spring

spring』とは

 

本書『spring』は、2024年3月に筑摩書房から448頁のハードカバーで刊行された、長編のバレエ小説です。

『蜜蜂と遠雷』でピアノコンクールを舞台とした作品で私たちを驚かせてくれた作者が、今度はバレエという踊りをテーマに新たな驚きを見せてくれました。

 

spring』の簡単なあらすじ

 

構想・執筆10年ーー
稀代のストーリーテラーが辿り着いた最高到達点=バレエ小説
「俺は世界を戦慄せしめているか?」

自らの名に無数の季節を抱く無二の舞踊家にして振付家の萬春(よろず・はる)。
少年は八歳でバレエに出会い、十五歳で海を渡った。
同時代に巡り合う、踊る者 作る者 見る者 奏でる者ーー
それぞれの情熱がぶつかりあい、交錯する中で彼の肖像が浮かび上がっていく。
舞踊の「神」を追い求めた一人の天才をめぐる傑作長編小説。

史上初の直木賞&本屋大賞をW受賞した『蜜蜂と遠雷』や演劇主題の『チョコレートコスモス』など、
表現者を描いた作品で多くの読者の心を掴みつづける恩田陸の新たな代表作、誕生!
ページをめくるとダンサーが踊りだす「パラパラ漫画」付き(電子版には収録なし)(内容紹介(出版社より))

 

spring』の感想

 

本書『spring』は、直木賞本屋大賞を同時受賞した『蜜蜂と遠雷』という音楽をテーマにした作品で私たちを驚かせてくれた作者恩田陸が、新たにバレエをテーマに紡ぎだした長編のバレエ小説です。

今回も作者の筆の冴えは見事であり、四百頁を軽く超える濃密な作品ではありましたが、最後まで緊張感が途切れることなく読み終えることができました。


 

本書は天才的ダンサーであり振付師の萬春(よろずはる)という人物を、章別に異なる視点から描き出している全四章からなる作品です。

「第一章 跳ねる」の語り手は深津純というダンサーです。

純にとって春はワークショップで一人だけ輝きが異なる特別な存在として意識した人物であり、春の振付師としての可能性を意識させた人物でもあります。

「ワークショップ」とは「参加者が主体的に参加する体験型の講座」のことです。( Doorkeeper : 参照 )

 

「第二章 芽吹く」の語り手は春の叔父さんのさんです。

春の人となりを、春の幼いころからを知っている身内ならではの観察眼で掘り下げています。

「第三章 湧き出す」滝澤姉妹の妹の七瀬です。

春によれば、姉の美潮のバレエは「正しすぎる」のですが、七瀬は「ちょっと面白い」のであり、七瀬には頭の中で別な音楽が流れていると言います。その頭の中で鳴っている音に忠実に踊りをつけているから外からは余計な踊りに見えるのだと言うのです。

そして「第四章 春になる」の語り手は春自身です。

この章では、これまでの三人とのエピソードが春自身の目線で語られており、物語に厚みが出ています。

 

作者の恩田陸の表現力の素晴らしさは言うまでもありません。

蜜蜂と遠雷』ではピアノコンクールでのピアニストの演奏の様子を見事に言語化して直木賞本屋大賞を同時受賞したその力量は、バレエという踊りの世界を描いても同じように表現してくれているのです。

この作者の文章の表現力の的確さ、その美しさはもちろんのことであり、個人的に驚くのは、春が振り付けをしている多くの踊りが、その全部について恩田陸という作家が実際に脳内でイメージして振り付けされていることです。

例えば、ラベルのボレロという曲に合わせた振り付けのアイデアでは、二頁弱にわたりオーケストラの個々の楽器それぞれに踊り子を割り当てた振り付けを説明してあります。

このようなオーケストラの構成をそのままに使うというアイデアは素人から見ると見事として思えないのですが、実際のダンサーはこのような振り付けを見てどう思うのでしょうか。話を聞いてみたいものです。 

ほかにも、私が聞いたこともないドイツのメルヒェン(昔話)をテーマにした振り付けなど、挙げていけばキリがありません。

 

その振付がバレエの専門家から見てどう評価されるのかはわかりません。

でも、バレエのことなど全く分からない素人からすると、仮にそうした振り付け作業が専門的にはおかしいものだとしても、その振付の表現に隠された作者の知識量は考えるだけでも恐ろしくなります。

元となる音楽だったり民話に関する詳細な知識があって初めてきっかけがあり、その材料をもとに詳細に調べ上げ、その上でバレエに対する感性をもって振り付けをしていく作業がどれだけ大変なことか。

そうした作者の情報量とその情報を生かす能力の高さは私達一般人の想像すらできないところにあると思われます。

 

そして、春が出会い、影響を受けたバレエの先生たちの森尾つかさエリックリシャール、そしてジャン・ジャメなどとの関係性も素晴らしいものがあります。

さらに深津純ハッサンヴァネッサ滝澤姉妹などの友人たちがいて今の春がいます。

加えて、第二章で語り手となった春の叔父さんのさんも忘れることはできません。

踊りの表現もさることながら、彼ら相互のつながりの深さ、影響し合い成長していくさまが表現されている本書はまた青春小説であり、成長小説でもあると思えます。

芸術的な感動を小説を読んでいて感じるという経験はそうはできないと思います。本書はその数少ない経験を感じさせてくれる作品だと思うのです。

 

ちなみに、『チョコレートコスモス』という作品では「演劇」の世界を展開しているそうですが、私はまだ読んでいませんので、そのうちに読みたいと思います。

また、本書の各ページの下部にはダンサーのパラパラ影絵が描き出してあるのも遊び心があり楽しいものです。

イコン

イコン』とは

 

本書『イコン 新装版』は『安積班シリーズ』の第5弾で、1995年10月に四六判で刊行されて、2016年11月に文芸評論家の関口苑生の解説まで入れて505頁の新装版として講談社文庫から出版された長編の警察小説です。

インターネット全盛の現代からするとかなり古さを感じるパソコン通信の世界を取り上げ、アイドルとは何かまで考察されている珍しい警察小説です。

 

イコン』の簡単なあらすじ

 

「十七歳ですよ。死んじゃいけない」連続少年殺人の深層に存在した壮絶な真実とは!?熱狂的人気を集めるも正体は明かされないアイドルのライブでの殺人事件。被害者を含め現場にいた複数の少年と少女一人は過去に同じ中学の生徒だった。警視庁少年課・宇津木と神南署・安積警部補は捜査の過程で社会と若者たちの変貌に直面しつつ、隠された驚愕の真相に到達する。『蓬莱』に続く長編警察小説。

「十七歳ですよ。死んじゃいけない」
連続少年殺人の深層に存在した壮絶な真実とは!?

