堀の水は、微かに潮の匂いがした。静かな水面を揺らす涙とため息の日々に、ささやかな幸せが訪れるとき―下町の人情を鮮やかに映す感動の傑作短編集。(「BOOK」データベースより)
宇江佐真理という作家にしては珍しくファンタジーの匂いを持っている、江戸の各所の堀に絡めた、決して明るくはない物語集です。
ため息はつかない
早くに両親を亡くした豊吉は、父親の妹の‘おます’に育てられた。おますは口うるさく、逃げ場のない豊吉は思わずため息をつく。そのうち薬種屋の「備前屋」に奉公し、18歳になった豊吉は行かず後家と陰口をたたかれている備前屋の娘との縁談が進むが、女中のお梅からも思いを寄せられるのだった。
裾継
深川にある岡場所のひとつ裾継(すそつぎ)にある「子ども屋」(遊女屋)の女将である‘おなわ’は、亭主の彦蔵の先妻との娘‘おふさ’との不仲に悩んでいた。十三歳になったおふさは、おなわが父親の彦蔵の浮気に気付かないことがいらいらすると言うのだ。
おはぐろとんぼ
‘おせん’が料理人として奉公していた日本橋小網町の「末広」という料理茶屋に、新しい板前がやってきた。しかし・・・。
日向雪
二男の竹蔵は、女のために皆に無心しているらしい。母親の葬儀に帰ってきた竹蔵は、女のために家族に迷惑をかけて良いのかという梅吉を殴り倒してしまう。
御厩河岸の向こう
‘おゆり’が手を掛けて育てたた弟の勇助はおゆりになついていた。勇介は自分が生まれる前のことを覚えていて、御厩河岸の川向うにある夢堀の傍に住んでいた、と言うのだ。
隠善資正の娘
八丁堀界隈の「てまり」という縄暖簾の店に‘おみよ’という十九歳の娘がいた。「てまり」に足繁く通う北町奉行所吟味方同心である隠善資正は、おみよに行方不明になった自分の娘の姿を重ねていた。
宇江佐真理の作品群からすると平均的な作品だと思いました。水の都である江戸に散在する「掘割」をモチーフにした人情小説集です。
似たようなモチーフの作品に藤沢 周平の『橋ものがたり』があります。また、「坂」をテーマにしている作品集として藤原緋沙子の『月凍てる: 人情江戸彩時記』などもあります。藤原緋沙子氏が言うように、結界としての川であり、坂であって、結界を越えることにより変化が生じ、ドラマが生まれるのでしょう。
本書の「堀」は、「結界」とは少し違い、単に特定の「場所」を強調する意味しかないとも思えますが、内容はここにあげた作品に決して劣るものではありません。
本書は、決して明るくはない物語ですが、かといって悲観的ではありません。この作者の物語らしく常に未来を見据えています、また、心象を表現する情景の描写も相変わらずにうまい、としか言いようがありません。とくに「裾継」は、本作品集の中では私が一番好きな作品で、小気味良い言葉の羅列で終わる最後の行など、私の心にぴたりとはまりました。
残念ながら宇江佐真理氏は 2015年11月に亡くなられましたが、作品はいつまでも残ります。これらの素晴らしい人情物語をこれからも読み続けていきたいと思います。