背中の蜘蛛

本書『背中の蜘蛛』は、現代の情報化社会の問題点をテーマにした長編の警察小説で、第162回直木賞の候補作となった作品です。

いつもの読者へのサービス満載の誉田哲也作品と比べると社会性の帯びかたが強いとは言えると思います。佐々木譲が書く作品ようなリアルな警察小説の雰囲気さえ感じたほどです。

しかし、やはり本書は誉田哲也の描くエンターテイメント作品としての警察小説であり、惹き込まれて読み終えました。

 

東京・池袋で男の刺殺体が発見された。捜査にあたる警視庁池袋署刑事課長の本宮はある日、捜査一課長から「あること」に端を発した捜査を頼まれる。それから約半年後―。東京・新木場で爆殺傷事件が発生。再び「あること」により容疑者が浮かぶが、捜査に携わる警視庁組織犯罪対策部の植木は、その唐突な容疑者の浮上に違和感を抱く。そしてもう一人、植木と同じように腑に落ちない思いを抱える警察官がいた。捜査一課の管理官になった本宮だった…。「あること」とは何なのか?池袋と新木場。二つの事件の真相を解き明かすとともに、今、この時代の警察捜査を濃密に描いた驚愕の警察小説。(「BOOK」データベースより)

 

登場人物(警察関係)
本宮夏生  警視庁池袋署刑事課長 のち警視庁捜査一課管理官
上山章宏  公安部サイバー攻撃対策センター
小菅守靖  警視庁刑事部捜査一課長 警視正

植木範和  警視庁組織犯罪対策部組対五課の警部補
佐古充之  高井戸署刑事組織犯罪対策課の巡査部長

上山章宏  警視庁総務部情報管理課運用第三係係長
國見健次  警視庁総務部情報管理課運用第三係統括主任の警部補
阿川喜久雄 巡査部長

 

本書は三部構成になっています。第一部、第二部でそれぞれに事件が起き、行き詰まりの様相を見せてきたところで突如新たな情報がもたらされ、犯人の逮捕に結びつきます。

そして第三部で、第一部、第二部で突然もたらされた犯人逮捕に結びつく情報の出所に疑問を抱いた、今では第二部で起きた「新木場の爆弾事件」の捜査本部の管理官となっている本宮夏生が中心となって話は進みます。

 

ただ、本書『背中の蜘蛛』では三部構成になっているためか、少々登場人物の把握に時間を取られました。

そもそも、誉田哲也の小説では物語の視点の変更が頻繁に起こります。特に追う側、多くは警察官と、悲惨な過去を持つ犯人側とで視点が変わることが多いようです。

そのことが誉田哲也の文体の特徴を決定づけるとともに、登場人物の視点で語られることによる主観描写がうまいため、読者が感情移入しやすいという利点があるように思えます。

 

ところが、本書『背中の蜘蛛』の場合、視点の主を見失うことが少なからずありました。

それは、一つには第三部に入り登場人物が増えたことにあると思います。

警察関係では公安警察と架空の部署である運用第三係とが新規に登場し、当然、登場人物も増えます。

加えて、前原幹子涼太姉弟と涼太が拾ってきた正体不明の男も増え、それぞれに重要な役割を担っています。

そして第一部は本宮の、第二部は植木の視点で語られ、第三部は本宮と運用第三係係長の上山章宏、そして正体不明の男という三人の視座が入れ替わるために若干の混乱を招いたのだと思われます。

とはいえ、この点はちょっと注意すればすぐに慣れる事柄ではあります。

 

本書の一番の特徴と言えば、先に述べた「社会性」ということでしょう。つまりは、情報化社会における警察の情報収集のあり方です。

ひと昔前に問題になった事件として、公安警察による日本共産党幹部の盗聴事件がありました。警察の組織的な関与が疑われた盗聴事件として大問題になりました(ウィキペディア : 参照)。

世界的に見るとアメリカで起きたスノーデン事件があります。そこでばらされたCIAなどによるネット上に飛び交う情報の監視についての話は、それまで小説や映画の中ではあったものの、現実にある話として世界中の話題になったものです。

なお、この事件は映画化もされています。

 

 

本書『背中の蜘蛛』で提起されている情報収集、プライバシーの保護という問題は、単にインターネト社会での個人情報の保護という問題にとどまりません。

それは、国家というもののあり方にまで及ぶ論点であり、われわれ個々人があらためて考えていかなければならないテーマだと思われます。

ちなみに、本書にも登場する「捜査支援分析センター(略称 SSBC)」は実在の機関です(ウィキペディア : 参照)。

深夜プラス1

G・ライアル著の『深夜プラス1』は、冒険小説の古典的名作として誰しもが認める、長編のハードボイルド小説です。

もう四十年近くも前に内藤陳というコメディアンが、絶対に面白い、と言っていたので読んでみた本です。

それが1970年代だと思っていたのだけれど、彼が設立した「日本冒険小説協会」が1991年に設立されているところからすると1990年代に入ってから読んだのでしょうか。いや、1990年代にはなってはいなった筈です。

今読んでもやはり面白い。

腕利きドライバーのケインが受けた仕事は、ごくシンプルな依頼だった。大西洋岸からフランスとスイスを車で縦断し、一人の男をリヒテンシュタインまで送り届けるのだ。だが行く手には、男を追うフランス警察、そして謎の敵が放った名うてのガンマンたちが立ちはだかる。次々と迫る困難を切り抜けて、タイムリミットまでに目的地へ到着できるか?プロフェッショナルたちの意地と矜持を描いた名作冒険小説が最新訳で登場。(「BOOK」データベースより)

