雲を紡ぐ

本書『雲を紡ぐ』は、ホームスパンを中心とした一人の少女と壊れかけた家族の再生を描いた長編小説です。

繊細な心を持ち外に出ることができなくなった少女の、ホームスパンに対する愛情を存分に描いた心温まる作品で、第163回直木賞の候補作となりました。

 

壊れかけた家族は、もう一度、ひとつになれるのか?羊毛を手仕事で染め、紡ぎ、織りあげられた「時を越える布」ホームスパンをめぐる親子三代の心の糸の物語。(「BOOK」データベースより)

 

「ホームスパン」とは、「ホーム=家」「スパン=紡ぐ」毛織物のことであり、それぞれの家で糸を紡いでつくった布が語源だと本書内に書いてありました。

正確には、

ホームスパンとは、手紡ぎによる、主に太めの粗糸などを使った手織りの織物のことを指す。

株式会社日本ホームスパン

のだそうです。

 

主人公の少女美緒は、父方の祖母が作ってくれた鮮烈な赤色をしたショールを心の逃げ場としていました。そのショールが母親の手で捨てられたとき、美緒は写真で見た岩手県にある祖父の工房「山崎工藝舎」へと向かいます。

美緒は「人の視線が気にかかり、怖い。だから相手の顔色をうかがう。で、がんばる。」と後に太一に評される繊細な子です。

母親の顔色を窺い、家にいない父親を恐がり、学校では友達の顔色を窺って常に笑みを張り付け、それがおかしいと笑われる。結局、電車に乗れなくなり、家に、部屋に閉じこもるようになります。

そこに母親によりショールを捨てられるという事件が起こり、澪は祖父のところへ逃げるのです。

 

私は、本書『雲を紡ぐ』のような普通の家庭の、どこにでもあるようないじめや引きこもり、その原因かもしれない冷え込んだ夫婦関係などを描いた作品を、本来は好みません。

私の好むところはハードボイルドであり警察小説であり、アクション満載のインパクトが強烈なエンターテイメント小説なのです。

 

しかし、例えば 夏川草介の『神様のカルテシリーズ』のように真摯に命の尊厳を見つめる作品などにも心打たれ、 浅田次郎の『壬生義士伝』のような人間ドラマにも心惹かれます。

 

 

そして、二年ほど前に読んだこの 伊吹有喜という作家の第158回直木賞候補作となった『かなたの友へ』という作品が心に残っていました。

ひたすらに人を想い、ノスタルジックな雰囲気の中で一生懸命に生きる姿を描いてある作品は私の琴線に触れたものです。

 

 

その伊吹有喜が再び直木賞の候補作となった作品が本書『雲を紡ぐ』です。やはり、本作品も読んでいて心地よいと感じる仕上がりでした。

ヒステリックな母親真紀と、自信に満ちた母方の祖母の強い言葉、それに対し言葉が少なく常に逃げているとしか思えない父親広志という、主人公美緒の家庭の描写はうまいものです。

それに対し、美緒が世話になる「山崎工藝舎」関係の登場人物、父親広志の従妹である川北裕子は一歩引いています。それよりも祐子の息子の太一の存在の方が大きく感じるほどです。

勿論、祐子も美緒に羊毛の洗い方などの羊毛を紡ぐ工程を教えたりと、それなりの存在感が無いわけではありません。

でも、この家庭で育った美緒に対する太一の言葉は専門家のようでもあり、できすぎの印象はありました。それでも自身の経験として語る太一の言葉には重みがありました。

 

一方、美緒が暮らすことになる父方の祖父である山崎紘治郎の存在感は突出しています。後に読んだ直木賞の桐野夏生の選評で「祖父の達観は出来過ぎ」とありましたが、確かに否定はできません。

しかし、人気の毛織物の職人である祖父の仕事に関する言葉は重みがあって当然だと思われ、ただ、美緒の人生についての紘治郎の言葉は納得せざるを得ないのです。

 

その他にも、登場人物たちの造形がステレオタイプであり、「朝の連続テレビ小説」のようだと表される一因になっているなどの評は、指摘されれば全面否定できないところではあります。

それでも読み手の心に迫ってきたのは事実でしょう。だからこそ直木賞の候補作として選ばれたものだと思います。

父親の従妹である「山崎工藝舎」の祐子や、その子の太一なども含め、この作者の醸し出す雰囲気、読みやすさの一因がステレオタイプな人間像からくるものだとしても、やはり心に沁み、琴線に響く作品です。

 

家族をテーマに書かれた作品としては少なからずの作品がありますが、受賞歴のある作品から選ぶとすると、まず 瀬尾まいこの『そして、バトンは渡された』があります。

父親が三人、母親が二人いて、家族の形態は十七年間で七回も変わった十七歳の森宮優子を主人公とする長編小説です。親子、家族の関係を改めて考えさせられる2019年本屋大賞を受賞した長編小説です。

