嗤う闇 女刑事音道貴子

嗤う闇 女刑事音道貴子』とは

本書『嗤う闇 女刑事音道貴子』は『女刑事音道貴子シリーズ』の第五弾で、新潮社から2004年3月に刊行され、2006年10月に文庫化された短編警察小説集です。

巡査部長へ昇進し、隅田川東警察署刑事課に移動になった音無貴子のリアルな日常が描かれている作品です。

嗤う闇 女刑事音道貴子』の簡単なあらすじ

レイプ未遂事件発生。被害女性は通報者の男が犯人だと主張。被疑者は羽場昂一ー。レイプ事件の捜査に動いていた音道貴子に無線が飛び込んだ。貴子の恋人、昂一が連続レイプ犯?被害者は大手新聞社の女性記者。無実の通報者に罪を着せる彼女の目的とは?都市生活者の心の闇を暴く表題作など、隅田川東署へと異動となった貴子の活躍を描くシリーズ第三弾。傑作短篇四編収録。(「BOOK」データベースより)

目次

第一話の「その夜の二人」では、巡査部長への昇進に伴い第三機動捜査隊から隅田川東警察署刑事課へと異動になった音無貴子の姿があります。泊り当番の貴子は酔っぱらいの親子喧嘩の相手や、さらに侵入盗の対処をすることになります。

第二話の「残りの春」では、世間知らずで手のかかる東大出のキャリア官僚の上司の面倒を見る貴子がいます。その貴子は、中学生相手に暴力をふるいそうになっていた、背筋をきちんと伸ばした老人の相手をする羽目に陥っていました。

第三話の「木綿の部屋」は、かつてコンビを組んだことのある、今は特殊班にいる滝沢刑事と出会い、その滝沢を娘の家まで送ることになります。しかしそこで見たのは思いもよらない滝沢の姿でした。

第四話「嗤う闇」では、レイプ犯の取り締まり中にレイプ未遂犯として貴子の恋人が犯人として捕まってしまいます。

嗤う闇 女刑事音道貴子』の感想

本書『嗤う闇』は『女刑事音道貴子シリーズ』の第五弾で、新しい職場での主人公の日常が描かれており、読みがいのある短編作品集です。

短編集としては『花散る頃の殺人』『未練』に続くシリーズ第三弾であり、主人公の音無貴子巡査部長へ昇進して隅田川東警察署刑事課に異動になっています。

本書では主人公の日常も描かれてはいますが、それよりも起こった事件というフィルターを通すことで音無貴子という女性の姿が描写されているようです。

この点は、第一短編集の『花散る頃の殺人』では主人公の私生活により重点があったように感じたのとは異なるようです。

主人公の音道貴子は、男社会である警察組織で叩かれながらもそれなりになじんだ仲間たちから離れ、新しい勤務先でまた最初から人間関係を築いていくことになります。

その男社会の典型が第一話の「その夜の二人」で泊り当番で一緒になった四十四、五歳の「かなり大柄の恰幅の良い」と表現されている盗犯担当の金井警部です。

この男に関しては、刑事部の鑑識係員の薮内奈苗警部補が「図体はでかくて肝っ玉は小さい」が、「敵に回すと面倒なタイプ」と言っています。

この薮内奈苗は、「奈苗は奈苗で、様々な思いをしてきているらしい」のですが、彼女のおかげで貴子も助かっています。この奈苗は、第二話で貴子と一緒に相談のあった被害者宅へと行くことになります。

 

また、新しい職場での貴子の相棒として、京都大学農学部出身でノンキャリアという変わり種の玉城警部補が登場しています。

第二話の「残りの春」では、貴子は沢木秀逸警部補という東大出のいかにも頼りがいのないキャリア官僚の世話をすることになります。

このキャリアが中学生とトラブルになっていた三方幸三郎という老人を尋問する場面はこのシリーズでは珍しいユーモアに満ちた場面です。

しかし、後半になると薮内奈苗と共に訪れた相談者宅で思いもかけない事態に遭遇するのでした。

 

第三話「木綿の部屋」は、『凍える牙』で登場してきた滝沢刑事の意外な一面が描かれています。

同時に、どうしようもない男に惚れた女の弱さもまた哀しく描かれています。

こうした作品はまたシリーズの奥行きを一段を深めるようで内容は違いますが楽しく読んだ話でした。

 

第四話「嗤う闇」では、恋人の昂一が被害者からレイプ犯だと指摘されてしまいます。

現場に駆け付けた貴子は、助けを求める声に応じて駆け付けただけなのにひどい目に遭っている昂一の姿を見るのでした。

 

どの話も女性刑事としての音道貴子の日常がリアルに描かれている点ではシリーズのほかの作品と同様です。

ただ、貴子は巡査部長へ昇進し、職場が機動捜査隊からいわゆる所轄署へと異動になっています。

つまり警視庁刑事部第三機動捜査隊立川分駐所から隅田川東警察署刑事課へと変化し、これまでのパトカーで巡回し発生した事件現場へいち早く駆け付けて初動捜査を行う立場から、地域の警察署に勤務し、普段は日常の警察業務をこなし、事件が起きたときに捜査を受け継ぐ立場へと変化しているのです。

 

とはいえ男社会で過ごしている立場に変化はなく、相変わらずに女性ならではの苦労をしています。

所轄署で玉城警部補を相棒として過ごす主人公の日常が描かれ、音道貴子の様子が描かれているのです。

小説としての面白さに変わりはなく、シリーズ作品を改めて読んでみたいと思っています。

女刑事音道貴子シリーズ

女刑事音道貴子シリーズ』とは

『女刑事音道貴子シリーズ』とは、文字通り刑事である音道貴子という女性を主人公にした警察小説です。

男性社会である警察組織の中で生き抜く一人の女性を、そのプライベートも含めた日常を丹念に描き出した読み応えのあるミステリーシリーズです。

女刑事音道貴子シリーズ』の作品

女刑事音道貴子シリーズ(2026年05月31日現在)

