spring

spring』とは

 

本書『spring』は、2024年3月に筑摩書房から448頁のハードカバーで刊行された、長編のバレエ小説です。

『蜜蜂と遠雷』でピアノコンクールを舞台とした作品で私たちを驚かせてくれた作者が、今度はバレエという踊りをテーマに新たな驚きを見せてくれました。

 

spring』の簡単なあらすじ

 

構想・執筆10年ーー
稀代のストーリーテラーが辿り着いた最高到達点=バレエ小説
「俺は世界を戦慄せしめているか?」

自らの名に無数の季節を抱く無二の舞踊家にして振付家の萬春(よろず・はる)。
少年は八歳でバレエに出会い、十五歳で海を渡った。
同時代に巡り合う、踊る者 作る者 見る者 奏でる者ーー
それぞれの情熱がぶつかりあい、交錯する中で彼の肖像が浮かび上がっていく。
舞踊の「神」を追い求めた一人の天才をめぐる傑作長編小説。

史上初の直木賞&本屋大賞をW受賞した『蜜蜂と遠雷』や演劇主題の『チョコレートコスモス』など、
表現者を描いた作品で多くの読者の心を掴みつづける恩田陸の新たな代表作、誕生!
ページをめくるとダンサーが踊りだす「パラパラ漫画」付き(電子版には収録なし)(内容紹介(出版社より))

 

spring』の感想

 

本書『spring』は、直木賞本屋大賞を同時受賞した『蜜蜂と遠雷』という音楽をテーマにした作品で私たちを驚かせてくれた作者恩田陸が、新たにバレエをテーマに紡ぎだした長編のバレエ小説です。

今回も作者の筆の冴えは見事であり、四百頁を軽く超える濃密な作品ではありましたが、最後まで緊張感が途切れることなく読み終えることができました。


 

本書は天才的ダンサーであり振付師の萬春(よろずはる)という人物を、章別に異なる視点から描き出している全四章からなる作品です。

「第一章 跳ねる」の語り手は深津純というダンサーです。

純にとって春はワークショップで一人だけ輝きが異なる特別な存在として意識した人物であり、春の振付師としての可能性を意識させた人物でもあります。

「ワークショップ」とは「参加者が主体的に参加する体験型の講座」のことです。( Doorkeeper : 参照 )

 

「第二章 芽吹く」の語り手は春の叔父さんのさんです。

春の人となりを、春の幼いころからを知っている身内ならではの観察眼で掘り下げています。

「第三章 湧き出す」滝澤姉妹の妹の七瀬です。

春によれば、姉の美潮のバレエは「正しすぎる」のですが、七瀬は「ちょっと面白い」のであり、七瀬には頭の中で別な音楽が流れていると言います。その頭の中で鳴っている音に忠実に踊りをつけているから外からは余計な踊りに見えるのだと言うのです。

そして「第四章 春になる」の語り手は春自身です。

この章では、これまでの三人とのエピソードが春自身の目線で語られており、物語に厚みが出ています。

 

作者の恩田陸の表現力の素晴らしさは言うまでもありません。

蜜蜂と遠雷』ではピアノコンクールでのピアニストの演奏の様子を見事に言語化して直木賞本屋大賞を同時受賞したその力量は、バレエという踊りの世界を描いても同じように表現してくれているのです。

この作者の文章の表現力の的確さ、その美しさはもちろんのことであり、個人的に驚くのは、春が振り付けをしている多くの踊りが、その全部について恩田陸という作家が実際に脳内でイメージして振り付けされていることです。

例えば、ラベルのボレロという曲に合わせた振り付けのアイデアでは、二頁弱にわたりオーケストラの個々の楽器それぞれに踊り子を割り当てた振り付けを説明してあります。

このようなオーケストラの構成をそのままに使うというアイデアは素人から見ると見事として思えないのですが、実際のダンサーはこのような振り付けを見てどう思うのでしょうか。話を聞いてみたいものです。 

ほかにも、私が聞いたこともないドイツのメルヒェン(昔話)をテーマにした振り付けなど、挙げていけばキリがありません。

 

その振付がバレエの専門家から見てどう評価されるのかはわかりません。

でも、バレエのことなど全く分からない素人からすると、仮にそうした振り付け作業が専門的にはおかしいものだとしても、その振付の表現に隠された作者の知識量は考えるだけでも恐ろしくなります。

元となる音楽だったり民話に関する詳細な知識があって初めてきっかけがあり、その材料をもとに詳細に調べ上げ、その上でバレエに対する感性をもって振り付けをしていく作業がどれだけ大変なことか。

そうした作者の情報量とその情報を生かす能力の高さは私達一般人の想像すらできないところにあると思われます。

 

そして、春が出会い、影響を受けたバレエの先生たちの森尾つかさエリックリシャール、そしてジャン・ジャメなどとの関係性も素晴らしいものがあります。

さらに深津純ハッサンヴァネッサ滝澤姉妹などの友人たちがいて今の春がいます。

加えて、第二章で語り手となった春の叔父さんのさんも忘れることはできません。

踊りの表現もさることながら、彼ら相互のつながりの深さ、影響し合い成長していくさまが表現されている本書はまた青春小説であり、成長小説でもあると思えます。

芸術的な感動を小説を読んでいて感じるという経験はそうはできないと思います。本書はその数少ない経験を感じさせてくれる作品だと思うのです。

 

ちなみに、『チョコレートコスモス』という作品では「演劇」の世界を展開しているそうですが、私はまだ読んでいませんので、そのうちに読みたいと思います。

また、本書の各ページの下部にはダンサーのパラパラ影絵が描き出してあるのも遊び心があり楽しいものです。

俺たちの箱根駅伝

俺たちの箱根駅伝』とは

 