でも皆から愛されていた彼女を主人公とするこの物語は、確かにいい作品かもしれませんが、私の好みとは異なる作品でした。

 

 

第155回直木賞を受賞した 荻原浩の『海の見える理髪店』はいろいろな家族の在り方を描いた全六編からなる短編集です。

例えば、表題作の「海の見える理髪店」は、予想外の展開を見せますが、何気ない言葉の端々から汲み取れる想いは、美しい文章とともに心に残るものでした。特に最後の一行は泣かる作品です。

 

 

ここで書くのは蛇足かもしれませんが、本書『雲を紡ぐ』に岩手県の県名の由来が書いてありました。「言はで思ふぞ、言ふにまされる」という和歌の下の句から来てるそうです。

陸奥国、磐手の郡から献上された鷹「いはて」をめぐる歌だそうで、言えないでいる相手を思う気持ちは、口に出して言うより強い、という意味だそうです。

こうしたトリビア的な知識も頭のすみに残り、そして作品も心に残っていくのです。

早見 和真

1977年神奈川県生まれ。2008年『ひゃくはち』で作家デビュー。2015年『イノセント・デイズ』で第68回日本推理作家協会賞(長編及び連作短編集部門)を受賞。『ひゃくはち』『イノセント・デイズ』以外にも、『ぼくたちの家族』『小説王』『ポンチョに夜明けの風はらませて』など多くの作品が映像化されている。他の著書に『店長がバカすぎて』『神さまたちのいた街で』『かなしきデブ猫ちゃん』(絵本作家かのうかりん氏との共著)などがある。

引用元:早見和真 | 著者プロフィール | 新潮社

店長がバカすぎて

本書『店長がバカすぎて』は、書店員を主人公としたお仕事小説であり、書店を舞台にしたコメディ小説であって、2020年本屋大賞の候補となった作品でもあります。

読み始めはかなりの関心を持って読み進めた作品だったのですが、途中から失速気味だと感じてしまった、微妙な小説でした。

 

谷原京子(契約社員、時給998円)「マジ、辞めてやる!」でも、でも…本を愛する私たちの物語。(「BOOK」データベースより)

 


 

本書『店長がバカすぎて』の読み始めの印象は非常によく、滅多に出会うことのない私の好みに合致する作品に出逢えたと、非常に喜んでいた作品でした。

例えると、対象は命であり全く内容は異なる作品ですが、まるで 夏川草介の『神様のカルテシリーズ』を読んだ時の印象に通じるものがありました。

主人公である谷原京子のユーモアに満ちた言葉や態度のもたらす気楽さ、軽く書いてはあるのだけれどその内容の重さなど、似た印象を持ったものです。

 

 

しかし、本書の中ほどにも至る前から、違和感を感じ始めました。その原因は、戯画化されすぎた人物像ではないかと思われます。

主人公の言動は確かに面白いのですが、あまりにデフォルメされすぎていて、それまで抱いていた本に対する愛情への共感すらも途中からは薄れてきました。

そしてクライマックスに至っては、心はすっかりと離れてしまいます。伏線の回収を見事にされているつもりなのかもしれませんが、どうにも独りよがりの印象が強く感情移入できませんでした。

 

また、店長ひとりをとってみると、「第二章 小説家がバカすぎて」において、バカなはずの店長が武蔵野書店の店員をひたすらに擁護する場面があります。

そこにおいての店長の発言は意外なものであり、バカなはずの店長がとてもたくましく、普段はその能力を隠しているのではないかと思えるほどに魅力的に見えるのです。

しかし、そのときの印象はどこへやら、またいつもの店長に戻るのですが、結局この店長の正体はよく分かりません。

店長の性格付けがよく分からないままにクライマックスへとなだれ込み、よく分からない店長のままに終わります。

なぜ店長のそばにあの人が、という疑問を抱いたのは私の読み込み不足でしょうか。

似たようなことは店長に関することに限らないこともあり、感情移入できなくなった一因かとも思われます。

 

とはいえ、本書『店長がバカすぎて』に書かれている事柄は現場で働く人からも「描写がリアル」だと評価が高かったそうです。

確かに、私の個人的な書店勤めの友人から聞いていた事実とも合致し、クレーマーとしか言えない客や、年末に売り出される主婦雑誌の新年号について従業員が負わねばならないノルマ制度などは驚きでした。

クレーマーの話はどこでもありますが、それでも本書に登場するような客が実際にいるという現実、また、従業員に課されるノルマの裏には出版社と書店との間の報奨金というシステムがあることなどは知りませんでした。

