伊与原 新

1972年、大阪生れ。神戸大学理学部卒業後、東京大学大学院理学系研究科で地球惑星科学を専攻し、博士課程修了。2010年、『お台場アイランドベイビー』で横溝正史ミステリ大賞を受賞。2019年、『月まで三キロ』で新田次郎文学賞、静岡書店大賞、未来屋小説大賞を受賞。他の著書に『青ノ果テ 花巻農芸高校地学部の夏』『磁極反転の日』『ルカの方舟』『博物館のファントム』『梟のシエスタ』『蝶が舞ったら、謎のち晴れ 気象予報士・蝶子の推理』『ブルーネス』『コンタミ』がある。
引用元:伊与原新 | 著者プロフィール | 新潮社

 

伊与原新氏は、上記プロフィールにもある通り、横溝正史ミステリ大賞を始めとする各種文学賞を受賞されておられる作家さんです。

ところが、このたび2020年10月に出版された伊与原新氏の『八月の銀の雪』という作品が、2020年下半期第164回直木賞の候補作となり、更には2021年本屋大賞にもノミネートされました。

 

 

残念ながら直木賞は 西條奈加氏の『心(うら)淋し川』に決まりましたが、伊与原新氏の『八月の銀の雪』もかなり良質な作品でした。

 

 

作者の伊予原新氏は「面白くてためになるのが究極のエンタメだと思っている」と発言されています。( KUMON now!OB・OGインタビュー : 参照 )

その言葉通りの面白くそしてためになる物語を期待できる作家さんだと思われます。

ほかの作品も読んでみたいものです。

八月の銀の雪

本書『八月の銀の雪』は、人生に迷った人々が科学に触れ、自らの路を見出す姿を描く、新刊書で246頁の短編小説集です。

爽やかな文章で、迷いながら生きている人の人生とさまざまな科学との接点を見つけて描き出す、2021年本屋大賞および第164回直木賞の候補作となった作品集です。

 

『八月の銀の雪』の簡単なあらすじと感想

 

不愛想で手際が悪い―。コンビニのベトナム人店員グエンが、就活連敗中の理系大学生、堀川に見せた驚きの真の姿。(『八月の銀の雪』)。子育てに自信をもてないシングルマザーが、博物館勤めの女性に聞いた深海の話。深い海の底で泳ぐ鯨に想いを馳せて…。(『海へ還る日』)。原発の下請け会社を辞め、心赴くまま一人旅をしていた辰朗は、茨城の海岸で凧揚げをする初老の男に出会う。男の父親が太平洋戦争で果たした役目とは。(『十万年の西風』)。科学の揺るぎない真実が、人知れず傷ついた心に希望の灯りをともす全5篇。(「BOOK」データベースより)


 

八月の銀の雪
人見知りで、就職活動も上手くいかずにいた堀川は、いつも行くコンビニエンスストアで、ベトナム人アルバイトのグエンと知り合う。段ボールで作るロボットと、それを制御するプログラミングだけを趣味としていた堀川は、彼女から地球の地殻やコア、コアの中の内核などの話を聞くのだった。

ラストシーンでのグエンの言葉「銀の森に降る、銀の雪の音」などの詩的な言葉は美しく響きました。

しかし、主人公が自分の就職活動に積極的になれた直接的な理由は、グエンが聞かせてくれた地球の中の説明そのものよりも、異国で苦労しているグエンが直接に力づけてくれた言葉そのものに力を得たように感じたものです。

 

海へ還る日
自分の人生を“当たっていない”人生であり、娘の果穂にも何もしてやることができないと思っていたシングルマザーのわたし(野村)は、一人娘の果穂との外出の折、国立自然史博物館の動物研究部(委託)に勤める宮下和恵という女性と知り合う。宮下からクジラなどの生態の話を聞いたわたしは、生物画を描くのが仕事だという宮下から絵のモデルになってくれるように頼まれた。

この物語の“わたし”は、自分の人生でありながら“主役”ではないと感じ暮らしています。

中身はかなり異なりますが、こうした物語を読むと、いつも「弱い人物」という一点で遠藤周作の『沈黙』を思い出します。

江戸末期に日本に布教に来たキリスト教宣教師の話ですが、マーティン・スコセッシ監督によって映画化もされた世界に知られた名作です。

主人公である宣教師と神との話しではなく、棄教者であるキチジローの行動に衝撃を受け、弱者に対する神の存在は何なのか、考えさせられたものです。

 

 

この「海へ還る日」という物語では、宮下という女性の姿がまぶしく、科学の話自体ではなく、宮下という女性の生き方、宮下の言葉によって救われただろう主人公の姿が気になったものです。

 

アルノーと檸檬
アパートの住人の立ち退き交渉を担当している園田正樹は、立ち退き対象の白粉婆こと加藤寿美江が立ち退かない理由が迷い込んできたハトにあることを知った。伝書鳩だと思われるそのハトには脚環がついていて、「アルノー19」と読める文字があった。

何百キロも離れた場所からも家に帰ってくるハト。その能力の素晴らしさに心打たれ、長年故郷に帰っていない自分を顧みる主人公がいます。

挫折した自分を受け入れてくれるかどうか不安になる主人公の正樹ですが、家に帰ろうとするハトの姿に、檸檬がいっぱいに植えられた自分の島へ帰ろうする自分の姿が重なるのです。

