当麻鉄彦は、大学病院を飛び出したアウトサイダーの医師。国内外で腕を磨き一流の外科医となった彼は、琵琶湖のほとりの民間病院で難手術に挑み患者達の命を救っていく。折しも、大量吐血して瀕死の状態となった「エホバの証人」の少女が担ぎ込まれる。信条により両親は輸血を拒否。一滴の輸血も許されない状況で、果たして手術は成功するのか。(「BOOK」データベースより)
本書は、肝臓移植の問題をテーマにした文庫本で全六巻という長編の医療小説です。
著者は現役の医者であり、現実にエホバの証人の患者に対する無輸血手術を手がけたこともある現役の医者だそうです。
本書第六巻のあとがきによれば、我が国での肝移植は、1989年に島根医科大学助教授(当時)の生体肝移植が最初であり、この手術は残念ながら失敗に終わりましたが、翌1990年に信州大学で行われた第二例目は成功したそうです。
その後1998年に脳死が個体死と認められ、1999年に初めての脳死肝移植が成功したのですが、脳死に対する反発は強く、なかなか脳死肝移植は進んでいないと記してありました。
本書の主人公当麻鉄彦にモデルがいるのかどうかはわかりません。少なくとも私が調べた限りでは明確な文章は見当たりませんでした。しかし、著者自身の経験が裏打ちされているのは間違いないと思われます。
主人公の当麻医師は、患者の立場からは理想的な医療技術、人格を持ち、常に患者を第一義に考えて地域医療のために尽くしている人物です。
肝移植の問題にしても、目の前の患者が死に瀕していて、少しでも望みがあるのならば患者のために手を差し伸べるべきという信念を持っている人物として描かれています。
本書が小説としての出来がいいかと問われれば、決していいとは答えられない小説だと思います。
登場人物はステレオタイプであり、主人公当麻鉄彦が人格者であることを際立たせるためか、当麻医師に嫉妬心を抱く甦生記念病院前第二外科医長の野本六郎などは医療技術、人間性共に下劣な人間として造形してあります。
近江大学医学部外科関係の医者についてはトップの教授から多かれ少なかれそうした傾向を持った人間として描いてあり、類型的に過ぎると思えるのです。
ただ、物語の中で実川助教授自身が自分の利己的な思いについて苦悩する姿を描いてあるところは救いでしょうか。
逆を言えば、当麻医師が少しばかり出来すぎているとも思われます。ただ、現実にそうした医師が存在していることも事実でしょう。例えば、ネット上での意見ではありますが、本書の作者の大鐘稔彦医師や日本初の生体肝移植を行った永末直文医師などもそうだという声が大きいようです。
難点をさらに言えば、本書に登場する女性たちの描き方も、人物の書き分けは分かりにくいし、その延長線上にある恋愛模様も画一的だと言えます。
本書の殺伐とした医療現場を描く中に異なった色合いを加えるという意味では一応の成功を見ているかもしれませんが、どの女性も控えめで内に秘めた思いを必死で押し殺している点で一緒です。
とはいえ、一編の物語として非常言面白く読みました。
特に今まで私が呼んだ医療小説の中では、手術の場面の描写の詳細さは群を抜いており、その臨場感は他の小説の追随を許すものではありません。
それでいて、医者としての著者の主張は当麻医師の口を借りて主張していると思われ、実に読み応えのある作品と言えると思います。
開業医と近くの大病院との関係についての「オープンシステム」制度や学位、認定医制度の問題点の指摘など、素人である私たちに一概に判断はできないものの、その主張は理解できるものでした。
ただ、大学の医局制度に対しては、地域医療を支えている現実の指摘という側面はあるでしょうが、批判面ばかり目立ったような気はします。
もともと本書は大鐘稔彦氏が高山路爛というペンネームで書いた『孤高のメス-外科医 当麻鉄彦』というコミックの原作として書かれていた作品を小説として書き直したものだとあとがきにありました。
この『孤高のメス-外科医 当麻鉄彦』というコミックは「ビジネスジャンプ」で連載され、全十二巻のコミックは七十万部を超えるベストセラーとなったそうです。
また、この小説を原作として2010年に堤真一を主演として『孤高のメス』というタイトルで映画化されました。この映画は文庫版の第五巻「恩師とその息子」の章からが原作として使われています。
ただ、映画は本書が「原案」というべきほどに内容は異なっていて、ただ、武井静の息子の肝臓を大川市長へ移植しようとする点において同じというだけであり、舞台も映画は市民病院と変わり、実川も当麻の先輩として顔を見せるだけになっていて、夏川結衣演じる中村浪子の視点から語られています。
そして、2019年1月には、WOWOWで連続ドラマ化されました。こちらは当麻医師を滝沢秀明が演じ、実川剛を仲村トオルが演じているそうです。こちらの方は私は見ていません。
主人公の当麻医師は、患者となる可能性のある読者からしてみると理想の医者であり、こういう医者にかかりたいと心の底から思うような医者です。
また、医療小説と言えば山崎豊子の『白い巨塔』をはじめとして、大学病院の医局制度に対し批判的な視点で描かれていることがほとんどで、2019年本屋大賞にノミネートされた知念実希人の『ひとつむぎの手』もまた同様でした。
本書も肯定的には描いていません。しかし、地域医療において果たしている医局の実情もまた描き出してあります。そういう点では夏川草介の『新章 神様のカルテ』も同様と言えます。