  1. 凍える牙
  2. 花散る頃の殺人
  1. 未練
  2. 嗤う闇
  3. 風の墓碑銘

女刑事音道貴子シリーズ』について

女刑事音道貴子シリーズ』とは、刑事である音道貴子という女性を主人公にした警察小説です。

警察小説のなかでも、例えば高村薫の『マークスの山』(新潮文庫 上下二巻)のように、捜査の様子を緻密に描写してあるリアルな作品だと言えるでしょう。

 

このシリーズでは、物語は長編作品では起こった事件を中心に展開し、短編集では音道貴子という女性のプライベートな側面を中心に置いている、と一応は言えるようです。

とはいっても、長編も短編も共に主人公の内心をも詳細に描き出すことで音道貴子という女性刑事の人となりを浮かび上がらせていることに変わりはありません。

ただ、短編のほうがよりプライベートな描写に重きが置かれているという印象なのです。

 

本シリーズに関しては、サスペンスミステリーとして評価されるとともに、ハードボイルド作品としても分類されているようです。

ハードボイルド」というジャンルの本来の意味からすると、「簡潔な客観的行動描写で主人公の内面を表現し」た作品( ウィキペディア : 参照 )ということになるのでしょうが、本シリーズは決して主人公の行動が客観的に描写されているわけではありません。

しかし、「ハードボイルド」という言葉は多様な意味を持つようになり、自分なりのルールを堅持し、タフな生き方をする主人公の生き方を指しても使われているようです。

その点で、男性社会のなかで様々な暴言、中傷に耐えながらも結果を残していく本書の主人公の生き方はまさにハードボイルドだ、という評価も生まれていると思われます。

 

本シリーズの主人公は音道貴子という女性刑事であり、シリーズ第一作の『凍える牙』という長編作品では警視庁刑事部第三機動捜査隊立川分駐所に勤務しています。

この時に主人公の相棒として登場してきたのが警視庁立川中央署刑事課強行犯捜査係の部長刑事滝沢保です。ずんぐりした中年男であり、妻は三人の子を置いたままに離婚しています。

この滝沢は音道貴子が異動した後も何かと本シリーズに顔を出し続けます。

ちなみに、この『凍える牙』は第115回直木賞を受賞しており、かなり読みごたえがありました。

 

また、シリーズ第五作の『嗤う闇』では音道貴子は巡査部長昇進に伴い、隅田川東警察署刑事課へと異動になっています。

それまでの機動捜査隊員として事件の初動捜査に当たっていた立場から、いわゆる所轄署の刑事となっているのです。

そしてここでの音道の相棒として京都大学農学部出身のノンキャリア玉城警部補が登場しています。

それに、同じ女性として何か時をかけてくれている薮内奈苗という鑑識係員やかなり大柄で恰幅の良い盗犯担当の金井警部が登場します。

 

しかし、このシリーズは読みごたえのあるシリーズとして、2009年1月に出版された『風の墓碑銘(エピタフ)』(新潮文庫 上下二巻)を最後として刊行されていません。

できれば続けてほしいとは思いますが、作家としてはあまり一つのシリーズに固執するのもよくないことなのかもしれません。

いずれにせよ、シリーズの残りをゆっくりと読み終えたいと思っています。

 

ちなみに、シリーズ第一作の『凍える牙』は、NHK版は2001年に天海祐希主演で、テレビ朝日版は2010年に木村佳乃の主演でドラマ化されており、更には韓国でソン・ガンホを主役に映画化されています。


 

またシリーズ第三作『鎖』は、2016年に小池栄子主演でBSテレ東でドラマ化されています。

志記(一) 遠い夜明け

志記(一) 遠い夜明け』とは

本書『志記(一) 遠い夜明け』は『志記シリーズ』の第一弾で、2025年10月に角川春樹事務所から320頁の文庫本書下ろしとして出版された長編の時代小説です。

これまで料理、商売と続いて、今度は医療の分野を舞台にした髙田郁の待望の新シリーズ作品で、期待に違わぬ面白さを持った作品でした。

志記(一) 遠い夜明け』の簡単なあらすじ

文化元年(一八〇四年)、如月。清明の日にふたりの女児が産声を上げる。
ひとりは蔵源美津。蔵源家は黒兼藩で代々藩医を勤める家系で、祖父の教随は秘密裡に腑分けを行い、父の恵明は藩医学校「青雲館」を担う立場であった。今ひとりは高越暁。備前刀を手掛ける刀鍛冶の一族で、祖母の高越剡は「女忠光」の異名を取っていた。長じて、美津は医学、暁は鍛刀を志すことになる。猪突猛進で焔にも似た美津、常に冷静で氷に喩えられる暁、女には困難とされる道を選んだふたりの人生が、十九の初夏、思いがけず江戸で交錯する。志を胸に人生を切り拓いていく者たちの群像劇、いよいよ開幕。(内容紹介(JPROより))

志記(一) 遠い夜明け』の感想

本書『志記(一) 遠い夜明け』は『志記シリーズ』の第一弾であって、髙田郁の待望の新シリーズ作品です。

これまで『みをつくし料理帖シリーズ』、『あきない世傳金と銀 シリーズ』と女性を主人公にした大人気シリーズを紡いでこられた著者が送り出す新しいシリーズであり、本書は主役を紹介する役割をになっているようです。

そんな第一弾作品ですが、髙田郁の作品らしい、淡々とした語り口でありながらも情感豊かに語るとても感情移入しやすい作品でした。

 

上記両シリーズと同様に本シリーズも主人公は女性であり、医療の世界を目指しています。これまでと異なるのは、二人目の主人公と思われる女性が刀鍛冶の世界を舞台として活躍する様子が描かれていることです。

