海坂藩士・葛西馨之介は周囲が向ける愍笑の眼をある時期から感じていた。18年前の父の横死と関係があるらしい。久しぶりに同門の貝沼金吾に誘われ屋敷へ行くと、待っていた藩重役から、中老暗殺を引き受けろと言われる―武士の非情な掟の世界を、端正な文体と緻密な構成で描いた直木賞受賞作と他4篇。
藤沢周平の初期の作品を集めた短編集で、「暗殺の年輪」は第69回直木賞を受賞しています。
本書末尾掲載の駒田信二氏の解説によれば、本書掲載の各作品は藤沢周平の文壇登場からの二年の間に書かれた作品が集められているそうです。
そして、本書掲載の各作品の受賞歴を見ると、1971年発表の「冥い海」が藤沢周平の文壇デビュー作であり、オール讀物新人賞を受賞するとともに1971年(昭和46年)上半期の直木賞候補作となっています。
さらに、「囮」が同年下半期の、また「黒い蠅」が翌1972年(昭和47年)下半期のそれぞれの直木賞候補作となっています。
そして、1973年(昭和48年)に「暗殺の年輪」で直木賞を受賞するに至っているのです。
この人の作品は、特に初期の作品は本当に救いがないとしか言えません。物語は哀しみに満ちています。
本書はまさにそうした救いのない、哀切に満ちた作品ばかりが収められています。
歳をとってからの再読時には本書の凄みともいえる人間の描き方に惹かれた私ですが、最初にこの作者の作品に接したときには、その良さを感じ取れなかったものです。
その一番の理由はやはりその救いの無さの故でしょう。
人を殺して江戸にはいない筈の幼馴染の宗次郎に出会い、惹かれてしまう出戻りのおしのの姿を描く「黒い蠅」。
父の死に関係があるらしいまわりの冷たい目にさらされる葛西馨之助を描く「暗殺の年輪」。
好々爺然としている義父刈谷範兵衛の一番の理解者である嫁の美緒を描く「ただ一撃」。
広重の才能を目の当たりにした北斎の姿を描く「溟い海」。
下っぴきとしておふみという女の見張りをしていた彫り師の甲吉を描く「囮」。
どの物語も読後はやるせなさが漂いますが、年齢を経るにしたがって藤沢周平という作家の文章や物語の作り方のうまさの方に惹かれるようになったようです。
本書で描かれているやるせなさも、歳を取った今でも痛切に感じるものではあります。
しかし、そこに登場する人々の弱さやちょっとした躓きなどを通して描かれている、人間の営みの哀しみを直視できるようになったということでしょう。
視点を変えると、藤沢周平という作家について必ず言われる情景描写のうまさが、藤沢周平のデビュー当初から伺えることに驚かされます。
情景描写のうまさは登場人物の心象描写の一部ともなるものである以上、人間の描き方のうまさにも結び付くものであり、そこに惹かれるのです。
ただ、物語に救いがありません。藤沢作品に初めて触れる人に勧めるべき作品とは言えないと思います。
そうした人には赤穂義士の物語を絡めた用心棒ものである『用心棒日月抄』などはいいかもしれません。
その後の藤沢作品は、将来を見据えた救いであるとか、人生の機微に触れるような話の中に見える軽いユーモアなど、作品の幅、奥行きの深さが広まっているのはあらためて言うまでもありません。
とはいえ、本書の救いのない暗さもやはり藤沢作品なのです。