ハトの能力への賛美と共に、白粉婆への人間としてのあるべき姿、優しさをも取り戻す主人公の姿は、科学そのものよりも自然への共感のようにも思えます。

 

玻璃を拾う
吉見瞳子は、自分のSNSに投降した写真で迷惑をこうむったと「休眠胞子」と名乗る人物からクレームをつけられていた。その写真は親友の奈津が送ってきたものであり、奈津と共にその人物に会うことになる。

「珪藻アート」がテーマとなっている作品です。植物プランクトンの一種である珪藻の殻がガラスの主成分であるケイ酸塩からできているのだそうです。

タイトルの「玻璃」という言葉も“ガラス”を意味します。

その0.1ミリにも満たない様々な形、色合いを持つ珪藻の殻を並べてデザインや絵にしたものを「珪藻アート」と呼びます。

下記サイトにある本の紹介をしてありました。興味のある方はご覧ください。

周りから孤立しないために処世術として「さばけた女」を演じる術を身につけた女性が、ガラスの殻をまとい生きている珪藻の姿から人間もまた同じ、と感じるのです。

 

十万年の西風
辰郎は北茨城市の北端にある「長浜海岸」で、気象観測用の凧を揚げている気象学の元研究者だった滝口という男性と知り合う。辰郎は、他の土地で勤めていた原発関係の会社で不都合な事実の隠蔽を指示されその仕事を辞め、あらたに福島原発の廃炉の仕事を探そうとしていたのだ。

あってはならない事故が起きた福島原発。その使用済核燃料の放射線レベルが原料となったウラン鉱石と同程度になるまでに十万年かかるという事実。

語るならば十万年後の空とか風とかの話がいいという辰郎に、滝口はその風すらも兵器とされた事実があると話し始めます。

ジェット気流に乗せた風船爆弾の話であり、滝口が揚げていた凧には意味があったのです。


 

本書の惹句に「科学の揺るぎない真実が、人知れず傷ついた心に希望の灯りをともす」とありました。本書を読み終えてみると、この言葉は本書の性格を見事についているな、と感じたものです。

本書『八月の銀の雪』の作者である伊与原新という人は、東京大学大学院理学系研究科博士課程を修了している理系の人ですが、人の描き方が実にうまいと感じました。

また、物語への導入、それからの主人公と科学との触れ合いの描き方がとても自然です。科学の持つある側面が主人公の内心へと響き、心がそれに応え、一歩を踏み出す様子がはっきりとわかるのです。

 

本書『八月の銀の雪』は新田次郎文学賞を受賞した『月まで三キロ』という作品に続く科学の要素を交えた短編集だということです。

であるのならば、その『月まで三キロ』も読んでみたいと思わせられるだけの魅力がありました。

 

本書はいわゆるエンタテイメント小説ではなく、人の生き方を見つめ、考えさせられる作品です。そのきっかけとして科学を媒介にしているという点が特徴的なのです。

本書『八月の銀の雪』は直木賞の候補に挙がっている作品ですが、本書のような人間自体を見つめる作品を読むと、いつも芥川賞ではないのか、と思ってしまいます。

文学作品と大衆作品との差異が分からないのです。

その区別を知りたいとも思いますが、一方でそうした区別はどうでもいいとも思っています。自分が好きで面白いと思える作品であればそれでいいと思っているのです。

本書『八月の銀の雪』は、そうしたことまでも考えさせられる作品でした。

ババヤガの夜

本書『ババヤガの夜』は、暴力こそ楽しみと感じる女性を主人公にした、ソフトカバー版で181頁という分量を持つ長編のバイオレンスアクション小説です。

一頁あたりの文字数が少なく、また内容も文章もかなり読みやすいのですが、今一つ好みとは異なる作品でした。

 

『ババヤガの夜』の簡単なあらすじ 

 

お嬢さん、十八かそこらで、なんでそんなに悲しく笑う――。暴力を唯一の趣味とする新道依子は、腕を買われ暴力団会長の一人娘を護衛することに。拳の咆哮轟くシスターハードボイルド!(Amazon「内容紹介」より)

 

関東最大規模の暴力団興津組の直参である内樹会の会長・内樹源造の邸宅で白いセダンから降ろされたのは、東大寺南大門の金剛力士像にも似た筋骨隆々とした肉体を持つ女だった。

新宿の街でヤクザ相手に喧嘩をし、袋叩きに会った末に連れてこられ、内樹源蔵の娘尚子のボディーガードをするように命じられたのだ。

その尚子は明治や大正時代の美人画から抜け出てきたような、古風な風体の美少女だった。

 

『ババヤガの夜』の感想

 

図書館の新刊の棚に「血、暴力、二人の女 拳の咆哮轟くシスター・バイオレンスアクション!」と書かれた帯をまかれた『ババヤガの夜』というタイトルの本書を見つけたので、ただその帯の文言だけで借りた作品です。

結論から言うと、先に書いたとおり、私の好みとは異なる作品でした。

主人公の新道依子は暴力衝動を持ち、鍛え上げられた肉体を武器とする喧嘩三昧の女であり、冒頭からヤクザを相手に凄惨なアクションが展開されます。

しかし、書き込みが薄いこともあり、物語として魅力を感じにくい作品でした。

 