本書の構成を見ると、まずは女性でありながら医者を目指す蔵源美津の祖父蔵源教随(「第一話 遠い夜明け ~祖父 教随~」)、そして美津の父親の恵明(「第二話 授けられた灯 ~父 恵明~」)の話が一話ずつで語られます。

その後、刀鍛冶になろうとする高越暁(「第三話 春の傷 ~暁~」)と蔵源美津(「第四話 高々と灯を掲げよ ~美津~」)とにそれぞれ一話ずつが割り振られているのです。

こうしてみると、医者にならんとする蔵源美津関連に三話が割り振られており、蔵源美津が主人公のようにも思えます。

しかし、二人の性格や今暮らしている環境などのほかに、医療と刀鍛冶というそれぞれの職場での女性の立場がどのように扱われているのかも語られています。

結局、刀鍛冶を目指す高越暁もまた主役としての位置にあるように思われ、この新しいシリーズは女性二人の物語になると思われるのです。

 

髙田郁という作家のストーリー展開は実にうまく、読み手を飽きさせないといつも思います。

物語のテンポが速く、主役の前に立ちふさがる難局の設定も、主人公がその難局を乗り越えるさまもスムーズです。

そうした読みやすさの中に、女性の置かれた低劣な地位が示されつつ、女性が持つ力量が正当に評価されていく姿が描かれていて、小気味よさも感じさせてくれています。

 

医療と刀鍛冶という新しい世界に挑戦する二人の女性の物語を髙田郁がどのように料理し、読ませてくれるか、楽しみに待ちたいと思います。

志記シリーズ

志記シリーズ』とは

本『志記シリーズ』は、髙田郁の『みをつくし料理帖シリーズ』、『あきない世傳 金と銀シリーズ』に続く新シリーズ作品です。

このシリーズでは二人の女性が登場し、それぞれに医療と刀鍛冶の世界を舞台として活躍する様子が描かれています。

志記シリーズ』の作品

志記シリーズ(2026年05月20日現在)

  1. 遠い夜明け

志記シリーズ』について

本『志記シリーズ』は、同じ髙田郁の手による『みをつくし料理帖シリーズ』、『あきない世傳金と銀 シリーズ』に続く、医療と刀鍛冶の世界を舞台とするシリーズ作品です。

本シリーズの主役は二人だと思われ、一人は蔵源美津(くらもとみつ)という医療の世界を目指す女性であり、もう一人は刀鍛冶を志す高越暁(たかこしぎょう)という女性です。

 

彼女らが目指す医療と刀鍛冶という世界は、共に女性は不浄な存在だ、として女性の参入を拒んできた職業です。

ただ、巻末にある「赤みみずく付記」によれば、江戸時代には医療の世界には女性が全くいなかったかと言えばそうでもないとありました。

当時は医師免許の制度もなく、誰でも医師を名乗れたため誰が「日本最初」と言えるかは微妙なのだそうです。

また刀鍛冶の世界でも江戸時代に一人だけ大月源という女性の刀工がいたそうで、その女性が本シリーズの高越暁の祖母である「高越剡(たかこしぜん)」のモデルとなった女性です。

 

本シリーズは、これらのなかなか女性の参入をみとめない業界で苦労をする二人の女性が描かれていくのだと思われます。

これまでも料理や商売の世界で高い壁に挑んできた女性を描いてきた髙田郁が、自ら「ライフワーク」と位置付けている作品だそうです( Book Bang : 参照 )。

これからしばらくは彼女らの活躍を楽しみにしていることができそうです。

 

ちなみに、本『志記シリーズ』の「志記」という言葉は著者髙田郁の造語だそうです。

現代の私たちの暮らしの礎となった先人たちの歩みが、たとえフィクションであっても誰かの記憶に残るようにとの作者の思いが込められているそうです。

星月夜 藩邸差配役日日控

星月夜 藩邸差配役日日控』とは

本書『星月夜 藩邸差配役日日控』は『藩邸差配役日日控シリーズ』の第二弾で、2026年3月に文藝春秋から232頁のハードカバーで刊行された、短編の時代小説集です。

前作の藩内の権力争いを中心に置いた物語とは異なり、本書はより藩邸内の藩士の日常に焦点が当てられています。

星月夜 藩邸差配役日日控』の簡単なあらすじ

神宮寺藩江戸藩邸でで里村五郎兵衛が務める差配役は、いわば総務部総務課のようななんでも屋。「誰もやらぬ…いや、できぬお役」を果たすために、次女・澪の隠された出自や神宮寺藩の派閥争いの波紋を心にしまい、日々の務めに精を出す。家老の無骨な懐刀と御用絵師の関わりや、澪が小太刀の稽古をつけている奥女中が抱える思いなど、悩みや騒動が持ち込まれる日々。そして、家族が巻き込まれた収賄事件の真相が明らかに…。静謐な機微が心に迫る六篇。(「BOOK」データベースより)

目次

波と波
藩主が参勤交代で国元へと立つ日、江戸家老の大久保重右衛門の側近である波岡喜四郎が大久保から注意を受けていた。普段きちんとしている波岡にしては珍しいと思っていると、波岡の周囲で常ならぬことが重なっていることに気づく五郎兵衛だった。

揺れる槌
神宮司藩の江戸藩邸では、近ごろ藩邸全体の縁側を張り替える工事の槌の音が絶え間なく続いていた。ところが、工事のまとめ役の源蔵親方の様子が変だと感じていた五郎兵衛のもとに、会いたいとの手紙が届くのだった。

梔子日和
五郎兵衛は、「梔子(くちなし)姫」などと呼ぶ者もいる神宮司藩江戸藩邸奥向き奥女中のお玉と顔を合わせる機会に、何かと話したそうにしているのに気がついていた。しかし、言葉を交わすこともなく時が経つうちに、若君と話し込むお玉の姿を見かけるのだった。

