『墨のゆらめき』とは
本書『墨のゆらめき』は、2023年5月に232頁のハードカバーで刊行された長編の現代小説です。
真面目なホテルマンと奔放な書家との間の、次第に変化してゆくその関係性を描き出した心温まる作品でした。
『墨のゆらめき』の簡単なあらすじ
実直なホテルマンは奔放な書家と文字に魅せられていく。書下ろし長篇小説! 都内の老舗ホテル勤務の続力は招待状の宛名書きを新たに引き受けた書家の遠田薫を訪ねたところ、副業の手紙の代筆を手伝うはめに。この代筆は依頼者に代わって手紙の文面を考え、依頼者の筆跡を模写するというものだった。AmazonのAudible(朗読)との共同企画、配信開始ですでに大人気の書き下ろし長篇小説。(内容紹介(出版社より))
『墨のゆらめき』の感想
本書『墨のゆらめき』は、朗読ということを前提に書かれた、奔放な書家と真面目なホテルマンとの心の交流を描く長編小説です。
さすがに三浦しをんという実績ある作家の作品だけあって文章はとても読みやすく、内容も心惹かれるものがありました。
また、単に主役二人の関係性の展開が面白いというだけでなく、「書」という普段馴染みのない分野が対象になっているという点でも惹かれたのだと思います。
本書を読みながら、「書」をテーマにした作品ではないものの砥上裕将の『線は、僕を描く』という作品を思い出していました。
この作品は本書同様に墨と筆を使用するものの、水墨画をテーマに一人の若者の再生を描いた作品で、第59回メフィスト賞を受賞し、2020年の本屋大賞でも三位となった感動の長編小説でした。
描く出す対象は異なるものの、同様に墨と筆を使用した芸術作品を生み出す作業であって、東洋的であり、墨の濃淡で書(描)き手の精神性が重視されるという点で共通するところから思い浮かべたと思います。
また、手紙の代筆という点では小川糸の『ツバキ文具店』という作品もありました。
代書依頼者の望み通りに、依頼の内容に応じた便せん、筆記具、書体で、勿論、手紙を書く上での作法をふまえ手紙を仕上げていく、一人の代書屋さんの日常を描いた心あたたまる2017年本屋大賞で第4位になった長編小説です。
本書『墨のゆらめき』は、主人公のチカこと続力と彼が筆耕を依頼する書家の遠田薫との交流する姿の描写こそが第一の魅力でしょう。
謹厳実直という言葉があてはまるホテルマンである主人公のチカと、ホテルの宛名書きを引き受ける傍若無人という言葉があてはまる書家との軽妙な掛け合いと、次第に打ち解けていく二人の関係性の変化の描写は絶妙です。
生真面目な続が、書道教室に通ってくる小学生と一緒になって、窓から入ってくる風を感じて書けという遠田の姿に思いのほか真摯な書家の姿を感じ、次第に彼との付き合いに心地いいものを感じてくるのです。
他方、遠田の書く「書」に次第に惹かれていく力の様子もまた、作者の「書」の魅力を伝える文章のうまさが光る点です。
力が、遠田が書いた「君去春山誰共遊」という七語から始まる漢詩を見たときの印象を述べた箇所は後述のように個人的には疑問があるところですが、こうした場面の必要性は否定できず、読み応えのある個所の一つでしょう。
ちなみに、この漢詩は劉商という中唐の詩人が旅立っていく友人の王永を送るときに詠った詩だそうです( ハナシマ先生の教えて!漢文 : 参照 )。
また、「書」の魅力の紹介もそうですが、先に述べた手紙の代筆の作業である代書屋としての作業もまた魅力的です。
ただ、主人公の続力が生み出す文章を、遠田薫という書家が依頼人にあった筆跡で手紙の代筆を描き出す点でも面白いのですが、なによりもその作業を通して「書」の魅力を引き出しているというところに眼目があると思っています。
そして、そうした作業の合間に顔をのぞかせるカネコの存在が絶妙です。三浦しをん節が明確に表れている個所とも言えるでしょう。
このカネコは「鼻の下に横一線に走った黒い模様で、口ひげを生やしているみたい」であり、金子信雄みたいだからカネコなんだそうです。
しかしながら、主人公が遠田の書いた書を見ての印象についての独白の箇所はついていけません。
というのも、上記の送王永の詩についての印象を語る場面などはとても素人が抱ける印象とは思えないのです。
音楽や絵画をテーマとする芸術小説ではいつも思うことですが、一般素人が物語に絡むとき、芸術家のような語りを始めますが、一般素人はそうした感性や言語化の能力を持たないとしか思えないのです。
そうした素人にも感動を与えるのが芸術なのだと反論されそうですが、美しい、素晴らしいという印象は持ってもそれを具体的に言語化する能力は持たないでしょう。
ましてや、遠田の書を見て哀しさが漂っているなどというイメージを抱き得るものなのか疑問しかありません。
でも、そうした感想は芸術関連小説の存在を否定することにもなりかねず、ジレンマと感じるところでもあります。
本書『墨のゆらめき』という作品が、書道という分野についてわかりやすく説き起こしており、また作者の文章のうまさともあいまって素晴らしい小説として成立していることは否定できません。
ということは、結局は読み手である私の半端な感想という点に尽きるのでしょう。
ただ、三浦しをんらしい面白く、そして感動的な作品でもある本書をただ楽しめばいいということだと思います。
本書は「新潮社(書籍)とAmazonのオーディブル(朗読)の共同企画で、全篇の朗読が先行して配信された後、書籍が刊行され( 三浦しをん『墨のゆらめき』特設サイト : 参照 )」た作品です。
若い頃に古典落語をカセットテープで聴くことにはまった時期がありましたが、私自身の歳を考えても、そのうちに「聞く」読書というものを考えてもいいかもしれません。いつか聞いてみたいものです。
本を「聴く」ことについて下記サイトがありました。サブスクをきっかけとして「聴く読書」が新たなスタイルとして確立される可能性も高いということです。