『眩 (くらら)』とは
本書『眩 (くらら)』は2016年3月にハードカバー版が刊行され、2018年9月に454頁の文庫として出版された長編の歴史小説です。
葛飾北斎の娘お栄を主人公とした物語ですが、お栄を描いた作品の中で一番生きていると感じた作品でした。
『眩 (くらら)』の簡単なあらすじ
あたしは絵師だ。筆さえ握れば、どこでだって生きていける―。北斎の娘・お栄は、偉大な父の背中を追い、絵の道を志す。好きでもない夫との別れ、病に倒れた父の看病、厄介な甥の尻拭い、そして兄弟子・善次郎へのままならぬ恋情。日々に翻弄され、己の才に歯がゆさを覚えながらも、彼女は自分だけの光と影を見出していく。「江戸のレンブラント」こと葛飾応為、絵に命を燃やした熱き生涯。(「BOOK」データベースより)
『眩 (くらら)』の感想
本書『眩 (くらら)』は、さまざまな物語で父葛飾北斎と共に描かれることの多かった、画号を応為と称した北斎の娘お栄を主人公とした、今のっている作家の一人、朝井まかての描く女絵師の物語です。
本書の惹句に「圧倒的リアリティ」という文句がありましたが、まさにその通りの作品で、これまでお栄が描かれた作品を読んできた中で、お栄が一番生きていると感じた作品でした。
お栄を描いた作品としてはこれまでにもいくつかありました。
諸田玲子の『きりきり舞い』は、十返舎一九や葛飾北斎の娘たちが繰り広げる人情喜劇です。全体的にユーモラスで、文章も読みやすいのですが、描かれているお栄が単なる我儘娘としか思えず、その個性を感じさせる振る舞いが見えない作品でした。
また、宇江佐真理の『江戸前浮世気質 おちゃっぴい』という短編集の中の表題作「おちゃっぴい」に出てくるお栄も、主人公お吉の姉さん的存在であり主題ではないため、鉄火肌の娘ではあっても、絵師としてのお栄ではありませんでした。
これに対し、本書『眩 (くらら)』での応為は実に生き生きと動き回っています。
普通の娘としてではない、北斎の娘としていつも「色」を気にかけている応為であり、常に貝殻をすりつぶすなどして絵具を作り出している姿が描かれています。
本書の装丁には応為の代表的な作品である「吉原格子先図」が使われています。「夜桜美人図」などにも見られる、この光を描く作業こそが、「江戸のレンブラント」などと称され、その作品は父北斎に勝るとも劣らないと評されるようになり、応為の再評価につながっているそうです。
本書『眩 (くらら)』ではまた、女としてのお栄も描かれています。善次郎こと絵師の渓斎英泉に心惹かれるお栄の想いが成就する場面は官能的ですらあります。
このあと善次郎は北斎の家にも寄り付かなくなりますが、お栄がそんな善次郎を想う場面で、「誰かと深くなれば、そのぶん遠ざかるものがある。あたしは何を失ったのだろうか。」と独白している姿は印象的でした。
家族生活としての北斎の家庭を見てみると、北斎という天下一流の変人がおり、その妻であり、お栄の母親としての小兎(こと)がいて、お栄はその小言に振り回されています。
そしてなによりも北斎一家に災難しかもたらさない甥っ子の時太郎に振り回されるお栄がいるのです。
その後クライマックスで、吉原の夜景の美しさの表現に悩み、呻吟する応為を描く場面、「命が見せる束の間の賑わいをこそ、光と影に託すのだ。そう、眩々(くらくら)するほどの息吹を描く。」と表現される応為の心情は、読んでいてもただ圧倒されるばかりでした。
こうした筆力は、朝井まかてという作家が特にここ数年のうちに発表している『残り者』や『落陽』のような実に読み応えのある作品を見ると当然という気もします。
蛇足ですが、大沢たかお主演でテレビドラマ化もされ大人気となった、村上もとかの漫画『JIN-仁-』の中の三巻目の吉原を描いた場面で、「吉原格子先図」を参考にしたコマがありました。
吉原の参考資料としての絵があまり無いこともあるのでしょうが、この漫画を読んだ当時はこの浮世絵のことも知らずにいたので何とも思わずに読み飛ばしていたものです。
でも、たまたまこの漫画を読みなおしていて、見たような絵だと気がついたもので、こういう発見は嬉しいものです。
なお、この漫画ではほかにも広重の東都名所之内の「新吉原仁和歌之図」なども資料として使用されていました。
追記
2017年9月18日のNHK総合テレビにおいて、本書『眩 (くらら)』を原作とするドラマが、主役のお栄(後の葛飾応為)を宮崎あおい、父北斎を長塚京三、渓斎英泉を松田龍平というキャスティングで放映されました。
詳しくは下記を参照してください。
私も見たのですが、105分という短い時間的な制約の中でよくできていたと思います。江戸の町もよく再現されていたし、細かなセットも普通のテレビ時代劇と異なり、かなりのリアリティが出されていたと思います。
ただ、問題児である甥っ子の時太郎の部分は全部カットされていたし、善次郎(英泉)との恋心も深くは追求されてはいませんでした。何より、お栄が執拗に色を探し求める姿も簡単にしか触れられていなかったように感じたのは残念でしたね。
しかし、それは私がその点に一番関心があったからそう感じたのでしょうし、他の人はまた異なる不満点があったことでしょう。
私の不満の延長線上には「吉原格子先図」などの絵が生まれてくるところをもっと詳しく見たかった、という点にあって個人的なものですから、ドラマの作り手としては対応のしようがないところでしょう。
とにかく、宮崎あおいという女優さんはやはりうまいものだし、ドラまとしての出来も十分満足できるものだったと思いました。
これからも、もっと多くの良質なドラマを期待したいものです。