碌々亭日乗
普段はやる気を見せることの少ない安西主税は近ごろ文句めいたことを口にしなくなっていたが、今朝はあからさまに眉をひそめていた。聞いてみると、昨年隠居した父親の安西惣兵衛が、時おり家を空ける回数が増え、かえらぬ日まで出てきているというのだった。

小心者
前任者森井惣右衛門の失脚後その後を継いだ窪田は、おのれは不正をしていないことの確認のために、帳簿を改めてもらおうとする人だった。そうした小心と言わざるを得ない窪田について、「くぼたどの ごようじん」との投げ文がみつかった。

星月夜
亡き夫の河瀬新之丞が残した手控えに気になる箇所があると、長女の七緒の様子がどことなくおかしいと感じられてきた。同じころ、里村五郎兵衛のもとを訪ねてきたおあきの頼みで遠山俊次郎のもとを訪れて話をすると、少しなりとも眼に力が戻ってきた様子が見えるのだった。

星月夜 藩邸差配役日日控』の感想

本書『星月夜 藩邸差配役日日控』は『藩邸差配役日日控シリーズ』の第二弾であるとともに、このシリーズそのものが『神山藩シリーズ』を構成するシリーズでもあるという特徴があります。

その『神山藩シリーズ』としては、今(2026年5月)のところ本シリーズのほかに『黛家の兄弟』『霜月記』が出ています。

 

本シリーズの主人公の里村五郎兵衛の役職である江戸藩邸の差配役とは、いわば「総務部総務課」のような何でも屋だと紹介してあります。

この「差配役」という職務ですが、作者によると「江戸時代における総務部総務課として想定した架空の役目」だそうです( 本の話 : 参照 )。

そして、その職務については「藩邸の管理を中心に殿の身辺から襖障子の貼り替え、厨のことまで目をくばる要のお役」だと紹介してあります。

本書の帯に書かれている「なにも起こらないのは、起らぬようにしているおひとがいるから」だという言葉は、本書第二話揺れる槌での神宮寺藩江戸藩邸の仕事ではいつも何も起こらないという源蔵親方の言葉ですが、この物語の本筋には関係はないにしても、里村五郎兵衛の仕事にたいする評価としてこれ以上のものはないのかもしれません。

 

そうした雑務の一つとして言っていいものか、本書では何らかの出来事と共に五郎兵衛を中心とした藩邸内の人間関係が描かれているのです。

ここで主人公の里村五郎兵衛という存在を見ると、妻千代は澪の出生と入れ替わるようにして世を去っており、五郎兵衛は残された娘七緒と共に暮らしています。

前巻のシリーズ第一巻『藩邸差配役日日控』での、留守居役の岩本陣内が旗本の内膳正をかついで家老の大久保を追い落とし、藩主和泉守の病に乗じて跡目を狙った騒動は昨年の秋も遅くに留守居役の岩本陣内の失脚という形で決着を見ていました。

そして今、藩主和泉守正親の国元へ帰る参勤の行列を見送った場面から本書は始まります。

そして、なんとか騒動を乗り切った里村五郎兵衛の下には相変わらずに雑務が持ち込まれているのです。

 

その持ち込まれる雑務をこなす五郎兵衛の姿が描かれ、人情物語としての側面を見せるなか、娘の七緒の亡き夫の死に関し、新たな事実が判明するなど、ミステリアスな展開も用意されています。

その情感豊かな美しい文章に惹かれて読み進めていると、単に心地よいだけではない意外な状況が展開され、エンターテイメント作品としてもとても楽しませてくれるのです。

 

いつも同じことを書くことになりますが、著者の砂原浩太朗の美しい文章にのって主人公の里村五郎兵衛の人となりが知らず浮かび上がってくる作品集だといえます。

PRIZE―プライズ―

PRIZEープライズー』とは

本書『PRIZEープライズー』は、2025年1月に文藝春秋から384頁のハードカバーで刊行された長編の現代小説です。

「ダ・ヴィンチ BOOK OF THE YEAR 2025 小説部門」で第1位を獲得し、2026年本屋大賞で第3位となった作品で、かなり惹きこまれて読んだ作品です。

PRIZEープライズー』の簡単なあらすじ

天羽カインは憤怒の炎に燃えていた。本を出せばベストセラー、映像化作品多数、本屋大賞にも輝いた。それなのに、直木賞が獲れない。文壇から正当に評価されない。私の、何が駄目なの?…何としてでも認めさせてやる。全身全霊を注ぎ込んで、絶対に。業界震撼の“作家”小説!(「BOOK」データベースより)

PRIZEープライズー』の感想

本書『PRIZEープライズー』は、「ダ・ヴィンチ BOOK OF THE YEAR 2025 小説部門」で第1位を獲得し、2026年本屋大賞で第3位となった作品です。

ノミネートはされるものの受賞するには至らないある作家の直木賞を獲得したいと足掻く物語で、かなり惹きこまれて読んだ作品です。

 

本書は最も高名な文学賞のうちの一つである「直木賞」がテーマになっているだけに、とても関心をもって読み始めました。

当初は、直木賞が欲しい作家の物語、という簡単な事前知識のためコミカルな作品かと思いながら読み始めたのですが、すぐに間違いに気づきつつも、とても興味深くまた惹き込まれながら読み終えてしまいました。

まずは舞台裏に関しては何も知らない世界を垣間見せてくれるという意味で、お仕事小説としての面白さがありました。

そこでは、文章を紡ぎだすという作家の作業の真摯さを確認すると同時に、一冊の「本」を作り上げていく作業の工程の多さに驚かされます。

また、作家自身のなすべき作業としての雑務の多さへの驚きと同時に、作家と共に作品を作り上げる編集者の作業がいかに多岐にわたっているかにもまた驚かされました。

同時に、現実に存在する文学賞である直木三十五賞、いわゆる直木賞の具体的な選考過程の説明もあって、こうした点でもまたお仕事小説としての面白さに満ちています。

 