本書『ババヤガの夜』の主人公新道依子は、喧嘩を趣味とする、武道に長けたという女性です。

この新道依子という女性は、幼いころから祖父に実戦で使える暴力の技術を、柔道、空手、拳法となんでも喧嘩の技術として叩き込まれて育ちました。

依子には天稟があったらしく、力の中に身を浸すのを楽しいと感じるようになり、暴力は依子の唯一の趣味になっていたというのです。

その新道依子が、大学に通う、華道、茶道、ピアノ、英会話などに加え、乗馬や弓道まで習っている日本人形のような暴力団組長の娘・尚子のボディーガードとなります。

尚子の母親は、むかし若頭だった男と駆け落ちをし、内樹は長年その二人を探し続けているのです。

この尚子の許嫁が池袋の豊島興業の宇田川という男だったのですが、この男が徹底したサディストでした。

この尚子と依子の物語とは別に、挿話として、芳子という女と、今どきあまり見ないかっちりした角刈りの胡麻塩頭の昔気質の職人を思わせると呼ばれる人物との暮らしが語られています。

 

設定自体が簡単であるのは別に問題はありません。面白い物語ほど物語自体は単純なものが多いのは事実です。

ただ、本書『ババヤガの夜』の登場人物に今一つ魅力を感じませんでした。

主人公の新道依子自体が暴力衝動を持った金剛力士像のような肉体を持った女というだけで、それ以外の人間性はあまり分かりません。

たしかに、犬のために脱走をあきらめたり、尚子のために一生懸命に尽くしたりと、優しさを持った強い女であることは分かりますが、何か足りない印象がします。

また、依子が認める数少ない男の一人である若頭補佐の柳永洙にしても、また内樹源蔵の娘尚子の許嫁である豊島興業の宇田川にしても今一つ魅力を感じませんでした。

 

たしかに物語の中に大きな仕掛けも施してあり、終盤になるとしてやられた感もあります。

単にバイオレンス満載のエンタテイメント小説というだけではない、読者を楽しませる意図を持った面白さを持っていることは否定しません。

しかしながら、それ以上のものがありません。

物語として面白いかと問われれば、面白くないとは言えません。しかし、諸手を挙げて面白いから読みなさい、とはとても言えないのです。

 

同じバイオレンスの作品であっても、より過激である 平山夢明の『ダイナー』はかなり読みごたえのある作品であり、蜷川実花氏によって映画化もされました。

ダイナー』は殺し屋専門のレストランを舞台とした物語で、コックのボンベロのもとで雇われることになったウエイトレスのオオバカナコの目線で語られる作品でした。

この作品はバイオレンス満載で、時にはグロテスクな場面もあったのですが、描写自体のうまさ、オオバカナコの行動、そしてボンベロの台詞の面白さなども相まって、かなり面白い作品でした。

 

 

他に 誉田哲也の『ケモノの城』という作品などもあります。

現実に起きた事件をモデルにした長編ミステリーでグロテスクな描写を含んでいながら、妙な面白さを持って迫ってくる小説です。

独りの男のコントロール下に置かれた複数の人間が、次第に壊れていく様を、緻密な筆致で描き出してあります。

 

 

上記の二冊ともにストーリー展開の面白さも勿論ですが、物語の向こうに単なる暴力を超えた描写力の凄さ、さらには人間存在のおかしさをも感じさせてくれる作品です。

結局は、どんな物語であっても、その物語なりのリアリティがなければ感情移入できません。

緻密な描写が必要とまでは言いませんが、その作品なりの真実性を持った世界観が確立していないと物語としてのめりこめないと思います。

その点で本書『ババヤガの夜』は物足りなさを持ったと思われます。

 

ちなみに、タイトルの「ババヤガ」とは、フリーアナウンサーの宇垣美里市によれば、“Baba Yaga”はスラブ民話にでてくる森にすむ妖婆のことを指す、そうです。( Book Bang : 参照 )

王谷 晶

1981年生まれ。編集プロダクションでのアルバイトやゲームシナリオライターを経て小説家に。
著書に『あやかしリストランテ~奇妙な客人のためのアラカルト~』『探偵小説(ミステリー)には向かない探偵』(集英社オレンジ文庫)、『完璧じゃない、あたしたち』(ポプラ社)など。

引用元:monokaki

滅びの前のシャングリラ

本書『滅びの前のシャングリラ』は、一月後に小惑星が衝突し滅亡するなかで生きていく四人を描いた、ハードカバー版で440頁の長編小説で、2021年本屋大賞にノミネートされた作品です。

この作者の前作『流浪の月』とは異なる作風で、家族や友達、仲間などのあり方を描きだしてある、かなり惹き込まれて読んだ作品でした。

 

『滅びの前のシャングリラ』の簡単なあらすじ 

 

「一ヶ月後、小惑星が衝突し、地球は滅びる」学校でいじめを受ける友樹、人を殺したヤクザの信士、恋人から逃げ出した静香。そして―荒廃していく世界の中で、四人は生きる意味を、いまわのきわまでに見つけられるのか。圧巻のラストに息を呑む。滅び行く運命の中で、幸せについて問う傑作。(「BOOK」データベースより)

 

中学のクラスメイトの井上たちからいじめを受けていた恵那友樹は、小学生の頃に少しだけ話したことのある学校一の美少女藤森雪絵に一方的に恋をしていた。

一か月後に小惑星の衝突で皆死んでしまうことが分かってから、藤森さんはかねてから言っていた東京行きを実行すると言い出し、友樹をいじめていた井上が送っていくという。

彼らのあとをつけていた友樹は、上京の途中の品川の手前で立ち往生した新幹線を降りた藤森さんを襲い始めた井上を殺してしまい、藤森さんとともに東京を目指すことになった。

