銀の猫

お咲は、年寄りの介護をする「介抱人」。口入屋「鳩屋」の主人・五郎蔵とお徳夫婦に見守られ、誠心誠意働くお咲は引っぱりだこだが、妾奉公を繰り返してきた母親のだらしなさに振り回され、悩む日々―。そんな時、「誰もが楽になれる介抱指南の書」を作りたいという貸し本屋・佐分郎太から協力をもとめられた。「いっそ、ぎりぎりを攻めるってのはどうですかね、お咲さん」―「いいかも。そのぎりぎり」。長寿の町・江戸に生きる人々を描く傑作時代長編。(「BOOK」データベースより)

 

わがままな母親を抱え、介抱人として働く女性の姿を人情味豊かに描く長編時代小説です。

 

 
銀の猫
商売が忙しいことにかこつけて、父親の面倒を見ようとしない息子夫婦の依頼で湯島天神下の料理屋の㐂十の隠居㐂作の介抱に向かうお咲だった。

この物語は介抱人という職業や、介抱人を紹介する口入屋の「鳩屋」の紹介を兼ねた物語になっています。

隠居道楽
深川の干鰯商の相模屋の女隠居のおぶんは、体は元気だが道楽が過ぎるためお目付け役を兼ねて介抱人を付けることとしたものだった。

この物語の今後の展開に大きな役割を果たすおぶんの紹介の物語です。

福来雀
日本橋の芸者染吉の母親のお蔦が足の骨を折ったので、介抱人を頼んできた。お蔦は自分の娘のために良かれと、何かにつけ口を出すのだが、染吉は何故かお蔦を邪険に扱う。

お咲同様に困りものの母親を持つ芸者染吉とお咲との語らいが胸を打ちます。

春蘭
旗本の上野家の隠居の白翁は突然「お嬢様と呼ばぬか」と怒り出した。頭ははっきりとしているとのことだったが、どうも老碌の症ではないかと思われた。

“親に考”の考え方が介護にも影響を与えている姿が記されています。

半化粧
日本橋の貸本屋杵屋の主である左分郎太が、貝原益軒や、室鳩巣とは異なる今の世の支えになる新しい介抱指南書を作りたいといってきた。

親子、嫁姑でも時には本音を言い合うことが大切だけれど、すべてをぶつけ合えばやはり傷つけあうことになる。だから昔の人は“考”という分別を作ったのかもしれない、という一文は心に沁みます。

菊と秋刀魚
以前お咲が介抱した白翁の紹介でお松とお梅姉妹の住む隠居所へと来ると、妹のお梅はお松の女中頭のように仕えていた。しかし、お松はお梅の顔色を窺っているように見えるのだ。

傍からはうかがい知ることのできない姉妹の関係が、介護人として一歩踏み込むことで見えてきたのでした。

狸寝入り
お松のもとに白翁から菊見への誘いの文が届いた。しかし、誘いを受けようとするお松の意向を無視するお梅だったが・・・。その後を引き継いだ朋輩から、お松とお梅とが言い合っているが、片方は狸寝入りをしてやり過ごしているらしいと聞く。

おぶんの「たいていのことはまず狸寝入りをして、それからでも間に合うものさ」と言う言葉が耳に残ります。

今朝の春
杵屋左分郎太が「往生訓」と題された指南書の試し刷りを持ってきた。「生き生き楽楽介抱御指南」と副題が添えてあった。

この話では、新指南書の出来上がりと共に、母親の佐和とお咲との関係を正面から描いてあります。個人的にはここでの結論はあまり納得のできるものではありませんでした。

 

主人公のお咲は、母親がお咲のかつての夫にこさえた借金を返すために、割のいい職である介抱人として口入屋の「鳩屋」で働いています。

「介抱人」とは身内に代わって年寄りの介抱を助ける奉公人のことであり、今で言う訪問介護ということになるのでしょう。年寄りを抱える我が家でも決して他人ごとではありませんでした。

 

お咲は、口入屋、つまりは職業紹介所の「鳩屋」の紹介で各所に赴きます。鳩屋の主人が急須を持つのが趣味の五郎蔵であり、その女房が亭主よりも貫目があり、実質店を仕切っているといわれるお徳です。

