浮気に腹を立てて実家に帰ってしまった女房を連れ戻そうと思いながら、また別の女に走ってしまう小間物屋。大酒飲みの父親の借金を、身売りして返済しようとする10歳の娘。女房としっくりいかず、はかない望みを抱いて20年ぶりに元の恋人に会うが、幻滅だけを感じてしまう油屋。一見平穏に暮らす人々の心に、起こっては消える小さな波紋、微妙な気持ちの揺れをしみじみ描く連作長編。
本書は1987に出版された、江戸にあるという架空の町“しぐれ町”に生きる人々の暮らしを個別に描いた連作長編ともいうべき時代小説です。
「しぐれ町」に生きる人の暮らしとはいっても、大半の物語は個別の主人公と、主人公がのめり込んだ女との話がテーマになっています。
例えば、「猫」から「おしまいの猫」までの猫と題された四編では、主人公の栄之助と、女房のおりつと、他の男の妾であるおもんという女との姿が描かれています。
同様に、「朧夜」では隠居の佐兵衛と一杯飲み屋の福助の女中のおとき、「春の雲」では千吉とおつぎ、「乳房」では信助とその女房のおさよ、と男と女の哀歌が描かれているのです。
そして、そうした話は大家である清兵衛と書き役の万平という町役人を狂言回しとしながら、町内の片隅で繰り広げられる人間模様として描き出されていきます。
つまりは一つの町内の出来事を記している物語ですから、同じ人物が本書のいくつもの話に登場するということもあります。
その時々に焦点が当てられている人物が異なるだけ、という何とも楽しい構成です。
このような町役人を通して町内の人々の暮らしを描き出す形式の作品としては、 辻堂魁の『花川戸町自身番日記シリーズ』があります。
この作品は、大川にかかる吾妻橋の西詰めにある浅草広小路、その北側にある花川戸町を舞台にした人情物語集です。
この花川戸町の北側にある人情小路の辻に自身番があり、その自身番に詰めている書役である可一を狂言回しとしています。
この『花川戸町自身番日記シリーズ』は、本稿を描いている時点(2020年4月)で『神の子 』と『女房を娶らば 』との二冊しか書かれていませんが、本書『本所しぐれ町物語』に比べるとより通俗的であり、文学的な意味合いにおいては劣るのかもしれませんが、個人的には本書同様に魅せられた作品でした。
ともあれ本書『本所しぐれ町物語』は藤沢周平の物語の特徴の一つとしての哀愁を帯びた作品集ともなっています。
女におぼれ、その快楽から抜けることができない弱さを抱えた男の姿など、救いを見出せない物語は初期の藤沢作品の特徴の一つでもあると思うのですが、本書もまたその例に漏れないようです。
ただ、本書は初期作品の持つ哀しみと比べるとどことなくその程度は少ないとも感じます。
最後の話である「秋色しぐれ町」では救いが描かれている点などは、初期作品にはない傾向ではないでしょうか。
この点に関しては、文庫版の最後に「藤沢文学の原風景」と題された藤田昌司氏との対談の中で、なるべくあくどい人間を見たくないと、思うようになった、年齢的なものが反映されている、と著者自身の言葉として書かれていました。
情景描写の上手さはデビュー作である『暗殺の年輪』から見られるものであり、本書でも人物の心象風景を示すという意味での自然描写のうまさはあらためて言うまでもありません。
個人的な好みからすると、この“救い”という点で、初期作品よりは後期の作品の方がより感情移入しやすく、共感を覚えると言えます。
ともあれ、本書『本所しぐれ町物語』も藤沢作品としての魅力が満載の作品ということができ、さすがという他ないのです。