一方、友樹の母親の静香は、突然現れた信士の車で東京へと向かうのだった。

 

『滅びの前のシャングリラ』の感想

 

本書『滅びの前のシャングリラ』の作者の凪良ゆうという作家さんは、『流浪の月』で2020年本屋大賞を受賞しており、本書で2021年本屋大賞にもノミネートされています。

この『流浪の月』は、文章は見事だと感じたものの、個人的な好みとは異なる作品だとの印象を受けていました。というのも、この作品は、個人の内面を詳細に描写する作品であり、私があまり好みではない分野のものであったのです。

 

 

ところが本書『滅びの前のシャングリラ』は、『流浪の月』とは同じ作者とは思えないほどに内容も作風までも全く異なる作品として仕上がっていました。

まず本書は、一ヶ月後に小惑星の衝突により滅亡する地球、という舞台設定からして特異です。

小惑星の衝突だからと言ってSF作品だというわけではありません。単に滅亡を前提とする極限の世界を借りているだけです。

ひと月しか生きることができないという極限の世界で、人々は如何なる生き方を選択するのかを、江那友樹ほかの多視点で描き出しています。

 

また『流浪の月』では登場人物が自分の内面を見つめる様子が深く掘り下げてありました。

しかし本書『滅びの前のシャングリラ』では、登場人物の行動面に重きが置かれているようです。

内心を描いてないわけではありません。特に信士や静香などにおいては暴力の主体としての心情が描かれており、友樹や雪絵は暴力を受ける側の心情がとして描かれています。

 

また、本書は四つの章ごとに視点が異なります。そして書き出しが似ていて、一定のリズムを作り出しています。

第一章「シャングリラ」は「江那友樹、十七歳、クラスメイトを殺した。」、第二章「パーフェクトワールド」は「目力信士、四樹歳、大物ヤクザを殺した。」と始まっています。

そして第三章「エルドラド」は「江那静香、四十歳。」、第四章「いまわのきわ」は「山田路子、二十九歳、恋人を殺した。」と始まっていますが、こうした遊び感覚も前作では無かったのではないでしょうか。

 

第三章までは、江那友樹とその友人の学校一の美少女藤森雪絵との無法地帯となった世界での東京行きの様子を中心に描いてあります。

そして、信士と静香それぞれにバイオレンス感満載な人物たちであり、友樹の母親である静香など、本当に友樹の母親かというほどにヤンキー感丸出しです。

彼らの、いじめられっ子の友樹と学校一の美少女である雪絵という二人との絡みが読ませます。

そして最終章ではこの三人とは無関係の歌姫が登場し、話はクライマックスに向けて盛り上がっていきます。

 

本書と同じように近い将来の小惑星の衝突を控えた人類を描いた作品として 伊坂幸太郎の『終末のフール』という作品があります。

三年後の小惑星の衝突で全人類は滅亡します。でも現在ではその事実が分かってから既に五年が過ぎているのでパニックも収まり、社会はそれなりの平穏を取り戻しています。

そうした世界での仙台北部の団地「ヒルズタウン」を舞台に、個々の住民たちの様子が描かれています。

いかにも重く、暗い話のようですが、決してそのようなことはないホームドラマであり、三年後の滅亡が判明している社会で人はどう生きるのかと、生きることの意味が問われる短編集です。

 

 

結局、本書『滅びの前のシャングリラ』は、前著『流浪の月』とは全く違く顔を見せた作者の力量を見せつけた作品です。

エンターテイメント性の強い作風に載せ、家族の有りようを描き、生きることの意味を問うていると言えそうです。

始まりの木

本書『始まりの木』は、『神様のカルテシリーズ』の著者による民俗学を通して学ぶこと、生きることの意味を考える長編小説です。

民俗学の准教授がフィールドワーク先の現場で行う大学院一年生に対しての心豊かな講義は必読です。

 

生きること、学ぶことの意味を問う、新世紀の“遠野物語”。“これからは、民俗学の出番です”。神様を探す二人の旅が始まる。(「BOOK」データベースより)

 

第一話 寄り道
古屋と千佳は、青森県弘前市へと向かい、古屋の知り合いの宿へと泊まる。翌朝目覚めた千佳は、岩木山を前に古屋から日本と西洋の夫々のの神の成り立ち、違いについて講義を受けるのだった。

第二話 七色
藤崎千佳はいつものように古屋神寺郎と京都に講演のために来ていた。そこで出会った一人の青年を鞍馬まで送っていくことになるが、途中の色彩の降り注ぐ駅で彼は降りた。

第三話 始まりの木
信州の松本駅前の店で倒れたものの翌日元気を取り戻した古屋は、千佳を連れて伊那谷へと向かう。そこで、古屋の民俗学の原点が示され、そして日本人にとっての神についての講義が始まった。

第四話 同行二人
古屋と千佳は、高知県宿毛市で調査中の仁藤仁のもとへと行く。翌朝の散歩の途中、ゆったりと響いてくる読経の声に誘われて横道に入った千佳らは、行き倒れている一人のお遍路さんを見つけた。