 

物語はフランス西岸のブルターニュからスイスとオーストリアの中間にあるリヒテンシュタインという小さな国まで、マガンハルトという実業家を運ぶだけのことです。

一行は主人公の「カントン」ことルイス・ケインマガンハルトと秘書のヘレン・ジャーマン、それに凄腕のガンマンであるハーヴェイ・ロヴェルの四人です。

問題はマガンハルトは婦女暴行の疑いでフランス警察に追われており、更には彼の事業に絡む事柄から正体不明の敵からも狙われているということであり、もう一点はヨーロッパでもベスト3の腕を持つと言われるハーヴェイ・ロヴェルがアル中だということです。

 

解説の田中光二氏が、本書『深夜プラス1』が人気があるのは「登場人物象の実在感」にある、と書いています。この文言は、人気の冒険ミステリ小説全般に言える事柄として書かれているのですが、本書にももちろん該当します。

第二次世界大戦中のイギリスの諜報員であり、フランスレジスタンスと共同して工作を行っていたという過去を持つ主人公のルイス・ケインや、人としての優しさ故に殺人の重圧からの逃避として酒を飲んでしまうハーヴェイ・ロヴェルなど、実に魅力的です。

共に自分の生き方に矜持を持つ男であり、ハードボイルドとしての魅力をも持っている本書です。

 

初対面時のルイス・ケインがハーヴェイ・ロヴェルの銃を手に取った時の二人のやり取りなど、普通の会話の中にプロだからこその台詞や、行動が描写されているなど、小さな事柄の積み重ねが物語の厚みを作りだしています。

更には、ルイス・ケインとハーヴェイ・ロヴェルとのモーゼル銃についての会話に見られるように、銃や車についてのうんちくも随所に出てきます。

こうした事柄は本書『深夜プラス1』だけではなく、面白いと言われる冒険小説はどれも備えている事柄ではありますが、本書の全編を貫くアクションに深みを添えているようです。

 

久しぶりに読みましたが、やはり面白い小説でした。

当時、この本を読んだ後にこのギャビン・ライアルという作家が書いた『ちがった空』などを始めとする数冊を読んでいるのですが、『マキシム少佐の指揮』だったかを読んで少々違和感を感じてから遠ざかったと記憶しています。

何が合わなかったのでしょう。近いうちにまた読んでみたいものです。

 

稚児桜

『稚児桜』は、「能」の楽曲をもとに作者が想起したイメージをもとに書かれた作品集だそうで、第163回直木賞の候補作となりました。

短編集として面白いかと問われれば、当初は首をかしげざるを得ませんでした。

読みごたえがない、とか、つまらないなどということはないのですが、どうにも捉えどころのない作品が多い、というのが現在ではない、読了後の正直な感想です。

破戒、復讐、嫉妬、欺瞞、贖罪―。情念の炎に、心の凝りが燃えさかる。能の名曲からインスパイアされた8編のものがたり。(「BOOK」データベースより)

※ 上記括弧内のリンク文字列は「能」の演目命であり、「the能ドットコム 演目辞典」の当該箇所にリンクしています。ただ、「雲雀山」だけはサイトが異なります。

 

本書の発想もとである「能」について、私個人としては何も知りません。ただ、謡に乗せて舞い、幽玄の世界を表現する芸術だという認識を持っていただけです。

しかし、本書に収められた作品は「幽玄」を感じさせる作品はありません。

ほとんどの物語が人間の持つ業について書かれていて、むしろ哀切と言えるほどにもの悲しさをたたえています。暗いと言い切るまではない、昏さであり、陰鬱さを抱えています。

どの物語も短編小説として重厚感は感じられるものの、救いのない話だという場面を多く感じたものです。

 

「能」について何も知らない私は、能の一分野として「笑い」を担当する狂言がある、と思っていました。

しかし今回「能」に関してネットで調べると、共に奈良時代に中国から渡来した「散楽」を源流としているとありました。

 

例えば第一話の「やま巡り」に関してはこのサイトの「演目辞典 山姥(やまんば)」を見ていただくとこの演目の内容が解説してあります。

そこでは「百ま山姥」という遊女が善光寺参詣の途中一夜の宿を借りることとなった山姥とのやり取りが説明されています。

本書の作者澤田瞳子は、このように能の演目に題を求め、澤田瞳子なりの解釈を施して短編小説として仕上げているのです。

 

このサイトを読んでからは私にとって本書『稚児桜』の持つ意味が確かに変わりました。

「能」の演目としての「山姥」の内容を見ると、本書『稚児桜』での「やま巡り」のストーリー自体は能の「山姥」をそのままに追ってあることが分かります。

その上で、登場人物を増やし、個々の登場人物の背景、人間関係を新たに構築し、新たな物語としての命を吹き込んであります。

つまり本書で描かれているのは幽玄の世界の物語ではなく、現実の人間の営みの中で紡ぎ出される愛憎劇だったのです。

他の物語にしても同様で、具体的に各短編の内容については触れませんが、人間が根源的に持つであろう憾みや欲望といった側面を前面に押し出して描き出してあります。

 

ところで、小説で歌舞伎をテーマにした作品は、芸人の芸道に生きるものとしての心を真摯に描き第128回直木賞の候補作となった作品集である 松井今朝子の『似せ者』など、推理小説も含めこれまでにいくつかありました。

しかし、「能」をテーマした作品というと、 青山文平の『跳ぶ男』しか思い浮かびません。

この作品は、道具役(能役者)の家に生まれた一人の若者の生き様を描いた長編の時代小説で、かなり読みごたえのある作品でした。

 

