風に立つ

風に立つ』とは

 

本書『風に立つ』は、2024年1月に416頁のハードカバーで中央公論新社から刊行された長編の家族小説です。

なんとも感動的な作品であることは間違いないのですが、どこか作品としてのあざとさを感じてしまう部分がある、微妙な印象の作品でもありました。

 

風に立つ』の簡単なあらすじ

 

問題を起こし家庭裁判所に送られてきた少年を一定期間預かる制度ー補導委託の引受を突然申し出た父・孝雄。南部鉄器の職人としては一目置いているが、仕事一筋で決して良い親とは言えなかった父の思いもよらない行動に戸惑う悟。納得いかぬまま迎え入れることになった少年と工房で共に働き、同じ屋根の下で暮らすうちに、悟の心にも少しずつ変化が訪れて…。(「BOOK」データベースより)

 

風に立つ』の感想

 

本書『風に立つ』は、著者柚月裕子の故郷山形の南部鉄器職人の家族の姿を中心にを描いた作品です。

補導委託という制度を通して、二組の家族の物語が語られていますが、この作者の作品にしては妙に感情移入がしにくい作品でした。

 

主人公は父の小原孝雄が営む岩手県盛岡市の南部鉄器工房「清嘉(きよか)」で職人として働いている小原悟という男です。

この孝雄がある日突然に補導委託を引き受けると言い出します。お前らには迷惑はかけないという孝雄ですが、悟は非行少年を家庭に入れるなんてとんでもないと反対するのでした。

ここで、補導委託とは、「問題を起こし、家裁に送られてきた少年を、一定期間預かる制度」と書いてありました。「罪を犯した少年にどのような最終処分が適正か判断するために、一定の期間、様子を見るもの」だそうです。

詳しく知りたい方は下記を参照してください。

 

本書『風に立つ』では孝雄、悟の他に、夫の里館太郎と共に居酒屋「蔵太郎」を営みながらたまに清嘉を手伝っている悟の妹である由美がいます。

また、悟が生まれる前から「清嘉」に勤めていた職人の林健司やアルバイトの八重樫、それに盛岡家庭裁判所調査官の田中友広などが脇を固めています。

そして補導委託制度により小原家に預けられたのが庄司春斗であり、その両親の庄司達也夫妻です。春斗は万引きや自転車窃盗などを繰り返し、停学処分の後もそれが止まないために退学処分となったというものでした。

小原孝雄が補導委託を受ける気になったのは何故か、また春斗が非行を繰り返した理由は何なのか、という点が次第に明らかにされていくのです。

 

著者柚月裕子初の家族小説という触れ込みの作品でしたが、『佐方貞人シリーズ』の主人公の親子の関係、また『あしたの君へ』収納の作品も家族を描いてあると言えると思います。

両作品ともに短編集ですが、『佐方貞人シリーズ』では、主人公の佐方貞人とその父親である弁護士の佐方陽世との関係性があり、『あしたの君へ』は主人公の家庭裁判所調査官補の目線での家庭の姿があります。

ただ、前者は主人公の人生の背景にある父親の姿が描かれており、後者は主人公の目を通してみた様々な事案の中に家族の問題を描いた作品もあるという程度です。

そういう意味では、本書のように正面から家族の関係性を描いているとまではいえず、やはり本書が初の家族小説と言えるのかもしれません。

 


 

冒頭に書いたように、本書に対しては、何故かその設定を素直に受け入れることができず、感情移入することが困難に感じていました。

というのも、悟の父孝雄に対する思いや態度の描き方が少々型にはまりすぎている印象があったのです。

著者の柚木裕子の作品でこのように感じたのは初めてのことです。

それはもしかしたら本書を読むに際して「家族小説」だという刷り込みが先にあったためかもしれません。

つまり私の本書の読み方が、補導委託制度という物語の背景設定に対して、勝手に話を進める父親と普段から会話の無い息子との確執という形があって、そこに絡む非行少年の親子関係というフィルターを介しての確執の解消、という自分なりのストーリーを作り挙げての読書だったのです。

その私の思いに対してそのままに物語が展開していくため、一段と型にはまっていると感じたのだと思います。

 

加えて、途中で株式会社盛祥の会長清水直之助が悟に対して語りかける場面があります。

本書に対して違和感を感じていたために穿った見方をしているのかもしれませんが、この場面が唐突過ぎて不自然に感じてしまったのです。

 

本書『風に立つ』に対してはネット上の意見を見ても高評価ばかりで、私のような印象は一つもありません。

確かに、柚木裕子の作品らしく、固定的に捉えられていたある人物の内心が外部の出来事の展開から推し量ることができるようになり、主要登場人物の関係性が変化していくことで感動的な展開が待っているのです。

そこでは単純に物語を楽しめばいいのですが、素直に読み込めなかった私の読書方法がおかしかったのだと思われるのです。

わたしたちに翼はいらない

わたしたちに翼はいらない』とは

 