主人公の京子の冬のボーナスは2万9900円で、割り当てられた雑誌の買取り額が2万8000円だというのは笑い話にもなりません。この数字は本書の中の数字かもしれませんが、現実に似た状況があるというのです。

極めつけは、この事実に対しとある営業マンが放った一言です。自分たちのボーナスを使って買い込んだことは、つまりは出版社の正社員のボーナスを払っていることになるというのです。これは契約社員の京子には厳しい指摘でしょう。

 

本書『店長がバカすぎて』のように書店を舞台にした作品と言えば、 村山早紀の『桜風堂ものがたり』という作品があります。

この作品は人づきあいが下手な一人の青年が、ブログを通じて知り合った書店主のあとを継ぐことになる話で、2017年本屋大賞の候補作となった作品です。

この本も当然ですが本に対する愛情あふれた作品で、私は本書と同様に『神様のカルテシリーズ』を思い出したと書いています。

 

 

本書のタイトルは『店長がバカすぎて』でした。しかし、その章立てを見ると「小説家がバカすぎて」「弊社の社長がバカすぎて」と続きます。

つまりは書店に関係する人たち皆に対し京子が怒りをぶつけているのです。

最初は書店員としての怒りだったのですが、そのうちに個人的な事柄をも持ち込まれてきて、両者は混然一体となってきます。

三十路を前にした独身女の悲哀、とでもいうべき憤懣を吐き出しているのです。

 

本書『店長がバカすぎて』への感想は大枠以上のようなものですが、あらためて言うまでもないことですが、本書が面白くないということではありません。

個人的な好みとは異なるということをつらつらと書いてきただけのことです。

不満点ばかりを書きすぎたことでもあり、一言申し添えておきます。2020年本屋大賞の候補となった作品であるということはやはりそれなりのものはあるのです。

プラージュ

本書『プラージュ』は、訳あり者たちだけが住むシェアハウスを舞台にした、ミステリー色の強い長編小説です。

もしかしたら、人によっては誉田哲也の作品の中で一番だという人がいそうな、個人的にもそれに近い感想を持った作品でした。

 

仕事も恋愛も上手くいかない冴えないサラリーマンの貴生。気晴らしに出掛けた店で、勧められるままに覚醒剤を使用し、逮捕される。仕事も友達も住む場所も一瞬にして失った貴生が見つけたのは、「家賃5万円、掃除交代制、仕切りはカーテンのみ、ただし美味しい食事付き」のシェアハウスだった。だが、住人達はなんだか訳ありばかりのようで…。(「BOOK」データベースより)

 

本書の登場人物の一人の言葉として、『プラージュ』とは、フランス語で「海辺」という意味だとありました。そして「海と陸の境界。それは常に揺らいでいる。」という言葉が続いています。

店と客、客と店主、店と二階の居住空間が、「不安になるほど、ここには垣根というものがない。」というこの人物の感想は、本書のある主張を言い表している言葉でもあるようです。

 

冒頭で、本書『プラージュ』は、ミステリー色が強い小説だと書きましたが、それはミステリー小説と言い切るには若干のためらいがあったからです。

ミステリーと言えるほどの謎があり、その謎が読者の関心をより惹きつけていることはもちろんあります。

しかし、それは二次的なものであり、まずは罪を犯し、その罪を償ったものたちのこれまでの人生をたどり、そしてこれからの人生を見据える再生の物語だと思えます。

その物語が、妙に読者の心にささり、小さな感動を生んでいて、それがエンターテイメント小説としても、人間再生の話としても魅力を生んでいるのです。

 

人の再生の物語としては、例えば ロバート・B・パーカーの『愛と名誉のために』に見られるような、強い人間を描いた作品は多く見られると思われます。

 

 

しかし本書『プラージュ』のように、前科を背負った人間の再生の話、それも、計画的なな行動を描くものではなく、現実に直面したときの不安や戸惑いという再生過程を描いた作品は知りません。

 

本書『プラージュ』では吉村貴生という人間が中心になっていて、一応は主人公と言っていいのかもしれません。

というのも、本書は誉田哲也お得意の多視点での構成されています。それも奇数番号の章は吉村貴生の視点で、それ以外は様々な登場人物の視点で語られています。

そして物語自体は、貴生を中心としながらも登場人物皆の将来に向けての人生再生の物語だと言えると思うのです。

 