本書『俺たちの箱根駅伝』は、2024年4月に上下二巻合わせて712頁のソフトカバーで文藝春秋から刊行された長編のスポーツ小説です。

箱根駅伝に「関東学生連合チーム」としてオープン参加をする選手たちと、彼らを中継するテレビマンたちの奮闘を描いた感動の作品です。

 

俺たちの箱根駅伝』の簡単なあらすじ

 

それは、ただのレースではない。2年連続で本選出場を逃した崖っぷちチーム、古豪・明誠学院。4年生の主将・隼斗にとって、10月の予選会が最後の挑戦だ。故障を克服し、渾身の走りを見せる彼らに襲い掛かる、のは「箱根の魔物」。隼斗は、明誠学院は箱根路を走ることが出米るのか?絶対に負けられない戦い、始まる。( 上巻:「BOOK」データベースより )

217.1km。伝説のレース、開幕。明誠学院駅伝チームを率いることになった、商社マンで伝説のOB・甲斐。彼が掲げた“規格外”の目標は、“寄せ集め”チームのメンバーだけではなく、ライバルやマスコミをも巻き込んでゆく。煌めくようなスター選手たちを前に、彼らが選んだ戦い方とは。青春とプライドを賭け、走り出す。( 下巻:「BOOK」データベースより )

 

俺たちの箱根駅伝』の感想

 

本書『俺たちの箱根駅伝』は、箱根駅伝に出場する「関東学生連合チーム」のメンバーと、その箱根駅伝を中継するテレビマンたちの姿を描いた感動のスポーツ小説です。

箱根駅伝を走るまでの主役たちの様子を描いた上巻と、本選が始まってからを描いた下巻とで全部で七百頁を越える作品ではありましたが一気に読み終えてしまいました。

本書で描かれている駅伝チームは、箱根駅伝予選敗退組による「関東学生連合チーム」という混成チームであり、オープン参加としてチームも個人としても記録は残りません。

箱根駅伝とは、正式名称を「東京箱根間往復大学駅伝競走」といいます。そして「関東学生連合チーム」とは、毎年十月に行われる箱根駅伝予選会で出場権を得られなかった大学の中から予選会で個人成績が優秀な選手が選抜されて構成されるチームです。( ウィキペディア : 参照 )

そのため、本選出場のチームに比べ彼らが使用するタスキは重さが違うため出場選手たちのモチベーションが違い、上位進出などできる筈がない、と考えられています。

本書中でも、他大学の監督からの批判的な意見が出る中での甲斐新監督の采配などが見どころの一つになっています。

さらには中継チームでも、「関東学生連合チーム」はオープン参加のチームであるがゆえに取材も十分に為されないために、中継に十分な資料が無いなどのトラブルのもとになるのです。

 

具体的には、本書『俺たちの箱根駅伝』では、明誠学院大学陸上競技部の四年生である青葉隼斗を中心に、勇退した諸矢久繁同競技部前監督の指名で就任することになった甲斐真人新監督の姿や箱根駅伝を中継しようとする大日テレビのスタッフの姿が交互に描かれています。

青葉隼斗は、主将である自分のミスから箱根駅伝本選出場を逃したのであり、そういう自分が「関東学生連合チーム」の一員として本選に出場してもいいものか思い悩むことになります。

そうした隼斗の気持ちはありつつも、かつての仲間たちの批判や応援をどう受け止めていくか、作者の筆は冴え渡ります。

また、新監督として皆の信任を得るためにも「関東学生連合チーム」の監督として皆を納得させる結果を残す必要がある甲斐監督はいかなる手を打ってくるのか、先の展開が気になります。

こうした筆の運びは、あの『半沢直樹シリーズ』と同様であり、あちらは企業小説であってミステリー風味も備えた痛快小説としての楽しみがありましたが、本書もまた同様に読者の関心を惹きつけているのです。

 

本書が『半沢直樹シリーズ』と異なる点を挙げるとすれば、こちらはスポーツがメインの小説だという点はもちろんなのですが、それ以上に本書では箱根駅伝本選出場ということと同時に、それを中継するテレビチームの内情をも描き出してあるということでしょう。

この点は、箱根駅伝を描いたスポーツ小説としてまず思い出す三浦しをんの『風が強く吹いている』や堂場瞬一が描いた『チーム』という作品とも異なるところです。

風が強く吹いている』という作品は走ることの素人たちが同じ下宿にいる仲間たちと駅伝を走ることを目指す作品で、私が三浦しをんに惹かれるようになった作品でもあります。

また、堂場瞬一の『チーム』は、本書と同じように本選出場がかなわなかった選手たちを集めて走る「学連選抜」の物語です。

学連選抜とは「関東学連選抜チーム」のことであり、本書の「関東学生連合チーム」と代わる前の名称です。( ウィキペディア : 参照 )

両作品共にかなり読みごたえがある作品ですが、箱根駅伝を走る選手たち自身の物語でした。


本書ではそれに加えて、箱根駅伝を中継するテレビスタッフの奮闘の様子までも描き出してあります。

駅伝本選を走る選手たち自身の物語に加え、そのレースを客観的に見ている中継スタッフをもまた物語に取り込むことで、読者の箱根駅伝への関心は一段と広がりを持ってくるように思えます。

特に本書下巻になると箱根駅伝本選の模様が往路、復路ともに詳しく描写されていきます。

 