以上はお仕事小説として、未知の事柄を知る喜びについての面白さです。

そして、これがメインですが、作家や編集者のそれぞれの内面が、業界ならではの視点で詳しく描き出されているのです。

作家の天羽カインの強大な自我は、一瞥するだけでは傲慢としか言いようのない言動として現れ、書店関係者や出版関係者たちを振り回します。

しかし、彼女の傲慢さは自分の作品や作品の読者に対するに強烈な愛情がその根底にあったのです。

とはいえ、客観的には尊大であり横柄な態度の天羽カインと彼女に心酔する編集者の緒沢千紘との関係性の変化もまた見どころです。

この両者の関係性の変化に関しては、読む人により評価が変わってくるのではないかと思います。

 

また、本書では直木賞選考委員としてどこかで聞いたような名前の作家さんたちが多数登場します。なかでも南方権三や馳川周などはすぐにモデルが浮かぶほどです。

天羽カインがこの直木賞の選考委員である南方権三と萩尾今日子と出会い、議論ともいえない会話を交わす場面は圧巻です。

その後、天羽カインが新たに『テセウスは歌う』という作品を仕上げていく過程が描かれていますが、その過程で編集者の緒沢千紘とのやりとりへと移っていきます。その対話の中で萩尾今日子の言葉が浮かんでくる場面もまた私には響きました。

こうした、作品に対する評者の視点のあり方などもいち読者の眼には新鮮です。と同時にその後に天羽が打ちのめされていく姿があるのは天羽自身でも指摘された点に自覚があるからでしょう。

 

ただ個人的には、天羽カイン担当編集者の緒沢千紘や「オール讀物」編集長の石田三成たちの今後、さらには天羽カインの「下男」であるサカキという存在自体への関心など、この物語のその後に変な関心が残っています。

でも、本書は「ダ・ヴィンチ BOOK OF THE YEAR 2025 小説部門」で第1位となり、2026年本屋大賞では第3位となっているのですから、そんなことはどうでもいいことなのでしょう。

それよりも、天羽カインという人物の造形、それらを通して感じる物語全体の「小説」というものに対する作者の愛情こそが大事なのだということなのでしょう。

そして、それらを感じて惹かれているのですから、それでいいと思うことにします。

家族

家族』とは

本書『家族』は、2025年10月に文藝春秋から320頁のハードカバーで刊行された、長編のクライムエンターテイメント小説です。

「尼崎連続変死事件」を下敷きに、暴力と監禁による洗脳を手段としての疑似家族の姿を描き出す、第174回直木賞の候補作ですが、私の好みではありませんでした、

家族』の簡単なあらすじ

第174回直木賞候補作

「現実の世界では、すんなり完全犯罪を
達成できてしまうこともあるんだって学んだんです」

2011年11月3日、裸の女性が交番に駆け込み、「事件」が発覚した。奥平美乃(おくだいら・みの)と名乗るその女性は、半年と少し前、「妹夫婦がおかしな女にお金をとられている」と交番に相談に来ていたが、「民事不介入」を理由に事件化を断られていた。
奥平美乃の保護を契機として、表に出た「死」「死」「死」…… 彼女を監禁していた「おかしな女」こと夜戸瑠璃子(やべ・るりこ)は、自らのまわりに疑似家族を作り出し、その中で「躾け」と称して監禁、暴行を主導。何十年も警察に尻尾を摑まれることなく、結果的に十三人もの変死に関わっていた。
出会ってはならない女と出会い、運命の糸に絡めとられて命を落としていく人々。 瑠璃子にとって「家族」とはなんだったのか。そして、「愛」とは。
「民事不介入」に潜む欠陥を日本中に突きつけた「尼崎連続変死事件」をモチーフとした、戦慄のクライムエンターテイメント!(内容紹介(JPROより))

家族』の感想

本書『家族』は、世にいう「尼崎連続変死事件」をモチーフに、警察の「民事不介入」や、「家族」という存在を考えさせられる、とされている長編のクライムエンターテイメント小説だそうです。

対象となる人物を洗脳状態に置いて「家族」という言葉で縛りつける姿を描いた第174回直木賞の候補作となった作品ですが、この手の作品は私の好むところではありません。

 

夜戸瑠璃子は、瑠璃子の妹だという夜戸朱鷺子や息子と称するなどを使い、多くの家族をそのコントロール下において彼らの日常を縛り、財産を吸い上げ、最終的には命をも捨てさせる毎日を送っています。

尼崎連続変死事件」をモチーフとして書かれたこの作品は、「家族」という存在をキーワードとしてこの事件を読み解こうとしています。

そして、そのアプローチも含めて評価され、本書は第174回直木賞の候補作となっているのです。

 

しかし私には、人を支配し洗脳しているのは「家族」という関係性ではなく、「暴力」だとしか思えませんでした。

たまに、その暴力から逃れた人たちが警察に助けを求めても、警察は「民事不介入」という原則を振りかざし、助けを求めている人を無視してしまいます。

暴力にあらがう手段を持たない人たちは、最後のよりどころである警察から見捨てられればあとはただ逃亡し、身をひそめるしかありません。

ここで、警察が「民事不介入」という言葉を隠れ蓑にしてその為すべき職務を果たしていなかった、という事実に好いては様々な議論があるでしょうし、必要だというのはわかります。

本書の夜戸瑠璃子が、暴力を手段として支配ている、というのはわかりますが、その行動を通して「家族」を考察することになるというのがわからないのです。

そこでは瑠璃子らが「愛」や「家族」という言葉を使ってはいますが、それは単に外観を飾っただけであり、その本質は「暴力」でしかないと思うのです。

でも、本書は第174回直木賞の候補作になっているのですから、私の読み込み方が間違っているとしか言うしかありません。

 