シェアハウス「プラージュ」に住むことになる人間は何かしらの罪を犯し、それなりの償いをしている人間です。そして客として集う人間も何かしらの負い目を背負っています。

住人の一人である詩織の心象として、次のような心象を描写してあります。

自分は多くの人に支えられ、社会によって「生かされている」のだと感じる。そしてそのことが、単純に嬉しいのだ。

そう思うようになったのは、この「プラージュ」での生活の故かもしれません。もしかしたら、「プラージュ」オーナーの潤子の思いが伝わったのかもしれません。

それははっきりとは分かりませんが、ここに住まう人間の一人がそういう思いになっているのです。そういう思いを持たせてくれるのがシェアハウス「プラージュ」なのです。

 

この「プラージュ」に一人のジャーナリストが潜入し、ある事件の犯人と思われた人物の現在を追おうとします。

そこにとある事件が起き、クライマックスへとなだれ込んでいきます。

 

そのクライマックスで重要な役割を果たす、客の一人として登場するヒロシは次のような趣旨のことを言っています。

いま、前科がないのはただ単に生業を継いだとか、地元の先輩が面倒を見てくれたとか、単に運がよかったにすぎない

罪を犯すか否かは環境でもあり、それはまた「運」でもある、ということでしょうか。でも、だからこそ、同じような立場の自分たちも「仲間」を大切にしたい、とも言います。

これも、作者の「罪」というものに対する一つの答えでしょう。

 

ここでのヒロシたちの事件解決への参加が、この物語でちょっとした違和感を持った点でもあります。彼らはシェアハウス「プラージュ」の住人ではないからです。

しかし、エンタメ小説としては、ここでいう「仲間意識」などのつながりは読者をひきつける大切な要素でもあるとも思われ、そうしたエンタメ性の観点からも彼らの参加のために持ち出した言葉だとも思えます。

どちらにせよ、読み手としては読んでいて面白さが増すのは事実であり、結果として本書『プラージュ』のような作品ができ上ってくるのですから大歓迎でもあります。

 

ただ、ヒロシなどの「プラージュ」の客が物語の上でわりと重要な位置を占めているにもかかわらず、あまり人物像が深くは描かれていません。

一応前科は背負っていないために章を立てて取り上げるまでもないと判断されたのでしょうか。しかし、前科者になるか否かぎりぎりのところにいる彼らの代表としてもう少し掘り下げてもいい気もしました

ただ、そうなると「プラージュ」に住む住人の物語の意味が薄れる気もします。

 

ちなみに、2017年には本書『プラージュ』を原作とし 星野源を主人公として、WOWWOWでドラマ化もされています。

 

遠田 潤子

1966年大阪府生まれ。関西大学文学部独逸文学科卒業。2009年『月桃夜』で第21回日本ファンタジーノベル大賞を受賞し、デビュー。『オブリヴィオン』が「本の雑誌が選ぶ2017年度ベスト10」第1位に輝く。苛烈なまでに人間の業を描きながらも、生の力強さ、美しさを感じさせる独自の世界観で読者を魅了。他の著書に『雪の鉄樹』『冬雷』『ドライブインまほろば』『廃墟の白墨』などがある。
引用元:遠田潤子 | 著者プロフィール | 新潮社

銀花の蔵

本書『銀花の蔵』は、田舎の醤油蔵を舞台にした一人の少女の成長の様子を記した長編の家族小説です。

殆ど全編が哀しみに彩られた、しかし希望だけは失われてはいない物語ですが、私の好みとは異なる作品でした。

 

絵描きの父と料理上手の母と暮らす銀花は、一家で父親の実家へ移り住むことに。そこは、座敷童が出るという言い伝えの残る、歴史ある醤油蔵だった。家族を襲う数々の苦難と一族の秘められた過去に対峙しながら、昭和から平成へ、少女は自分の道を歩き出す。実力派として注目の著者が描く、圧巻の家族小説。(「BOOK」データベースより)

 

絵描きで食べていくことを夢見る父親の山尾尚孝は、父親の実家である奈良の雀醤油という醤油蔵のあとを継ぐために、妻美乃里と本書の主人公である娘銀花とを連れて転居することになります。

実家には、醤油蔵を守ってきた母親の多鶴子と、尚孝の年の離れた妹の桜子がおり、また醤油づくりの杜氏である大原がいました。

 

本書『銀花の蔵』では全編を通して繰り返して哀しみに満ちた事態が銀花を襲います。そのさまがあまりに過酷に思え、物語とはいえ感情移入しにくく感じたものです。

しかし。直木賞候補作となるほどの作品である以上はそれだけの魅力がある作品である筈であり、このままで終わるはずはないのだからと自分に言い聞かせながら読んたものです。それほどに暗い印象でした。

 

そんな物語ではありますが、本書『銀花の蔵』では小道具の使い方に心惹かれました。さまざまな小道具が効果的に使われているのです。

最初に例を挙げるとすれば「座敷童」でしょう。

尚孝の実家である雀醤油の醤油蔵には山尾家の当主だけが見えるという「座敷童」がいると伝えられています。この「座敷童」が全編を貫くキーワードとなって、さまざまな場面で登場します。