本書『わたしたちに翼はいらない』は、2023年8月に240頁のハードカバーで新潮社から刊行された長編の現代小説です。

地方都市に暮らす三人の男女を描いて大藪春彦賞候補作となった暗く、重い作品であって、私の好みとは異なる作品でした。

 

わたしたちに翼はいらない』の簡単なあらすじ

 

同じ地方都市に生まれ育ち現在もそこに暮らしている三人。
4歳の娘を育てるシングルマザーーー朱音。
朱音と同じ保育園に娘を預ける専業主婦ーー莉子。
マンション管理会社勤務の独身ーー園田。
いじめ、モラハラ夫、母親の支配。心の傷は、恨みとなり、やがて……。
2023年本屋大賞ノミネート、最旬の注目度No.1作家最新長篇。(内容紹介(出版社より))

 

わたしたちに翼はいらない』の感想

 

本書『わたしたちに翼はいらない』は、同じ地方都市に住む、それぞれにいじめや夫や家族からの心無い言葉によって傷ついている、同年代の三人の生活を描き出してあります。

著者の寺地はるなは『川のほとりに立つ者は』で2023年本屋大賞第九位となっており、本書は第26回大藪春彦賞の候補となっています。

 

 

この両作品は物語の構造は全く異なりますが、登場人物の描き方は似ているとも言えそうです。

川のほとりに立つ者は』でも登場人物は自分の言動に対し何の疑いも持っていません。自分の言動には何の間違いも無く、なにか変なことがあるとそれは自分の周りがおかしいからだとしか考えることができないのです。

川のほとりに立つ者は』の主人公はそんな自分の言動の間違いに気づいていく過程を描いてある作品でした。

その意味では、本書もまた自分の言動のおかしさに気付いていく成長過程を描いてあるとも言えそうなのです。

別にだから何だというつもりはなく、作者の心象描写のうまさを言いたいのです。『川のほとりに立つ者は』でも主人公の心の変化の描写はかなりリアリティをもって描いてあったと思います。

その点は本書も同様で、三人の心象の変化が微妙な心の揺れまでも捕らえ、少しずつ移り変わる様子がリアルに描いてありました。

 

登場人物としては、中心となる三人がまずは佐々木朱音であり、その関係者としては娘が鈴音で、別れた夫が宏明です。

二人目が中原莉子であって、その関係者としては娘の芽愛と、莉子の夫が大樹がいます。芽愛は鈴音と同じ保育園に通っています。

三人目が中学時代は室井という名字であった園田律であり、中原莉子夫婦とは中学生時代の同級生であって、莉子の夫の大樹にいじめられていました。

莉子はクラスのイケメンであった大樹に選ばれたことがに価値を見出している女であり、大樹から理不尽な扱いを受けても「私は死ぬまで王様の女でいたい」と思っています。

園田は中学時代から中原大樹や莉子らからキモイと言われていた存在であって、大人になってから大樹と再会し、これを殺害しようという思いにまで至ります。

朱音は、宏明と別れシングルマザーとなって鈴音を一人育てていますが、現在も鈴音に会いたがる宏明や宏明の母親に困っています。

 

本書『わたしたちに翼はいらない』について一言でいうと、いい本であることは間違いないでしょうが私の好みとは異なる作品でした。

どうにも暗いのです。高校生の頃のいじめや母親たちの中身のない会話など、読んでいるだけで気が滅入ってくるような感じです。

ただ、惹句にあった『「生きる」ために必要な、救済と再生をもたらす』という言葉だけを信じて読み進めるだけです。

 

本書は朱音と莉子、そして園田という三人の視点が入れ替わるという多視点で進行していきます。

その中で少し気になったことが、朱音と莉子とのパートが、語り口も似ておりどちらが視点の主かが分かりにくいということでした。

もちろん、ちょっと読めばすぐに視点の主は判明しますが、その切り替わりのちょっとした合い間が若干気になったのです。

 

そもそも、本書『わたしたちに翼はいらない』は登場人物の内心を丁寧に描写してあるその点が高く評価してあるのだと思います。そうした三人の心の動きの表現のうまさは否定しようもありません。

ただ『星を掬う』『汝、星のごとく』でも同様に感じたように、自己主張ができずに内にこもる人物をそのまま描くことに私は何とも言えない拒否感を持ってしまいます。

自己主張できない人の苦しみを描くことで、間接的にでも彼らに何らかの救いをもたらすというのであれば分かります。

でなければ、自己主張できない人をできないままに描くことにどれほどの意味があるか、と思ってしまうのです。

上記のような考えは、単純に私の読書の仕方が浅いことに起因するのでしょうがここでは踏み込みません。ただ、エンタメ作品ばかりを読んでいる私には難しい問題です。

 