そして、お咲には家のことは何もせずに自分の容姿だけを気にかけている、お咲にとって頭痛の種でもある“佐和”という母親がいて、親子について考えさせられることになります。

 

勿論、本書の一番のテーマは老人の「介護」の問題であり、そこはかなり考えさせられます。

江戸時代には、町人も武家も年寄りの介抱を担っている者の大半は一家の主であったことや、「養生訓」などの親の介抱について説く書の紹介など、介抱人の眼を通した介護の実際など、現代の私たちが関心がないわけがないのです。

本書を読んだからといって今の私たちの介護の問題がどうなるものではないのだけれど、そこに展開される人情物語は一筋の心やすめではあるようです。

 

「介護」の先に必然的に待つ「死」についても少しですが考えることになります。

介抱人のお咲は、仕事柄、紹介先の家庭内の事情を知ることになり、どうしても家庭内のもつれに巻き込まれてしまうのです。さらに介護というテーマである以上はその先に待つ「死」という事実に直面し、そこにドラマが展開されます。

それは 新田次郎笹本稜平の山岳小説、それに 夏川草介知念実希人のような医療小説と同様に、「命」について考えさせられもするのです。

 

本書は、この作家には珍しく(と言っていいものか)、この作者の『恋歌』や『』『残り者』といった作品のような重厚さを感じさせる物語とは異なり、例えば 宇江佐真理を思い起こす、上質な人情物語として仕上がっています。

それは先に挙げた作品が「短歌」や「浮世絵」それに「大奥の女たち」といった一般庶民とは異なる次元のものをテーマにしている作品だったということからくる違いなのでしょう。

そうした事柄とは別の、特に介護の話がテーマになっている本書では、市井に暮らす人たちの普通の暮らしが描かれているのであり、だからこそお咲と母との確執や、庄助やその母親とおぶんとのやり取りなどのエピソードが読み手の琴線に触れるのでしょう。

つまりは朝井まかてという作家の力量の素晴らしさが人情話の面で発揮されたのだと思えます。

そして、「死」についても、大上段に構えるのではなく、新しい「介抱指南書」をきっかけに「老いてゆっくり死ぬ」ことを目指そうとするのです。

 

朝井まかてという作家は 青山文平と共に、読み応えのある近年の時代小説の書き手として私の中で一番好きな作家さんの一人ですが、本書でさらに新たな一面を知ることができ、楽しみが増えた一冊でした。

残り者

時は幕末、徳川家に江戸城の明け渡しが命じられる。官軍の襲来を恐れ、女中たちが我先にと脱出を試みるなか、大奥にとどまった「残り者」がいた。彼女らはなにを目論んでいるのか。それぞれの胸のうちを明かした五人が起こした思いがけない行動とは―!? (「BOOK」データベースより)


明治になる直前の江戸城明け渡し時に大奥にとどまった五人の女を描いた長編の時代小説です。

江戸城明渡しの時の居残り者を描いた小説といえば 浅田次郎の『黒書院の六兵衛』という作品がありました。江戸城引渡の前夜、西の丸御殿に的矢六兵衛という御書院番士が退去せずにいたのですが、調べてみるとこの男は以前からいた的矢六兵衛ではないという事実が明らかになります。今の的矢六兵衛はいったい何者なのか。そして、何のために明渡し寸前の江戸城に居座っているのか、侍のありようをめぐり、浅田節が冴え渡る物語でした。

本書も『黒書院の六兵衛』同様に明渡し前の江戸城での居残り組についての話です、しかし、本書で居残っているのは五人の女たちです。彼女らが何者かはすぐに明らかになり、何故に江戸城に居残っていたのかがゆっくりと語られることになります。

江戸城明渡しの前夜、一同の前で天璋院が言った「ゆるゆると、急げ」との言葉を胸に皆が江戸所を去る中、最後の確認のために職場である呉服之間に戻った奥女中のりつでしたが、大奥には御膳所の御仲居のお蛸、御三之間のちか、そして天璋院の御部屋、すなわち新御殿の御下段之間には御中﨟のふきと和宮方の呉服之間のもみぢとが居残っていたのです。