また、そのほかにもロシア民謡の「ポーリュシカ・ポーレ」や「蛍」その他の小道具がが場面を変え、繰り返し登場して銀花の心象を思いやります。

あまり登場場面はないのですが、個人的には「ふくら雀」という土鈴の存在が読書中ずっと心に残っていました。「ころん。ころん。」とふくらみ転がる銀花のイメージが離れないのです。

 

話が進むにつれ、銀花が思っていた単純に絵を描くことだけを夢見ていた父親の尚孝や、料理のことだけを思っていた母親美乃里の心の中など、隠されていた事柄が明らかにされます。

そうして本書が単純に主人公銀花の生きる姿を描くだけではないことが分かってくるのです。

本書『銀花の蔵』は、人はそれぞれにその人の人生の主役なのであり、家族は互いに家族を思いやって生きているのだということを秘めた物語でありました。

 

本書『銀花の蔵』のように、「家族」というもののありようを描いた作品として第155回直木賞を受賞した 荻原浩の『海の見える理髪店』という作品があります。

この作品はいろいろな家族の在り方を描いた全六編からなる短編集です。表題作の「海の見える理髪店」は、この物語が予想外の展開を見せるなかで、何気ない言葉の端々から汲み取れる想いは、美しい文章とともに心に残るものでした。

 

 

また、 瀬尾まいこの『そして、バトンは渡された』という、「家族」というものを正面から問いかけた作品もありました。

主人公の高校三年生森宮優子こと「私」には、父親が三人、母親が二人いて、家族の形態は十七年間で七回も変わっています。そうした異常な状況にいる「私」ですが「自分は全然不幸ではない」というのです。

この作品もまた私の好みではありませんでしたが、2019の年本屋大賞を受賞した作品であり、一般には高評価を受けています。

 

 

本書『銀花の蔵』の構成をみると、お婆ちゃんとなっている銀花が、騒ぐ双子を相手に叱る場面から始まります。そこから銀花の回想が始まります。

つまりは、現在の銀花は倖せのただなかで暮らしていることが冒頭に示されているのです。同時に、その場面は本書を貫く一つの謎を読者に提示することにもなっています。

こうして、読み進める途中では銀花や銀花の周りの人々を襲う哀しみの連鎖に読むのが嫌になることもあるのだけれど、最終的な場面が示されていることを頼りに読み進めることになります。

その上で、クライマックスでは伏線が回収された上に、愛情に満ちた世界が展開され、ちょっとした感動に包まれます。

キケン

本書『キケン』は、技術系の大学に入学した男子学生の学生生活を描いた長編の青春小説です。

勉学の姿を除いた理系学生の部活動の一面を正面から描いてあるのですが、どうにも現実感がなく、感情移入しにくい小説でした。

 

ごく一般的な工科大学である成南電気工科大学のサークル「機械制御研究部」、略称「キケン」。部長・上野、副部長・大神の二人に率いられたこの集団は、日々繰り広げられる、人間の所行とは思えない事件、犯罪スレスレの実験や破壊的行為から、キケン=危険として周囲から忌み畏れられていた。これは、理系男子たちの爆発的熱量と共に駆け抜けた、その黄金時代を描く青春物語である。(「BOOK」データベースより)

 

この『キケン』という作品は、元山高彦と池谷悟の二人が、成南電気工科大学にある「機械制御研究部」に入部し学生時代を送った様子を、ある人物が回想し妻に語る、という形式で進みます。

これまでの有川浩の小説の傾向とは異なり、単純に学生の馬鹿騒ぎを書き記したという印象が強く、現実感がありません。

そこには生活感が全くなく、ひたすら部活動の側面だけが取り上げられているため違和感を生じているのだと思います。

そのため、物語として見た場合、本書の作者有川浩の『図書館戦争シリーズ』、『三匹のおっさん』などと比べるとどうしても内容が薄く感じられてしまいます。

 

 

生活感が無いという点に関しては、本書『キケン』の文庫版の解説で藤田香織氏が、『キケン』にはこの作者の『塩の街』を始めとする『自衛隊三部作』や『図書館戦争シリーズ』のような作品とは比べようもない、取るに足らない戦いや愛しかない、と書いておられました。

でもそれがいいと言われます。こうした小さな世界に夢中になれる期間はわずかしかなく、本書にはその儚くも尊い時間が描かれているというのです。

 

 

内容の薄さ、という点に関しては、著者自身の「あとがき」に、「男子というイキモノは独特の世界を持っている」と書いておられます。そして、その中に女子が一人でもまじると「よそいき」の顔になるとも書いておられます。