 

先にも書いたように、本書『わたしたちに翼はいらない』の場合、『「生きる」ために必要な、救済と再生』というちょっとした救いが待っていたので、その点はほっとしました。

結局、いい本だけど、私の好みとは異なるといういつもの感想に終わってしまいました。

八月の御所グラウンド

八月の御所グラウンド』とは

 

本書『八月の御所グラウンド』は、2023年8月に208頁のハードカバーで文藝春秋から刊行された長編の青春小説です。

真夏の京都を舞台にした二編の青春小説が収められていて、河﨑秋子著『ともぐい』と共に第170回直木賞を受賞した感動的な作品です。

 

八月の御所グラウンド』の簡単なあらすじ

 

死んだはずの名投手とのプレーボール
戦争に断ち切られた青春
京都が生んだ、やさしい奇跡

女子全国高校駅伝ーー都大路にピンチランナーとして挑む、絶望的に方向音痴な女子高校生。
謎の草野球大会ーー借金のカタに、早朝の御所G(グラウンド)でたまひで杯に参加する羽目になった大学生。

京都で起きる、幻のような出会いが生んだドラマとはーー

今度のマキメは、じんわり優しく、少し切ない
青春の、愛しく、ほろ苦い味わいを綴る感動作2篇

第170回直木賞を遂に受賞!
十二月の都大路上下(カケ)ル
八月の御所グラウンド(内容紹介(出版社より))

 

八月の御所グラウンド』の感想

 

本書『八月の御所グラウンド』は、八月の京都を舞台にした第170回直木賞を受賞した感動作品です。

普通の言葉で日常を描きながらも、日常に紛れ込んだファンタジックな出来事にまぎれて青春を描き出しています。

60頁弱の「十二月の都大路上下(カケ)ル」と140頁強の「八月の御所グラウンド」という二作品が収納されていて、共にスポーツをテーマとしていながらも、その競技中にあるはずの無いものが見えるという現象を描いています。

前者は高校生の駅伝ランナー、後者は自分の将来が見えていない大学生を主人公としていますが、共に主人公を含めてキャラクターが立っており、読者の心を直ぐにつかみます。

私がこの作者の作品を読むのは本書が初めてなので、この作者の作風がどういうものであるかはわかりませんが、登場人物のキャラクター設定はうまいものがあるようです。

 

第一話の「十二月の都大路上下(カケ)ル」は、女子全国高校駅伝の補欠である一年生のサカトゥーこと坂東というランナーが主人公です。

毎年12月に京都の都大路を駆け抜ける伝統行事でもあるこの大会は、かつては私もよくテレビ観戦したものです。その大会の補欠ランナーが諸般の事情により大会に出場することになります。

極度の方向音痴である主人公が、アンカーとして出場し、同じ区間で争った二年生の荒垣新菜と共に見える筈のないものを見たことが描かれています。

 

第二話の表題作「八月の御所グラウンド」は、事情により八月の京都に残された大学生が参加した草野球大会での出来事が描かれている話です。

彼女にも振られ、就職活動をする気力も無くただ怠惰に暮らしていた大学四年生の主人公の朽木は、友人の多門から大学卒業がかかった草野球大会への参加を頼まれます。

その大会で出会ったのが中国人留学生のシャオさんであり、そのシャオさんが誘った見知らぬ男のえーちゃんたちだったのです。

 

シャオさんが野球を勉強したいと思った理由が「オリコンダレエ」というはじめて聞いた日本語にあるなど、場面設定やその場の描写の仕方が私の好みにピタリとはまりました。

在るはずの無いものが存在し、主人公たちの生活の一場面の中に紛れ込んでいる状況が、単に不思議という以上の意味を持って迫ってきます。

そして、その描き方は読む者に自分自身の青春時代を思い出させ、自身の生き方を見つめ直すきっかけを指し示しているようです。

 

本書に収納された二作品では、青春の一場面に現れた特別な現象に接した主人公たちが感じることになった爽やかさや心の軽い痛みなどが示されています。

特に表題作の「八月の御所グラウンド」では、単純な爽やかさだけでなく、時代を異にした青春時代を送った青年たちへの哀しみをも含んだ想いが描かれていて、心に残る作品として仕上がっています。

 

本書は第170回直木賞を受賞した作品ですが、そのことに異論をはさめるはずもない作品だと思います。

これまでこの作者の万城目学の作品は名前は知っていたものの読んだことがなかったので、あらためてこの作者の作品を読んでみたいと思わせられる作品でした。

万城目 学

万城目学』のプロフィール

 

1976年大阪府生まれ。京都大学法学部卒業。2006年にボイルドエッグズ新人賞を受賞した『鴨川ホルモー』でデビュー。ほかの小説作品に『鹿男あをによし』『プリンセス・トヨトミ』『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』『偉大なる、しゅららぼん』『とっぴんぱらりの風太郎』『悟浄出立』『バベル九朔』『パーマネント神喜劇』『ヒトコブラクダ層ぜっと』など、エッセイ作品に『べらぼうくん』『万感のおもい』などがある。