この五人は江戸城最後の夜を共に過ごすことになりますが、それぞれの行動がユーモラスに、また時には哀しみを漂わせながら描かれています。五人がそれぞれの思惑で江戸城内に残ったものの、互いの居残りの理由は分からずに、それぞれに疑心暗鬼にとらわれながらも次第に心を通わせてい様は、読み手もまたいつの間にか物語の世界に引き込まれているのです。

また、大奥の内部についての描写は丁寧です。それはルビが振られた漢字が多用されている文章を用いることで、あたかも大奥の様式美を体現しているようでもあり、読み手はいつの間にか荘厳な雰囲気の中にいることになります。

更に大奥の美しさに加えて、お針子や賄いなどの職種についての説明も丁寧です。知らずの内に大奥の生活の一端を垣間見ることになっていて、その面からも大奥のたたずまいに取り込まれることになるようです。

いずれにしろ、本書は私の心をわしづかみにした作品であり、かなり読み応えのある作品でした。私にとって本書の醸し出す雰囲気、空気感は、この作者の直木賞受賞作『恋歌』よりも高く評価されるべきと感じたようです。

洛陽

明治天皇崩御直後、東京から巻き起こった神宮造営の巨大なうねり。日本人は何を思い、かくも壮大な事業に挑んだのか?直木賞作家が、明治神宮創建に迫る書下ろし入魂作! (「BOOK」データベースより)

この本を読む数日前にNHKのドキュメンタリーで、明治神宮造営に関するドキュメンタリーがありました。そこでの百年後の未来を見越した神宮造営の設計には感動を覚えたものでした。

そのこともあって、本書は明治神宮造営そのものの過程を追った、ダイナミックな作品を予想しながら読んだのです。しかし、本書は私の様相とは異なる展開を見せる作品となりました。

本書の主人公は、東都タイムズという編集長以下三人の記者しかいない弱小新聞社の瀬尾亮一という記者です。明治天皇崩御に際し、瀬尾は二重橋前でひれ伏す大衆を見て「天皇とは、誰なのだろう。」という疑念を抱きます。この疑念が本書が私の思惑とは異なる世界へと導かれていくきっかけでした。

明治天皇崩御の後、明治天皇の御陵は京都の伏見桃山に作られることが決まります。しかし、その代わりに東京には明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする神社を作ろうという話が起きます。

当初は、東京の代々木、青山付近は神宮の荘厳さに必要な針葉樹林の死立つ環境には無いので不向きという反対論もあったそうですが、結局は現在の地での神宮造営が決まるのです。

そうした明治神宮造営事業を追いかけ、記事にしようとする瀬尾亮一や同僚の伊東響子らの姿を描いているのが本書です。神宮造営の模様を二人の記者の取材行動に合わせて描き出していくのです。

ただ、神宮造営事業を追跡しながら、瀬尾の関心は、明治という時代を生きた明治天皇個人へと対象が変化していきます。それは、神宮造営という一大事業を小説にするという作者の思いにも重なるもののようです。

事実、作者は「明治天皇に迫らざるを得ないという直感」を持って本書を書き始めたと言っています。十七歳にして住み慣れた京都を離れて東京という町へ移られた若き天皇の心の内へと思いを致し、天皇を通して明治という時代を考察としているようです。

こうして本書の主人公である瀬尾の関心は、「正史」がない明治天皇へと移っていくのですが、それはつまりは作者の思いが、明治天皇を通して見た「明治」という時代を構築しようとしているようでもあります。


直接的に明示を描いた作品というわけではありませんが、 杉本章子の『東京新大橋雨中図』という小説があります。「光線画」の書き手として最後の浮世絵師と呼ばれた小林清親という人物を、明治維新期の世相を一般庶民の生活に根差した視点で描写している作品です。

そして、 浅田次郎の作品にも明治時代を描いた作品がありました。『五郎治殿御始末』という作品がそれで、明治維新という社会の変革についてゆけない侍の悲哀を描いた作品集です。どの物語も侍の矜持を捨てることを潔しとせず、それでいて明治という新しい世になんとかなじもうとする侍の哀しさが漂う物語として出来上がっています。

偉大すぎる父・北斎、兄弟子・渓斎英泉への叶わぬ恋、北斎の名を利用し悪事を重ねる甥―人生にまつわる面倒ごとも、ひとたび筆を握れば全て消え去る。北斎の右腕として風景画から春画までをこなす一方、自分だけの光と色を終生追い続けた女絵師・応為。自問自答する二十代から、傑作「吉原格子先之図」に到る六十代までを、圧倒的リアリティで描き出す。(「BOOK」データベースより)