だから、他の作品のように“愛”や“闘い”を中心に描くのではなく、そういうイキモノが確実に生きた青春の一時期を、いたずらの側面を全面的に押し出し描き出すことで描き出したということなのでしょう。

本書の解説で前出の藤田香織氏が、本書で学園祭のラーメン作りやロボット梳毛大会の顛末など、派手で楽しそうな場面ばかりを描きシリアスな場面がないのは作者の親心であり、思い出の中にある青春時代は妻に語る形式である語り手の記憶だからこそだと言っています。

 

しかし、そうした作者の計算が仮にあったとしても、その計算が違っていたとしか思えません。

記憶の中の楽しかった場面のみを語る、というのは理解できます。しかし、この作者であれば、その楽しかった思い出を、単なる馬鹿騒ぎとしてではなく描くことはできると思うのです。

事実、本書『キケン』の中でも、上記のラーメン作りの場面などはかなり面白く読みました。ただ、それに伴うアクション場面は行き過ぎかなという感じはします。

この行き過ぎ、つまりは言ってみればオーバーアクションであり、惹きつけられた関心が突き放されてしまったのです。

大神の恋愛事情もそれはそれでいいとも思うのですが、何となく中途な印象ですし、ロボット相撲も設定は魅力的なのに、上野たちの行動が漫画チックになりすぎという印象に終わってしまいました。

 

正直に言いますと、個人的には学生生活は学生時代はアルバイト等でほかの学生とは異なっていましたので。学生生活は無いのと同じです。従って、大学生時代の青春記に関しては実はあまり語る資格は持ちません。

しかし、高校時代が似たような生活でした。熊本という土地では出身大学はあまり聞きません。どこの高校を出たか、が話の中心になります。その高校時代でやはり馬鹿なことをしていたのです。

 

ちなみに、本書『キケン』には新潮文庫版もあります。私が読んだのはこの新潮文庫版ですが、本稿の表題イメージ写真には出版年月が新しい角川文庫版を使用しています。

 

祝祭と予感

本書『祝祭と予感』は、直木三十五賞と本屋大賞をW受賞した『蜜蜂と遠雷』のスピンオフ作品です。

本書は、各頁の余白が広く、全186頁という薄さもあり、すべてを読み終えるのにそうは時間がかかりません。

ただ、その薄さ、短さゆえかもしれませんが、登場人物などについての説明は全くなく、『蜜蜂と遠雷』を読んでいないとその意味は全く分からないと思います。

 

 

大ベストセラー『蜜蜂と遠雷』、待望のスピンオフ短編小説集!大好きな仲間たちの、知らなかった秘密。入賞者ツアーのはざま亜夜とマサルとなぜか塵が二人のピアノの恩師・綿貫先生の墓参りをする「祝祭と掃苔」。芳ヶ江国際ピアノコンクールの審査員ナサニエルと三枝子の若き日の衝撃的な出会いとその後を描いた「獅子と芍薬」。作曲家・菱沼忠明が課題曲「春と修羅」を作るきっかけになった忘れ得ぬ教え子の追憶「袈裟と鞦韆」。ジュリアード音楽院プレ・カレッジ時代のマサルの意外な一面「竪琴と葦笛」。楽器選びに悩むヴィオラ奏者・奏へ天啓を伝える「鈴蘭と階段」。巨匠ホフマンが幼い塵と初めて出会った永遠のような瞬間「伝説と予感」。全6編。(「BOOK」データベースより)


 

先に書いたように本書はスピンオフ作品であり『蜜蜂と遠雷』を読んだ人でも登場人物の名前や細かな設定などを詳しく覚えている人などそうはいないと思われ、少なくとも簡単な紹介文くらいは欲しいと思います。

そうした点を除けば、こうしたスピンオフ作品は本体物語のファンにとってはたまらなくうれしいものがあります。

 

「祝祭と掃苔」
「掃苔」(そうたい)とは墓参りのことだそうです。『蜜蜂と遠雷』で描かれた芳ヶ江国際ピアノコンクール後に栄伝亜夜、マサル、風間塵の三人で行った綿貫先生の墓参りの様子が描かれます。

栄伝亜夜、マサル・カルロス・レヴィ・アナトール、風間塵の三人は「芳ヶ江国際ピアノコンクール」の出場者であり、このほかにもう一いた人高島明石という出場者が本書では描かれていません。

綿貫先生とは亜夜が幼いころに通っていたピアノ教室の先生であり、マサルも亜夜に連れられてこのピアノ教室へ行っています。

何故かこの墓参りに塵も同行しており、三人の音楽などに関する無邪気な会話が心地よく感じられる話です。

「獅子と芍薬」
その髪型から「獅子」と呼ばれたナサニエル・シルヴァーバーグの、着ていた着物の柄から「芍薬」と例えられた嵯峨三枝子との、出会いから、その後の結婚、別れ、そして今に至る、回想の話です。

