、三代目歌川豊国の名はそれほどに大きな存在であったようです。豊国の名に関しては二代、三代と若干の問題がありますが、そこらの事情は本書内に詳しく紹介してあります。
幕末から明治維新期にかけて時代は大きく動いていきますが、本書では歴史上の大きな事件については背景の紹介として触れられているだけです。そうした事件は一般市民の生活には、物価など間接的に影響するだけなのです。
浮世絵師たちにとって最大の問題は文明開化により江戸が無くなっていくことであり、それに伴い浮世絵もすたれていくことでした。印刷機が入り、掘師や摺師がいなくなり、当然のことながら絵師もいなくなります。
終盤になって、本書の「ヨイ豊」というタイトルの意味も明かされ、涙を誘います。絵師にとって絵を書くことの意味、途中役者の團十郎に言わせている「楽しいけど、苦しいよねぇ。」という言葉の重さが胸に迫ってきます。
失われていく江戸の町を前に「江戸絵」を書きたいという絵師たちの哀しみを描き出すこの物語は直木賞の候補になるのもうなずける物語でした。
本書にも終盤に出てくる小林清親という人を描いた作品に杉本章子の『東京新大橋雨中図 』という小説があります。「光線画」といわれる絵の書き手として最後の浮世絵師とも言われる人で、この小説も読みごたえがありました。他にも浮世絵師を題材にした作品は多くあります。私が読んだのは数作しかありませんが、後掲しておきます。
蛇足ながら、本書の装画・挿絵を描いている一ノ関圭氏は、昔ビッグコミックという雑誌で何度か読んだ人です。思いもかけずこういう形で見かけるとは思いませんでした。画力の高さには定評のある作家さんで、下掲のような浮世絵師の物語も書かれています。