世紀末”日本”が軋(きし)む。
バーチャルアイドルの影に隠されたものは?
傷つけあう”未成年”の衝撃のリアル!
警視庁少年課・宇津木と神南署・安積警部補が動く!
『蓬莱』続編ともいうべき今野敏警察小説の源流。

熱狂的人気を集めるも正体は明かされないアイドルのライブでの殺人事件。被害者を含め現場にいた複数の少年と少女一人は過去に同じ中学の生徒だった。警視庁少年課・宇津木と神南署・安積(あづみ)警部補は捜査の過程で社会と若者たちの変貌に直面しつつ、隠された驚愕の真相に到達する。『蓬莱(ほうらい)』に続く長編警察小説。(内容紹介(出版社より))

 

イコン』の感想

 

本書『イコン』は、『安積班シリーズ』の第五弾作品ですが、細かに見るとシリーズ内の初期三作品「ベイエリア分署」時代に続く「神南署」時代の第二弾作品でもあります。

ただ、本書での安積警部補はどちらかというと脇役に近い存在であり、『安積班シリーズ』に位置付けていいのかは疑問がないわけではありません。

この点、「神南署」時代の第一弾作品『蓬莱』という作品も同様に安積警部補の物語というよりは「蓬莱」というゲームの話を借りた「日本」という国の成り立ちを考察した作品となっていますが、一応は安積警部補の物語とはなっています。

しかしながら、『蓬莱』も含めて『安積班シリーズ』とするのが一般的なようですので、本稿でもそのような位置付けとしています。

 

本書『イコン』はそのパソコン通信上で人気となっているアイドルの有森恵美をめぐり起こった殺人事件について、神南警察署刑事課強行犯係の安積剛志警部補が、同期の警視庁生活安全部少年課警部補である宇津木真とともに活躍する警察小説です。

今野敏の作品での少年課に所属している警察官といえば、『警視庁強行犯係・樋口顕シリーズ』に出てくる警視庁生活安全部少年事件課の氏家譲や『鬼龍光一シリーズ』に登場する富野輝彦巡査部長などが思い出されます。


彼ら少年事件課の捜査員たちが重要性を持って描かれているのは、今野敏という作家の中で少年事件がそれなりに重きが置かれているということなのでしょう。

本書でも、少年らの行動に振り回される安積や宇津木らの姿があります。

 

情報収集のために有森恵美というアイドルのライブを訪れていた警視庁生活安全部少年課の宇津木真警部補の眼の前で、一人の少年が乱闘騒ぎの中殺されるという事件が発生します。

通報により駆けつけたのが安積警部補らだったのですが、このライブのアイドルの有森成美という存在がパソコン通信の中での存在ということで、宇津木も安積も全く理解ができないのでした。

 

本書『イコン』では「パソコン通信」が重要なアイテムとして登場していますが、それもそのはずで本書は初版が1995年10月に出版されている三十年近くも前の作品です。

ここで登場する「パソコン通信」とは、モデムというアナログ信号をデジタル信号に相互変換する機器などを介して電話回線を通じてデータを送受信し、基本的にテキストベースで会話をする通信システムで、現在のインターネットの前身と言ってもいいシステムだと思います。

当時はニフティサーブ(NIFTY-Serve、NIFTY SERVE)などが大手の通信会社として利用されていました。

また、今ではパソコンなどで普通に使われているアイコンについても、その由来が宗教画のイコンにあることの説明から為されています。

ただ、個人的にはDOS画面でコマンドベースで行うパソコン通信しか覚えておらず、アイコンでプログラムを立ち上げて行うパソコン通信は知りません。

 

でも、本書『イコン』で特筆されるべきなのは、作者今野敏による「アイドル論」ではないでしょうか。

妙に説得力のあるアイドル論だと思っていたら、今野敏は上智大学を卒業後、数年間ではあるものの東芝EMIに入社して芸能界に近いところにいたというのですから納得です。

加えて先に述べたパソコン通信に関する知識など、著者の作品は時代を取り込んだものが多いようで、そうしたアンテナもこの作者の人気の原因となっているのでしょう。

 

安積班シリーズ』初期作品で安積班のメンバーが勤務する警察署もまだ定まっていない時期の物語であり、またシリーズの中でも異色的な物語ではありますが、やはり今野敏の描く作品としての魅力は十二分に備わった作品です。

異色の作品であるからこその魅力があると言ってもいいかもしれない作品でした。

虚構の殺人者 東京ベイエリア分署

虚構の殺人者 東京ベイエリア分署』とは

 

本書『虚構の殺人者 東京ベイエリア分署』は『安積班シリーズ』の第二弾で、大陸ノベルスから1990年3月に刊行されて、2022年1月にハルキ文庫から新装版として280頁で出版された、長編の警察小説です。

『安積班シリーズ』の基本の形が構築されていく過程にある作品ですが、安積警部補の心はすでに班員への気遣いであふれています。

 

虚構の殺人者 東京ベイエリア分署』の簡単なあらすじ

 

東京湾臨海署ー通称ベイエリア分署の管内で、テレビ局プロデューサーの落下死体が発見された。捜査に乗り出した安積警部補たちは、現場の状況から他殺と断定。被害者の利害関係から、容疑者をあぶり出した。だが、その人物には鉄壁のアリバイが…。利欲に塗られた業界の壁を刑事たちは崩せるのか?押井守氏と著者の巻末付録特別対談を収録!!(「BOOK」データベースより)

 

虚構の殺人者 東京ベイエリア分署』の感想

 

本書『虚構の殺人者 東京ベイエリア分署』は『安積班シリーズ』の第二弾で、安積班の面々がそれぞれに個性を発揮し活躍する読みがいのある作品です。

 