そこでは、毎年正月の二日、三日に私たちがテレビの前にくぎ付けとなるテレビ画面で知っているあの景色が再現されていくのです。

そこに実際に箱根路を走るランナーたちの心象が描かれ、それに加えて実況する側の裏側まで見せてくれるのです。

テレビの画面を思い出しながらの読み手の興奮は次第に盛り上がっていき、最終走者がゴールに飛び込むまでその興奮はおさまることはありません。

 

作者の池井戸潤にはこれまでも『陸王』や『ノーサイド・ゲーム』他のスポーツ小説と言える作品もありました。しかし、それらはあくまで企業スポーツの一環として描かれていたのです。


しかし本書はそうではなく、純粋に駅伝というスポーツそのものが描き出されていて読者をスポーツの現場へと連れて行ってくれるのです。

久しぶりにミステリーやアクションではなく、純粋に人間の身体のみを使用するスポーツ分野で興奮する作品を読みました。

外科医、島へ 泣くな研修医6

外科医、島へ 泣くな研修医6』とは

 

本書『外科医、島へ 泣くな研修医6』は『泣くな研修医シリーズ』の第六弾で、2024年1月に幻冬舎から312頁の文庫本書き下ろしで刊行された長編の医療小説です。

成長した主人公が、離島へ行きさらなる成長を遂げる姿が描かれる感動に満ちた青春小説でもあります。

 

外科医、島へ 泣くな研修医6』の簡単なあらすじ

 

半年の任期で離島の診療所に派遣された、三一歳の外科医・雨野隆治。島ではあらゆる病気を診なければならず、自分の未熟さを思い知る。束の間の息抜きを楽しんだ夏祭りの夜に、駐在所の警官から電話が。それは竹藪で見つかった身元不明の死体を検死してほしいという依頼だったー。現役外科医が生と死の現場をリアルに描く、シリーズ第六弾。(「BOOK」データベースより)

なる牛ノ町病院に勤め始めて七年になる雨野隆治に離島の診療所に行かないかという話が飛び込んできた。三宅島から船で一時間ほどの神仙島の診療所への派遣医がいないというのだ。

島へ着いた隆治を港まで出迎えたのは半田志真という診療所の看護師であり、診療所では島に勤務して三十二年になるという所長の瀬戸山という外科医が出迎えてくれた。

瀬戸山によれば、この診療所は透析設備まで備えており島の規模の割にはなかなかだというが、島にいる医者は隆治と瀬戸山の二人だけであり、小児科から産科や眼科等なんでも対応しなければならなかった。

不安になる隆治だったが、半田志真やもう一人の繁田秀子という看護師の助けを借りて何とかこなしていく隆治だった。

そのうちに工事現場で事故があり重症患者が運ばれてきたが、瀬戸山所長はこの診療所での開腹手術などできないという。

都立病院へヘリ搬送するしかないが、ヘリでの搬送は先方での開腹まで四時間ほどかかるというのだった。

 

外科医、島へ 泣くな研修医6』の感想

 

本書『外科医、島へ 泣くな研修医6』は、『泣くな研修医シリーズ』の第六弾となる長編医療小説です。

シリーズ名は『泣くな研修医シリーズ』ではありますが、本書の主人公の雨野隆治はもう外科医として六年目になる一人前と言っていい(と思われる)お医者さんです。

その主人公が、三宅島からさらに船で一時間ほどのところにある神仙島へ派遣医師として行き、半年間の約束で都会とは異なる環境で医者として新たな試練に直面する姿が描かれます。

医者とは、医療とはなにかという主人公につきつけられる現実を乗り越える姿が感動的に描かれる作品になっています。

 

神仙島での隆治は、外科が専門などと言っておられず、小児科であろうと産科であろうと、いかなる病にも対応しなければなりません。

でも、たとえ外科のことであっても医療設備は都会の病院とは異なっており、少しのことでも瀬戸山や半田ら看護師を頼りにせざるを得ず、ましてや専門外のこととなれば自分の医者としての技量の無さに打ちのめされることになります。

それでも、そうしたことを覚悟の上で自分が医者として生きていく上で勉強になるからと神仙島へ来ることを承諾したことを思いだし、必死で努力する姿が描かれているのです。

 

医療小説と言えば、死を目の前にした患者に対して何も手を打つことのできない医者の無力さなどがよく変わられるところです。それは、人の命をテーマにするという医療小説の宿命とでもいうべきものでしょう。

そうした医療小説は少なからずのものがありますが、結局は同じように人の死に直面する医者の姿が描かれてはいてもそれぞれの作品が個性を持った作品として成立しています。

例えば、夏川草介の『神様のカルテシリーズ』や、大鐘稔彦の『孤高のメス―外科医当麻鉄彦』などはそれぞれに異なった医療に対する描き方が為されているのです。


話を本書『外科医、島へ 泣くな研修医6』に戻すと、本書ではこれまでとは異なってミステリアスな事件も舞い込む展開まで見られます。さらには隆治の新たな恋心まで見ることができるのです。

医療小説として新刊が期待されるシリーズ物となっています。次巻を期待している作品です。

半暮刻

半暮刻』とは

 

本書『半暮刻』は、2023年10月に464頁のハードカバーで双葉社から刊行された長編の社会派小説です。

半グレや風俗への身売りまでさせるホストの問題、利権に群がる政治家など、時代を写し取った硬派の物語で、それなりに引き込まれて読みました。

 

半暮刻』の簡単なあらすじ

 

児童養護施設で育った元不良の翔太は、地元の先輩の誘いで「カタラ」という会員制バーの従業員になる。ここは言葉巧みに女性を騙し、借金まみれにしたのち、風俗に落とすことが目的の半グレが経営する店だった。“マニュアル”に沿って女たちを騙していく翔太に有名私大に通いながら“学び”のためにカタラで働く海斗が声をかける。「俺たち一緒にやらないか…」。(「BOOK」データベースより)