また、本書では多視点で語られていて、その時々に瑠璃子のターゲットになった人たちが、どのように瑠璃子の支配下に落ちていったかという内心を描写してあります。

その際に鍵となるのはやはり「暴力」への恐怖であり、瑠璃子自身や鉄という男たちが暴力装置として機能しています。

また、瑠璃子自身の来歴についてはあまり語られていません。ただ、ある団地のガキ大将であり、面倒見がよく、ダーヤマこと柊二の食事の面倒まで見ていた、などの描写があるだけです。

でも、瑠璃子の詳しい心象などは全くと言っていいほどに描かれておらず、瑠璃子が何故にこのようなカリスマ的な存在になったのかの説明はありません。

自分たちの間には「愛」があり、だから「家族」なんだというのが瑠璃子たちの決まり文句です。家族だから躾けもしていいのであり、すべきなのだというのです。

 

人が暴力やマインドコントロールなどを手段として人を支配し思うがままに操るという事件は本書がモチーフとしているといわれている「尼崎連続変死事件」のほかにも「北九州監禁殺人事件」などが挙げられます。

誉田哲也の『ケモノの城』もまた、そうした人が人を虐待する事件をモチーフとして書かれたといいます。

どちらも、人間の本質に対する根源的なところでの疑問がわいてきます。それほどに残虐性が際立つ事件であり、普通の感覚では信じることができない事件だといえます。

誉田哲也は、それらの事件をそのままに描き出すことは少々読者にとってつらいだろうから、エンターテイメントとして再構築して書いた、という趣旨のことを書いておられました。

しかしながら、本書の場合、事件を事件としてある程度そのままに描写してあるような気がします。

 

本書については、結局は「暴力」であり、「暴力」を手段として人を対象の人物を全人格的に自分の支配下に置く姿が描かれています。

相手の心を砕き、相手の家や金などの財産を奪い取って生活手段を独占し、自分に逆らえなくすることを常套手段とする一人の怪物の姿を被害者たちの眼を通して描いた作品だと言えます。

そして、そのことが「家族」について考察することに結びつくものなのか、私には分からななったのです。

佐伯警部の推理

佐伯警部の推理』とは

本書『佐伯警部の推理』は『北海道警察シリーズ』の第十二弾で、2025年9月に角川春樹事務所から432頁のハードカバーで刊行された、長編の警察小説です。

本書から『北海道警察シリーズ』の新しいシーズンに入り、警部となった佐伯宏一の函館での活躍が描かれています。

本筋とはかかわりのないところなどで若干のネタバレ気味なことも書いていますので、気になる方は本稿を読むのはここまでにしてください。

佐伯警部の推理』の簡単なあらすじ

厚真で強盗殺人事件を起こした犯人の一人が札幌のジャズバー「ブラックバード」に立てこもり、機動捜査隊の津久井に発砲した事件後ー。重大事案の検挙実績で道警一だった大通署の佐伯宏一は、それまで受験すらしなかった警部昇任試験を受け合格、警察大学校の研修を経て、函館方面本部捜査課に警部として着任した。佐伯が着任した二週間後、青函フェリー・ターミナルの北側、工業団地の岸壁から変死体が上がった。佐伯は早速現場へ、そして検視解剖が行われている病院に向かう…。(「BOOK」データベースより)

佐伯警部の推理』の感想

本書『佐伯警部の推理』は『北海道警察シリーズ』の第十二弾で、佐伯警部の推理をもととして、佐伯を中心にした捜査の様子がに緻密に描きだされていきます。

正確に言えば、主役の佐伯が警部となって『北海道警察シリーズ』の新しいシーズンに入っての最初の活躍を描いた第一弾作品です。

 

本書での佐伯の活動の描写は、実際の警察の捜査の様子をシミュレートしているかのように緻密に描いてあります。

文字通り『佐伯警部の推理』の過程が警察の行動としてそのままに文章として起こされているかのようです。

つまり、部長試験に通り函館方面本部の捜査課課長補佐として転任した佐伯宏一警部の捜査の様子が緻密に描かれていく、警察小説の基本のような作品です。

本書では、本筋の事件とは別の畑山刑事の担当だったバイク窃盗事案が脇筋として語られていますが、被害者救済と同時に担当の刑事である畑山の仕事の杜撰さの指導も兼ねた佐伯の働きは面白いものでした。

 

これまでのシリーズでは、それぞれに担当していた津久井小島、そして佐伯といった刑事たちの捜査が、いつの間にか一つの大きな事件に収斂していくというパターンが一つの形となっていましたが、本書ではそのパターンがなくなっています。

ただ、警部となって新しく赴任した函館での佐伯の捜査活動のみが描写され、これまでの津久井や小島たちの捜査の様子は全く出てきません。

単純に一つの事件を追いかけているという、逆に本シリーズでは珍しい構成になっています。

 

本書『佐伯警部の推理』では、警察にかかってきた、工業団地の岸壁の端から人が投げ込まれたようだ、という公衆電話からの電話から始まります。

西署の管内の岸壁から変死体が上り、すぐに身元も湯浅俊治、七十二歳だと判明します。

すぐに西署に捜査本部が置かれ、出町方面本部長が捜査本部長で、現場の捜査指揮は統括官の山浦弘希警視、佐伯の直属の上司である小野寺克己警視正が広報を担当することになります。

ほかに、庄司大輔巡査長が函館に慣れない佐伯の案内係的な立場にいて、なにかと佐伯の手助けをして、捜査の基本を学んでいます。

また、強行犯二係の強面の加藤警部補や一係員の水戸静香巡査部長などもたびたびその名前が出てくるメンバーになっています。

 