あるパーティーで、テレビ局のプロデューサーがビルから落ちて死亡しましたが、遺体には首を絞められた跡があり、他殺として捜査が始められます。

調べていくうちに、テレビ局内で権力争いがおこなわれている事実が発覚します。しかし被害者と対立関係にあったプロデューサーには、鉄壁のアリバイがあったのでした。

こうして本書はチームで行う捜査により、テレビ局という特殊な世界を舞台にした事件を解決していきます。

今野敏は本シリーズの第五弾の『イコン』で、かなり踏み込んだアイドル論を展開していますが、今野敏は数年間ではあるものの東芝EMIに入社し芸能界に近いところにいたそうなので納得です。

 

本『安積班シリーズ』の主人公は東京湾臨海署の刑事課強行犯の安積剛志警部補でしょうが、本当は「安積班」だというべきでしょう。

それは、この『安積班シリーズ』が、特定の探偵役の活躍による謎の解明ではなく、安積剛志を班長とする捜査チームの物語だからです。

つまりは、集められた事実をもとにした探偵役による推理の話ではなく、個々の具体的な人間の集まりとしての捜査チームの地道な活動の過程に主眼が置かれている物語なのです。

 

安積班には個性豊かな刑事たちがいて、彼ら個々人がその能力をフルに生かして捜査を行い、集められた事実をもとに班員皆で犯罪行為に隠された事実などをあぶり出し、犯人を特定します。

安積班のメンバーは、生真面目な村雨秋彦部長刑事、小太りな外見とは反対に緻密な頭脳を持つ須田三郎部長刑事、スポーツ万能で剣道五段の腕前の黒木和也巡査、安積班一で一番若い桜井太一郎巡査、そしてベイエリア分署時代だけの大橋武夫巡査です。

このほかに、安積警部補の警察学校時代の同期で速水直樹交通機動隊小隊長や、また臨海署刑事課鑑識係係長の石倉晴夫警部補(初期の東京ベイエリア分署時代および『晩夏』では石倉進となっている:ウィキペディア 参照 )が安積の軽口や相談相手となっています

それに安積をライバル視している警視庁捜査一課殺人犯捜査第五係の相楽啓警部補を忘れてはいけません。この人物は後に東京湾臨海署刑事課強行犯第二係の係長として登場してきます。

 

関口苑生氏による本書の解説には、著者の今野敏は「ただただ刑事たちが右往左往する様が描かれる<警察小説>」をなかなか書かせてもらえなかった、とあります。

また、次巻『硝子の殺人者 東京ベイエリア分署』での関口苑生氏の解説では警察官や刑事も一人の人間であるのだから、組織の中に埋没していた「個」としての刑事を一個の人間として見つめ直し、警察小説としてのジャンルを確立した、とも書かれています。

それが、今ではベストセラーシリーズとなっており、刑事たちの地道な捜査を描く手法の警察小説が人気分野として確立されているのですから、それは今野敏の功績だというのです。

本書『虚構の殺人者 東京ベイエリア分署』はシリーズのまだ二作目ということもあるためか登場人物の紹介に紙数を割いています。

物語の中心人物である安積警部補に関してはもちろん、特に村雨や須田に関してはそうです。

ただ、この二人に関してはシリーズが進んでもそれなりの人物紹介がなされているので、もしかしたらこうした印象は再読している私の思い込みなのかもしれません。

テミスの不確かな法廷

テミスの不確かな法廷』とは

 

本書『テミスの不確かな法廷』は、2024年3月に232頁のソフトカバーでKADOKAWAから刊行された連作の中編推理小説集です。

裁判官が主人公であること以上に、その裁判官が発達障害を患っているという設定に加え、その裁判官の心象の描写がかなり読みごたえのある作品でした。

 

テミスの不確かな法廷』の簡単なあらすじ

 

任官七年目の裁判官、安堂清春は、東京からY地裁に赴任して半年。幼い頃、衝動性や落ち着きのなさから発達障害と診断され、専門医のアドバイスを受け、自身の特性と向き合ってきた。市長候補が襲われた詐欺未遂と傷害事件、ほほ笑みながら夫殺害を供述する女性教師、“娘は誰かに殺された”と主張する父親…。さまざまな事件と人との出会いを通じ、安堂は裁判官として、そしてひとりの人間として成長していく。生きづらさを抱える若手裁判官が、自らの特性と格闘しながら事件に挑む異色の青春×リーガルミステリ!(「BOOK」データベースより)

 

テミスの不確かな法廷』の感想

 

本書『テミスの不確かな法廷』は、発達障害を患っている裁判官を主人公にしたユニークなミステリー作品です。

人の気持ちを読み取るのが苦手な自閉スペクトラム症(ASD)、衝動性によりじっとしていることを許さない注意欠如多動症(ADHD)であることを自覚して生きている主人公が、その特性と人並外れた記憶力とにより事件の裏側を読み解いていくさまは読みごたえがありました。

 

本書はお仕事小説としてのの側面も有していて、普段はまったく考えることもない裁判官の職務内容について私たちは如何にその仕事内容を知らないものかを思い知らされます。

単に知らないというだけではなく、その裁判官に判事特例判事補判事補という三つの種類があるといった形式的なことから、「宅調」という言葉で示される、自宅での作業がなければこなせない仕事量があることなど、実質的な仕事内容に至るまで詳しく知ることができるのです。

 

いわゆる法廷ものと呼ばれる作品は少なくない数の作品がありますが、裁判官が主人公のミステリーは思い浮かびません。

ただ家庭裁判所の裁判官を主人公にしたコミックでは、ヒューマンドラマではありますが毛利甚八原作で魚戸おさむが描いた『家栽の人』という作品が思い出されます。


 

本書『テミスの不確かな法廷』の主人公は、本州の最も西にある小さな裁判所に勤務する安堂清治という任官七年目の特例判事補です。

その裁判所のほかの裁判官もまた個性的であり、本書では主人公が属する三人一組の合議体の総括判事である門倉と、任官二年目の判事補の落合が登場しています。

彼らの間では普通のサラリーマンの会話にも似た会話が示されていて、特に門倉判事の言動はこれで裁判官としてやっていけるのかというほどユニークですが、法廷での訴訟指揮はさすがに裁判官と思わせられます。

さらには、弁護士の小野崎乃亜という女性弁護士が弁護人として各裁判に登場してきて花を添えるとともに、かなり重要な役割をになってきます。

 