引用元:万城目学 | 著者プロフィール

 

万城目学』について

 

この作家さんは『鴨川ホルモー』『プリンセス・トヨトミ』など、実在の事物や日常の中に奇想天外な非日常性を持ち込むファンタジー小説で知られ、作風は「万城目ワールド」と呼ばれていて、六回目の候補作『八月の御所グラウンド』で直木賞を受賞されています。( ウィキペディア : 参照 )

具体的な直木賞候補作は『鹿男あをによし』、『プリンセス・トヨトミ』、『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』、『とっぴんぱらりの風太郎』、『悟浄出立』という五作品です。

また、『悟浄出立』、『バベル九朔』、『ヒトコブラクダ層ぜっと』の三作品は山田風太郎賞候補となり、『パーマネント神喜劇』は山本周五郎賞候補になっています。

さらには、デビュー作の『鴨川ホルモー』は第4回ボイルドエッグズ新人賞を受賞し、そして本屋大賞の候補作ともなっていて、『プリンセス・トヨトミ』は2009年度咲くやこの花賞を受賞しています。

無敵の犬の夜

無敵の犬の夜』とは

 

本書『無敵の犬の夜』は、2023年11月に148頁のハードカバーで河出書房新社から刊行された長編の文芸小説です。

惹句を一覧してエンターテイメント小説と思い読んだ私の思いとは異なり、文藝賞という純文学作品に与えられる賞の受賞作であり、今一つ私の理解が及ばない作品でした。

 

無敵の犬の夜』の簡単なあらすじ

 

北九州の片田舎。幼少期に右手の小指と薬指の半分を失った中学生の界は、学校へ行かず、地元の不良グループとファミレスでたむろする日々。その中で出会った「バリイケとる」男・橘さんに強烈に心酔していく。ある日、東京のラッパーとトラブルを起こしたという橘さんのため、ひとり東京へ向かうことを決意するがー。どこまでも無謀でいつまでも終われない、行き場のない熱を抱えた少年の切実なる暴走劇!第60回文藝賞受賞作。(「BOOK」データベースより)

 

無敵の犬の夜』の感想

 

本書『無敵の犬の夜』は、第60回文藝賞受賞作です。つまり、当サイトが対象としているエンターテイメント小説ではありませんでした。

そもそも、本書を知ったのは「王様のブランチ」のBOOKコーナーでの作家インタビューにとうじょうしていた著者の小泉綾子を見たときであり、そのときは本書の内容にはそれほど関心はありませんでした。

その後、Amazonの『無敵の犬の夜』の頁に「任侠映画×少年漫画」などとあって、どう考えてもエンターテイメント小説としか思えないものだったことから読んでみようと思ったのです。

もちろん、そこには大きく「文藝賞受賞作」と示してあったのですから、「文藝賞」が純文学作品に与えられる文学賞だということを知らなかった私が間違っただけのことです。

 

本書の内容は上記の「簡単なあらすじ」に書いてあることに尽き、それ以上のものではありません。

そして本書の印象としては、主人公のが東京に殴り込みに行くその少し前のあたりまでは、単純に世の中に対する不満しかない少年の、暴力に対する妄想をそのまま言語化した作品だというものでした。

角田光代氏や島本理生氏といった著名な作家たちが本書を絶賛する理由が全く分からなかったのです。

 

とにかく最初は、その時の感情にまかせて先行きのことなど何も考えずに突っ走る界の行動が、自分の少年の頃を考えても理解できるものではありませんでした。

界の無鉄砲さはとどまるところを知らず、自分から破滅へと向かっているようにしか思えず、こうした主人公を描くことの意味がよく理解できなかったのです。

 

この物語の終わり方にしても、作者自身が「負けを認めないために目標のハードルをどんどん下げて、まやかしの勝利を手にしてこれでよしとする」という終わり方が良いと思う、と書いておられましたが( Book Bang : 参照 )、物語を終わらせるために勝利の意味を変えることの意義もまた理解できませんでした。

本書『無敵の犬の夜』の惹句に、意識されている「絶望と意識されない絶望が、絶妙に描き出されている」と書かれているのは角田光代氏であり、「人を殺したくなるほど肥大する」思春期の葛藤の「切実さが丁寧に描かれている」と書いているのは島本理生氏です。

こうした思春期の思いつめた絶望を丁寧に描き出されている点が評価されている思うのですが、そうした文学的な評価がよくわかりません。

主人公の界の単純さ、それも思慮の浅い無鉄砲の描写の何が評価の対象になるのでしょう。

 