第五話 灯火
東々大学近くの輪照寺には道路拡張のために切り倒される樹齢六百年の見事な枝垂桜の老木があった。千佳は、輪照寺の住職からこの国の神の独特な在り方を、古屋からは民俗学の意義についての話を聞く。

 

本書『始まりの木』の主人公は、国立東々大学の民俗学者である古屋神寺郎(かんじろう)准教授の研究室で学ぶ、藤崎千佳という大学院一年生です。

千佳の二年先輩の仁藤仁が、古屋の言葉は「毒と皮肉でできている」と言うほどに古屋という人物は偏屈であり、要らざる敵を作ることに長けています。

そうした人物に付き従い、足の悪い古屋の世話をする千佳もまた少々変わった人物です。古屋と共にする日本中の旅が、いつも新鮮な発見と驚きとをもたらしてくれることがとても気に入っているのです。

自分の方向性も定まらないままに柳田國男の『遠野物語』を愛読する彼女は、ひょんなきっかけで聞くことになった古屋の講座に魅せられ、古屋の研究室に入る決心をしたのでした。

 

 

そうした二人ですが、古屋の「藤崎、旅の準備をしたまえ」という一声でいつも唐突なフィールドワークの旅へと旅立つことになります。

 

その旅先として本書『始まりの木』ではそれぞれの話で「青森県弘前市、嶽温泉、岩木山」、「京都府京都市(岩倉、鞍馬)、叡山電車」、「長野県松本市、伊那谷」、「高知県宿毛市」へと旅をし、最後に「東京都文京区」という大学近くで不思議な出来事に出逢います。

同時に、それぞれの話で千佳は古屋から、また別な人物から、日本の神について、生きるということについて得難い講義を聞くことになります。

例えば第一話では、日本人にとって生活の場そのものである自然はそのまま神の姿になった。それに対し、西洋では森や海は恐怖の世界との境界であるため森や海という自然を制圧することとなり、自らの心の中に人間的な神を作ることになった、という話でした。

自分の足で歩いて、自分の手で事物に触れ、自分の目で対象を見、そして実際に様々な出来事に遭遇することこそが大事なことに気付くのです。

彼らの旅では、鞍馬での色鮮やかな紅葉たち、高知での読経の見事な高僧、文京区での見事な枝垂桜など、自分で歩いたからこそ出逢える不思議な出来事に出逢います。

そして、古屋の講義は神と自然、日本の神と西洋の神のそれぞれの在りようを語り、千佳は日本人の生活、考え方、日本という国独特の神の考え方などについて学ぶのでした。

 

そうした講義は、ひいては読者である私たちの心の中へと響いてきます。日々の暮らしの中にある日本人特有の神についての考え方などを知るのです。

それは、押し付けでもなく、本書の作者である夏川草介の、日々命と向き合う医者という立場から学んだ事柄でもあるでしょう。

また、本書巻末に載せられた膨大な量の参考文献を読んで得られた「民俗学」や「神」についての考え方でもあるのでしょう。

夏川草介という作家の科学に対する考え方、科学万能主義に対する批判的な考えをもとに、自然の中に生きる我らの在りようを見つめ直したくてこの物語を書いたのではないかと思えます。

この考え方は、『神様のカルテシリーズ』などの夏川草介の他の作品の根底にも流れている思いのように感じるのです。

 

 

本書『始まりの木』の主人公のひとりである古屋という人物は、本書の文章を読んでいると、足が悪いという設定もあってかまるで初老の准教授といった趣があります。

それは、台詞が老成していることや、この作者の特徴の一つでもあるかと思うのですが、文章表現そのものが和風というか、古風、少なくとも現代風ではないことからも来ているのでしょう。

例えば、第三話で信濃大学教育学部の永倉教授が発した苛烈な言葉について述べている、「清風が名月を払うような爽やかさ」などという和風の比喩表現の巧みさなどはその典型だと思います。

しかし、多分、東々大学の次期教授を嘱望されている人物でもある彼はまだ五十歳にもなっていないのです。

 

いつもは主として派手なエンターテイメント小説を読んでいる私にとって、本書のような心に直接響いてくる小説は非常にありがたい作品でもあります。

日本人としての物ごとの考え方や、神という存在についてあらためて考えることなどまずない日々を送っていると、本書『始まりの木』のような作品はまさに自分をリフレッシュさせてくれる作品でもあるのです。

若干の感傷に浸る、そうした側面がないとは言いませんが、そうしたことも含めて自体自分にとっては代えがたい体験であるようです。

 

この作者の作品それぞれが、作者自身がいつも考えておられることであり、それを軽いユーモアで包みながら魅力的な登場人物に託して提供してくれています。

それを読者である私たちが受取り、咀嚼し、感動を得るという、普通でありながらもある意味得難い体験をさせてもらえていると思うのです。

本書『始まりの木』では痛切にそう感じました。

この作者の作品はいつも新たな感動をもたらしてくれます。

また新しい作品を提供してほしい、心からそう思う作家さんです。

ライオンのおやつ

本書『ライオンのおやつ』は、一人の女性がホスピスで過ごした最後の日々を描いた、新刊書で255頁という長さの長編のヒューマンマンドラマです。

本の頁数はちょうどいいのですが、内容としてはあまり好みとは言えない作品でした。

 

余命を告げられた雫は、残りの日々を瀬戸内の島のホスピスで過ごすことに決めた。そこでは毎週日曜日、入居者がもう一度食べたい思い出のおやつをリクエストできる「おやつの時間」があった―。毎日をもっと大切にしたくなる物語。(「BOOK」データベースより)