 

半暮刻』の感想

 

本書『半暮刻』は2023年10月に双葉社からハードカバーで刊行された、時代の裏面を描き出してきたこの作者らしい社会派の物語です。

 

現実の社会に起きている事柄を拾い上げ、小説として再構成してあるということですので、本書に描かれていることはそのままではないにしてもそうした事実があるということなのでしょう。

というまでもなく、本書に描かれていることは日々のニュースを目にしていると元ネタはあのことだろうと見当がつきますから、本書で描かれているようなことが事実繰り広げられていることになります。

月村了衛という作家の作風が事実をもとにして戦後日本史を描き出していますので、その意味では本書もその路線から外れているとは言えなさそうです。

ただ、悪徳ホストが女性を風俗に沈めるという点は、現実に起きた歌舞伎町ホスト殺人未遂事件よりも前に本書が出版されているそうなので、その点では作者の視点がすごいというべきなのかもしれません。

 

物語は、山科翔太辻井海斗の二人のパートに別れ、それぞれの視点で進行しています。

第一部が翔太視点の「翔太の罪」であり、第二部が海斗視点の「海斗の罰」であって、対照的な二人の人生を歩むことになります。

当初は二人共に最終的には風俗へと沈めることを目的として女を引っ掛け、店へと誘導するカタラグループで頭角を現します。

そのうちにグループ創立者の城有に認められ、カタラグループのトップテンと呼ばれる地位まで上り詰めるものの、警察の手入れを受け、その後は対照的な人生を歩むことになるのです。

 

本書の物語自体はピカレスクロマンであり、また二人の若者の成長物語として読むこともできると思います。

しかし、本書の狙いはそこにはなくクライマックスでの翔太の言葉に集約されているのでしょう。

すなわち、二人の成長物語というよりは、その個人の人間性に根差した「悪」、本書の言葉でいうと「邪悪」の適示こそが主眼だと思われるのです。

作者の月村了衛のインタビュー記事を読むと、描きたかった「根源的なテーマ」は自分が感じた「人間の本質的な邪悪」であり、「人間の中にある普遍的な邪悪」だった、とも書かれているのです( ダ・ヴィンチWeb : 参照 )。

 

第一部の「翔太の罪」で描かれている翔太のその後の人生と、第二部の「海斗の罰」で描かれている海斗の人生の対比は胸に迫ります。

その二人の生活の対比の後、クライマックスで描かれているカレーという食事に対しての海斗の感想は象徴的です。

この場面だけを取り上げると決して特別なことではなく、手法としてだけを見ると平凡とすら言えます。しかしながら、それまでの物語の流れの中で示される「カレー」という言葉は心に染み入りました。

著者の月村了衛の作品は、細かな点までも丁寧に描写されていて、人物の心象までも拾い出されていて、そうした手法がうまくいっていると思われます。

 

半グレを描いた作品としては新野剛志の『キングダム』という作品がありました。

この作品は、半グレ集団「武蔵野連合」のナンバー2の真嶋という男と、その中学時代の同級生の岸川という二人の生き方を中心に描いた長編のピカレスク小説です。

ただ、エンターテイメント小説としてはそれなりに面白く読んだ作品ではあったものの、個人的には物語としての厚みや人間の描き方では本書『半暮刻』に軍配が上がると思います。

 

ヨルノヒカリ

ヨルノヒカリ』とは

 

本書『ヨルノヒカリ』は、2023年9月に320頁のソフトカバーで中央公論新社から刊行された長編の青春小説です。

たまにはこういう本もいいと思わせられる、心が洗われる、優しさに満ちた作品でした。

 

ヨルノヒカリ』の簡単なあらすじ

 

「ここで、一緒に暮らしつづけよう」いとや手芸用品店を営む木綿子は、35歳になった今も恋人がいたことがない。台風の日に従業員募集の張り紙を見て、住み込みで働くことになった28歳の光は、母親が家を出て以来“普通の生活”をしたことがない。そんな男女2人がひとつ屋根の下で暮らし始めたから、周囲の人たちは当然付き合っていると思うが…。不器用な大人たちの“ままならなさ”を救う、ちいさな勇気と希望の物語。(「BOOK」データベースより)

 

ヨルノヒカリ』の感想

 

本書『ヨルノヒカリ』は、“普通”という言葉の意味が問われる、皆とはちょっと変わった個性を持った人の生き方を描いた、ものの見方が少し変わるかもしれない、優しさにあふれた作品です。

殺伐とした作品を読むことが多い私には、たまにはこういう優しさに満ちた物語もいい、と思わせられる作品でした。

 

本書『ヨルノヒカリ』は、まったく悪人というものが登場してこない物語です。もちろん、子を顧みない母親や女を捨てる男などは背景に少しだけ登場しますが、物語の本筋には直接には関係しません。

そんな悪人が登場してこない物語としては少なくない数の作品がありますが、とくに女性が描く物語に多いように思われます。助成の視点のほうが優しいということになるのでしょうか。

例えば、『リカバリー・カバヒコ』のような青山美智子の各作品や、長月天音の『ほどなく、お別れですシリーズ』などような作品があります。

これらの作品は善人だけしか登場してきませんが、それでもなお登場人物たちの生き方が読み手に勇気を与えてくれるのですから不思議なものです。


でも、男性でも川口 俊和の『コーヒーが冷めないうちに』のような作品もありますので、作者が女性だからというわけでもなさそうです。

本書『ヨルノヒカリ』はまた普通ではない生き方をしている人たちの物語ともいえます。

そのような物語といえば、「多様性」をテーマにした作品として強烈な印象があった朝井リョウの『正欲』という作品がありました。この作品は個々人の性癖がテーマになっていましたが、本書の場合、それとも異なる物語だと思えます。