本書では上記の警察関係者のほかに新しい登場人物が加わっています。

それが、キッチンカーのホットドッグ屋の「ロンリー・ジャック」の店主である及川順太という男であり、函館の情報原の一人として登場してきています。

また、彼からジャズバーについての情報は仕入れていますがまだ実際に行くところまでは至っていません。

 

ほかの津久井や小島といったこれまでのシリーズのメンバーの動向についての描写は、本書内で私が気付いた限りでは一箇所だけでした。

新宮昌樹巡査部長から佐伯の携帯電話に入った、津久井が撃たれた事件の主犯が逮捕されたという連絡に対し、佐伯の、津久井にも伝えてくれ、との言葉があるだけです。

私の見落としの可能性もかなりありますが、小島に関しての情報はありませんでした。

 

今後、第二シーズンが続いていく中で第一シーズンでの仲間たちとの連携はどうなっていくのでしょう。

少なくともその時々での消息は明らかにされだろうことを願うばかりです。

ちなみに、上記の新宮の電話での「津久井が撃たれた事件」というのは、上記内容紹介にある「機動捜査隊の津久井に発砲した事件」のことであり、つまりは前作の『警官の酒場』での事件のことだと思われます。

ともあれ、このシリーズがリニューアルされて続行するというのはとても楽しみです。

続巻を楽しみに待ちたいと思います。

8番出口

8番出口』とは

本書『8番出口』は、2025年07月に水鈴社から176頁の文庫として出版された、長編のエンターテインメント小説です。

ゲーム版が映画化と同時に小説化されたものだそうで、本書の最後には「この小説には、映画における重大な秘密が含まれています」という一文が記してありました。

8番出口』の簡単なあらすじ

小説『8番出口』は、映画の監督と脚本を務めた川村元気氏による書き下ろし。『告白』『悪人』『君の名は。』『怪物』などの企画・プロデュースを始め、自身の小説をみずから監督した『百花』など、数々の世界的ヒット映画を製作。小説家としても35の国と地域で翻訳され累計270万部を突破した『世界から猫が消えたなら』や『億男』『四月になれば彼女は』『神曲』『私の馬』など話題作を発表。映画と小説で、数々のヒット作を生み出してきた氏による最新作です。
 地下通路という閉鎖的な空間のなかで、行くか引き返すかの無限の2択を繰り返すというゲームをもとに、驚嘆さえ覚える深みと広がりでその世界を解釈し物語を生み出した川村氏。人生観、死生観、現代人に共通する罪の意識を、読むもの観るものに深く突きつけます。内容紹介(JPROより 抜粋)

8番出口』の感想

本書『8番出口』は、単に地下通路を脱出するために出口である8番出口を求めてひたすら歩くSF小説的な長編のエンターテインメント小説です。

本書の最後には「この小説には、映画における重大な秘密が含まれています」という一文が記してありました。

私は「8番出口」というゲームは遊んだことがなく、もちろん映画もまだ見ていません。それなのに小説版を先に読んでいいものか悩みましたが、好奇心が勝ちました。

その結果、端的に言って期待とはちょっと異なりましたがこれはこれで面白く読んだ作品だったと言えます。

 

しかし、まだ映画を見ていないので、もしかしたらやはり本書を読まないほうがよかったかも、と思う可能性は十分に残っています。

本書が映画の構成をどれくらい取り込んであるのか、著者が映画版の監督と脚本も担当しているし、本書の最後の言葉もあるので、多分ネタバレ的になっているのでしょう。

しかしながら、映画未見の人たちを落胆させるようなことはしないだろうと勝手に決めるけて読んだので、もしネタバレをしていたとしてもそれは自己責任ですからしょうがありません。

事実、先に書いたように、本書の最後で「この小説には、映画における重大な秘密が含まれています」という一文が記してありました。できれば、こうした情報はもっと早く知らせてほしいものです。

でも、そうすればこの本は売れないでしょうから、難しいところだとは思います。

 

ゲームや映画、そして本書の主人公は恋人のもとへ行くために地下通路に入りますが、この地下通路では同じ路をループするだけで一向に出口に近づけません。

ただ、その通路には「ご案内」という看板があり、そこには「異変を見逃さないこと」から始まる四つの決まりが記してありました。

つまり、異変を見逃さず、異変があれば引き返し、なければ引き返さないで、8番出口から外に出ることを要求されていたのです。

それ以外、「異変」とは何か、毎回すれ違うおじさんは何者なのかなど、他には何も情報がないのです。

 

そもそも、「8番出口」というゲームは2023年に制作され、累計180万ダウンロードを記録した世界的大ヒットゲームです。

そのゲームの世界的なヒットを受けて小説と映画が刊行、公開されることになったそうです( 水鈴社 : 参照 )。

その結果、映画はかなりのヒットを見せているそうですが、小説版はあまり話を聞きません。

やはり、地下通路での無限ループやその通路に出てくる無表情なおじさんなど視覚的な要素が強い作品ということもあるのかもしれません。

その証拠に、と言っていいかはわかりませんが、小説版でも多分ですが映画版の映像が多く使われています。

 

このゲームに関しては、「人生観、死生観、現代人に共通する罪の意識を、読むもの観るものに深く突きつけます。」との文言がありました( 水鈴社 : 参照 )。

でも、個人的には、この話から人生観や死生観までをも問われるか疑問はあります。

この文言は、ループ構造から脱出する行為そのものが言われているのでしょうが、もしかしたら主人公の青年とその恋人との間のことを言っているのでしょうか。よくわかりません。

 

本書は話として面白いのは面白いのですが、この物語に関しては視覚優先で映像が先のほうがいいという印象は残りました。

とにかく、映画は前提知識はないままに見たいという人は、本書を読むのは映画を見てからのほうがいいのではないでしょうか。

そこは個人的好みでもありますが、読む場合は覚悟の上で読んだ方がいいと思います。

最後の外科医 楽園からの救命依頼

最後の外科医 楽園からの救命依頼』とは

本書『最後の外科医 楽園からの救命依頼』は『最後の外科医シリーズ』の第一弾で、2025年10月に文藝春秋から304頁の文庫として出版された、長編の医療小説です。

手塚治虫の有名な医療漫画の『ブラックジャック』を彷彿とさせる天才医師を主人公にした医療小説ですが、今一つと思われた作品でした。

最後の外科医 楽園からの救命依頼』の簡単なあらすじ

モグリの天才外科医が究極の〈不可能手術〉で命を救うーー。

累計70万部突破『泣くな研修医』の著者で現役外科医・中山祐次郎さんが満を持してお届けする新シリーズ!