 

一言で言って、ずるい、としか言いようのない小説です。

「ホスピス」という、ある意味究極の場で暮らす人たちの姿を描き出す本書は、もちろん作者のやさしい表現力、筆の力があって悲惨さがない物語として仕上がっています。

しかし、だからこそ、といってもいいと思うのですが、悲しみに満ち溢れています。特に本書の後半に入ると、数頁を読むごとに涙があふれてきて、本を置かずにはいれない状態でした。

ここで「ホスピス」についてよく知らない人もいるでしょうから、下記のサイトに詳しく説明してあります。関心のある方は参照してみてください。

 

主人公は海野雫という三十三歳の女性です。ステージⅣの癌を患い、余命を宣告されています。

この雫の最後の日々の様子を描きだすのがこの物語です。ですから、当然のことですが人の涙を誘います。

雫が最期を迎えるホスピス「ライオンの家」は、普通の人にとってはこれ以上ないというほどの環境にあります。

ライオンの家のある瀬戸内の島は温暖で、空気は柑橘系の香りがしており、雫が世話になる部屋は広く、窓からはレモン畑の先に海が見えます。

加えて、マドンナシマさん、さん姉妹のようなスタッフ、何よりもライオンの家にいた六花(ロッカ)という犬が雫になつき、常に共にいて、それなりの日々を送ります。

マドンナさんたちの助けを借りながら時には笑い、ときには自分の死という現実を前に泣きながら、「ライオンの家」でのおやつに込められた意味をかみしめつつ、こころの揺れ動くままに暮らすのです。

 

しかし、そうした環境を整えられる人がどのくらいいるのでしょうか。

見ようによってはある程度の資産を有し、それなりの人脈なりつながりを持っていないとこうした環境には入れないと思うのです。

日々の暮らしに追われて暮らしている普通の人にとっては本書のようなホスピスでの暮らしは夢のまた夢です。

そうしたうがった見方を持ちながら本書を読みました。

ある意味恵まれた死を迎える人を描くことで、作者は何を言おうとしているのだろうとの疑念を抱きながらの読書でした。

 

そうした感情の裏には、この春に母が急逝してしまった私にとって本書の内容が衝撃的であったことがあります。

転院を勧められたホスピスでの詳しい説明を聞いた晩に容体は急変し、結局ホスピスに世話になることはなく逝ってしまいました。

そんな自分にとって、本書のような死を迎える環境は夢のまた夢のことと感じられたのです。

自分自身にとってもそう遠くはない「死」においても、本書のような環境で死にたいものだと思いつつ、金もコネもない身には無理だと思ったのです。

そうしたことから、本書『ライオンのおやつ』で描かれている環境への反発があったと思います。

でも、雫の死にゆく環境はつけたしで、肝心なのは雫の心の裡にあると気付いてからはそうした読み方はしなくなりました。

 

とはいっても、やはり作者はどういう意図でこの物語を書いたのだろうという疑念は消えません。

そこで、作者の思いを探して、作者のお母さまが亡くなられたときに「死ぬのが怖い」とおっしゃっていたのを思い出し、「少しでも死ぬのが怖くなくなるような物語を書きたい」という一文を見つけました。

また、瀬戸内のしまなみ海道に浮かぶ「大三島(おおみしま)」をモデルに、おいしい料理、それも滋養があり、食べると心も体も満たされる「お粥」をイメージして描いたとも書かれています。

そのうえで、読者に伝えたいこととして、

死があるからこそ生きる喜びや楽しさがあるということ。いかに自分を愛して、大事にして、人生を楽しむか。人生に喜びを見出していくか。良いことも悪いこともすべて受け入れて、“人生を最後まで味わい尽くす”ということ。

ともおっしゃっています。(世界で読まれる作家・小川糸さんインタビュー! : 参照)

 

そこで思い出したのが、夏川草介の『勿忘草の咲く町で ~安曇野診療記~』という作品です。

この作者にはベストセラーとなった『神様のカルテシリーズ』というシリーズがありますが、そちらで書くには重いと思われる内容を独立させたものという話でした。

勿忘草の咲く町で ~安曇野診療記~』という作品は終末医療の話であり、本書同様に死を迎える人を描いた作品です。

 

 

ただ本書『ライオンのおやつ』と違い、こちらは死ぬ行く人が主人公ではなく、そうした人を支える医者や看護師の話であるところが異なります。

しかし、ともに「死」を正面からとらえ、考える作品であることに違いはありません。

これらの作品でも、もちろん本書『ライオンのおやつ』においても、結局はそれぞれの立場において、自分自身の心のありようが大切なのだと感じます。

ただ、その心のあり方を自然に、そして死を受け入れるだけの平静さを持ちうるかどうかそのことが困難なことだろうというのは、あらためて考えるまでもなくわかることです。

その困難なことに立ち向かう本人やその周りの人々を描いているのが本書のような作品といえるでしょう。

そして死を間近にした本人の感情を直接に描いている作品であるため、ずるい、と思え、作者の意図に対し疑念を持ったのでしょう。

今でも本書のような作品を書くことについて完全に納得できたとは言えません。作者の意図にしてもインタビュー記事を読まなければくみ取れなかったほどなのです。

とはいえ、本書『ライオンのおやつ』はとても感動的な作品であることは否定しがたいものでした。

アルルカンと道化師

本書『アルルカンと道化師』は、半沢直樹シリーズの第五作目の長編の経済小説です。

さすが『半沢直樹シリーズ』の最新作だけあって、半沢直樹の倍返しは痛快で小気味のよく、面白さ満載の作品でした。

 