本書の場合は、他者との繋がり方がよく分からないという点で普通ではないということです。性癖云々とはまた意味合いが異なります。

 

もともと私は意思疎通が苦手という人を描いた作品は決して得意とする方ではありません。

しかしながら本書『ヨルノヒカリ』の場合、ある種ファンタジー的な描き方であるためか、私の苦手意識を刺激しませんでした。

何よりも人物の心象風景を詳細に語るという作品ではなかったことが一番の理由だと思われます。

 

主人公の28歳になる夜野光は子育てが下手な母親に結果として捨てられ、代わりに同じアパートに住む年寄りたちに愛情を持って見守られて生きていたようです。

光にはまた成瀬という親友がいて、何かにつけ成瀬の両親や姉、それに妻の美咲に助けられて生きてきました。

一方の主人公でもある35歳の木綿子さんも、他者との関わりをうまく保つ元ができずに祖母と共に暮らした手芸店を一人守っている存在です。

 

光はある嵐の日に「従業員募集」の貼り紙を見て飛び込んだ「いとや手芸用品店」に住み込みで働くことになります。

その店の店主が木綿子という美人であり、何も言わずに光を住み込みの店員として雇ってくれたのです。

光は幼いころから一人で生きてきたため料理や掃除などは得意であり一時は料理人として働いていたこともあるくらいです。

一方の木綿子は手芸に関連する事柄以外は全く何もできない人でした。そこで、光は家事全般を引き受け、手芸のことを教えてもらいながら住み込みで働くことになったのです。

 

木綿子という人は男の人に対して恋心を抱くということが分からないでいます。また光は男がいなくては生きていけなかった母親の影響のためか人を好きになることに臆病だったのです

その光が、木綿子の営む手芸用品店で暮らす様子を描いているだけの物語ですが、光と木綿子それぞれに世間一般の基準からは少し外れたところに生きている人物であるところから周りの人たちが何かと世話をしたがるのです。

 

28歳の男と35歳の女とが一つ屋根の下に共同生活をするということに世間は何かと助言をしたがります。

普通とは異なる二人の生活はどうなるのか、二人の周りの人物たちは子の二人をどうしたいのか。物語は二人の行く末への関心と共に、普通とは異なる生き方に対する周りの対応についても疑問符を突きつけているようです。

ゆっくりと流れる時間の中で、高揚や興奮などとは無縁の静かな読書のひとときをもたらしてくれた、優しい気持ちに慣れた作品でした。

風に立つ

風に立つ』とは

 

本書『風に立つ』は、2024年1月に416頁のハードカバーで中央公論新社から刊行された長編の家族小説です。

なんとも感動的な作品であることは間違いないのですが、どこか作品としてのあざとさを感じてしまう部分がある、微妙な印象の作品でもありました。

 

風に立つ』の簡単なあらすじ

 

問題を起こし家庭裁判所に送られてきた少年を一定期間預かる制度ー補導委託の引受を突然申し出た父・孝雄。南部鉄器の職人としては一目置いているが、仕事一筋で決して良い親とは言えなかった父の思いもよらない行動に戸惑う悟。納得いかぬまま迎え入れることになった少年と工房で共に働き、同じ屋根の下で暮らすうちに、悟の心にも少しずつ変化が訪れて…。(「BOOK」データベースより)

 

風に立つ』の感想

 

本書『風に立つ』は、著者柚月裕子の故郷山形の南部鉄器職人の家族の姿を中心にを描いた作品です。

補導委託という制度を通して、二組の家族の物語が語られていますが、この作者の作品にしては妙に感情移入がしにくい作品でした。

 

主人公は父の小原孝雄が営む岩手県盛岡市の南部鉄器工房「清嘉(きよか)」で職人として働いている小原悟という男です。

この孝雄がある日突然に補導委託を引き受けると言い出します。お前らには迷惑はかけないという孝雄ですが、悟は非行少年を家庭に入れるなんてとんでもないと反対するのでした。

ここで、補導委託とは、「問題を起こし、家裁に送られてきた少年を、一定期間預かる制度」と書いてありました。「罪を犯した少年にどのような最終処分が適正か判断するために、一定の期間、様子を見るもの」だそうです。

詳しく知りたい方は下記を参照してください。

 

本書『風に立つ』では孝雄、悟の他に、夫の里館太郎と共に居酒屋「蔵太郎」を営みながらたまに清嘉を手伝っている悟の妹である由美がいます。

また、悟が生まれる前から「清嘉」に勤めていた職人の林健司やアルバイトの八重樫、それに盛岡家庭裁判所調査官の田中友広などが脇を固めています。

そして補導委託制度により小原家に預けられたのが庄司春斗であり、その両親の庄司達也夫妻です。春斗は万引きや自転車窃盗などを繰り返し、停学処分の後もそれが止まないために退学処分となったというものでした。

小原孝雄が補導委託を受ける気になったのは何故か、また春斗が非行を繰り返した理由は何なのか、という点が次第に明らかにされていくのです。

 

著者柚月裕子初の家族小説という触れ込みの作品でしたが、『佐方貞人シリーズ』の主人公の親子の関係、また『あしたの君へ』収納の作品も家族を描いてあると言えると思います。

両作品ともに短編集ですが、『佐方貞人シリーズ』では、主人公の佐方貞人とその父親である弁護士の佐方陽世との関係性があり、『あしたの君へ』は主人公の家庭裁判所調査官補の目線での家庭の姿があります。