しかし、本書も終盤になると、それまで乱暴な言葉の羅列としか思えていなかった本作品が、妙に気になってきました。

それまでの私の本書に対する印象が覆されてくる様子は、私の小説の読み方否定するかのようであり、読書に対する自信が失われていく過程でもありました。

何が原因でそのように感じたのか、今でもよく分かりません。

ただ、無鉄砲なその行動は、その時点の感情でしか動いていないというそのことに惹かれていったように思えます。つまりは何の打算も無いということでしょうか。

 

結局、現時点まで本書『無敵の犬の夜』が多くの作家たちから支持される理由はよく分からないのですが、単純な暴力への渇望というだけではない、少年の直情的な行動の描き方自体がが評価されていると思っています。

それにしても、よく分からない作品でした。

エヴァーグリーン・ゲーム

エヴァーグリーン・ゲーム』とは

 

本書『エヴァーグリーン・ゲーム』は、2023年11月に364頁のソフトカバーでポプラ社から刊行され、第12回ポプラ社小説新人賞を受賞した長編のエンターテイメント小説です。

わが国ではメジャーとは言えないチェスというゲームをテーマにした物語で、大変興味深く読んだ作品でした。

 

エヴァーグリーン・ゲーム』の簡単なあらすじ

 

【選考委員、絶賛の嵐! 第12回ポプラ社小説新人賞受賞作!!】
世界有数の頭脳スポーツであるチェスと出会い、その面白さに魅入られた4人の若者たち。
64マスの盤上で、命を懸けた闘いが繰り広げられるーー!

「勝つために治せよ、絶対に」
小学生の透は、難病で入院生活を送っており、行きたかった遠足はもちろん、学校にも行けず癇癪を起してしまう。そんなとき、小児病棟でチェスに没頭する輝と出会うーー。
<年齢より才能より、大事なものがある。もうわかってるだろ?>
チェス部の実力者である高校生の晴紀だが、マイナー競技ゆえにプロを目指すかどうか悩んでいた。ある日、部長のルイに誘われた合コンで、昔好きだった女の子と再会し……?
「人生を賭けて、ママに復讐してやろう。」
全盲の少女・冴理は、母からピアノのレッスンを強要される日々。しかし盲学校の保健室の先生に偶然すすめられたチェスにハマってしまいーー。
「俺はただ、チェスを指すこの一瞬のために、生きている。」
天涯孤独の釣崎は、少年院を出たのち単身アメリカへわたる。マフィアのドンとチェスの勝負することになり……!?

そして、彼らは己の全てをかけて、チェスプレイヤー日本一を決めるチェスワングランプリに挑むことに。
チェスと人生がドラマティックに交錯する、熱い感動のエンターテイメント作!(内容紹介(出版社より))

 

エヴァーグリーン・ゲーム』の感想

 

本書『エヴァーグリーン・ゲーム』は、チェスというボードゲームをテーマにした、第12回ポプラ社小説新人賞を受賞した小説です。

チェスというゲームについては、将棋がゲームの中で獲った駒を自身の手駒として使うことができるのに対して、チェスの場合はゲームから退場してしまうということを聞いたことがあります。

ほかにはキングやクイーン、そしてポーンという駒の名前を聞いたことがあるくらいで、駒の動きすらも知らないというのが正直なところです。

 

本書はそのチェスというボードゲームに魅せられて自分の人生をチェスに捧げ、「チェスワングランプリ」という日本一のチェスプレイヤーを決める大会に出場する四人の物語です。

基本的に、チェスをテーマにした作品としてはとてもよくできたエンターテイメント小説だと思います。

しかし、日本一を決める大会の出場者のトップの四人の人生が互いにすでに何らかのかかわりを持っていたという点は違和感を感じました。

でも、彼らの人生がそのどこかの場面で少なからず交錯しているという点は、エンターテイメント小説としては仕方のないことであり許容範囲というべきだとの思いもあります。

こうした設定こそがエンターテイメント小説を盛り上げるのであり、過度なリアリティーの追及は作家の想像力に縛りを掛けてしまうものでしょう。

 

そうした疑問を除けば、本書『エヴァーグリーン・ゲーム』はチェスというゲームに魅せられた人たちを主人公にした面白い作品でした。

先に書いたこととは矛盾するようもでありますが、登場人物たちもそれぞれに個性豊かです。

病を抱えた少年、チェスのできる喫茶店の経営者、その店で腕を磨いた目の見えない娘、そして裏社会との関係が疑われている傍若無人な態度の男という四人です。

それぞれに人生の生きがいをチェスというゲームに求め、トップに立つことを目標としているのです。

 