東京中央銀行大阪西支店の融資課長・半沢直樹のもとに、とある案件が持ち込まれる。大手IT企業ジャッカルが、業績低迷中の美術系出版舎・仙波工藝社を買収したいというのだ。大阪営業本部による強引な買収工作に抵抗する半沢だったが、やがて背後にひそむ秘密の存在に気づく。有名な絵に隠された「謎」を解いたとき、半沢がたどりついた驚愕の真実とは―。(「BOOK」データベースより)

 

本書『アルルカンと道化師』は、半沢が東京中央銀行大阪西支店へ赴任して間もない頃に起こったM&Aの顛末を描いた作品であり、シリーズ第一作の『オレたちバブル入行組』より前の半沢直樹の姿が描かれています。

半沢直樹シリーズ』では、銀行融資とその回収、そして老舗ホテルの再建、企業買収、航空会社の再建がそれぞれの物語のテーマとされてきました。

そしてシリーズ最新刊の本書『アルルカンと道化師』では、再び強引に進められる企業買収、そしてその裏に隠された秘密に迫る若き半沢直樹の姿が描かれています。

ここで「企業買収」の意味について下記のサイトが詳しく説明してありました。関心のある方はご覧ください。
 

 

今回の企業買収の特徴は、買収の対象企業が絵画を扱う会社だということです。

本書のタイトルの『アルルカンと道化師』とは本書内で登場する架空の絵画の名前であり、この絵画が物語のカギとなってきます。

ちなみに、この『アルルカンと道化師』とは、実在するアンドレ・ドランという人が書いた『アルルカンとピエロ』という作品からヒントを得、本書の中で使うようになったと書いてありました(【「半沢直樹」シリーズ最新刊、作家・池井戸潤氏インタビュー】 : 参照)

 

共に“道化師”という同じ意味のようにも思える「アルルカン」と「ピエロ」という言葉ですが、「アルルカン」は詐欺師的で悪賢く、「ピエロ」は純真でちょっと抜けている存在だそうです。

この違いが本書のクライマックスで大きな意味を持ってくるのですが、そこには人間の深い哀しみが隠されていたのです。

 

それは、本書のクライマックスの楽しみとして、本書の面白さの要因の一つにミステリー仕立てということが挙げられます。

もともと池井戸潤という作家さんがミステリー出身の人というだけあり、この『半沢直樹シリーズ』も含め、作品の多くがミステリータッチで描かれています。

主人公の前に様々なかたちで立ちふさがる壁、その壁は何を意味しており、その壁に隠された秘密は何なのか、が壁を乗り越えるカギになっていることが多く、主人公はその謎を解くことで困難な状況を打破していきます。

本書でも、「アルルカンと道化師」という絵に隠された秘密を見つけることで仕掛けられたM&Aを乗り切り、半沢の倍返しのきっかけともなるのです。

 

池井戸作品でよく言われることは、痛快小説としてご都合主義だという指摘です。

確かにその指摘は当たっていると思います。『本シリーズ』でも危機的状況を脱する期限ぎりぎりに都合よく新しい事実が出てきて反撃に移ることができる場面がよく見られます。

しかし、そうしたご都合主義的な状況も、半沢のあきらめない気持ち、常にお客様のためという基本的な心得などがあって初めてもたらされるものとして描かれていて、ストーリの進行上あまり気になりません。

それどころか、銀行の存続理由をお客のためという一点に求める半沢の立ち位置こそがそうした都合のいいストーリーの流れをもたらすと感じてしまうのです。

 

また半沢の友人の渡真利が都合よく社内の情報を教えてくれることも半沢の大きな武器となっています。

その他にも半沢のためにという人材が多数いるのです。

こうした半沢の人間性ゆえに応援団が増え、そのことでさらに半沢の情報網が増えていくことも読者にとて心地よさをもたらしてくれていると思います。

今後もこのシリーズは続くだろうと作者もおっしゃっています。

楽しみに待ちたいと思います。

雲を紡ぐ

本書『雲を紡ぐ』は、ホームスパンを中心とした一人の少女と壊れかけた家族の再生を描いた長編小説です。

繊細な心を持ち外に出ることができなくなった少女の、ホームスパンに対する愛情を存分に描いた心温まる作品で、第163回直木賞の候補作となりました。

 

壊れかけた家族は、もう一度、ひとつになれるのか?羊毛を手仕事で染め、紡ぎ、織りあげられた「時を越える布」ホームスパンをめぐる親子三代の心の糸の物語。(「BOOK」データベースより)

 

「ホームスパン」とは、「ホーム=家」「スパン=紡ぐ」毛織物のことであり、それぞれの家で糸を紡いでつくった布が語源だと本書内に書いてありました。

正確には、

ホームスパンとは、手紡ぎによる、主に太めの粗糸などを使った手織りの織物のことを指す。

株式会社日本ホームスパン

のだそうです。

 

主人公の少女美緒は、父方の祖母が作ってくれた鮮烈な赤色をしたショールを心の逃げ場としていました。そのショールが母親の手で捨てられたとき、美緒は写真で見た岩手県にある祖父の工房「山崎工藝舎」へと向かいます。