本書内で挙げられている具体的な裁判例では現実にとんでもない裁判官もいるようで、そうした細かな知識も本書の魅力になっています。

なにより、ミステリーとしても本書の謎解きはそれなりの解決に加え、更にひとひねりが加えてあり、そうした点も魅力の一つといえます。

解決されるべき事件の被告人が弁護人との打ち合わせに反して罪状認否では犯行を認めなかったり、夫を殺害したと言いながら微笑んでいたり、「娘は誰かに殺された」と主張したりと少しずつ異なり、裁判の進行もちょっと異なります。

気になった一例だけ挙げると、第二話での裁判官から裁判員への「法廷での法廷でのやり取りを忘れるように」との言葉に対し、裁判員のそんなことはできないとの反論があり、これまでにはない進み方をした上で、最後にさらに別の仕掛けが待っているのです。

 

とはいえ、本書『テミスの不確かな法廷』の一番の特徴といえば主人公が発達障害を患っているということにあります。その上で、その症例についても詳しく描き出してあります。

自閉スペクトラム症と注意欠如とが混合した状態になり、何かへの強い執着から離れることができず、訴訟記録を読むことができなくなるなど、その具体例は驚きです。

その一例として挙げると、記録上に被告人の上田正という名前が出てきたときに、その氏名が縦線と横線だけで成り立っていること、さらに「正」という字は「一」と「止まる」という文字から成っており、正しいとは一度立ち止まって考えることなのか、などと考えてしまうというのです。

それだけでなく、「正」という文字は「上」と「下」という正反対の意味を持つ感じから成り立っていることなどに気が移ってしまい、他のことが考えられなくなってしまう、ともありました。

こうした症状は人により異なるものではあるのでしょうが、発達障害に対する自分の知識の無さに驚くばかりでした。

 

そうした頭脳の働きの特性が集団行動になじまず、社会生活を営むうえで困難さをもたらすことは素人考えでも分かります。

そんな状況の中で主人公は裁判官として対象となる事件の記録を読み進め、弁護人や検事と会い、訴訟の指揮をとらなければならないのです。

現実にそんなことができるのか、ということが第一の印象でした。しかし、現実にできるかどうかの判断が法律も医学も分からない素人に判断ができるはずもなく、この点は無視することとしました。

ただ、裁判官と弁護人が法廷外で会って事件について話す場面があり、そうしたことが許されるものかは疑問として残りましたが、その点も素人には判断がつかない以上、無視することにします。

この二点を考えずに本書を評価すると、本書は主人公の裁判官のユニークな性格設定と卓越した記憶力のため独特な推理の過程を経て、ミステリーとして実に面白い物語となっているのです。

 

本書『テミスの不確かな法廷』はもしかしたら続編は書かれないのかもしれません。そう思わせるラストシーンでもあるのです。

しかしながら、主人公の設定の面白さ、その推理過程のユニークさなどを考えると、是非続巻を読んでみたいと思わせられる作品でした。

俺たちの箱根駅伝

俺たちの箱根駅伝』とは

 

本書『俺たちの箱根駅伝』は、2024年4月に上下二巻合わせて712頁のソフトカバーで文藝春秋から刊行された長編のスポーツ小説です。

箱根駅伝に「関東学生連合チーム」としてオープン参加をする選手たちと、彼らを中継するテレビマンたちの奮闘を描いた感動の作品です。

 

俺たちの箱根駅伝』の簡単なあらすじ

 

それは、ただのレースではない。2年連続で本選出場を逃した崖っぷちチーム、古豪・明誠学院。4年生の主将・隼斗にとって、10月の予選会が最後の挑戦だ。故障を克服し、渾身の走りを見せる彼らに襲い掛かる、のは「箱根の魔物」。隼斗は、明誠学院は箱根路を走ることが出米るのか?絶対に負けられない戦い、始まる。( 上巻:「BOOK」データベースより )

217.1km。伝説のレース、開幕。明誠学院駅伝チームを率いることになった、商社マンで伝説のOB・甲斐。彼が掲げた“規格外”の目標は、“寄せ集め”チームのメンバーだけではなく、ライバルやマスコミをも巻き込んでゆく。煌めくようなスター選手たちを前に、彼らが選んだ戦い方とは。青春とプライドを賭け、走り出す。( 下巻:「BOOK」データベースより )

 

俺たちの箱根駅伝』の感想

 

本書『俺たちの箱根駅伝』は、箱根駅伝に出場する「関東学生連合チーム」のメンバーと、その箱根駅伝を中継するテレビマンたちの姿を描いた感動のスポーツ小説です。

箱根駅伝を走るまでの主役たちの様子を描いた上巻と、本選が始まってからを描いた下巻とで全部で七百頁を越える作品ではありましたが一気に読み終えてしまいました。

本書で描かれている駅伝チームは、箱根駅伝予選敗退組による「関東学生連合チーム」という混成チームであり、オープン参加としてチームも個人としても記録は残りません。

箱根駅伝とは、正式名称を「東京箱根間往復大学駅伝競走」といいます。そして「関東学生連合チーム」とは、毎年十月に行われる箱根駅伝予選会で出場権を得られなかった大学の中から予選会で個人成績が優秀な選手が選抜されて構成されるチームです。( ウィキペディア : 参照 )

そのため、本選出場のチームに比べ彼らが使用するタスキは重さが違うため出場選手たちのモチベーションが違い、上位進出などできる筈がない、と考えられています。

本書中でも、他大学の監督からの批判的な意見が出る中での甲斐新監督の采配などが見どころの一つになっています。

さらには中継チームでも、「関東学生連合チーム」はオープン参加のチームであるがゆえに取材も十分に為されないために、中継に十分な資料が無いなどのトラブルのもとになるのです。

 

具体的には、本書『俺たちの箱根駅伝』では、明誠学院大学陸上競技部の四年生である青葉隼斗を中心に、勇退した諸矢久繁同競技部前監督の指名で就任することになった甲斐真人新監督の姿や箱根駅伝を中継しようとする大日テレビのスタッフの姿が交互に描かれています。

青葉隼斗は、主将である自分のミスから箱根駅伝本選出場を逃したのであり、そういう自分が「関東学生連合チーム」の一員として本選に出場してもいいものか思い悩むことになります。

