本書『黒龍の柩』は、新選組副長土方歳三を主人公に据え、ある夢を追いかけた男達の物語として仕上げられた長編の歴史小説です。
あの新撰組の物語を北方謙三の新解釈で再構成した作品で、文庫本で上・下二巻、総頁数が一千頁近くにもなろうかという大作なのですが、あまりその長さを感じませんでした。
時は、幕末。時勢は否応なく男たちを呑み込んで行く。土方歳三も、人を斬りながら新選組の活路を探し続けた。親友・山南敬助の捨て身の切腹、同志・近藤勇との別れの予感。やがて土方は、坂本龍馬が暗殺の直前に語った計画に、新選組の未来と己の夢を賭ける。命を燃やしながら奔った男たちの青春群像。見果てぬ夢を謳いあげた北方版「新選組」。(上巻 : 「BOOK」データベースより)
時代は激しく動いた。徳川慶喜は朝廷に大政を返上。江戸幕府は終焉を迎える。だが新政府は追討令を発し、江戸に進軍を開始する。遂に土方歳三らは、壮大な計画に踏み切った。徳川慶喜を極秘に蝦夷地へ。数十万の幕臣を呼び、豊富な海産物・鉱脈を利用し独立国家を設立する。男たちの夢は、果たして叶うのか。新・幕末歴史小説ここに誕生。(下巻 : 「BOOK」データベースより)
読者が知っている歴史的事実の隙間を埋めていくのが歴史小説だと言いますが、本書『黒龍の柩』は既知の歴史を材料として新たな歴史を紡ぎだしていると言えます。
歴史的な出来事として示されている事実は実在し、異なる解釈があって、更に虚構が織り交ぜられるのが普通の歴史小説です。
しかし、物語のよって立つ思想、軸が全く異なるので、通常の歴史小説とは異なると感じるのでしょう。
つまり、本書『黒龍の柩』ではまぎれもなく土方歳三を中心とした新選組の歴史が語られているのですが、物語の軸となっているのは坂本竜馬が持っていたという北海道での共和国構想なのです。
旧幕府軍による北海道での共和国という事実は、実際の主権の確立の有無は別として、史実としてあります。
それを竜馬の思想とし、勝海舟も西郷隆盛も、更には徳川慶喜をも巻き込んだ一大構想として展開し、そこに新選組が、というよりも土方歳三という人間が夢を託すのです。
そこの土方の絡み方がいかにも北方作品らしく面白いのです。新選組を脱走した山南敬助は実は土方とよく意思を通わせていた、など、普通の物語とは異なる設定が随所にあります。
いつものとおり、本書『黒龍の柩』でも北方謙三の硬質な文体は情景描写の場面は殆どありません。登場人物の心理描写は直截的です。それでいて人間の「情」をも十分に表現されています。
読みながら北方謙三の『水滸伝』(集英社文庫全十九巻)を思い出していました。共に、一般的に読まれている作品がいったん破壊され、北方謙三の視点で異なる物語として組み直されています。
『水滸伝』では経済的側面の強化策として「塩の道」というしくみを作り、また、致死軍という武力装置を作って、組織としての梁山泊を強固に作りあげています。
本書『黒龍の柩』では、土方は武力装置そのものとなり、坂本竜馬の構想を軸として再構築された幕末の歴史の中を、その構想を実現するために疾走するのです。
両作品の出版時期を見ると、水滸伝は2000年から2005年にかけて出版され、本書は2002年の出版ですから、同時期に書かれたものだから似た構成になっているのかとも思いました。
しかし、すこし調べると、北方謙三の描く歴史小説は皆、北方ワールドに変化しているようなので、特別なことではなかったようです。
同じ新選組を描いた作品でも浅田次郎の『壬生義士伝』他のいわゆる新撰組三部作や木内昇の『新選組 幕末の青嵐』などとはその趣はかなり異なります。
ひと昔前「半村良」という作家のSF伝奇小説にはまりました。『産霊山秘録』や『石の血脈』というそれらの物語は歴史的な事実や各地に残る伝承などの上に法螺話をかぶせ、奇想天外な物語を如何にも事実らしく読ませてくれたものです。
本書『黒龍の柩』はその変形だと思いました。歴史小説というジャンル自体が歴史的事実を土台にそうした嘘話を面白く聞かせるというものですが、そこから一歩進んで虚構を構築しているのです。その虚構の部分が地に足がついているかどうかの違いでしょう。
勿論、作家の表現思想も違えば、具体的には文体も、表現分野も異なります。半村良の場合は物語自体が目的のようなところがありました。しかし、北方謙三は「男」のあり方の追求を感じるのです。
ともあれ、北方謙三の面白さが十分に発揮された、ちょっと変わった新選組ものです。幕末を舞台にしたハードボイルドであり、意外な結末に至る、新たな視点の歴史小説です。