さまざまな物語で父葛飾北斎と共に描かれることの多かった、北斎の娘。画号を応為と称したお栄を主人公とした、今のっている作家の一人、朝井まかての描く女絵師の物語です。

本書の惹句に「圧倒的リアリティ」という文句がありましたが、まさにその通りの作品で、これまで読んできた中で一番応為が生きていると感じた作品でした。


お栄を描いた作品としてはこれまでにもいくつかありました。 諸田玲子きりきり舞いは、十返舎一九や葛飾北斎の娘たちが繰り広げる人情喜劇です。全体的にユーモラスで、文章も読みやすいのですが、絵がかれているお栄が単なる我儘娘としか思えず、その個性を感じさせる振る舞いが見えない作品でした。

また、 宇江佐真理おちゃっぴいという短編集の中の表題作「おちゃっぴい」に出てくるお栄も、主人公お吉の姉さん的存在であり主題ではないため、鉄火肌の娘ではあっても、絵師としてのお栄ではありませんでした。

これに対し、本書での応為は実に生き生きと動き回っています。普通の娘としてではない、北斎の娘としていつも「色」を気にかけている応為であり、常に貝殻をすりつぶすなどして絵具を作り出している姿が描かれています。

本書の装丁には応為の代表的な作品である「吉原格子先図」が使われています。「夜桜美人図」などにも見られる、この光を描く作業こそが、「江戸のレンブラント」などと称され、その作品は父北斎に勝るとも劣らないと評されるようになり、応為の再評価につながっているそうです。

本書ではまた、女としてのお栄も描かれています。善次郎こと絵師の渓斎英泉に心惹かれるお栄の想いが成就する場面は官能的ですらあります。このあと善次郎は北斎の家にも寄り付かなくなりますが、お栄がそんな善次郎を想う場面で、「誰かと深くなれば、そのぶん遠ざかるものがある。あたしは何を失ったのだろうか。」と独白している姿は印象的でした。

家族生活としての北斎の家庭を見てみると、北斎という天下一流の変人がおり、その妻であり、お栄の母親としての小兎(こと)がいて、その小言に振り回されるお栄です。そしてなによりも北斎一家に災難しかもたらさない甥っ子の時太郎に振り回されるお栄がいるのです。

その後クライマックスで、吉原の夜景の美しさの表現に悩み、呻吟する応為を描く場面、「命が見せる束の間の賑わいをこそ、光と影に託すのだ。そう、眩々(くらくら)するほどの息吹を描く。」と表現される応為の心情は、読んでいてもただ圧倒されるばかりでした。

朝井まかてという作家が特にここ数年のうちに発表する作品は、『残り者』や『落陽』のように実に読み応えのある作品が多いようです。

大沢たかお主演でテレビドラマ化もされ大人気となった、村上もとかの漫画『JIN-仁-』の中の三巻目の吉原を描いた場面で、「吉原格子先図」を参考にしたコマがありました。吉原の参考資料として絵があまり無いこともあるのでしょうが、この漫画を読んだ当時はこの浮世絵のことも知らずにいたので何とも思わずに読み飛ばしていたものです。でも、たまたまこの漫画を読みなおしていて、見たような絵だと気がついたもので、こういう発見は嬉しいものですね。

なお、この漫画ではほかにも広重の東都名所之内の新吉原仁和歌之図」なども資料として使用されていました。

追記
2017年9月18日のNHK総合テレビにおいて、本書を原作とするドラマが、主役のお栄(後の葛飾応為)を宮崎あおい、父北斎を長塚京三、渓斎英泉を松田龍平というキャスティングで放映されました。

詳しくは下記を参照してください。

宮崎あおいさん主演『眩(くらら)~北斎の娘~』制作開始 | 特集ドラマ
眩(くらら)~北斎の娘~ | NHK 特集ドラマ – NHKオンライン

私も見たのですが、105分という短い時間的な制約の中でよくできていたと思います。江戸の町もよく再現されていたし、細かなセットも普通のテレビ時代劇と異なり、かなりのリアリティが出されていたと思います。