 

冒頭に書いたように、本書『稚児桜』を物語としてみた場合、各短編はいわゆるエンターテイメント小説としての面白さは感じないかもしれません。しかし、そこで示されている人間の愛憎劇は読むに値するものでした。

能の演目としての筋立てを読み、その上で本書の各短編を見直すとその様相を異にするのですから、私という読み手の浅薄さを思い知らされるものでもありました。

たんに個人の好みだけで物語を判断してはいけないということでしょうか。なかなかによい読み手になるということも難しいものです。

祝祭と予感

本書『祝祭と予感』は、直木三十五賞と本屋大賞をW受賞した『蜜蜂と遠雷』のスピンオフ作品です。

本書は、各頁の余白が広く、全186頁という薄さもあり、すべてを読み終えるのにそうは時間がかかりません。

ただ、その薄さ、短さゆえかもしれませんが、登場人物などについての説明は全くなく、『蜜蜂と遠雷』を読んでいないとその意味は全く分からないと思います。

 

 

大ベストセラー『蜜蜂と遠雷』、待望のスピンオフ短編小説集!大好きな仲間たちの、知らなかった秘密。入賞者ツアーのはざま亜夜とマサルとなぜか塵が二人のピアノの恩師・綿貫先生の墓参りをする「祝祭と掃苔」。芳ヶ江国際ピアノコンクールの審査員ナサニエルと三枝子の若き日の衝撃的な出会いとその後を描いた「獅子と芍薬」。作曲家・菱沼忠明が課題曲「春と修羅」を作るきっかけになった忘れ得ぬ教え子の追憶「袈裟と鞦韆」。ジュリアード音楽院プレ・カレッジ時代のマサルの意外な一面「竪琴と葦笛」。楽器選びに悩むヴィオラ奏者・奏へ天啓を伝える「鈴蘭と階段」。巨匠ホフマンが幼い塵と初めて出会った永遠のような瞬間「伝説と予感」。全6編。(「BOOK」データベースより)


 

先に書いたように本書はスピンオフ作品であり『蜜蜂と遠雷』を読んだ人でも登場人物の名前や細かな設定などを詳しく覚えている人などそうはいないと思われ、少なくとも簡単な紹介文くらいは欲しいと思います。

そうした点を除けば、こうしたスピンオフ作品は本体物語のファンにとってはたまらなくうれしいものがあります。

 

「祝祭と掃苔」
「掃苔」(そうたい)とは墓参りのことだそうです。『蜜蜂と遠雷』で描かれた芳ヶ江国際ピアノコンクール後に栄伝亜夜、マサル、風間塵の三人で行った綿貫先生の墓参りの様子が描かれます。

栄伝亜夜、マサル・カルロス・レヴィ・アナトール、風間塵の三人は「芳ヶ江国際ピアノコンクール」の出場者であり、このほかにもう一いた人高島明石という出場者が本書では描かれていません。

綿貫先生とは亜夜が幼いころに通っていたピアノ教室の先生であり、マサルも亜夜に連れられてこのピアノ教室へ行っています。

何故かこの墓参りに塵も同行しており、三人の音楽などに関する無邪気な会話が心地よく感じられる話です。

「獅子と芍薬」
その髪型から「獅子」と呼ばれたナサニエル・シルヴァーバーグの、着ていた着物の柄から「芍薬」と例えられた嵯峨三枝子との、出会いから、その後の結婚、別れ、そして今に至る、回想の話です。

共に「芳ヶ江国際ピアノコンクール」での審査員であった二人の馴れ初めの話をメインに、コンクールでの一番を目指していた若き二人の青春が語られます。

「袈裟と鞦韆」(ブランコ)
芳ヶ江国際ピアノコンクールでは演奏者たちは課題曲として「春と修羅」という楽曲が与えられますが、この「春と修羅」の成り立ちについての話です。

蜜蜂と遠雷』で強烈な印象を残していたのが「春と修羅」のカデンツァ、つまり演奏者の「自由に即興的な演奏をする部分」でした。

宮沢賢治の詩の中でも私が一番好きだといえるこの詩をモチーフにした演奏は一度聞いてみたいと思った場面です。その作品の誕生の話で、若干センチメンタルではありますが、感動的な話でもありました。

「鞦韆」とはブランコのことです。作曲家の菱沼忠明が黒澤明の「生きる」の中の名場面を連想したところから来ています。

 

 

「竪琴と葦笛」
先にも登場していたマサルがナサニエル・シルヴァーバーグと出会い、師事するに至る話です。

ナサニエルは嵯峨三枝子のかつての夫として「獅子と芍薬」に登場しました。ジュリアード音楽院の教授であり、塵を見出し育てたユウジ・フォン=ホフマンの数少ない弟子のひとりでもあります。

「鈴蘭と階段」
浜崎奏は亜夜が通う音楽大学でヴァイリオンを学ぶ二年先輩で、この大学の学長の娘でもあります。ヴィオラに転向したその奏が楽器選びに苦労する話です。

演奏家が楽器と親しむその様子、心象が細かに描かれています。

「伝説と予感」
この二月に亡くなったピアノ演奏の大家であるユウジ・フォン=ホフマンと養蜂家の息子であった塵との出会いの話です。

十数頁しかない短さで、ホフマンが塵と出会ったときの衝撃を、戦慄を描いてある作品です。

追跡者の血統

本書『追跡者の血統』は、「佐久間公シリーズ」の第三弾で、シリーズ初の長編ハードボイルド小説です。

地道なハードボイルド小説であった筈の物語が、主人公の佐久間公の過去までも明らかにする謀略小説の色合いを見せ、面白いのだけれど、これまでの印象とは異なる展開となっています。

