『藍を継ぐ海』とは
本書『藍を継ぐ海』は、2024年9月に新潮社から272頁のソフトカバーで刊行され、第172回直木賞を受賞した短編小説集です。
現実的な科学的な知見を基礎にした人間ドラマが展開されている短編集であって、かなり惹き込まれて読んだ作品でした。
『藍を継ぐ海』の簡単なあらすじ
数百年先に帰ってくるかもしれない。懐かしい、この浜辺にーー。なんとかウミガメの卵を孵化させ、自力で育てようとする徳島の中学生の女の子。老いた父親のために隕石を拾った場所を偽る北海道の身重の女性。山口の島で、萩焼に絶妙な色味を出すという伝説の土を探す元カメラマンの男ーー。人間の生をはるかに超える時の流れを見据えた、科学だけが気づかせてくれる大切な未来。きらめく全五篇。(内容紹介(出版社より))
『藍を継ぐ海』の感想
本書『藍を継ぐ海』は、五編の物語が収納された第172回直木賞を受賞した短編小説集です。
現実的な科学的な知見を基礎にした人間ドラマが展開されていて、かなり惹き込まれて読んだ作品集でした。
様々な分野の科学的情報を前提とすることで物語の背景に深みが加えられていて、展開されている人間ドラマ全体が厚みを増した作品となっているのです。
また、どの話も情報の量がすごく、それでいて消化不良感がなく、ストーリー自体もすっきりとまとまっていて実に読みやすいのは驚きです。
その上、それぞれの物語は日本のいろんな土地を舞台としていますが、その土地ごとの方言が、多分それなりにきちんとした方言が使われていると思われ、物語にリアリティを与えています。
著者の伊与原新はもともと研究者だったということですが、登場人物の心象や風景描写の文章も見事なものです。
山口県内の国立大学で火成岩岩石学を研究している久保歩美は、山口県萩市の北西にある見島で出会った三浦光平という男を通して萩焼と出会い、そして萩焼の歴史を知るのでした。
地質学と山口県の萩焼とを中心にして、ひとつのことに取り付かれていると言ってもよさそうな人間たちを描き出した物語です。
歩美の地質調査の意味やその様子をこと細かに説明してあるかと思えば、もう一人の主役である三浦光平に絡む萩焼についてもまたその歴史まで含めて詳細に説明してあります。
その説明にあらためてうまいと思うのは、私達素人が読んでもその土地の地質学的な成り立ちが理解できるように説明してあることと、萩焼についても同じく歴史的な来歴まで含めてわかりやすく説明してあることです。
その上で、主役の二人の人間的な佇まいもわかりやすく描き出してあります。
※助教授という職種が准教授と変わったということは知っていましたが、助教という言葉の性格の意味もあまり知りませんでした( アカリク : 参照 )
まひろは、都会での仕事に疲れ、三十歳の節目を機に奈良の山奥でフリーランスとして仕事を始めていた。ある夜、皆から「オオカミ少年」と呼ばれていた大家の息子の拓己が見たというオオカミらしき遠吠えを聞いた。
今は絶滅しているとされるニホンオオカミ、人間のよき友としている「犬」、そして「狼混」についての考察の物語です。また、その背景としての林業の現状についての話なども盛り込まれています。
長崎県の長与町役場の住宅係に勤務している小寺は、担当する空き家で被爆後の長崎で集められたと思われる多数の瓦礫と、「加賀谷昭一」との名前のあるノートを見つけた。
あの「戦争」という災禍の中でただひたすらにピカドンの性質を調べようとする研究の徒と、無垢な子供を焼き殺すことを可とする神への疑問を持った神父の物語を掘り起こしていきます。
「あとがき」によれば、この物語は広島平和記念資料館初代館長の永岡省吾氏の活動に着想を得たと書いてありました。地質学者だった長岡氏は原爆投下後の広島でたった一人で被爆資料の収集、調査を行い現在の資料館の礎を築かれたそうです。
しして、原爆の熱線は道端に咲く野菊のような小さな存在でさえも、その影を焼き付けるものなのでしょうか。ここの描写は衝撃的でした。
北海道の遠軽町の近くに隕石が落ち、アマチュアの天文家たちが隕石を探しにこの町へやってきた。そこで郵便局員の信吾の妻の涼子は、その隕石に、定年退職が近い父親公雄のために、父親が局長を務める野知内郵便局の名を残そうと画策するのだった。
北海道開拓の苦労の話はいろいろな小説でも読んだことがあります。そうした悲惨な開拓民の暮しの「唯一の楽しみは、手紙」であり、「故郷の親や親戚、友人からの便り」だというのです。そしてまた、配達も命がけだったそうです。そうした記憶の残る「野知内駅逓」がその痕跡さえなくなるというのでした。
この物語ではまた、今では「九号沢川」と呼ばれている川について、アイヌの伝承に言う「ノチウナイ」つまり「星の川」という意味の川だというアイヌの伝承の話も紹介してあります。
徳島県阿須町の姫ケ浦に産卵に来るウミガメの卵を盗もうとしていた沙月は、一人のカナダ人と出会う。このティムと名乗るカナダ人は、カナダの太平洋岸、ブリティッシュコロンビア州にあるハイダ・グワイでビーチコーミングでタグのかけらとおぼしきものを拾ったというのだ。
この物語は、徳島県に住む沙月という娘、それに佐和というボランティアの女性というアカウミガメに魅せられた二人の女性の物語です。
アカウミガメは、太平洋をカナダの西岸まで渡り、何十年かの年月を経て再び母なる浜である母浜へと戻ってくるそうです。
そうした生態を丁寧に説明しながら、一匹のアカウミガメにつけられたタグの欠片に秘められたドラマが語られます。
こうして、この物語はウミガメに魅せられた人々の人間ドラマと共に、大いなるロマンを感じさせてくれるのです。
本書『藍を継ぐ海』の著者伊与原新氏は、前著の『八月の銀の雪』も直木賞の候補となっていましたが、本書は第172回直木三十五賞を受賞しています。
そして、その受賞になんの違和感もない、受賞して当然の作品だった、というのが正直な感想です。おめでとうございますと心からの拍手を送りたいと思います。