ただ、前者は主人公の人生の背景にある父親の姿が描かれており、後者は主人公の目を通してみた様々な事案の中に家族の問題を描いた作品もあるという程度です。

そういう意味では、本書のように正面から家族の関係性を描いているとまではいえず、やはり本書が初の家族小説と言えるのかもしれません。

 


 

冒頭に書いたように、本書に対しては、何故かその設定を素直に受け入れることができず、感情移入することが困難に感じていました。

というのも、悟の父孝雄に対する思いや態度の描き方が少々型にはまりすぎている印象があったのです。

著者の柚木裕子の作品でこのように感じたのは初めてのことです。

それはもしかしたら本書を読むに際して「家族小説」だという刷り込みが先にあったためかもしれません。

つまり私の本書の読み方が、補導委託制度という物語の背景設定に対して、勝手に話を進める父親と普段から会話の無い息子との確執という形があって、そこに絡む非行少年の親子関係というフィルターを介しての確執の解消、という自分なりのストーリーを作り挙げての読書だったのです。

その私の思いに対してそのままに物語が展開していくため、一段と型にはまっていると感じたのだと思います。

 

加えて、途中で株式会社盛祥の会長清水直之助が悟に対して語りかける場面があります。

本書に対して違和感を感じていたために穿った見方をしているのかもしれませんが、この場面が唐突過ぎて不自然に感じてしまったのです。

 

本書『風に立つ』に対してはネット上の意見を見ても高評価ばかりで、私のような印象は一つもありません。

確かに、柚木裕子の作品らしく、固定的に捉えられていたある人物の内心が外部の出来事の展開から推し量ることができるようになり、主要登場人物の関係性が変化していくことで感動的な展開が待っているのです。

そこでは単純に物語を楽しめばいいのですが、素直に読み込めなかった私の読書方法がおかしかったのだと思われるのです。

わたしたちに翼はいらない

わたしたちに翼はいらない』とは

 

本書『わたしたちに翼はいらない』は、2023年8月に240頁のハードカバーで新潮社から刊行された長編の現代小説です。

地方都市に暮らす三人の男女を描いて大藪春彦賞候補作となった暗く、重い作品であって、私の好みとは異なる作品でした。

 

わたしたちに翼はいらない』の簡単なあらすじ

 

同じ地方都市に生まれ育ち現在もそこに暮らしている三人。
4歳の娘を育てるシングルマザーーー朱音。
朱音と同じ保育園に娘を預ける専業主婦ーー莉子。
マンション管理会社勤務の独身ーー園田。
いじめ、モラハラ夫、母親の支配。心の傷は、恨みとなり、やがて……。
2023年本屋大賞ノミネート、最旬の注目度No.1作家最新長篇。(内容紹介(出版社より))

 

わたしたちに翼はいらない』の感想

 

本書『わたしたちに翼はいらない』は、同じ地方都市に住む、それぞれにいじめや夫や家族からの心無い言葉によって傷ついている、同年代の三人の生活を描き出してあります。

著者の寺地はるなは『川のほとりに立つ者は』で2023年本屋大賞第九位となっており、本書は第26回大藪春彦賞の候補となっています。

 

 

この両作品は物語の構造は全く異なりますが、登場人物の描き方は似ているとも言えそうです。

川のほとりに立つ者は』でも登場人物は自分の言動に対し何の疑いも持っていません。自分の言動には何の間違いも無く、なにか変なことがあるとそれは自分の周りがおかしいからだとしか考えることができないのです。

川のほとりに立つ者は』の主人公はそんな自分の言動の間違いに気づいていく過程を描いてある作品でした。

その意味では、本書もまた自分の言動のおかしさに気付いていく成長過程を描いてあるとも言えそうなのです。

別にだから何だというつもりはなく、作者の心象描写のうまさを言いたいのです。『川のほとりに立つ者は』でも主人公の心の変化の描写はかなりリアリティをもって描いてあったと思います。

その点は本書も同様で、三人の心象の変化が微妙な心の揺れまでも捕らえ、少しずつ移り変わる様子がリアルに描いてありました。

 

登場人物としては、中心となる三人がまずは佐々木朱音であり、その関係者としては娘が鈴音で、別れた夫が宏明です。

二人目が中原莉子であって、その関係者としては娘の芽愛と、莉子の夫が大樹がいます。芽愛は鈴音と同じ保育園に通っています。

三人目が中学時代は室井という名字であった園田律であり、中原莉子夫婦とは中学生時代の同級生であって、莉子の夫の大樹にいじめられていました。

莉子はクラスのイケメンであった大樹に選ばれたことがに価値を見出している女であり、大樹から理不尽な扱いを受けても「私は死ぬまで王様の女でいたい」と思っています。

園田は中学時代から中原大樹や莉子らからキモイと言われていた存在であって、大人になってから大樹と再会し、これを殺害しようという思いにまで至ります。

朱音は、宏明と別れシングルマザーとなって鈴音を一人育てていますが、現在も鈴音に会いたがる宏明や宏明の母親に困っています。

 

本書『わたしたちに翼はいらない』について一言でいうと、いい本であることは間違いないでしょうが私の好みとは異なる作品でした。

どうにも暗いのです。高校生の頃のいじめや母親たちの中身のない会話など、読んでいるだけで気が滅入ってくるような感じです。

ただ、惹句にあった『「生きる」ために必要な、救済と再生をもたらす』という言葉だけを信じて読み進めるだけです。

 

本書は朱音と莉子、そして園田という三人の視点が入れ替わるという多視点で進行していきます。

その中で少し気になったことが、朱音と莉子とのパートが、語り口も似ておりどちらが視点の主かが分かりにくいということでした。

もちろん、ちょっと読めばすぐに視点の主は判明しますが、その切り替わりのちょっとした合い間が若干気になったのです。

 