広尾の豪華マンションに住み、女と酒とギャンブルとスポーツでその限りない時間を費す六本木の帝王・沢辺が、突如姿を消した。失踪人調査のプロで、長年の悪友佐久間公は、彼の妹からの依頼を受け調査を開始した。“沢辺にはこの街から消える理由など何もないはずだ…”失踪の直前まで行動を伴にしていた公は、彼の不可解な行動に疑問を持ちつつプロのプライドをかけて解明を急ぐが…!?大沢文学の原点とも言うべき長編ハードボイルド、待望のシリーズ第三弾。(「BOOK」データベースより)

 

主人公の佐久間公が行方不明になった親友の沢辺の行方を捜す、というのが本書の基本的な流れです。

これまでの本シリーズの二冊は短編集であり、法律事務所調査課に勤務する探偵という設定そのままの、派手さを押さえたハードボイルド小説でした。

ハードボイルド小説といえば大人の渋さを売りにしていたのですが、本シリーズは「若さ」、「青さ」を前面に出し、さらに東京の六本木などでスマートに遊ぶ若者の姿を背景にしています。

それに対し本書は国際的な謀略の渦に巻き込まれるという、少々荒唐無稽な設定になっている点が異なります。

 

おしゃれな街に溶け込んでいる若者の代表ともいえる存在が公の親友の沢辺でしたが、その沢辺の腹違いの妹の洋子と会う約束をしていたにもかかわらず、その時間に現れません。

公は沢辺の立ち回りそうな場所を片端から探しますが、なんの手掛かりもなく、最後に沢辺と別れたときの様子を思い出し、やっと手掛かりを見つけます。

その後、これまでのトーンとは異なった荒唐無稽ともいえる、国際的な組織との関りへとつながり、物語は佐久間公という男の過去へと繋がっていくのです。

 

この雰囲気の違いを、より面白い話として受け入れる人ももちろん居るでしょうし、そういう人にとっては実に胸おどる面白い物語として感じられることと思います。

しかし、個人的にはこれまでのシリーズの色合いが好みだったのでちょっと残念な気もします。

大沢在昌の描く物語であり、面白い物語であることは間違いありませんが、シリーズに期待していた個人的な好みからすると少しずれてきたのです。

 

ちなみに、本書の宣伝文句によれば、本書はシリーズの第三弾ということですが、実際はこれまでにもう一冊『標的走路』という作品が出版されています。

この『標的走路』は1980年12月に出版されており、大沢在昌のデビュー本だと言います( WEB本の雑誌 : 参照 )。それが種々の理由から幻の作品ということになり、その後復刊されて今ではジュリアン出版から出されています。

そして、この作品の内容が

 

嘘と正典

零落した稀代のマジシャンがタイムトラベルに挑む「魔術師」、名馬・スペシャルウィークの血統に我が身を重ねる「ひとすじの光」、無限の勝利を望む東フランクの王を永遠に呪縛する「時の扉」、音楽を通貨とする小さな島の伝説を探る「ムジカ・ムンダーナ」、ファッションとカルチャーが絶え果てた未来に残された「最後の不良」、CIA工作員が共産主義の消滅を企む「嘘と正典」の全6篇を収録。(「BOOK」データベースより)

 


 

『ゲームの王国』で第38回日本SF大賞と第31回山本周五郎賞とをW受賞した小川哲のSF作品を中心にした短編集で、本書は第162回直木賞の候補作品となりました。

ほとんど「時間」をテーマにしたSF作品と言える作品でしょうが「ひとすじの光」と「ムジカ・ムンダーナ」は違います。


 

本書には意外性に満ちた六編の物語が収められています。それは、物語の設定自体の意外性のこともあり、物語の展開の意外性ということもあります。

そして、殆どの物語は、一読しただけではその意味を掴むことができませんでした。再読、三読して初めて物語の内容がくみとれた、ということもありました。

結局、最後まで意味がよく分からないままに終わった、という作品もあります。「魔術師」など特にそうで、第一話目がこの作品でしたからなおのこと本書全体を分かりにくいと思い込んだきらいすらあります。

もしかしたら、そのあいまいさこそが作者のねらいだったのでしょうか。

ともあれ、本書は普通の人間には一読しただけでは分かりにくい物語ばかりです。しかしながら、発想のユニークさ、予想外のストーリー展開は妙に心惹かれる作品ばかりでもありました。

この作者の評判の作品で、日本SF大賞を受賞した『ゲームの王国』も読んでみるか、迷っているところです。
 


魔術師
あるマジックの舞台上でタイムマシンを発明し、過去へ帰ってきたという父竹村理道。最終的には更なる過去へと戻り、いなくなってしまいます。ところが今度は姉が父親と同じタイムマシンマジックに挑むことになるのです。

この物語はSFではありません。しかし、SFの設定を借りたマジックの話であり、ミステリーでもある話です。

私はこの物語の構造を今でも理解できていません。結局、父親の理道はどこに消えたのか、姉のマジックの結果はどうなるのか、作者の意図は、何もわからないのです。

それは、一つには単純にタイムマシンだけだけではなく並行世界の話まで持ち出してあるからです。並行世界を前提とするならば、どんな結論でもありになってしまいます。

この物語をよくわからないと言う人は多いと思ったのですが、各種レビュー、評論を見る限りではわかりにくいいう人はほとんどいませんでした。

ちなみに、この物語に出てくる「サーストンの三原則」については下記サイトに詳しく書かれています。興味のある方はご覧ください。

 