ほとんどの読者はチェスというゲームを知らず、その点は作者にとって大きなハンディだと思います。

でも、チェスというゲームを知らなくても本書を読むのに不都合はないという点は作者のうまいところでしょう。

ただ、作者も作中で述べられているように、チェスには引き分けが多いという点が分かりにくいゲームになっているとも言えそうです。

この点に関しては、作中で「ステイルメイト」という言葉について「相手を追い詰めていく過程で起こる、強制的な引き分けのこと」という説明がされてありました。

「チェスの精神として、自殺でゲームが終わるのはよくない」ということなのだそうです。

ただこの点の説明だけでは私にとっては若干分かりにくいので、例えば下記サイトなどを参照してください。

 

その他、将棋では「きまった指し方」である定跡や、攻めや守りの型があるそうですが、チェスにもいろいろな定跡があり、「シシリアンディフェンス・ドラゴンバリエーション」や「アクセラレイテッド・ロンドンシステム」などの名前が当初から出てきます。

もちろん、そうした定跡の説明があってもチェスの素人である読者に理解できるはずもなく、ただ名前だけが挙げてありますが、チェスというゲームの雰囲気を盛り上げるには効果的でしょう。

 

本書『エヴァーグリーン・ゲーム』では、こうしたチェスというゲームの特性を織り交ぜながら、チェスに魅せられた四人の人生が語られていきます。

ラストは、若干出来すぎの印象もありますが、それでも面白く読み終えることができました。

個々人の人生に光をもたらし、生きる目的を持たせてくれたチェスというゲーム。そのゲームで頂点に立つべく奮闘する四人の物語は予想外に読みがいのある作品でした。

嶋津 輝

嶋津輝』のプロフィール

 

東京都荒川区出身。日本大学法学部卒業。編集者・根本昌夫の小説講座を受講した後、2016年に『姉といもうと』で第96回オール讀物新人賞を受賞。2023年、『襷がけの二人』で第170回直木賞候補となる。

引用元:ウィキペディア

 

嶋津輝』について

 

プロフィールにある通りこの作者嶋津輝の『襷がけの二人』が、残念ながら受賞はなりませんでしたが第170回直木賞候補となりました。

 

襷がけの二人

襷がけの二人』とは

 

本書『襷がけの二人』は、2023年9月に368頁のハードカバーで文藝春秋から刊行された長編小説です。

二人の女性の、大正から昭和そして戦後の時代にわたる交流を描いた第170回直木賞候補となった作品で、読みごたえを感じた作品でした。

 

襷がけの二人』の簡単なあらすじ

 

裕福な家に嫁いだ千代と、その家の女中頭の初衣。
「家」から、そして「普通」から逸れてもそれぞれの道を行く。

「千代。お前、山田の茂一郎君のとこへ行くんでいいね」
親が定めた縁談で、製缶工場を営む山田家に嫁ぐことになった十九歳の千代。
実家よりも裕福な山田家には女中が二人おり、若奥様という立場に。
夫とはいまひとつ上手く関係を築けない千代だったが、
元芸者の女中頭、初衣との間には、仲間のような師弟のような絆が芽生える。

やがて戦火によって離れ離れになった二人だったが、
不思議な縁で、ふたたび巡りあうことに……

幸田文、有吉佐和子の流れを汲む、女の生き方を描いた感動作! 
第170回直木賞候補にノミネート。
再会 昭和二十四年(一九四九年)
嫁入 大正十五年(一九二六年)
噂話 昭和四年(一九二九年)
秘密 昭和七年(一九三二年)
身体 昭和八年(一九三三年)
戦禍 昭和十六年(一九四一年)
自立 昭和二十四年(一九四九年)
明日 昭和二十五年(一九五〇年)(内容紹介(出版社より))

 

襷がけの二人』の感想

 

本書『襷がけの二人』は、大正から昭和、そして戦後を生き抜いた二人の女性を描いた大河小説で、第170回直木賞の候補となった作品です。

上記の出版社の「内容紹介」を読むと「幸田文、有吉佐和子の流れを汲む、女の生き方を描いた」作品だとの説明があります。

幸田文も有吉佐和子も読んだことがない身には、その「流れ」と言われてもよく分からないのですが、「幸田文」に関しては本書の著者嶋津輝が自分と「幸田文」との関係について記した一文がありました( 本の話 : 参照 )。

『おとうと』などの作品で有名な「幸田文」は、父親である明治の文豪幸田露伴に家事をきびしく躾けられたそうで、柳橋の芸者置屋に住み込み女中として働いた際には近所で噂になるほどの有能さだったと言います。

 

 

一方、「有吉佐和子」については『華岡青洲の妻』や社会派と言われる『複合汚染』などの作品を残された方というほどの認識はありました。

ただ作家としてではなく、タモリの「笑っていいとも」というお昼のバラエティ番組の冒頭のコーナーに出た有吉佐和子が、「最後まで全部のコーナーをぶち壊して、1人でしゃべって帰っていった。」事件は衝撃的でよく覚えています。

 

 