そうした隼斗の気持ちはありつつも、かつての仲間たちの批判や応援をどう受け止めていくか、作者の筆は冴え渡ります。

また、新監督として皆の信任を得るためにも「関東学生連合チーム」の監督として皆を納得させる結果を残す必要がある甲斐監督はいかなる手を打ってくるのか、先の展開が気になります。

こうした筆の運びは、あの『半沢直樹シリーズ』と同様であり、あちらは企業小説であってミステリー風味も備えた痛快小説としての楽しみがありましたが、本書もまた同様に読者の関心を惹きつけているのです。

 

本書が『半沢直樹シリーズ』と異なる点を挙げるとすれば、こちらはスポーツがメインの小説だという点はもちろんなのですが、それ以上に本書では箱根駅伝本選出場ということと同時に、それを中継するテレビチームの内情をも描き出してあるということでしょう。

この点は、箱根駅伝を描いたスポーツ小説としてまず思い出す三浦しをんの『風が強く吹いている』や堂場瞬一が描いた『チーム』という作品とも異なるところです。

風が強く吹いている』という作品は走ることの素人たちが同じ下宿にいる仲間たちと駅伝を走ることを目指す作品で、私が三浦しをんに惹かれるようになった作品でもあります。

また、堂場瞬一の『チーム』は、本書と同じように本選出場がかなわなかった選手たちを集めて走る「学連選抜」の物語です。

学連選抜とは「関東学連選抜チーム」のことであり、本書の「関東学生連合チーム」と代わる前の名称です。( ウィキペディア : 参照 )

両作品共にかなり読みごたえがある作品ですが、箱根駅伝を走る選手たち自身の物語でした。


本書ではそれに加えて、箱根駅伝を中継するテレビスタッフの奮闘の様子までも描き出してあります。

駅伝本選を走る選手たち自身の物語に加え、そのレースを客観的に見ている中継スタッフをもまた物語に取り込むことで、読者の箱根駅伝への関心は一段と広がりを持ってくるように思えます。

特に本書下巻になると箱根駅伝本選の模様が往路、復路ともに詳しく描写されていきます。

 

そこでは、毎年正月の二日、三日に私たちがテレビの前にくぎ付けとなるテレビ画面で知っているあの景色が再現されていくのです。

そこに実際に箱根路を走るランナーたちの心象が描かれ、それに加えて実況する側の裏側まで見せてくれるのです。

テレビの画面を思い出しながらの読み手の興奮は次第に盛り上がっていき、最終走者がゴールに飛び込むまでその興奮はおさまることはありません。

 

作者の池井戸潤にはこれまでも『陸王』や『ノーサイド・ゲーム』他のスポーツ小説と言える作品もありました。しかし、それらはあくまで企業スポーツの一環として描かれていたのです。


しかし本書はそうではなく、純粋に駅伝というスポーツそのものが描き出されていて読者をスポーツの現場へと連れて行ってくれるのです。

久しぶりにミステリーやアクションではなく、純粋に人間の身体のみを使用するスポーツ分野で興奮する作品を読みました。

魔女の後悔

魔女の後悔』とは

 

本書『魔女の後悔』は『魔女シリーズ』の第四弾で、2024年4月に文藝春秋からハードカバーで刊行された長編の冒険小説です。

女性が主人公のエンターテイメント小説であり、相変わらずに第一級の面白さを持ったハードボイルド作品でした。

 

魔女の後悔』の簡単なあらすじ

 

“魔女”シリーズ、9年ぶり待望の最新作!「ねぇ、“親の因果が子に報い”って、信じる?」闇のコンサルタント・水原の前に現れた一人の少女。その亡父は、韓国政財界を震撼させた巨額詐欺事件の主犯だった。複数の勢力に追われる少女を警護する水原だが、彼女との思わぬつながりを突き付けられる。(「BOOK」データベースより)

 

魔女の後悔』の感想

 

本書『魔女の後悔』は『魔女シリーズ』の第四弾で、女性が主人公のシリーズ作品としてこれまで同様の第一級の面白さを持ったハードボイルド作品でした。

登場人物
水原 裏社会のコンサルタント。男の人間性を一瞬で見抜く能力を持つ。
星川 元警官で性転換した私立探偵。水原の相棒。
湯浅 元警視庁公安部の刑事。現在は国家安全保障局(NSS)に所属。
西岡タカシ ウェストコースト興産の経営者。
本田由乃 山梨の学校に通う十三歳の少女。水原の警護を請ける。

 

主人公の水原という女は、わが郷土熊本の天草諸島にあったという浪越島、通称地獄島という売春島に祖母の手で十四歳の時に売られ、二十四歳で脱出するまで何千という客の相手をさせられた過去を持った女です。

水原の二十四歳での脱出とは、水原が惚れ抜いた村野晧一という男の手を借りて果たしたものです。

しかし、島抜けの際に生き残った村野が今度は「番人」となり島抜けを果たした水原の前に現れたものの、水原はその村野を迎え撃ち、自らの手で村野を殺したのです。

 

こうした過去からも分かるように、強烈な個性を持った水原という女はハードボイルド小説の主人公としてもってこいのキャラクターとして存在しており、大沢在昌の作品の中でも目立った存在です。

また、水原の相棒ともいえる存在として星川という人物が配置されていて、この存在が物語に大きく幅を持たせています。

この星川は元警官で性転換した私立探偵であり、水原の相棒として水原の仕事にも、そして何よりも水原の精神的な面での補助者として大切な役割を果たしているのです。

また、水原事務所の運転手兼アシスタントとして木崎という男がいますが、この男に関してはほとんど情報がありません。

水原にはまた現在は国家安全保障局(NSS)に所属している元公安の湯浅という仲間もいて、星川では集めることのできない公的な情報などをもたらしてくれます。

 

水原は、その後一目見ただけで男の人間性を見抜くという能力を生かし、裏のコンサルタントとして生きていました。

本書『魔女の後悔』での水原は、京都鞍馬浄寂院庵寿の浄景尼から一人の少女本田由乃を東京から浄景尼のもとへと届けてくれるように頼まれます。

その旅の途中では、何者かが水原を攫おうとしますが、何とか逃れた水原は少女を鞍馬へと届けます。

しかし、由乃は帰京の途中で拉致されてしまいます。そこで由乃を可愛がっていた水原や星川は由乃を助けるために動くのです。

 