ひとすじの光
父親は何故かテンペストという競走馬だけを残し、他の財産を処分してしまっていた。何故この馬だけを残したのか、主人公はその理由を追いかける。

この物語はSFではありません。実在の「スペシャルウィーク」という名の競走馬についての話を巡る家族の話です。

血統を追う主人公のすがたがある種のミステリーとして展開されます。競走馬のサラブレッドの血統を追うことで、父親を理解しようとする主人公の姿が描かれるのです。

 

時の扉
「時間」についての様々な考察を挟みながら、王に対し一人の男が語りかけ、三つの話をします。

途中で挟まれる「ゼノンのパラドクス」やそれに基づく「時間」の概念の理解。そして罰としての時間の理解は面白く読みました。

三回にわたり語られてきた過去を改変するエピソードがそれぞれに意味を持ち、クライマックスの仕掛けへとなだれ込んでいきます。

一人のユダヤ人とその迫害者との関係性をつづったこの話ですが、物語としての意味は王と語り部との関係性だけなのか、それ以外にもあるものなのか、分かりません。

 

ムジカ・ムンダーナ
フィリピンのデルカバオ島に住むルテア族という音楽を通貨とする民に会いに来た高橋大河は、この島で最も裕福な男が持っているという音楽を探すためにやってきました。

音楽を通貨とする、その発想には驚かされましたが、正直、通貨とされた音楽の実際の機能を思い浮かべることが困難で、なんとも不思議としか言いようのない物語でした。

大河は、父親の遺品の「ダイガのために」と題された一本のカセットテープに録音してあった音楽の意味を探るためにここまでやってきました。それは、つまりは残されていた音楽を通して大河と父親との関係を描こうとしているのでしょうか。

 

最後の不良
「流行をやめよう」という言葉のもとに「流行」が消滅した世界で、自己を貫こうとする男の物語。

この短編で言われていることは社会生活を営んでいる人間の“他者とのかかわり”という本質にかかわるものなのでしょう。

ただ、この物語の結末が結局何だったのか、主人公の怒りを描いただけなのか、何となく落ち着きませんでした。

 

嘘と正典
アメリカの諜報員が、とあるきっかけで過去へメッセージを送る手段を見つけた男と知り合い、過去へメッセージを送り過去を改変することで、現在の共産主義の存在を抹消しようとする試みを描きます。

前提として、今の共産主義社会の存在はマルクスの思想とエンゲルスの経済との合致がもたらしたものとする考えがあります。その上で、マルクスとエンゲルスとの出会いをなかったものにしようとするのです。

その上で、最終的には、この本のタイトルにもなった「正典」の意味が明かにされ、思いもかけない結末が描かれます。

三体

物理学者の父を文化大革命で惨殺され、人類に絶望した中国人エリート科学者・葉文潔(イエ・ウェンジエ)。失意の日々を過ごす彼女は、ある日、巨大パラボラアンテナを備える謎めいた軍事基地にスカウトされる。そこでは、人類の運命を左右するかもしれないプロジェクトが、極秘裏に進行していた。数十年後。ナノテク素材の研究者・汪森(ワン・ミャオ)は、ある会議に招集され、世界的な科学者が次々に自殺している事実を告げられる。その陰に見え隠れする学術団体“科学フロンティア”への潜入を引き受けた彼を、科学的にありえない怪現象“ゴースト・カウントダウン”が襲う。そして汪森が入り込む、三つの太陽を持つ異星を舞台にしたVRゲーム『三体』の驚くべき真実とは?本書に始まる“三体”三部作は、本国版が合計2100万部、英訳版が100万部以上の売上を記録。翻訳書として、またアジア圏の作品として初のヒューゴー賞長篇部門に輝いた、現代中国最大のヒット作。(「BOOK」データベースより)

 

翻訳小説としては勿論、アジア圏の作品としては初のヒューゴー賞長篇部門賞を受賞した本格的な長編ハードSF小説です。

それも中国発のSF小説です。小説に関するいろいろなメディアで必ずと言っていいほどに取り上げられていた作品だったのですが、その評判通りの作品でした。

 

本書は全三部作の第一部であり、基本的に本書『三体』という作品の背景としての物語世界の説明がメインになっている小説です。

第二部は『三体2 黒暗森林 上・下』として既に早川書房より出版されています。訳者は同じ大森望氏であり、ただ、基本の中国語の日本語訳チームだけは第一巻と異なります。

 

 

本書はSF小説でいうファーストコンタクトものに属する物語です。

まず、不満点を挙げますと、個人的には第一巻である本書で登場する異星人の描き方には若干の不満がありました。その外見等の情報はありませんが、彼らの社会体制の描き方が満足いくものとは言えなかったのです。

詳しくは読んでみてくださいとしか言えません。その他登場人物の名前が中国語であり、覚え幾位という点です。

ですが、中国初の小説である以上は仕方のないことであり、また、この点に関しては書籍に登場人物一覧が添付されていて助かります。

 

不満点は以上として、本書の魅力としては、SFらしい仕掛けや小道具の使い方をあげることができます。ガジェットと言い換えてもいいかもしれません。

細かなものを除けば、まずは本書のテーマである「三体」世界があります。天体力学の “三体問題” 、つまり三つの天体がたがいに万有引力を及ぼし合いながらどのように運動するかという、一般的には解けないことが証明されている問題(ラグランジュ・ポイントなどの特殊な場面を除く )に由来する世界です。(Hayakawa Books & Magazines : 参照 )