結局のところ、文章が上手くてストーリーテラーとしての才能があった有吉佐和子と、「格調高くて目が離せない味わいがある」幸田文ということができるのかもしれません。

 

本書の時代背景が大正時代であることや、主人公が女中さんであることから思い出したのでしょうか、思い出したのが中島京子の『小さいおうち』という作品です。

この『小さいおうち』という作品もまた、まだ大正時代の香りを残していた時代を背景としていて、本書と同じく一人の女中さんの視点で語られる物語だったのす。

 

 

本書『襷がけの二人』を読んだ当初の印象としては、優しく品のある文章だということ、そして「粋」ということでした。

「粋」という印象は、主人公の女性が奉公することになった相手が三味線のお師匠さんであるところから来たのでしょう。

しかしながら、本書冒頭の「再会」の章で感じた本書に対する「粋」という印象は、次の「嫁入り」の章から修正されていきます。

本書で描かれているのは、「粋」とはかけ離れた「家」を第一義と考える当時の価値観のもとでの夫こそ絶対であり、嫁はその下で奉公人と共に家に尽くす存在であった嫁の姿です。

その上で、主人公の悩み、夫婦の障害が予想外のものだった、ところから印象が変化していったものと思われます。

 

私の印象はさておき本書では、大正時代から昭和へと時代は変わるなか、千代の嫁ぎ先である山田家での千代と女中頭のお初こと初衣、それに女中のお芳との楽し気な暮らしが描かれます。

このあたりの描き方は楽しげであり、読んでいてもほほ笑ましく感じたものです。

新郎の茂一郎は寡黙で何を考えているか分からない夫であり、何もわからない千代はただ、新しい環境になじむことだけを考えていたこともあり、初衣とお芳との暮しはそれは楽しいとも言えるものだったのです。

一方、茂一郎は初衣を嫌い抜いており、千代はそのことが不思議でならなかったのですが、その理由はゆっくりと明らかにされていきます。

また、茂一郎と初枝の生活は、夫婦の営みがうまくいかないこともあって次第に破綻に向かい、茂一郎は家に帰ることもなくなり、まさに千代、初枝、お芳らとの暮らしがあったのです。

 

その後主人公の千代と初衣との暮らしは開戦により一変し、戦時下で三人は離ればなれになっていくのです。

千代はそんな変化にもめげずにたくましく生きていくのですが、こうした女性の強さ、たくましさをあまり重くならないタッチで描き出しているところが幸田文や有吉佐和子の姿が見られるのでしょうか。

そうした影響の点はともかく、本書の千代の姿は読んでいてほほ笑ましい箇所もあり、また強さを見せつけられる面もあって、惹き込まれていきました。

昭和初期から戦後にかけて女性が一人で生きていくことがどれほど大変だったことか、男の私でもその一端は窺い知ることができます。

同時に、中心となる女性二人それぞれについて、性的な事柄をあっさりと語らせながらも物語展開の重要な出来事としているのには驚き、そんな性的な事柄を重要なポイントとする必要があったのかと疑問に思ったのも事実です。

しかし、そうした点は読後に色々な文章で高く評価してあり、疑問に思うことが逆におかしい気にもさせられました。

 

作者の文章自体に感じたのが優しさ、品のある美しさです。女性がたくましく生きていく姿が、格調ある文章で綴られている本書はそれだけでも読む価値があります。

残念ながら直木賞を受賞することはできませんでしたが、候補となるに十分な理由がある作品だと思いました。

石井 仁蔵

石井仁蔵』のプロフィール

 

1984年生まれ、新潟県出身。東京大学文学部卒業。『エヴァーグリーン・ゲーム』にて第12回ポプラ社小説新人賞を受賞。

引用元:ほんのひきだし

 

石井仁蔵』について

 

プロフィールにある通り、デビュー作である『エヴァーグリーン・ゲーム』という作品で第12回ポプラ社小説新人賞を受賞していている作家さんです。

ラウリ・クースクを探して

ラウリ・クースクを探して』とは

 

本書『ラウリ・クースクを探して』は、2023年8月に240頁のハードカバーで朝日新聞出版から刊行された、直木賞と織田作之助賞それぞれの候補作となった長編です。

エストニアを舞台にした、時代に翻弄された若者を描いた作品で、思いもかけずに深く惹き込まれた作品でした。

 

ラウリ・クースクを探して』の簡単なあらすじ

 

ソ連時代のバルト三国・エストニアに生まれたラウリ・クースク。黎明期のコンピュータ・プログラミングで稀有な才能をみせたラウリは、魂の親友と呼べるロシア人のイヴァンと出会う。だがソ連は崩壊しエストニアは独立、ラウリたちは時代の波に翻弄されていく。彼はいまどこで、どう生きているのか?-ラウリの足取りを追う“わたし”の視点で綴られる、人生のかけがえのなさを描き出す物語。(「BOOK」データベースより)

 