共に「芳ヶ江国際ピアノコンクール」での審査員であった二人の馴れ初めの話をメインに、コンクールでの一番を目指していた若き二人の青春が語られます。

「袈裟と鞦韆」(ブランコ)
芳ヶ江国際ピアノコンクールでは演奏者たちは課題曲として「春と修羅」という楽曲が与えられますが、この「春と修羅」の成り立ちについての話です。

蜜蜂と遠雷』で強烈な印象を残していたのが「春と修羅」のカデンツァ、つまり演奏者の「自由に即興的な演奏をする部分」でした。

宮沢賢治の詩の中でも私が一番好きだといえるこの詩をモチーフにした演奏は一度聞いてみたいと思った場面です。その作品の誕生の話で、若干センチメンタルではありますが、感動的な話でもありました。

「鞦韆」とはブランコのことです。作曲家の菱沼忠明が黒澤明の「生きる」の中の名場面を連想したところから来ています。

 

 

「竪琴と葦笛」
先にも登場していたマサルがナサニエル・シルヴァーバーグと出会い、師事するに至る話です。

ナサニエルは嵯峨三枝子のかつての夫として「獅子と芍薬」に登場しました。ジュリアード音楽院の教授であり、塵を見出し育てたユウジ・フォン=ホフマンの数少ない弟子のひとりでもあります。

「鈴蘭と階段」
浜崎奏は亜夜が通う音楽大学でヴァイリオンを学ぶ二年先輩で、この大学の学長の娘でもあります。ヴィオラに転向したその奏が楽器選びに苦労する話です。

演奏家が楽器と親しむその様子、心象が細かに描かれています。

「伝説と予感」
この二月に亡くなったピアノ演奏の大家であるユウジ・フォン=ホフマンと養蜂家の息子であった塵との出会いの話です。

十数頁しかない短さで、ホフマンが塵と出会ったときの衝撃を、戦慄を描いてある作品です。

カウントダウン

市長選に出ろ。オフィスに現れた選挙コンサルタントは、いきなりそう告げた。夕張と隣接し、その状況から双子市と称される幌岡市。最年少市議である森下直樹に、破綻寸前のこの町を救えというのだ。直樹の心は燃え上がってゆく。だが、二十年にわたり幌岡を支配してきた大田原市長が強大な敵であることに違いはない。名手が北海道への熱き想いを込めた、痛快エンターテインメント。(「BOOK」データベースより)

 

北海道の夕張市をモデルにした、とある地方自治体の破綻を描く長編の政治小説です。

 

作者の佐々木譲と言えば、警察小説もしくはハードボイルド小説の第一人者として名の通った作家さんです。

しかし、本書は警察小説やハードボイルド小説ではなく、財政再建団体に転落しようとするとある市の市長選に立候補しようとする一人にの若手市議の奮闘を描いた作品です。

 

そもそも、作者は何のために本書を描いたのかという点が気になります。

つまり、仮に、本書の惹句にあるように、夕張の状況をもとに痛快小説を書こうとしたのであれば、端的に言って、人気の警察小説ほどの面白さはありませんでした。

仮に夕張市が財政再建団体へと転落していく原因を作った、「夕張の中田哲司元市長とその多選を支え続けてきた翼賛的な市議会」への告発だとすれば、今度は幌岡市の現状描写が物足りない気はします。

どちらにしても、本書の惹句にある「痛快エンターテインメント」だとは言えず、どうにも消化不良の印象です。

 

本書の「解説」を書かれている佳多山大地氏によれば、本書は読売新聞北海道版に連載されたルポルタージュ「夕張ふたたび」の時の長期取材時の蓄積をもとに小説化されたものだそうです。

確かに、作者である佐々木譲自身の出身地でもある北海道夕張市の事情についてはよく調べられているし、夕張市の財政再建団体への転落に次いでの悲憤も強く感じます。

そして、長期政権による放漫財政と監視機能を失った議会という夕張市の状況を双子市とも称される本書の舞台幌岡市に置き換えている点もわかります。

しかし、痛快小説としての爽快感はありません。

 

本書の主人公である幌岡市の最年少市議である森下直樹が立候補を決心し、マスコミにその意思を公開したのは全体の三分の二を過ぎたあたりです。

そのこと自体は別にいいのですが、主人公の立候補を明言するまでの物語の動きは幌岡市の現況を説明するだけのものでしかありません。

それはつまりは夕張市への悲憤であり、告発であるとしか思えず、物語としての興味は半減しています。

 