本シリーズの面白さの一つには、星川や湯浅と水原との会話の楽しさがあります。互いに相手をけなす軽口を叩きあいながら、その裏には絶大な信頼が存在することが垣間見えるのです。

ハードな設定のもと、主役とその相棒の軽妙な会話はハードボイルド作品ではよくある設定ではありますが、本書の水原と星川も実に魅力的なバディとして存在しています。

また、この二人だけに限らず、湯浅らの他の登場人物との会話もまた魅力的です。

 

そうした登場人物の会話の面白さに加え、大沢作品の特徴ともいえるアフォリズムの存在は読み手の心に一言で強く食い込んできます。

例えば、湯浅と元韓国の諜報員だった金村という男を比べ、金村を信用できないとする理由が述べられています。

それが、「ヒロイズムをまるで持たない男は、女よりたちが悪い。女は裏切ってもそれを忘れるだけだが、男はそれを歪な快感にかえられる。そんな男は殺す他ない。」という言葉です。

こうしたアフォリズムの使い方が大沢在昌はうまく、つい、惹き込まれてしまうのです。

 

本書『魔女の後悔』では水原の過去が再び取り上げられ、過去を引きずりながら生きていくしかない水原の悲哀もまた示されます。

それでもなお強く生きていかざるを得ない水原の存在が強烈に主張される作品であり、やはり大沢在昌のハードボイルドは面白いと再認識させてくれる作品でした。

続巻が待たれます。

レーエンデ国物語 夜明け前

レーエンデ国物語 4 夜明け前』とは

 

本書『レーエンデ国物語 4 夜明け前』は『レーエンデ国物語シリーズ』の第四弾で、2024年4月に600頁のハードカバーで講談社から刊行された長編のファンタジー小説です。

個人的好みからいうと、これまでの物語の流れからして今回は今一つの展開でした。

 

レーエンデ国物語 4 夜明け前』の簡単なあらすじ

 

四大名家の嫡男・レオナルドは佳き少年だった。生まれよく心根よく聡明な彼は旧市街の夏祭りに繰り出し、街の熱気のなか劇場の少女と出会う。-そして真実を知り、一族が有する銀夢草の畑を焼き払った。権力が生む欺瞞に失望した彼の前に現れたのは、片脚をなくした異母妹・ルクレツィアだった。孤島城におわす不死の御子、一面に咲き誇る銀夢草、弾を込められた長銃。夜明け前が一番暗い、だがそれは希望へと繋がる。兄妹は互いを愛していた。きっと、最期のときまで。(「BOOK」データベースより)

 

レーエンデ国物語 4 夜明け前』の感想

 

本書『レーエンデ国物語 4 夜明け前』は『レーエンデ国物語シリーズ』の第四弾の長編のファンタジー小説です。

これまでのシリーズ作品と照らしても意外な展開を見せ、またこれまで貼られた伏線を回収する作業に入っている作品でもあります。

ただ、個人的にはファンタジー物語としてそれなりの魅力は感じたものの、総じて本書の展開に対しては疑問符のつく作品でした。

 

その疑問符について詳しく述べることは本書のネタバレをすることになりますので実際読んでいただくことしかできません。

ただ、主役の一人であるルクレツィア・ペスタロッチの行動が納得のいかないものだった、個人の行動としてではなく、物語の展開として認めることができなかった、ということだけ記すにとどめておきます。

 

本書の主人公は一人は父ヴァスコと母イザベルとの間のレオナルド・ペスタロッチで、もう一人はレオナルドの異母妹のルクレツィア・ペスタロッチです。

九十年ほど前、聖イジョルニ帝国は始祖ライヒ・イジョルニの血を引いた五大名家のうち現在も残っているペスタロッチ家ダンブロシオ家などの四大名家で聖イジョルニ帝国を教区分割統治することになりました。

そのあと、四大名家のうちでも最弱の家柄だったペスタロッチ家がヴァスコなどの活躍で力を得、次期法皇帝になろうかというほどの力を得ていきます。

ヴァスコの息子で主人公であるレオナルドはペスタロッチ家の次期当主となるべき立場でした。

このレオナルドの友人だったのが、一人はペスタロッチ家の忠臣ジュード・ホーツェルの息子のブルーノであり、もうひとりがアリーナを母とするレオナルドの二つ年下の従兄弟のステファノ・ペスタロッチでした。

レオナルドとブルーノはポネッティ旧市街へイジョルニ人であることを隠して遊びに行き、「春光亭」のレオーネと知り合い、レーエンデ国物語 喝采か沈黙かで登場してきたリーアン・ランベール作の戯曲「月と太陽」と出会います。

そんな中、レオナルドの家に義母妹であるルクレツィア・ペスタロッチがやってくるのでした。

 

本書で作者が述べたいことは「正義」の衝突ということでしょう。

「正義」という観念は相対的なものであり、「正義」を主張する者の数だけ「正義」がある、とはよく言われることです。

それは今現在の現実社会で起きている戦争を見ればすぐにわかることで、どちらの側も自分の国の正義を主張した結果起きていることです。

作者は「普遍的な正しさは、僕ら人間には荷が重すぎるね」と新聞記者のビョルンという人物に言わせていますが、それは皆が感じていることだと思われます。

 

先に述べたように、本書に対する私の感想としては、疑問符がつく作品だったというにつきます。

本書でのルクレツィアの仕業は常軌を逸しているというレベルを超えており、本書中でも言われているように、ほかに手段があるだろうと思うからです。

物語としては確かに面白く、それなりに惹き込まれて一気に読み終えたのですが、私の好きなファンタジー作家の上橋菜穂子などの作品と比べるとどうしても上橋作品に軍配を上げてしまいます。

何故かよく分かりませんが、それは多分物語の組み立て方が上橋作品の方が緻密な印象を受け、物語世界の完成度が高い印象なのです。

つまりは、上橋作品は戦術や戦略面での視点や、国家間の地政学的な視点まで加味されていたりと、読者が気づかないであろう細かなところまで考えられていて読んでいてその視野の広さに引き込まれるのです。