ただ、問題児である甥っ子の時太郎の部分は全部カットされていたし、善次郎(英泉)との恋心も深くは追求されてはいませんでした。何より、お栄が執拗に色を探し求める姿も簡単にしか触れられていなかったように感じたのは残念でしたね。

しかし、それは私がその点に一番関心があったからそう感じたのでしょうし、他の人はまた異なる不満点があったことでしょう。

私の不満の延長線上には「吉原格子先図」などの絵が生まれてくるところをもっと詳しく見たかった、という点にあって個人的なものですから、ドラマの作り手としては対応のしようがないところでしょう。

とにかく、宮崎あおいという女優さんはやはりうまいものだし、ドラまとしての出来も十分満足できるものだったと思いました。

これからも、もっと多くの良質なドラマを期待したいものです。

藪医 ふらここ堂

家族、夫婦、子育て、はては「恋」まで診立てます。天野三哲は江戸・神田三河町で開業している小児医。「面倒臭ぇ」が口癖で、朝寝坊する、患者を選り好みする、面倒になると患者を置いて逃げ出しちまう、近所でも有名な藪医者だ。ところが、ひょんなことから患者が押し寄せてくる。三哲の娘・おゆん、弟子の次郎助、凄腕産婆のお亀婆さん、男前の薬種商・佐吉など、周囲の面々を巻き込んで、ふらここ堂はスッタモンダの大騒ぎに―。(「BOOK」データベースより)

神田三河町の、藪医者と呼ばれながらも人気のある小児科医天野三哲の家の前庭にはブランコがありました。本書のタイトルとなっている「ふらここ」とは、このブランコのことを言うそうです。

この三哲の娘をおゆんといい、おゆんの幼馴染で三哲の押し掛け弟子の次郎助、その母親のお安、「婆さんていうな」が口癖の産婆のお亀婆さん、そして薬種商の男前の佐吉とその息子勇吉などという登場人物が実に生き生きと生活しています。

本書について、著者は「市井の、少々ぬけた人々の物語を書きたくて、江戸時代に実在したヤブの小児医を主人公にしました。」と言っています。( いま、江戸を舞台に小児医を描く意味 : 参照 )

そしてこの小児科医三哲の治療法は「母子同服」と呼ばれる漢方の考え方で、「家族など人的環境から病を捉えて治療に臨む」ことらしいのですが、この点は「死人の七割が子どもだった」という江戸時代においての「子育て」をテーマに書いてもらったとの編集者の言葉がありました(以上、 「藪医 ふらここ堂」-小説現代 : 参照 )。

本書は、最初のうちは取りたてて言うべきことも無い普通の人情小説として進行します。勿論それは登場人物紹介の側面もあって、それはそれで読みやすく、面白さは持っているのですが、朝井まかてという作家の個性は強く出ているとは言えません。

しかしながら、男前の佐吉が長屋に住みはじめ、お亀婆さんとお安との開け合いも調子に乗ってくる三段目あたりからは、朝井まかてらしい、背景にしっかりとした主題が見えつつも、物語としてきちんと構築されていると感じられてきます。


医療小説としての貌ももっている本書は、第5回日本医療小説大賞の候補にも挙げられています。ちなみに、この年の受賞作は中島京子氏の、認知症の父と家族のあたたかくて、切ない十年の日々を描いた『長いお別れ』だったそうです。

医療小説大賞といえばやはり上橋菜穂子氏の『鹿の王』を忘れることはできません。この作品は医療行為というものを正面から捉えたファンタジー作品で、本屋大賞も受賞した実に面白い作品でした。

本書『藪医 ふらここ堂』が日本医療小説大賞の候補になったということは、ここで描かれている「母子同服」と呼ばれる漢方の考え方が、それなりに評価されたということでしょうか。

医療小説としての側面は抜きにしても、個人的な好みからは少し外れてはいるのですが、人情小説としての面白さも十二分に備えた物語だ感じました。

朝井まかてという作家の作品の中では決して上位に入る作品だとは思わないのですが、それでも、三哲という医者は何者なのかなどというミステリアスな話もあって、それなりに面白く読み終えることができたのです。

