『あきない世傳 金と銀(十一) 風待ち篇』とは
本書『あきない世傳 金と銀 風待ち篇』は、『あきない世傳 金と銀シリーズ』の第十一巻で、2021年月に文庫本で刊行された305頁の長編の時代小説です。
常に「買うての幸い、売っての幸せ」という言葉を胸に商いを続ける五鈴屋の皆の姿がある本シリーズですが、本書でもそれに応えるように大きな喜びが訪れます。
『あきない世傳 金と銀(十一) 風待ち篇』の簡単なあらすじ
湯上りの身拭いにすぎなかった「湯帷子」を、夕涼みや寛ぎ着としての「浴衣」にーそんな思いから売り出した五鈴屋の藍染め浴衣地は、江戸中の支持を集めた。店主の幸は「一時の流行りで終らせないためにはどうすべきか」を考え続ける。折しも宝暦十年、辰の年。かねてよりの予言通り、江戸の街を災禍が襲う。困難を極める状況の中で、「買うての幸い、売っての幸せ」を貫くため、幸のくだす決断とは何か。大海に出るために、風を信じて帆を上げる五鈴屋の主従と仲間たちの奮闘を描く、シリーズ第十一弾!!(「BOOK」データベースより)
五鈴屋江戸本店も開店丸八年を迎えることとなった。しかし、三河万歳に「末禄十年辰の年」という一節からきたものか、宝暦十年辰年の今年は災厄に見舞われるという噂が流れていた。
実際、数年前には麻疹禍に襲われた江戸の町を、その年の二月、後に「明石家火事」と呼ばれる神田明神下から出た火が江戸の町の多くを焼いてしまう。
幸いなことに五鈴屋は焼けなかったものの中村座、市村座などの芝居小屋も焼き尽くしてしまった。
江戸の町を普請の槌音が響く中、幸は、店が焼けた日本橋音羽屋が今度は太物にも手を出すという話を聞いた。
しかし、「生きていればこそ」争うこともできる、というお竹の言葉を胸に、幸は男女やの違いや身分の差を越えて木綿の橋を架けたいという願いを果たすためにある決意をするのだった。
『あきない世傳 金と銀(十一) 風待ち篇』の感想
本書『あきない世傳 金と銀(十一) 風待ち篇』では、いつも以上に、商売の心得を掲げる幸の姿が大きく見えるようです。
それは、番頭であった治兵衛から教えられた富久の夫である二代目徳兵衛の口癖であったという「買うての幸い、売っての幸せ」という言葉であり、幸が商売を続けていくうえでの心得でもありました。
本書で語られる浅草太物仲間とのとある話も、この心得を念頭にした行動でしょう。
でも、見事なまでにお客のために正直に、という幸の思いをそのままに生きていくのはいいのですが、あまりに幸だけが正論すぎて周りがかすむような気がしないでもありません。
物語の中では確かに正義が勝つでしょうが現実はそううまくいくものか、という声が聞こえてきそうなのです。
しかし、逆を言えば現実が世知辛いからこそ、小説の中くらいは正論が正論として、正直者が馬鹿を見ない話があってもいいのではないかという気もします。
だからこそ、読者の多くが心地よさを感じ、痛快さ、爽快さをを覚え、そして幸の生き方に喝采を送ると思われるのです。
こうした心地よさは例えば『居眠り磐音シリーズ』のような痛快時代小説の爽快感にも似ていますが、それよりもどちらかというと『半沢直樹シリーズ』の痛快感に似ている気がします。
状況も時代も異なりますが、やはり正論が正論として認められ、正義が勝つ姿は気持ちのいいものです。
一方で、本『あきない世傳金と銀 シリーズ』のこの頃は幸の敵役として音羽屋忠兵衛が登場し、それも妹の結が日本橋音羽屋の主として立ちふさがっています。
この結は幸の反対に姉の妨害、店の利益を優先する商売という、幸の対極的な商いの仕方をすることで幸の存在を際立たせています。
とにかく、宝暦の大火以降、何かと音羽屋の横やりが入るようになった陰には、音羽屋の太物商売への参入や、中村座の顔見世興業での二代目吉之丞の「娘道成寺」の演目が無くなることなど、音羽屋の横槍が入っていたのでした。
そうした難題を乗り越えての幸の行動が読者の心を打ちます。正義は勝つという王道を見せてくれるのです。
そして、今回もまた意外なラストに胸を打たれてしまいました。
高田郁というひとは物語の運び方がうまいとは思っていたのですが、今回は改めてそのうまさを感じるラストでした。
これでは続巻を読まずにはいられません。