その点田崎作品はストーリー展開の面白さはあるものの、上橋作品に比して視野の広さ、心象描写細かさにおいて今一つ及ばない気がします。

 

他の作家さんと比較するなど失礼かと思いますが、要は私の好みとして少し異なるのだ、ということです。

ですから、華やかなファンタジーものを好む方には本書のストーリー展開には胸躍るものがあり、かなり評価が高くなるのではないでしょうか。

でも、これまで文句を言ってきた私も最終巻となる次巻『レーエンデ国物語 海へ』を心待ちにしているのですから勝手です。

自分のことではあるもののやはり読み手は我儘だと思いますが、しかし正直なところです。

蓬萊

蓬萊』とは

 

本書『蓬莱』は『安積班シリーズ』の第四弾で、1994年7月に講談社から刊行されて、2016年8月に同じく講談社から444頁で文庫化された、長編の警察小説です。

徐福伝説に材をとり、今野敏のお得意の伝奇小説的な手法で日本の成り立ちにについての考察をゲーム制作に置き換えて構成してある、シリーズの中でもユニークな作品です。

 

蓬萊』の簡単なあらすじ

 

この中に「日本」が封印されているー。ゲーム「蓬莱」の発売中止を迫る不可解な恫喝。なぜ圧力がかかるのか、ゲームに何らかの秘密が隠されているのか!?混乱の中、製作スタッフが変死する。だが事件に関わる人々と安積警部補は謎と苦闘し続ける。今野敏警察小説の原型となった不朽の傑作、新装版。(「BOOK」データベースより)

 

蓬萊』の感想

 

本書『蓬莱』は『安積班シリーズ』の第四弾で、徐福伝説をもとに日本という国の成り立ちについても考察されている作品です。

 

本書での特徴としては、まず舞台が神南署であることが挙げられます。

ウィキペディアによればこの『安積班シリーズ』は、第一期の『ベイエリア分署シリーズ』、第二期の『神南署シリーズ』、そしてベイエリア分署復活後の『東京湾臨海署安積班シリーズ』と区別できるようです( ウィキペディア : 参照 )。

 

次に、本書での安積剛志警部補はまるでハードボイルドタッチの警察小説の主人公のような雰囲気をまとって登場しています。

本書の主人公の安積警部補は、警察官という職務に忠実ではあるものの、しかし一人の人間としての弱さも併せ持った存在として描かれていたはずです。

しかし、本書での安積警部補はその存在感だけで相手を威圧するような刑事として登場しているのです。

 

本書の一番の特徴としては、「蓬莱」という名のゲーム制作に名を借りて、日本という国の成り立ちまで考察することを目指していることです。

そこでは、魏志倭人伝にも記されているという徐福伝説をベースにした論理が展開されています。言ってみれば、伝奇小説的な色合いを帯びている作品だと言えます。

伝奇小説であればストーリー展開に徐福伝説を組み込んだ作品となるのでしょうが、本書の場合は徐福伝説はあくまでゲーム作成のコンセプトとして存在しているのであり、ストーリーの流れ自体には組み込まれてはいません。

 

そして、そのゲーム内容の説明として語られる徐福伝説がよく調べ上げられています。

そもそも本書のタイトルの「蓬莱」という言葉自体が徐福が目指した「三神山」という神聖な山の一つだとされているのです。

徐福伝説の時代背景を見ると、徐福が秦の始皇帝に「三神山」を目指すことの許しを得たのが紀元前三世紀のことであり、ちょうど日本が縄文時代から弥生時代への移行時期に当たるそうです。

そしてその際、稲作文化をもたらしたのではないか、つまりは種もみと共に稲作の多くの技術者もわたってきて先住民族と習合していったのではないか、と登場人物に言わせているのです。

そして、徐福伝説の一つとして神武天皇徐福説なども取り上げられています。

 

こうして本書は伝奇的要素を大いに持った物語として進行し、安積警部補たちは脇に追いやられているのです。

つまりは、シリーズの特徴である安積班というチームの人間関係を含めた警察小説としての色合いは後退し、日本の成り立ちという伝奇小説的な色合いを濃く持った作品として進行していきます。

そしてそのことは、個人的には嫌いではありません。

 

私にとって、伝奇小説と言えばまずは半村良であり、中でも日本国の成り立ちに絡む作品と言えば『産霊山秘録』が思い浮かびます。

また、徐福伝説といえば、夢枕獏サイコダイバー・シリーズの最終巻である『新・魔獣狩り 完結編・倭王の城』でも、少し触れてあったと思います。


こうして伝奇小説的な要素も含みつつ、もちろん警察小説としての面白さも十二分に持った作品として楽しく読むことができた作品だということができます。

クスノキの番人

クスノキの番人』とは

本書『クスノキの番人』は、2020年3月に実業之日本社から刊行されて2023年4月に実業之日本社文庫から496頁で文庫化された、長編のエンタメ小説です。

東野作品としてはいつもの社会派のミステリーではなく、ミステリ要素を持ったファンタジーベースのヒューマンドラマというべき作品で、面白く読んだ作品でした。

 

クスノキの番人』の簡単なあらすじ

 

恩人の命令は、思いがけないものだった。不当な理由で職場を解雇され、腹いせに罪を犯して逮捕された玲斗。そこへ弁護士が現れ、依頼人に従うなら釈放すると提案があった。心当たりはないが話に乗り、依頼人の待つ場所へ向かうと伯母だという女性が待っていて玲斗に命令する。「あなたにしてもらいたいこと、それはクスノキの番人です」と…。そのクスノキには不思議な言伝えがあった。(「BOOK」データベースより)

 

クスノキの番人』の感想

 

本書『クスノキの番人』は、ミステリ要素のあるヒューマンファンタジー小説です。

東野圭吾の作品群の一つであるファンタジー系統の作品で、東京郊外の月郷神社にあるという願い事を叶えてくれるクスノキをめぐる人間模様が描かれています。

 

玲斗が管理人を務める月郷神社には、クスノキに願い事をするとその願いが叶うという噂があり、昼間からクスノキに願いをしに訪れる人が絶えませんでした。

しかし、クスノキへの願いは単純にお願いすればいいというものではなく、月のうちの特定の日の夜に祈念するしかなかったのです。

 