ラウリ・クースクを探して』の感想

 

本書『ラウリ・クースクを探して』は、バルト三国の中の一番北に位置するエストニアという国を舞台にした、コンピュータ・プログラミングに魅せられた主人公たちを描いた作品です。

本書本文の前に「エストニアは、バルト三国のなかでもっとも北に位置し、・・・1991年に独立を回復した。IT先進国として知られる。」という説明があります。

単純ですが、エストニアという国のソヴィエト連邦との微妙な関係と、IT化が進んだ国という本書の存在意義にもかかわる重要な点について触れてあります。

 

そして、本書をその内容からすると、異論があるとは思いますが青春小説と分類できる作品だと思います。

それぞれの属する国家との関係を抜きにしては語れない三人の成長を、その中心にいるラウリの人生を通して描いてあるのです。

すなわち、ロシアという大国との関係に翻弄される弱小国のエストニアに住み、歴史から排除されて生きるしかなかった人物の生き方をただ淡々と記した、しかし心の奥に深くしみわたった作品でした。

 

本書『ラウリ・クースクを探して』は、ある人物がラウリ・クースクという人物の伝記を書くためにエストニアの各地を取材をする中で、登場人物たちの過去に戻る形式で物語は進みます。

この<ある人物>は物語の途中までは人物像がはっきりとはしない“わたし”として登場していて、誰であるかは明確ではありません。

個人的には、“わたし”がガイド兼通訳のヴェリョと共に探しているところからエストニア人以外であり、本書の作者という体裁なのかと思っていました。

本書中盤でその正体が明らかにされるのですが、そういえばその観点は十分にありうるのだと、そのことを考えなかった自分が考え足らずだったと思ったものです。

 

本書『ラウリ・クースクを探して』は、視点の主である“わたし”がラウリ・クースクという人物について評価を示すところから始まります。

ラウリ・クースクは無名であり、エストニアという国の歴史の中で「なにもなさなかった」人物であって、「歴史とともに生きることを許されなかった人間」だというのです。

この言葉の意味は後に深い意味を持って読者の前に示され、読者それぞれの歴史に照らし、胸に刺さる言葉となってきます。

もちろん、国の存続という大きな出来事とは関係のない、個人の履歴の中の小さな事柄に過ぎない出来事ではあるでしょうが、まぎれもなく世の中の流れから取り残された思い出なのです。

 

その後、彼が生まれたボフニャ村での取材の場面に移り、数字が好きな、しかしどこか抜けたところのある子だった、という紹介から始まります。

その後に電子計算機と出会い、コンピュータ・プログラミングを覚え、初等教育を終えて中等教育のためにタルトゥ市の十年制学校に編入して生涯の親友となるイヴァン・イヴァーノフ・クルグロフカーテャ・ケレスと出会うことになります。

三人は楽しい日々を送りますが、時代はエストニアの独立へと動くことになるのです。それはまた、親友のイヴァンとの別れを意味することでもあります。

ラウリは歴史の表舞台で華々しく活躍した人間ではありません。それどころかエストニアという国の歴史の中で「歴史とともに生きることを許されなかった人間」だったのです。

そんなラウリの人生を記録したいという“わたし”は、ラウリの人生を追いかけます。

 

本書『ラウリ・クースクを探して』が何故に私の心を動かしたのか、そのことについて杉江松恋氏が書いておられた一文( 好書好日 : 参照 )が納得できるものでした。

杉江氏はそこで、客観的な描写の先に「ラウリは自分である」と感じる読者は多いだろう、と書かれているのです。

つまり、“わたし”が取材し、記した事実に“わたし”の主観はなく単に事実のみが綴られているのです。

そして、その事実がそのまま読者の心に残り、その上に読者の感情が積み重ねられていき、最終的に自分のこととして感情移入するのだと思われるのです。

 

特に、本書序盤のごく初期コンピュータのブラウン管の画面についての「ラウリにとってはその画面の中に世界のすべてがあった。」という文言などは、私の経験とも重なり沁みわたりました。

社会人となってかなり経ってからのことではありますが、ブラウン管上に指示通りの言葉が表示されたり、図形が動いた時など感動したものです。

病を得て外で働くことができなくなったときに、自宅でできる作業としてプログラミングを選んだのは必然でもありました。

 

本書が直木賞候補作として選ばれたのも納得です。

知恵遅れではないか疑われ、いじめを受け、プログラミングの才能を見出されたものの、コンテストで一番にはなれなかったラウリ。

ラウリのイヴァンやカーテャへの、そしてエストニアとロシアという国に対する思いは国家間の思惑とはまた異なったところにあります。

そうした個人的な思いを貫いてきたラウリの人生に、読者はそれぞれの思いを重ね、深く入り込んでしまうのでしょう。

大きな派手さはないものの、とても心地よい時間を過ごせたと感じた心に残る作品でした。