次に、次にオンラインVRゲーム『三体』があります。高度な技術で作られたゲームであり、本書の中でも一つの世界を形作っています。単なるゲームを超えた、三体世界を体現できる装置としての役割を持つ、重要な位置づけのゲームです。

更には「人列コンピューター」があります。ゲーム内の登場するフォン・ノイマンが数学の人海戦術として三千万人の兵隊たちを使って計算をします。三人の兵士を使ってANDゲートやORゲートほかの論理ゲートを作り計算させるというのです。

ちなみに、この部分を取り出して短編「円」が書かれ、ケン・リュウのSFアンソロジー『折りたたみ北京』に収録されているそうです。

 

 

更には、異星人の場面において作り出される兵器の「智子(ソフォン)」があります。人工知能搭載陽子をいうのですが、その理論的展開は一般素人の理解の及ぶところではありません。でも、引き付けられます。

 

以上は、大きな仕掛けや小道具だけをざっと挙げてみただけです。しかし、その内容をみても分かるようにいかにもSF小説的な材料です。

SFが好きな読者にとってはこうした小道具を見るだけで胸がわくわくします。そして、実際に読むとその期待は裏切られません。

 

その他、本書の中心的な登場人物として主人公格の天体物理学者・葉文潔(イエ・ウェンジエ)とナノマテリアル研究者の汪淼(ワン・ミャオ)がいます。

また、ガラの悪い警察官の史強がまさにエンターテイメント小説の登場人物として光っていて、ストーリー展開上重要な役を担っています。

 

本書に関連する歴史上の大きな出来事として、1960年題から1970年代にかけて中華人民共和国で起きた文化大革命があります。毛沢東主導による文化運動であり、その重要な担い手であったのが紅衛兵です。

この紅衛兵の暴走は当時の日本の私たちも様々なかたちで知ることになりましたが、この暴走が葉文潔という人物の背景として重要の一を占めています。

こうした点を見ると本書の思想的な位置づけもできそうに思えてきますが、作者自身はそうした考えを否定しているそうです( : 参照)。

 

本書も第三部「人類の落日」に入り「21 地球反乱軍」という章になると、物語が一気にエンターテイメント小説として展開されます。

そして、地球三体協会という組織があらわになり、それも降臨派や救済派といった言葉が突然現れてきて訳が分からなくなりかけます。

しかし、これまで垣間見えていた事柄がその意味を明らかにし、次第に壮大な物語がその全貌を明らかにしていくのです。

ここで伏線の回収されて壮大な物語がその全貌を明らかにしていくのですが、その全体は古典的名作と言われている A・C・クラークの『幼年期の終わり』を思い出すものであり、また 小松左京の『果しなき流れの果に』などとも比較されています。

 

 

そうしてみた場合、紅衛兵事件などから作者の思想的背景を推し量ろうとする試みは意味がないと思えてきます。ある種トンデモ話とも言えそうな壮大な物語の展開を見るとき、そうしたことは霧消してしまいます。

 

本書のように異星人の世界を描いたSF作品としては少なからずの作品がありますが、中でも アイザック・アシモフの『夜来る』という作品が多い出されます。

短編集ですが、名作です。その内容は紹介文を引用します。上記の二冊と合わせ是非読んでもらいたい作品の中の一つです。

2千年に1度の夜が訪れたとき、人々はどう反応するだろうか…六つの太陽に囲まれた惑星ラガッシュを舞台に、“夜”の到来がもたらすさまざまな人間模様を描き、アシモフの短篇のなかでもベストの評価をかち得た、SF史上に名高い表題作(「BOOK」データベースより)

 

 

最後になりましたが、本書の魅力は、一般に言われているように原作の翻訳を光吉さくらさん、ワン・チャイさんが行い、それをもとに大森実氏らが日本語訳を担当したという事実が大きいのかもしれません。

中国の人気SF小説『三体』の魅力」を読めばわかりますが、日本語訳の努力のあとは明白で、舞台背景にまで踏み込んだ本役のおかげで、本書の読みやすさは格段にアップしているようです。

流人道中記

万延元年(一八六〇年)。姦通の罪を犯したという旗本・青山玄蕃に、奉行所は青山家の安堵と引き替えに切腹を言い渡す。だがこの男の答えは一つ。「痛えからいやだ」玄蕃には蝦夷松前藩への流罪判決が下り、押送人に選ばれた十九歳の見習与力・石川乙次郎とともに、奥州街道を北へと歩む。口も態度も悪い玄蕃だが、道中で行き会う抜き差しならぬ事情を抱えた人々を、決して見捨てぬ心意気があった。(上巻 : 「BOOK」データベースより)

「武士が命を懸くるは、戦場ばかりぞ」流人・青山玄蕃と押送人・石川乙次郎は、奥州街道の終点、三厩を目指し歩みを進める。道中行き会うは、父の敵を探し旅する侍、無実の罪を被る少年、病を得て、故郷の水が飲みたいと願う女…。旅路の果てで明らかになる、玄蕃の抱えた罪の真実。武士の鑑である男がなぜ、恥を晒して生きる道を選んだのか。(下巻 : 「BOOK」データベースより)

 

江戸時代も末期の万延元年、一人の流人を蝦夷松前藩まで押送する若き与力の姿を描いて侍とは、法とは何かを問う、長編の時代小説です。

 

姦通の罪を犯した青山玄蕃が切腹を拒んだため、三人の奉行が知恵を絞り出した結論が預かりという処置でした。

そこで玄蕃を青森の三厩まで押送する役目を仰せつかったのが十九歳の見習い与力の石川乙次郎だったのです。

 