主人公直井玲斗は天涯孤独の身だと思っていましたが、とあることから母親の美千恵の異母姉だという柳澤千舟という女性が現れ、とある神社にあるクスノキの番人となることになります。

何の説明も受けないままに神社の、そしてクスノキの番人を続ける玲斗の前に、今クスノキに祈念をしに来た佐治寿明という男の娘の佐治優美と名乗る女性が現れます。

クスノキの祈念に関することについては何も話せないという玲斗ですが、娘はしつこく父親の秘密を探ろうとし、玲斗をその探索に引き込もうとするのでした。

そのうちに、玲斗にもクスノキに祈念することの意味がわかってくるのでした。

 

主人公の直井玲斗は、女一人で幼い玲斗を育てていた母親が夜の仕事をしていたため、きちんとした躾も受けたわけではありません。そこで、千舟は玲斗を管理人として育てるについて、敬語の使い方から教えることになります。

玲斗は千舟の期待に少しずつではありますが応え、次第にクスノキの管理人として成長していく姿がありました。

その管理人としての仕事の中で佐治寿明の祈念と、大場壮貴という青年の祈念を中心に物語は進みます。

さらに物語は、千舟が中心となって運営してきた柳澤グループにも関係してくることになり、更なる感動の展開に結びついて行くのです。

 

とはいえ、物語の中心となるのはクスノキへの祈念とは何か、佐治寿明や大場壮貴の祈念はどのように解決するのか、といった疑問の解明です。

また、疑問の解明に加え、玲斗が管理人として、また人間として成長していく姿を読ませるのはさすがに東野作品です。

 

著者東野圭吾のファンタジー系統の作品としては、まずは『ナミヤ雑貨店の奇蹟』が思い出されました。

ほかに、辻村深月の『ツナグシリーズ』や川口俊和の『コーヒーが冷めないうちに』なども同系列の作品だということができると思います。


ともあれ、東野圭吾の作品として惹き込まれて読んだ作品であることに間違いはありません。

 

ちなみに、本書の続編として 2024年5月には『クスノキの女神』が実業之日本社からソフトカバーで発売されています。

警視庁捜査一課・碓氷弘一2 アキハバラ

アキハバラ』とは

 

本書『アキハバラ』は『警視庁捜査一課・碓氷弘一シリーズ』の第二弾で、1999年4月にC★NOVELSから刊行されて2016年5月に中央公論新社から新装版として403頁で文庫化された、長編の警察小説です。

通常の警察小説とは異なり、多数の登場人物が入り乱れてアクションを繰り広げるノンストップ・アクション小説で、気楽に読めた作品でした。

 

アキハバラ』の簡単なあらすじ

 

大学入学のため上京したパソコン・オタクの六郷史郎は、憧れの街・秋葉原に向かった。だが彼が街に足を踏み入れると、店で万引き扱い、さらにヤクザに睨まれてしまう。パニックに陥った史郎は、思わず逃げ出したが、その瞬間、すべての歯車が狂い始めた。爆破予告、銃撃戦、警視庁とマフィア、中近東のスパイまでが入り乱れ、アキハバラが暴走する!(「BOOK」データベースより)

 

アキハバラ』の感想

 

本書『アキハバラ』は『警視庁捜査一課・碓氷弘一シリーズ』の第二弾の警察小説です。

しかし、シリーズ前作の『触発』とは異なり、多数の登場人物が入り乱れてアクションを繰り広げるエンターテイメント小説となっています。

つまり、秋葉原のあるビル内で様々な登場人物により息もつかせないアクションが展開される、気楽に読めるノンストップ・アクション小説でした。

解説の関口笵生氏によれば、本書は「ピタゴラスイッチ小説、もしくは風が吹けば桶屋が儲かる小説」と表現されています。

 

本シリーズの主役である碓氷弘一部長刑事が登場するのは物語の中盤あたりからです。

それまでは大学生の六郷史郎がメインで描かれ、そこにラジオ会館ビルの四階にある小さなパーツショップに勤める石館洋一や、その店に派遣されていたキャンペーンガールの仲田芳恵などが絡んできます。

そこにそのパーツショップに金を貸しているヤクザの菅井田三郎、その子分の金崎などが登場し、さらには、ラジオ会館ビルでいたずら心からイスラエルのモサド諜報員のアブラハム・ベーリ少佐に発砲事件を起こさせたイラン航空のスチュワーデスでもある諜報員のファティマ、ロシアンマフィアのアレキサンドル・チェルニコフ、殺し屋のセルゲイ・オルニコフなどが入り乱れてアクションを繰り広げるのです。

このように、本書はシリーズ前作の『触発』で描かれた爆弾魔とのシリアスな対決とは異なり、ヤクザやテロリスト、果ては各国の諜報員まで登場する荒唐無稽な設定となっています。

またシリーズの主人公である碓氷弘一部長刑事も前作での設定とは若干異なる性格設定をしてあります。そもそも碓氷刑事は本書中盤までは登場してきません。

登場してきても遊軍的な立場としているのであり、応援の管理官が登場すると一線からは外されてしまいます。 

 

ところが、前作では定年まで無事勤め上げることを願うサラリーマン的な刑事という設定でしたが、本作ではそれなりの使命感を持った刑事として個人で乗り込むのです。

若干、性格が異なるような気もしますが、それは前作『触発』での主人公の体験が生きてきたとも言えそうです。

 

でも、本書が荒唐無稽な設定だとはいえ、作者の今野敏の視点は変わりはありません。

日本は銃声がしても誰も床に伏せようともしない国だという指摘し、警察官に対しても、銃を構えた人物に対し止まれと言ったり、今から拳銃カバーを外そうとしたり、また拳銃で身を守ることよりも拳銃を盗まれることに神経を使っているなどと言わせています。

そうした指摘はテロリストの目線でなされており、そのテロリストは「血と硝煙。その中で生きているのだ。」と独白しているのです。

 

そうした作者の目線とは別に、秋葉原という街に対する作者なりの愛着もあるのかもしれません。

電子部品を販売する秋葉原の最も深いところにある店の主人の小野木源三という人物を登場させて碓氷部長刑事の活躍を助けるのも、そうした愛着の表れではないでしょうか。

 

以上、碓氷刑事の性格は若干異なるものの、ノンストップアクションを展開させる、気楽に読める作品でした。