美緒は「人の視線が気にかかり、怖い。だから相手の顔色をうかがう。で、がんばる。」と後に太一に評される繊細な子です。

母親の顔色を窺い、家にいない父親を恐がり、学校では友達の顔色を窺って常に笑みを張り付け、それがおかしいと笑われる。結局、電車に乗れなくなり、家に、部屋に閉じこもるようになります。

そこに母親によりショールを捨てられるという事件が起こり、澪は祖父のところへ逃げるのです。

 

私は、本書『雲を紡ぐ』のような普通の家庭の、どこにでもあるようないじめや引きこもり、その原因かもしれない冷え込んだ夫婦関係などを描いた作品を、本来は好みません。

私の好むところはハードボイルドであり警察小説であり、アクション満載のインパクトが強烈なエンターテイメント小説なのです。

 

しかし、例えば 夏川草介の『神様のカルテシリーズ』のように真摯に命の尊厳を見つめる作品などにも心打たれ、 浅田次郎の『壬生義士伝』のような人間ドラマにも心惹かれます。

 

 

そして、二年ほど前に読んだこの 伊吹有喜という作家の第158回直木賞候補作となった『かなたの友へ』という作品が心に残っていました。

ひたすらに人を想い、ノスタルジックな雰囲気の中で一生懸命に生きる姿を描いてある作品は私の琴線に触れたものです。

 

 

その伊吹有喜が再び直木賞の候補作となった作品が本書『雲を紡ぐ』です。やはり、本作品も読んでいて心地よいと感じる仕上がりでした。

ヒステリックな母親真紀と、自信に満ちた母方の祖母の強い言葉、それに対し言葉が少なく常に逃げているとしか思えない父親広志という、主人公美緒の家庭の描写はうまいものです。

それに対し、美緒が世話になる「山崎工藝舎」関係の登場人物、父親広志の従妹である川北裕子は一歩引いています。それよりも祐子の息子の太一の存在の方が大きく感じるほどです。

勿論、祐子も美緒に羊毛の洗い方などの羊毛を紡ぐ工程を教えたりと、それなりの存在感が無いわけではありません。

でも、この家庭で育った美緒に対する太一の言葉は専門家のようでもあり、できすぎの印象はありました。それでも自身の経験として語る太一の言葉には重みがありました。

 

一方、美緒が暮らすことになる父方の祖父である山崎紘治郎の存在感は突出しています。後に読んだ直木賞の桐野夏生の選評で「祖父の達観は出来過ぎ」とありましたが、確かに否定はできません。

しかし、人気の毛織物の職人である祖父の仕事に関する言葉は重みがあって当然だと思われ、ただ、美緒の人生についての紘治郎の言葉は納得せざるを得ないのです。

 

その他にも、登場人物たちの造形がステレオタイプであり、「朝の連続テレビ小説」のようだと表される一因になっているなどの評は、指摘されれば全面否定できないところではあります。

それでも読み手の心に迫ってきたのは事実でしょう。だからこそ直木賞の候補作として選ばれたものだと思います。

父親の従妹である「山崎工藝舎」の祐子や、その子の太一なども含め、この作者の醸し出す雰囲気、読みやすさの一因がステレオタイプな人間像からくるものだとしても、やはり心に沁み、琴線に響く作品です。

 

家族をテーマに書かれた作品としては少なからずの作品がありますが、受賞歴のある作品から選ぶとすると、まず 瀬尾まいこの『そして、バトンは渡された』があります。

父親が三人、母親が二人いて、家族の形態は十七年間で七回も変わった十七歳の森宮優子を主人公とする長編小説です。親子、家族の関係を改めて考えさせられる2019年本屋大賞を受賞した長編小説です。

でも皆から愛されていた彼女を主人公とするこの物語は、確かにいい作品かもしれませんが、私の好みとは異なる作品でした。

 

 

第155回直木賞を受賞した 荻原浩の『海の見える理髪店』はいろいろな家族の在り方を描いた全六編からなる短編集です。

例えば、表題作の「海の見える理髪店」は、予想外の展開を見せますが、何気ない言葉の端々から汲み取れる想いは、美しい文章とともに心に残るものでした。特に最後の一行は泣かる作品です。

 

 

ここで書くのは蛇足かもしれませんが、本書『雲を紡ぐ』に岩手県の県名の由来が書いてありました。「言はで思ふぞ、言ふにまされる」という和歌の下の句から来てるそうです。

陸奥国、磐手の郡から献上された鷹「いはて」をめぐる歌だそうで、言えないでいる相手を思う気持ちは、口に出して言うより強い、という意味だそうです。

こうしたトリビア的な知識も頭のすみに残り、そして作品も心に残っていくのです。

早見 和真

1977年神奈川県生まれ。2008年『ひゃくはち』で作家デビュー。2015年『イノセント・デイズ』で第68回日本推理作家協会賞(長編及び連作短編集部門)を受賞。『ひゃくはち』『イノセント・デイズ』以外にも、『ぼくたちの家族』『小説王』『ポンチョに夜明けの風はらませて』など多くの作品が映像化されている。他の著書に『店長がバカすぎて』『神さまたちのいた街で』『かなしきデブ猫ちゃん』(絵本作家かのうかりん氏との共著)などがある。

引用元:早見和真 | 著者プロフィール | 新潮社