ぬけまいる

一膳飯屋の娘・お以乃。御家人の妻・お志花。小間物屋の女主人・お蝶。若い頃は「馬喰町の猪鹿蝶」と呼ばれ、界隈で知らぬ者の無かった江戸娘三人組も早や三十路前。それぞれに事情と鬱屈を抱えた三人は、突如、仕事も家庭も放り出し、お伊勢詣りに繰り出した。てんやわんやの、まかて版東海道中膝栗毛!(「BOOK」データベースより)

コミカルなタッチで三人の女の道中記をえがいた長編の時代小説です。

 

最初はこの作家には珍しい(と思える)作品でした。これまで読んだ作品は皆この人の格調高い文章を生かした内容だったので、本書のようなを書かれるとは思っていなかったのです。

 

本書は、一膳飯屋の行かず後家の「お以乃」、御家人の妻の「お志花」、小間物を商う大店の女主人の「お蝶」という、かつて「馬喰町の猪鹿蝶」と呼ばれたアラサー三人組が織りなすコメディです。

「抜け参り」とは、「親や主人の許しを受けないで家を抜け出し、往来手形なしで伊勢参りに行くこと。」だそうで、本書の三人もある日突然、誰にも、何も言わずにお伊勢参りへと出立します。その旅先で繰り広げられる騒動記なのですが、結論から言うと結構面白く読みました。

最初は何となくストーリーの運びに乗り切れず、この朝井まかてという作家さんはコミカルなタッチには向かないとまで思い始めていたのですが、江戸を抜け箱根の山を超える頃からでしょうか、はっきりとしたイベントが起き始めるとテンポ良く感じてきました。

結末に絡んできそうな、あの人との出会いなどもありつつ、人情話も絡め、格調の高い、しっとりと読み込ませる文章だけではないこの作家の別な側面を知りました。

楽しい作品でした。

ところで、本書『ぬけまいる』という作品は、お蝶を田中麗奈 お以乃をともさかりえ、お志花を佐藤江梨子というキャストで、竹内まりやの曲を主題歌として「ぬけまいる〜女三人伊勢参り」と題して、2018年10月にNHKで「土曜時代ドラマ」枠でテレビドラマ化されています。

ぬけまいる~女三人伊勢参り : 参照

ちゃんちゃら

江戸・千駄木町の庭師一家「植辰」で修業中の元浮浪児「ちゃら」。酒好きだが腕も気風もいい親方の辰蔵に仕込まれて、山猫のようだったちゃらも、一人前の職人に育ちつつあった。しかし、一心に作庭に励んでいた一家に、とんでもない厄介事が降りかかる。青空の下、緑の風に吹かれるような、爽快時代小説。(「BOOK」データベースより)

 

市井に生きる一人の若者の成長を見守る、長編の人情時代小説です。

 

その子が庭師の辰蔵の家に来た当初「俺のことを親とも思え」といった辰蔵の言葉に「チャンちゃらおかしいや」と答えたものだ。それからその子は「ちゃら」と呼ばれるようになり、庭師見習いとして成長してきた。

その庭師辰蔵の一家「植辰」に、嵯峨流という京の名門庭師が目をつけ、何かと言いがかりをつけてくるようになった。心当たりのないまま、「植辰」の仕事先の庭木が次々と枯れていき、「植辰」はその始末に追われるのだった。

 

この本の「ちゃんちゃら」という題名と、冒頭での辰蔵の娘百合の江戸っ子らしいおきゃんな言いまわしなどで、 宇江佐真理の『おちゃっぴい』のような、ユーモアあふれる人情ものだと思っていました。ところが、少しずつ作庭のうん蓄などを織り交ぜながらの「ちゃら」の成長譚へと雰囲気が変わっていきます。

 

 

登場人物も石組みの名手の玄林、水読みの名手である福助、そして京で庭師の修業をしてきたという辰蔵、その娘百合等個性的な面々が揃っています。

 

本作が2作目だそうです。私は先に「恋歌」などのより作家として成長していると思われる作品を読んでいたので、先入観があるのかもしれませんが、既にこの作品でテンポ良く、読みやすい文章だと感じました。

ただ、最後の詰めの段階で、アクション性が高い見せ場であるにも関わらず、物語の展開が少々分かりにくくなっていたのが残念でした。「ちゃら」の行動の描写に少々辻褄が合わない個所があるのです。