そもそも、本書『わたしたちに翼はいらない』は登場人物の内心を丁寧に描写してあるその点が高く評価してあるのだと思います。そうした三人の心の動きの表現のうまさは否定しようもありません。

ただ『星を掬う』『汝、星のごとく』でも同様に感じたように、自己主張ができずに内にこもる人物をそのまま描くことに私は何とも言えない拒否感を持ってしまいます。

自己主張できない人の苦しみを描くことで、間接的にでも彼らに何らかの救いをもたらすというのであれば分かります。

でなければ、自己主張できない人をできないままに描くことにどれほどの意味があるか、と思ってしまうのです。

上記のような考えは、単純に私の読書の仕方が浅いことに起因するのでしょうがここでは踏み込みません。ただ、エンタメ作品ばかりを読んでいる私には難しい問題です。

 


 

先にも書いたように、本書『わたしたちに翼はいらない』の場合、『「生きる」ために必要な、救済と再生』というちょっとした救いが待っていたので、その点はほっとしました。

結局、いい本だけど、私の好みとは異なるといういつもの感想に終わってしまいました。

八月の御所グラウンド

八月の御所グラウンド』とは

 

本書『八月の御所グラウンド』は、2023年8月に208頁のハードカバーで文藝春秋から刊行された長編の青春小説です。

真夏の京都を舞台にした二編の青春小説が収められていて、河﨑秋子著『ともぐい』と共に第170回直木賞を受賞した感動的な作品です。

 

八月の御所グラウンド』の簡単なあらすじ

 

死んだはずの名投手とのプレーボール
戦争に断ち切られた青春
京都が生んだ、やさしい奇跡

女子全国高校駅伝ーー都大路にピンチランナーとして挑む、絶望的に方向音痴な女子高校生。
謎の草野球大会ーー借金のカタに、早朝の御所G(グラウンド)でたまひで杯に参加する羽目になった大学生。

京都で起きる、幻のような出会いが生んだドラマとはーー

今度のマキメは、じんわり優しく、少し切ない
青春の、愛しく、ほろ苦い味わいを綴る感動作2篇

第170回直木賞を遂に受賞!
十二月の都大路上下(カケ)ル
八月の御所グラウンド(内容紹介(出版社より))

 

八月の御所グラウンド』の感想

 

本書『八月の御所グラウンド』は、八月の京都を舞台にした第170回直木賞を受賞した感動作品です。

普通の言葉で日常を描きながらも、日常に紛れ込んだファンタジックな出来事にまぎれて青春を描き出しています。

60頁弱の「十二月の都大路上下(カケ)ル」と140頁強の「八月の御所グラウンド」という二作品が収納されていて、共にスポーツをテーマとしていながらも、その競技中にあるはずの無いものが見えるという現象を描いています。

前者は高校生の駅伝ランナー、後者は自分の将来が見えていない大学生を主人公としていますが、共に主人公を含めてキャラクターが立っており、読者の心を直ぐにつかみます。

私がこの作者の作品を読むのは本書が初めてなので、この作者の作風がどういうものであるかはわかりませんが、登場人物のキャラクター設定はうまいものがあるようです。

 

第一話の「十二月の都大路上下(カケ)ル」は、女子全国高校駅伝の補欠である一年生のサカトゥーこと坂東というランナーが主人公です。

毎年12月に京都の都大路を駆け抜ける伝統行事でもあるこの大会は、かつては私もよくテレビ観戦したものです。その大会の補欠ランナーが諸般の事情により大会に出場することになります。

極度の方向音痴である主人公が、アンカーとして出場し、同じ区間で争った二年生の荒垣新菜と共に見える筈のないものを見たことが描かれています。

 

第二話の表題作「八月の御所グラウンド」は、事情により八月の京都に残された大学生が参加した草野球大会での出来事が描かれている話です。

彼女にも振られ、就職活動をする気力も無くただ怠惰に暮らしていた大学四年生の主人公の朽木は、友人の多門から大学卒業がかかった草野球大会への参加を頼まれます。

その大会で出会ったのが中国人留学生のシャオさんであり、そのシャオさんが誘った見知らぬ男のえーちゃんたちだったのです。

 

シャオさんが野球を勉強したいと思った理由が「オリコンダレエ」というはじめて聞いた日本語にあるなど、場面設定やその場の描写の仕方が私の好みにピタリとはまりました。

在るはずの無いものが存在し、主人公たちの生活の一場面の中に紛れ込んでいる状況が、単に不思議という以上の意味を持って迫ってきます。

そして、その描き方は読む者に自分自身の青春時代を思い出させ、自身の生き方を見つめ直すきっかけを指し示しているようです。

 

本書に収納された二作品では、青春の一場面に現れた特別な現象に接した主人公たちが感じることになった爽やかさや心の軽い痛みなどが示されています。

特に表題作の「八月の御所グラウンド」では、単純な爽やかさだけでなく、時代を異にした青春時代を送った青年たちへの哀しみをも含んだ想いが描かれていて、心に残る作品として仕上がっています。

 

本書は第170回直木賞を受賞した作品ですが、そのことに異論をはさめるはずもない作品だと思います。

これまでこの作者の万城目学の作品は名前は知っていたものの読んだことがなかったので、あらためてこの作者の作品を読んでみたいと思わせられる作品でした。

万城目 学

万城目学』のプロフィール

 

