医者になる夢を叶えるべく江戸に出た登を迎えたのは、はやらない町医者の叔父と口うるさい叔母、驕慢な娘ちえ。居候としてこき使われながらも、叔父の代診や小伝馬町の牢医者の仕事を黙々とこなしている。ある時、島流しの船を待つ囚人に思わぬ頼まれごとをするが―。若き青年医師の成長を描く傑作連作集。(「BOOK」データベースより)
獄医立花登手控えシリーズの第一巻です。
十九歳で江戸に出てきてもう三年。二十二歳になった獄医立花登の、小伝馬町の牢に入っている科人との話を通して見えてくる人間模様を描き出す、捕物帳であり、青春期でもあります。
叔父の家に厄介になりながら、金に吝い叔母のもとで、遊びに明け暮れるいとこのおちえに振り回されながらも、牢医として成長している登です。
全編を通しておちえが少しずつ顔を見せていて、最後におちえの絡んだ話で本書は終わります。多分この先も登の周りにはおちえが貌を見せることになるのでしょう。
一方、登が幼いころから鍛錬している柔術は鴨井道場で免許取りの腕であり、三羽烏とも呼ばれるほどになっています。
この柔術の腕をもって科人の頼みを引き受けるなかでまきこまれる様々な暴力から身を守りつつ、通常の痛快小説で見られる剣戟の場面の代わりに柔術での立ち合いの姿がふんだんに描かれています。
以下、各話のあらすじです。
雨上がり
牢内に病人が出たが、その病人の勝蔵は、伊四郎という男から十両の金を貰い、おみつという女に渡して欲しいと頼んできた。しかし、受け取った金を渡しに行った先にいたのは、伊四郎と共にいた女だった。
善人長屋
自分ははめられたという吉兵衛という男の言葉を真に受け、通称善人長屋で吉兵衛の盲目の娘おみよに会いに行く登だった。長屋の人達によくしてもらっているおみよの様子を知るが、藤吉の手下の直蔵に調べてもらうと、善人長屋の連中の裏の顔が見えてくるのだった。
女牢
登は朝の見回りで見知った女が入牢しているのに気付いた。おしのというその女は亭主の時次郎を刺し殺し、死罪と決まっているらしい。時次郎の知り合いの参吉という男から、金貸しもやっている能登屋政右衛門の話を聞きこむのだった。
「胸が晴れたわけではなかった。胸の底に、いま照りわたっている月の光のように、澄明なかなしみが残っていた。」という一文で終わるこの話は、登の、若者らしい行いと、哀愁が漂う一編です。
返り花
幸伯老人が帰り際に、揚り屋に入っている御家人の小沼庄五郎に届けられた食べ物に毒が盛られていたらしいという。その後、その事実に気付いた下男の甚助という男が小沼家をゆすりに行ったらしい。直蔵に調べてもらうと、小沼の妻女と井崎という侍とが密会していることに気づくのだった。
「狂い咲きの花が、四、五輪ひらいている。不可解な女心に似ている。」との文章は、女心の不可思議を感じる登の心象を示しています。
風の道
三十半ばの傘張り職人の鶴吉は、度重なる牢問い(拷問)にも必死で耐えていた。喋れば殺されると言う鶴吉は、女房に今の住まいから逃げろと伝えるように頼まれるのだった。しかし、女房は鶴吉が帰ってくる場所が無くなると困るからと、逃げることを拒むのだった。
藤沢作品の物語としては珍しくあまり余韻の残らない話だった
落葉降る
平助という名の近所に住む男が牢に入っていた。手癖が悪くちょいちょい牢に入っている五十男で、清吉という錺職人との祝言が待っているおしんという娘がいた。鋳かけ屋をしながら手癖が悪く世間を狭くしていた平助だったが、おしんの出来がよく、近所の者もなにかと気を使ってくれるようになっていた。
牢破り
登を待ち構えていた男たちから、おちえを預かっているから東の大牢にいる金蔵という男に渡してくれと小さな鉄(かね)の鋸を渡された。