主人公は29歳の天才外科医カイ。10歳の頃から戦地でメスを握り、命の現場を駆け巡ってきた経験が彼を「不死身の医師」に。

しかし、「ふつうじゃない手術」には相応の覚悟がなければーー。
カイの相棒・交渉人の神園がふっかける法外な報酬金と、ヒリヒリする患者との駆け引き。そして圧巻の手術シーン……まさにブラック・ジャックを思わせる緊迫感がたまりません。

夢にまで見た世界タイトルマッチ目前に癌に冒された21歳ボクサーに、美しすぎる顔を棄て別人になりたい人気女優。失明に怯える米軍スナイパー。

彼らの切なる願いに、カイはどんな「答え」を出すのか?(「BOOK」データベースより)

最後の外科医 楽園からの救命依頼』の感想

本書『最後の外科医 楽園からの救命依頼』は『最後の外科医シリーズ』の第一弾で、一人の天才医師を主人公にした、これまでのこの著者の作品とは異なるタッチの医療小説ですが、今一つの作品でした。

 

本書の著者は、若手外科医の成長を描き出している『泣くな研修医シリーズ』を書いた中山祐次郎であり、その新シリーズと銘打って出版されたものです。

それも、あの手塚治虫が描く人気漫画であるブラックジャック風の医者の物語で、高額の医療費を請求する代わりに不可能と言われた症例をも可能にする手技を持った医者の話です。

本書の体裁はどちらかというとハードボイルドタッチであり、クールな医者のカイが不可能と言われた手術をこなしていきます。

その際に、患者との医療費の交渉など医療行為に付随する様々な事柄を処理するのが神園拓也というカイの幼馴染と言ってもいい存在です。

しかし、その物語は前出の『泣くな研修医シリーズ』におけるものとは全くその雰囲気を異にします。

これまで何冊かの作品を書いてきた方の文章とは思えず、それぞれの話は厚みを感じられず、どうにも感情移入しにくい物語でした。

 

「カルテ#1 楽園からの救命依頼」は、奄美大島で起きた航空機事故に駆け付け、その神業を披露するカイの姿が描かれます。

この話は、主人公であるカイの人となりを紹介する物語であると同時に、その技術力と同時に医療費も高いことを示しています。

ただ、著者は新しいジャンルに挑戦されているためか、ハードボイルドタッチの物語の進行は説明的で、もう一つ感情移入できるものではありませんでした、

同様の医者を描いた話である手塚治虫のブラックジャックは、単純な話ではあっても「絵」という情報があって、文字だけの小説とは異なりかなりその差を感じてしまいました。

 

「カルテ#2 ゴングが鳴る前に」では、三カ月後に世界タイトルマッチを控えているのに、甲状腺未分化癌に侵された天才ボクサーの話です。

この話では、手術の結果がうまくいったとしてもボクサーは戦いの中に身を投じていかなければなりません。手術の結果はそこで台無しになる可能性が高いのです。

詳しくは書けませんが、設定は本当に「生きる」ということの意味を問いかけていると思われます。

 

「カルテ#3 華と虎」は、これまでもカイの手術の手伝いをしてきた播州会新宿総合病院VIPオペ専門ナースの津城華の娘の美咲が心臓病で緊急手術が必要になる話です。

第二話でも名前こそ出ないままにカイの手術を補助していた手術室看護師が物語の中心になっているのです。

美咲の手術を行うにあたりカイたちが要求する高額の医療費は、裏社会の目にとまる金額でもあったということです。

でも、医療小説という点ではもの足らず、ハードボイルド作品としては焦点が定まっていない印象であって、今一つのめり込めない話でもありました。

 

「カルテ#4 仮面の人生」は、は、人工的につくられた美貌の女優が、他人に作り出された人生から抜け出て、別の人生を生きたいと願う物語です。

絶大に人気を誇っている女優の二階堂桐子が、その人気故に「ただの人間として、誰にも注目されずに生きたい」と願い、カイに整形手術を依頼してきます。

しかし、彼女が属するプロダクション側は、桐子の代わりを見つけてこない限り手術は認めないというのでした。

この物語に関しては、どうにも舌足らずのように感じます。身代わりとなった桐子の腹違いの妹の水野珠貴の書き込みが舌足らずのためか、二人の行く末の描写が感情移入できませんでした。

 

「カルテ#5 スコープの奥の瞳」は、脳内に弾丸の破片が残り視力を失う危険がある狙撃手を、狙撃手としての視覚機能を完全に保持したままで破片を取り出してほしいとの国からの依頼でした。

患者である狙撃手は神園やカイたち同様に中東の難民キャンプで育った男であり、カイは手術にためらいを感じます。

結局は再び戦場に戻れるようにするための手術の依頼だったのです。

 

とりあえず最後まで読み通しましたが、物語として楽しむことが困難な作品でした。

ただ、すぐに重版されたそうですから( PR TIMES : 参照 )、評判は悪くはなかったのでしょう。しかし、個人的には続編が出たとしてもたぶん読まないと思います。