その最後の点に若干の不満はあるものの、面白い作品だと思います。

先生のお庭番

出島に薬草園を造りたい。依頼を受けた長崎の植木商「京屋」の職人たちは、異国の雰囲気に怖じ気づき、十五歳の熊吉を行かせた。依頼主は阿蘭陀から来た医師しぼると先生。医術を日本に伝えるため自前で薬草を用意する先生に魅せられた熊吉は、失敗を繰り返しながらも園丁として成長していく。「草花を母国へ運びたい」先生の意志に熊吉は知恵をしぼるが、思わぬ事件に巻き込まれていく。

 

シーボルトの日本での暮らしを一人の庭師の眼を通して描いた長編小説です。

 

庭師の熊吉は異人さんの屋敷へ手伝いとして通うことになった。

「しぼると」というその人には「おたくさ」と呼ばれている滝という奥方がおり、「おるそん」という黒坊の使用人を使っていた。

長崎は出島にあるその屋敷の薬草園には種々の草木が植わり、日がなその庭の手入れをすることが熊吉の仕事だった。色々な侍や商人がその屋敷には訪れるが、熊吉はひたすら薬草などの仕分け、整理に精を出すのだった。

 

本書は、シーボルトの庭師として雇われた男を通して、異国の地に来たシーボルトという人間の実像を描いた作品、と言えるかもしれませんが、何よりシーボルトの眼を借りて見た日本再発見の物語と言って良いのではないでしょうか。

この作家の文章は決して派手ではありません。しかし、丁寧で品格があります。その語り口でシーボルトの口を通して、美しい日本の四季、日本人の誠実さを語らせていると感じられるのです。

 

維新直前までの日本は、日本人の生活に根差す礼儀や美徳、自然そのものに対する畏敬の心であふれていたと思われます。

今ではもう殆ど無いと言っても良いかもしれない、そうした日本の美しい心をも含めた「日本の美」に対する作者の想いが感じられる、失われつつある美しい日本への作者の賛歌とも言うべき一冊です。

恋歌

樋口一葉の師・中島歌子は、知られざる過去を抱えていた。幕末の江戸で商家の娘として育った歌子は、一途な恋を成就させ水戸の藩士に嫁ぐ。しかし、夫は尊王攘夷の急先鋒・天狗堂の志士。やがて内乱が勃発すると、歌子ら妻子も逆賊として投獄される。幕末から明治へと駆け抜けた歌人を描く、直木賞受賞作。(「BOOK」データベースより)

 

明治期の歌人中島歌子の彼女の夫に対する想いを描いた長編小説です。

 

中島歌子は、明治時代の小説家であり歌人であった、三宅花圃(かほ)や樋口一葉らの師であり、歌塾「萩の舎」(はぎのや)を主宰していた歌人です。その名前だけは知っていたのですが、樋口一葉らの師であったとは知りませんでした。

中島歌子は水戸の藩士に嫁ぎましたが、その夫が天狗党の乱に加担したために自身も投獄されたといいます。その獄に繋がれていた間やその後の歌子のことを作者なりに解釈をして、脚色を加えた小説が本書です。

 

本書『恋歌』は、歌子の女中であった澄と、先に述べた三宅花圃とが語り部となって歌子の手記を読む、という体裁になっています。その文章は格調高く、随所に挟まれる短歌と共にこの作品全体の雰囲気を決定ずけています。

気丈で気位が高く奔放であった歌子の生涯が、落ち着いた、品格を保った文体で語られていながら、最後まで物語としての興を残しながら読者を引きつけています。

そこでは歌子の夫に対する恋い慕う想いが語られているのです。『恋歌(れんか)』という表題が読後に心の底に落ち着きました。

 

一方、明治維新時の時代の動きを今までとは異なった、水戸藩の視点から描写しているという点でも面白く読んだ作品でした。

水戸藩内部の抗争など、今まで読んだ本ではあまり書いてなかった事柄について、水戸藩からの観点で語られる点が新鮮だったのです。

 

品のある文章と、示される短歌の格調高いしらべとに、贅沢なときを感じながらの読書となりました。本書のような作家、そして作品を知った時に読書の楽しさと、幸せを感じます。貴重なひとときでした。