『悪玉伝』とは
本書『悪玉伝』は、2018年7月にハードカバーで刊行されて2020年12月に328頁で文庫化された、長編の歴史小説です。
本書『悪玉伝』は歴史上の事件を描いて第22回司馬遼太郎賞を受賞した、文庫本で448頁の長編の時代小説です。
江戸時代最大といわれる地獄事件を新たな視点で描き直した作品で、かなりの読みがいがありました。
『悪玉伝』の簡単なあらすじ
大坂の炭問屋の主・木津屋吉兵衛は風雅を愛する伊達男。家業を顧みず放蕩の限りを尽くしていたところ、兄の訃報が舞い込む。生家の大店・辰巳屋に駆けつけた吉兵衛は、店を我が物にしようと企む大番頭の策略で相続争いに巻き込まれた。次第に泥沼化する訴訟は徳川吉宗や大岡越前守の耳に入る事態にまで発展。吉兵衛は大坂商人の意地をかけた大勝負に挑むが…。歴史エンタメの頂点にして、第22回司馬遼太郎賞受賞作!(「BOOK」データベースより)
『悪玉伝』の感想
本書『悪玉伝』は、江戸南町奉行の大岡越前守忠相の日記に「辰巳屋一件」と記された江戸時代最大の地獄事件を、新たな視点で描き直したもので、かなりの読みがいがある作品でした。
「辰巳屋一件」とは、現在の価値で2000億円という資産を有していたと言われる大阪の豪商「辰巳屋」での相続問題が、単に大阪だけにとどまらず、八代将軍吉宗や大岡越前守忠相をも巻き込んでいったという事件です。
この「辰巳屋一件」は、「女舞剣紅楓(おんなまい つるぎのもみじ)」として歌舞伎・浄瑠璃で舞台化されているそうで( カドブン : 参照 )、作者自身が「史実がフィクションみたいに面白すぎて」と書いているほどの出来事です( THE SANKEI NEWS : 参照 )。
「女舞剣紅楓(おんなまい つるぎのもみじ)」に関しては、上記の「大岡越前守忠相日記」と共に、内山美樹子氏の「辰已屋一件の虚像と実像」という文献が本書の巻末に参考文献として挙げられています。
また、「辰巳屋一件」については、『吉原手引草』で第137回直木賞を受賞している松井今朝子が、『辰巳屋疑獄』という作品を発表しています( 松井今朝子ホームページ : 参照 )。
この作品は、辰巳屋に奉公した元助という奉公人の視点で描かれた作品だそうですが、私はまだ読んでいません。
本書『悪玉伝』の主人公である辰巳屋吉兵衛については、これまでは辰巳屋の乗っ取りをたくらんだ悪人として捉えられていたそうです( カドブン : 参照 )。
しかし先にも述べたように、本書ではその視点を辰巳屋吉兵衛側の視点で再評価したものになっています。
こうした手法の作品としては、例えば山本周五郎の『樅ノ木は残った』(新潮文庫 全三巻)があります。
この作品はいわゆる伊達騒動の悪役と言われてきた原田甲斐を再評価し、忠臣とした視点で描かれている名作です。
こうした手法は歴史小説を書かれる作家にとっては腕の振るい所でもあり、もしかしたら楽しい作業かもしれません。
そもそも本書『悪玉伝』は、惹句に「将軍までをも敵に回した大勝負に挑む」などとあったため、山本一力作品のような大掛かりな痛快小説をイメージして読み始めたものでした。
しかしながら、なにせ本書で取り上げている事件は史実であり、登場人物も出来事もかなりの部分は史実だということもあり( カドブン : 参照 )、いわゆる痛快小説のパターンには収めることはできなかったと思われ、通常の痛快時代小説とは少々異なる運びになっています。
読了後いろんなレビューを読むとほとんどのレビューではこの作品を絶賛してありました。しかしながら、個人的には面白さという点ではこの作者の『残り者』の要が面白かったと思っています。
勿論、それなりに引き込まれ、面白く読んだことに間違いはないのですが、途中主人公が江戸送りになるころから若干描写が簡潔に過ぎるように感じられました。
ところが、牢内の描写などは緻密であり、少々バランスが取れていないのではないかという印象が払拭できないままに読み終えてしまったのです。
ただ、本書『悪玉伝』での視点、主人公の江戸での訴訟騒ぎというメインの筋とは別に、本事件の背景には江戸対大坂、つまりは「金」対「銀」という構図があったという観点には新鮮さを感じましたし、興味を覚えました。
この点は本書でも説明してあるように、上方から仕入れられる品物の決済について、「江戸では金子を用い、上方では銀子を用いるという流通貨幣の違いがある」のです。そしてこの「金銀」の相場が常に銀高で変動する、というのです。
この江戸と上方の流通貨幣の差が遠因となっているという解釈は私にとっては新鮮なものでした。
やはりこの朝井まかてという作者の作品にははずれはないと言えます。本書もそういう意味では面白い作品でした。