また、いざ明言したのちに主人公に降りかかる反対派からの切り崩しや怪文書などの嫌がらせもあまりインパクトはなく、そうした事実があったという報告でしかありません。

つまりは痛快小説としての面白さがないとしか感じませんでした。

 

本書が告発小説でも痛快小説でも、どちらにしても物足りない印象を持ってしまったということになります。

佐々木譲という作家でしたらもう少しいわゆる面白い小説を期待できたはずだと思うだけに残念でした。

悪の五輪

東京が日本が劇的に変貌しつつあった1963年、元戦災孤児のアウトローが大いなる夢に向かって動き出す。軋む街の表に裏に、抜き差しならない腐敗や闇が根尾下ろしているなかで、オリンピックを奪い、撮れ!(「BOOK」データベースより)

 

1964年に東京で開催されたオリンピックの記録映画を巡り、何とか監督の人選に食い込もうとする男の暗躍を描いた長編のピカレスク小説です。

もしかしたらそういうことがあったかもしれないとの印象すら抱く、実在の人物が数多く登場する映画裏面史ともいえる話で、それなりの面白さをもった話でした。

 

それなりの、との限定は、月村了衛という作者の作品としては、少々インパクトに欠ける印象を持ったからです。

どうしても月村了衛という作家の作品を読むときはこの人の作品である『機龍警察』と比較をしてしまいます。そして、『機龍警察』の緻密さ、重厚感を知る私にとって、本書は今一つ物足りないのです。

 

 

ただ、本書に関しては、『機龍警察』を引き合いに出すまでもなく、例えば近年のいわゆる第二期の作品『東京輪舞』と比しても同様の印象を持ちます。

本書は著者自身が言うように、歴史的な事実、人物を物語に組み込みながらも史事には矛盾させないという『東京輪舞』と同じ手法をとっていますが、やはり緊迫感、重厚感に欠けるのです。

それは、『東京輪舞』が警察小説の形をとった、昭和の裏面史としてある種の謎に迫る物語であるのに対し、本書『悪の五輪』は昭和の裏面史に題をとったクライムノベルではあっても、エンターテイメントの世界を描いた作品だというところからくる差異だと思われます。

 

 

つまりは、緻密な書き込みで濃密に構築された世界を舞台に展開されるアクションやミステリーではないところに物足りなさを感じたのでしょう。

とはいえ、本書『悪の五輪』には『東京輪舞』などにはない面白さがあるのは否定できません。

本書はピカレスク小説として、主人公の人見稀郎花形敬などの実在した人物とのつながりをもって東京オリンピックがもたらす利権に食い込もうとするさまが描かれ、ある種の痛快さがあります。

つまり、ミステリー性はない代わりに、チンピラやくざであった人見稀郎が、知恵を絞り、度胸だけで何とか利権の片隅に食い込もうとするエネルギーに満ちています。

そして、そのエネルギーの向かう先にいる花形敬や若松孝二児玉誉士夫永田雅一といったひと癖もふた癖もある実在の人物らとのつながりを得て利権に食い込む姿が小気味よさを感じさせてくれるのです。

 

さらに言えば、映画史の一面を持っているということに惹かれます。

本書では、黒澤明が東京五輪の記録映画監督の座を降りたその後釜に潜り込みたいという二流監督の意思が金になるとふんだ弱小ヤクザの思惑から始まった物語です。

そして、映画好きのチンピラヤクザ人見稀郎がそのお膳立てを任されます。

当然、映画自体は詳しくても、映画界に何の知己もない人見稀郎は知人から紹介された新進の映画監督若松孝二を通じて大映社長の永田雅一の黙認を得、花形らの力を借りて錦田を記録映画監督とするべく暗躍を開始するのです。

こうした話は映画好きの人間にはたまらない、魅力的な話であることは間違いありません。

 

ただ、そうはいってもあくまで映画そのものが主軸ではないので物足りないのです。

そうした映画の裏面史としては春日太一の『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』のような、フィクションではない映画史を読む面白さにはかないません。

 

 

結局、本書はエンターテイメントの世界を背景に描かれたピカレスク小説であり、エンターテイメントの世界の裏側を描いた物語です。

そこにあるのは曲者たちの有する思惑の絡み合いであり、利権に群がる人間たちの姿であり、他の世界と異なるところはありません。

作者は2020年の東京オリンピックを前にして、前回開催された東京オリンピックの裏側の一面を描き、今回のオリンピックも同様だよ、と言っているようです。

ただ、新型コロナウイルスのパンデミックにより、2020年東京オリンピックが開催されるものか不透明にはなってきていますが、できれば通常のように開催されることを願うばかりです。