1976年大阪府生まれ。京都大学法学部卒業。2006年にボイルドエッグズ新人賞を受賞した『鴨川ホルモー』でデビュー。ほかの小説作品に『鹿男あをによし』『プリンセス・トヨトミ』『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』『偉大なる、しゅららぼん』『とっぴんぱらりの風太郎』『悟浄出立』『バベル九朔』『パーマネント神喜劇』『ヒトコブラクダ層ぜっと』など、エッセイ作品に『べらぼうくん』『万感のおもい』などがある。

引用元:万城目学 | 著者プロフィール

 

万城目学』について

 

この作家さんは『鴨川ホルモー』『プリンセス・トヨトミ』など、実在の事物や日常の中に奇想天外な非日常性を持ち込むファンタジー小説で知られ、作風は「万城目ワールド」と呼ばれていて、六回目の候補作『八月の御所グラウンド』で直木賞を受賞されています。( ウィキペディア : 参照 )

具体的な直木賞候補作は『鹿男あをによし』、『プリンセス・トヨトミ』、『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』、『とっぴんぱらりの風太郎』、『悟浄出立』という五作品です。

また、『悟浄出立』、『バベル九朔』、『ヒトコブラクダ層ぜっと』の三作品は山田風太郎賞候補となり、『パーマネント神喜劇』は山本周五郎賞候補になっています。

さらには、デビュー作の『鴨川ホルモー』は第4回ボイルドエッグズ新人賞を受賞し、そして本屋大賞の候補作ともなっていて、『プリンセス・トヨトミ』は2009年度咲くやこの花賞を受賞しています。

無敵の犬の夜

無敵の犬の夜』とは

 

本書『無敵の犬の夜』は、2023年11月に148頁のハードカバーで河出書房新社から刊行された長編の文芸小説です。

惹句を一覧してエンターテイメント小説と思い読んだ私の思いとは異なり、文藝賞という純文学作品に与えられる賞の受賞作であり、今一つ私の理解が及ばない作品でした。

 

無敵の犬の夜』の簡単なあらすじ

 

北九州の片田舎。幼少期に右手の小指と薬指の半分を失った中学生の界は、学校へ行かず、地元の不良グループとファミレスでたむろする日々。その中で出会った「バリイケとる」男・橘さんに強烈に心酔していく。ある日、東京のラッパーとトラブルを起こしたという橘さんのため、ひとり東京へ向かうことを決意するがー。どこまでも無謀でいつまでも終われない、行き場のない熱を抱えた少年の切実なる暴走劇!第60回文藝賞受賞作。(「BOOK」データベースより)

 

無敵の犬の夜』の感想

 

本書『無敵の犬の夜』は、第60回文藝賞受賞作です。つまり、当サイトが対象としているエンターテイメント小説ではありませんでした。

そもそも、本書を知ったのは「王様のブランチ」のBOOKコーナーでの作家インタビューにとうじょうしていた著者の小泉綾子を見たときであり、そのときは本書の内容にはそれほど関心はありませんでした。

その後、Amazonの『無敵の犬の夜』の頁に「任侠映画×少年漫画」などとあって、どう考えてもエンターテイメント小説としか思えないものだったことから読んでみようと思ったのです。

もちろん、そこには大きく「文藝賞受賞作」と示してあったのですから、「文藝賞」が純文学作品に与えられる文学賞だということを知らなかった私が間違っただけのことです。

 

本書の内容は上記の「簡単なあらすじ」に書いてあることに尽き、それ以上のものではありません。

そして本書の印象としては、主人公のが東京に殴り込みに行くその少し前のあたりまでは、単純に世の中に対する不満しかない少年の、暴力に対する妄想をそのまま言語化した作品だというものでした。

角田光代氏や島本理生氏といった著名な作家たちが本書を絶賛する理由が全く分からなかったのです。

 

とにかく最初は、その時の感情にまかせて先行きのことなど何も考えずに突っ走る界の行動が、自分の少年の頃を考えても理解できるものではありませんでした。

界の無鉄砲さはとどまるところを知らず、自分から破滅へと向かっているようにしか思えず、こうした主人公を描くことの意味がよく理解できなかったのです。

 

この物語の終わり方にしても、作者自身が「負けを認めないために目標のハードルをどんどん下げて、まやかしの勝利を手にしてこれでよしとする」という終わり方が良いと思う、と書いておられましたが( Book Bang : 参照 )、物語を終わらせるために勝利の意味を変えることの意義もまた理解できませんでした。

本書『無敵の犬の夜』の惹句に、意識されている「絶望と意識されない絶望が、絶妙に描き出されている」と書かれているのは角田光代氏であり、「人を殺したくなるほど肥大する」思春期の葛藤の「切実さが丁寧に描かれている」と書いているのは島本理生氏です。

こうした思春期の思いつめた絶望を丁寧に描き出されている点が評価されている思うのですが、そうした文学的な評価がよくわかりません。

主人公の界の単純さ、それも思慮の浅い無鉄砲の描写の何が評価の対象になるのでしょう。

 

しかし、本書も終盤になると、それまで乱暴な言葉の羅列としか思えていなかった本作品が、妙に気になってきました。

それまでの私の本書に対する印象が覆されてくる様子は、私の小説の読み方否定するかのようであり、読書に対する自信が失われていく過程でもありました。

何が原因でそのように感じたのか、今でもよく分かりません。

ただ、無鉄砲なその行動は、その時点の感情でしか動いていないというそのことに惹かれていったように思えます。つまりは何の打算も無いということでしょうか。

 

結局、現時点まで本書『無敵の犬の夜』が多くの作家たちから支持される理由はよく分からないのですが、単純な暴力への渇望というだけではない、少年の直情的な行動の描き方自体がが評価されていると思っています。

それにしても、よく分からない作品でした。