伊東を慕い新撰組に入隊、後に赤報隊へ身を投じた久留米脱藩隊士・篠原泰之進。彼の眼を通じて見た、新撰組の隆盛と凋落を描く。(「BOOK」データベースより)
常であればマイナーな存在でしかない篠原泰之進という男を中心に据え、新たな視点から見た新撰組の物語でした。これまでの葉室麟の小説とは趣が異なり、抒情性を排した文章で語られています。
本書では新選組を殺人集団として捉えられており、近藤勇も土方歳三も、勿論沖田総司でさえも殺戮者として描かれています。時代の流れの中でその意に反し剣をとらざるを得なかった青春群像劇、という描き方の多いこの頃の新選組の物語の中で、本書は若干そのニュアンスを異にします。
ここまで新選組を殺戮者として描いたのは、津本陽の『虎狼は空に―小説新選組』があったくらいでしょうか。とは言っても、『虎狼は空に―小説新選組』では、集団としての新選組というよりは、個々の隊員の剣戟の場面の凄惨さの方が目立っていたと記憶しています。
本書では、斉藤一だけは篠原泰之進と心を通じる男として描いてあるのが印象的でした。二人とも維新という激動の時代を潜り抜けて明治の世まで行きぬいた二人でもあり、また共に剣の使い手であることからなのか、作者の中で通じるものを感じたのでしょうね。
また、作者は篠原泰之進らは「人間的な甘さを残した人たち」だと言っています。そうした甘さを否定する土方らに対し「新撰組の内側で『これは違うんだ」と言い続けた人間である』というのです。( 葉室麟 インタビュー : 参照 )
作者の視点によって人物の評価が異なるのは当然ですが、「人間的な甘さ」のない「秋霜烈日の厳しさ」の中にいる土方らによる、「人間的な甘さ」を残した篠原らの否定、という見方は、よくある「非人間的」存在としての土方らという見方とはまた異なる評価と思われ、面白く感じました。
著者による上記インタビューの中では、篠原の妻となる「萩野」という女性についても触れられていました。殺戮者である土方らに対して、篠原が「自分を失わないでいられた」のは、「ある意味では家庭があったから」だそうです。その家庭があったから「バランスがとれ」ていたのだと言うのです。
こうした実在の女性を描くことで、英雄である土方とは異なる、普通の人である篠原を描こうとしたのだと作者は言います。そして、その試みは成功しているのではないでしょうか。
ただ、近藤や土方らを組織人として描いてあるためか、そうではなく本書自体が篠原目線での物語であるためか、若干新選組の個々の隊士としての表現には今一歩感情移入できなかったような気はします。その点が残念ではありました。
新選組を描いた作品と言えば、子母澤寛の『新選組三部作』を外すわけにはいきませんが、本書のように近藤や土方、沖田といった、中心人物ではない隊士を主人公にした作品と言えば、まずは浅田次郎の『壬生義士伝』があります。郷里に残してきた家族のために必死に金を得、そして家族のために生き抜く吉村貫一郎という隊士を主人公にした作品で、映画、テレビドラマ化、漫画化といろいろなジャンルで映像化された名作です。
また、木内昇の『新選組 幕末の青嵐』があります。項ごとに異なる隊士の視点で語られる子の小説は、新選組を多視点で描くことで新選組という組織を客観的に浮かび上がらせています。浅春群像劇としての新選組としての一面もあり、エンタメ小説としても面白い作品でした。
また全く名も無い隊士を描いた作品として中村彰彦の『新選組秘帖』があり、他の作家は描きそうもない新選組隊士を描く、新しい切り口の新選組の物語です。他の小説では名前すら出てこないような人々を中心に据えて、それらの人々そのものを描き出そうとした試みは斬新です。