史料に残りえなかった歴史を書きたい」という作者の言葉がありました。読了後、あらためてそういう目で本書を眺め直してみると、江戸末期の世相および種々の手続き、流人押送の前例等々が微に入り細にわたって記されていました。

実際、よくもまあこれだけ詳しく調べたとあらためて感心させられます。その上で「そのためには、残りえた史料をなるたけ多く深く読み、名もなき人々の悲しみ喜びを想像しなければならない。」と続くのです(『流人道中記』浅田次郎 : 参照)。

例えば冒頭から二十頁まで、三人の奉行による議論の場面がありますが、雨にけむる和田倉御門外評定所までの描写には短いながらも素晴らしいものがあります。

ちなみに、この場面の挿絵の出来栄えのもまた見事です(挿絵が語る 二人の旅路 : 参照)

加えて、ここでの三人の奉行の青山玄蕃に対する処遇についての議論自体が、前提となる当時の世相、旗本としての面目、侍という存在のもつ思考方法などの理解が無ければかけるものではないのです。

 

このように、本書の頁を繰る場面ごと描かれる、今とは異なる当時の建物や部屋のたたずまい、そこにいる武士や町人の発する言葉、振る舞いなど、当時の細かな知識が必要なことがよく分かります。

更に例をあげると、旅に際し与力は馬に乗ってもよいが同心は駄目だとか、天領内は直参の面目からも馬に乗れなどの言葉、また、目的地の三厩までの概ね一月の旅程で一人片道二両掛かるという叙述、後に出てくる「宿村送り」という制度など。

また、知行二百石の旗本であっても、御目見以下の分限では冠木門しか許されず、長屋門は駄目、それでも、奴、女中をそれぞれ三人、都合六人の使用人を使う、などきりがありません。

そして、こうした細かな知識がこれでもかと物語の流れの中に記されていながらもなぜか読書の邪魔をしません。さらりと書かれているので、読み手もさらりと読み流してしまうのでしょう。

でありながらも、どこかで見た、読んだ豆知識として頭の片隅には残っているようで、再度似た情報に接していくうちに固定されていくのです。

 

このような点を背景に、何といっても押送人である石川乙次郎の成長の様子が読みごたえがあります。

旅の途中で巻き起こる様々な出来事に対する玄蕃の対処、それに対する乙次郎の見方の変化は小気味がよく感動的です。

ただ、上巻を読み進めるうちは、旅の途中の初めて食べた鰻の味や次の按摩や稲葉小僧のエピソードなどは浅田次郎の名作『壬生義士伝』や『黒書院の六兵衛』などの感動からは遠い印象しかありませんでした。

 

 

しかし、下巻に入り小僧の亀吉の哀しみに満ちたエピソードや、「宿村送り」などという聞いたこともない話などを読み進むうちに様子が変わってきます。

これまでのエピソードの小さな興奮が読み手の心に積み重なっていたのでしょう。クライマックスに至っては強烈な感慨を抱くまでに至っていました。

本来であれば、その間の状況をこそ述べるべきなのかもしれませんが、ネタバレなしで書く自信はありません。

旧態依然とした社会制度、そうした制度を顧みることもない役人、人間が制度の中で生きるということを体現する侍の生き方、などに対する浅田次郎の思いが凝縮されたラストだと思います。

先日読んだ浅田次郎の『大名倒産』などで示された繫文縟礼で示される幕府の制度も同様の思いから書かれたと思われます。

 

 

ただ、残された青山玄蕃の家族を思うと、玄蕃の自己満足ではないか、もっと他の方法があったのではないか、との思いがあるのも事実です。

玄蕃の貫いた人間としての生き方、玄蕃なりの武士道は結局は残された家族らの犠牲の上に在るのではないでしょうか。

そうしたことも含めて、浅田次郎ここにあり、と明言できるさすがの小説でした。

カウントダウン

市長選に出ろ。オフィスに現れた選挙コンサルタントは、いきなりそう告げた。夕張と隣接し、その状況から双子市と称される幌岡市。最年少市議である森下直樹に、破綻寸前のこの町を救えというのだ。直樹の心は燃え上がってゆく。だが、二十年にわたり幌岡を支配してきた大田原市長が強大な敵であることに違いはない。名手が北海道への熱き想いを込めた、痛快エンターテインメント。(「BOOK」データベースより)

 

北海道の夕張市をモデルにした、とある地方自治体の破綻を描く長編の政治小説です。

 

作者の佐々木譲と言えば、警察小説もしくはハードボイルド小説の第一人者として名の通った作家さんです。

しかし、本書は警察小説やハードボイルド小説ではなく、財政再建団体に転落しようとするとある市の市長選に立候補しようとする一人にの若手市議の奮闘を描いた作品です。

 

そもそも、作者は何のために本書を描いたのかという点が気になります。

つまり、仮に、本書の惹句にあるように、夕張の状況をもとに痛快小説を書こうとしたのであれば、端的に言って、人気の警察小説ほどの面白さはありませんでした。

仮に夕張市が財政再建団体へと転落していく原因を作った、「夕張の中田哲司元市長とその多選を支え続けてきた翼賛的な市議会」への告発だとすれば、今度は幌岡市の現状描写が物足りない気はします。

どちらにしても、本書の惹句にある「痛快エンターテインメント」だとは言えず、どうにも消化不良の印象です。

 

本書の「解説」を書かれている佳多山大地氏によれば、本書は読売新聞北海道版に連載されたルポルタージュ「夕張ふたたび」の時の長期取材時の蓄積をもとに小説化されたものだそうです。

確かに、作者である佐々木譲自身の出身地でもある北海道夕張市の事情についてはよく調べられているし、夕張市の財政再建団体への転落に次いでの悲憤も強く感じます。

そして、長期政権による放漫財政と監視機能を失った議会という夕張市の状況を双子市とも称される本書の舞台幌岡市に置き換えている点もわかります。

しかし、痛快小説としての爽快感はありません。

 

本書の主人公である幌岡市の最年少市議である森下直樹が立候補を決心し、マスコミにその意思を公開したのは全体の三分の二を過ぎたあたりです。

そのこと自体は別にいいのですが、主人公の立候補を明言するまでの物語の動きは幌岡市の現況を説明するだけのものでしかありません。

それはつまりは夕張市への悲憤であり、告発であるとしか思えず、物語としての興味は半減しています。

 

また、いざ明言したのちに主人公に降りかかる反対派からの切り崩しや怪文書などの嫌がらせもあまりインパクトはなく、そうした事実があったという報告でしかありません。

つまりは痛快小説としての面白さがないとしか感じませんでした。

 

本書が告発小説でも痛快小説でも、どちらにしても物足りない印象を持ってしまったということになります。

佐々木譲という作家でしたらもう少しいわゆる面白い小説を期待できたはずだと思うだけに残念でした。

さんだらぼっち

芸者をやめたお文は、伊三次の長屋で念願の女房暮らしを始めるが、どこか気持ちが心許ない。そんな時、顔見知りの子供が犠牲になるむごい事件が起きて―。掏摸の直次郎は足を洗い、伊三次には弟子が出来る。そしてお文の中にも新しい命が。江戸の季節とともに人の生活も遷り変わる、人気捕物帖シリーズ第四弾。(「BOOK」データベースより)

 


 

髪結い伊三次捕物余話シリーズの四作目です。

 

鬼の通る道」 不破友之進の十二歳になる息子龍之介は近頃、いなみの方針で小泉翆湖という儒者が開いている私塾で素読吟味に向けた勉強をしていた。ところが、その竜之進が熱を出し、塾通いができなくなっていると聞いた。

爪紅」 お文のことを考えながら永代橋を渡っていた伊三次は、かつて贔屓の客で今はつぶれてしまった廻船問屋播磨屋の内儀・喜和の娘のお佐和と出会った。爪紅を刺した娘が相次いで死ぬ事件を追っていた伊三次は、お喜和がやっているという小間物屋をのぞいてみる。

さんだらぼっち」 辰巳芸者のお文は、茅場町の木戸番夫婦の駄菓子を売っている店で一人の侍とその幼い娘と知り合った。また、お文は伊三次の長屋近くに住むお千代という子の夜泣きのため眠れないでいた。

ほがらほがらと照る陽射し」 前話で長屋にいられなくなる事件を起こしてしまったお文は日本橋で芸者を始めていた。一方、お喜和の見世に寄った伊三次は掏摸の直次郎という男と出会う。お佐和に惚れたというのだった。

時雨てよ」 いよいよ広いが古さの目立つ佐内町の家へと移った伊三次とお文の生活が始まった。そこに、九兵衛という小僧の頭を結うことになり、ついでに弟子として雇うことになった。また、おみつは子が流れたものの、お文に懐妊の兆しが見えるのだった。

 

「鬼の通る道」は、まだ少年の龍之進の抱えた鬱屈と、その秘密に気付いた伊三次の話です。少年の繊細な心を大切にしながらも伊三次はどう動くのか、気になる一編です。

「爪紅」は、捕物帳としての側面が強い物語です。でありながら、やはり伊三次の過去の話が深く絡んできます。やはり本作品は“捕物余話”だと思わされる話でした。

「さんだらぼっち」は、「心の中を風が吹き抜けて行くような空しさに襲われる」こともあるお文の、幼子に対する思いを思わせる哀しい話です。いなみの懐妊もあり、いまだ子のない自らを思うのでしょうか。

伊三次と一緒になったお文の、芸者をやめてからの普通のおかみさんとしての生活もまた描かれています。ただ、それまで芸者として生きてきたお文の生きざまはそんなに簡単に変えれるものではないでしょう。

ここで「さんだらぼっちは米俵の両端に当てる藁の蓋のことである。桟俵法師が訛ったものだ」そうです。

「ほがらほがらと照る陽射し」は、お文の、早苗という女の子に対する思いがあのような事件を起こしたことを知った伊三次は新しい家に移ることを本気で考えます。と同時に、直次郎という男のお佐和に対する純情が胸を打つ一編になっています。

「時雨てよ」は、二人の新しい生活が始まったのはいいのですが、何かと物入りで稼がなければなりません。そこにお文の懐妊です。これからの二人の生活は明るいものだとの兆しのようでもあり、多難な前途を支援すようでもあります。

でも、赤ちゃんの誕生が難儀な出来事の前兆ということもないでしょうし、九兵衛という新人の登場もあり、新しい未来の始まりということになるのでしょう。

 

著者自身の「文庫のためのあとがき」によれば、著者はまずタイトルを決めてから小説を書き始めるそうです。タイトルを後回しにすると焦点がぼやけてしまうことが多い、とも書いてありました。

これはつまりはタイトルに著者の書きたいことが著されているということでしょうか。

また、この「あとがき」には、意外な事実も書いてありました。

それは、「時雨てよ」というタイトルに関してのことで、このタイトルは「時雨てよ 足元が歪むほどに」という海童という破調の俳句からの引用だというのです。そして、この海童という俳号は女優の故夏目雅子氏だというのでした。

また「余寒の雪」というタイトルも「富士の山 余寒の雪の 目にしみて」からの引用だとありました。