幸村を討て

幸村を討て』とは

 

本書『幸村を討て』は2022年3月に刊行された、527頁の長編の歴史小説です。

真田家の父昌行、兄の信之と弟の信繁という親子、兄弟の物語を徳川家康の想いを中心に描き直した力作で、面白く読めた作品でした。

 

幸村を討て』の簡単なあらすじ

 

亡き昌幸とその次男幸村ー何年にもわたる真田父子の企みを読めず、翻弄される諸将。徳川家康、織田有楽斎、南条元忠、後藤又兵衛、伊達政宗、毛利勝永、ついには昌幸の長男信之までもが、口々に叫んだ。「幸村を討て!」と…。戦国最後の戦いを通じて描く、親子、兄弟、そして「家」をめぐる、切なくも手に汗握る物語。(「BOOK」データベースより)

 

京の二条城で豊臣秀頼と面会した徳川家康は、その偉丈夫ぶりを見て豊臣家を滅ぼすことを決めた。

その後、浪人を集め開戦に備える豊臣に対し、二十万の大軍をもって大坂城を包囲した家康軍だったが、ただ大坂城の南に真田幸村の手で出城が築かれていた。

じっくりと構えて責め立てようとする家康だったが、何故か前田隊は真田丸に猛攻を仕掛けてしまうのだった。

急いで止めようとするその時、大阪城内から天を衝くような爆音が起こったものの、前田隊はその機会を利用して退却しようともしない。

前田の話を聞くと、南条元忠が内応し開門するとの徳川家からの伝令があったというのだ。その上、南条は内応が露見し、大阪城内で腹を切ったというのだ。

天守へ命中した大砲により和議となり、大阪城の堀を埋め立てたのち、再度の戦となるが、その際に豊臣方の総大将であった織田有楽斎が、患者であることがばれそうになり城を抜けてきた。

四月の二十六日、最大の戦となるだろうその日、徳川勢は毛利勝永の攻めに押されていたが、真田の一隊が家康本陣へと迫り、幸村は十文字槍を投げてきた。

おかしなことに、槍ははずれたが、しかし幸村は家康を見て確かに笑ったのだった。

戦後、真田幸村に纏わる一切のことを調べると決めるのだった。

 

幸村を討て』の感想

 

本書『幸村を討て』については、なんの前提知識もないままに、単純に大坂城夏の陣の終わりとともに幸村もその命を全うした史実にならい、それだけの物語だと思っていました。

ところが実際に読んでみると、幸村という存在についての情報の曖昧さに加え、大坂城落城の後の思いもかけない展開へと連なっていくのには驚きました。

本書では、徳川家康織田有楽斎南条元忠後藤又兵衛伊達政宗毛利勝永といった武将たちが登場します。

そして物語の構成として、まずはいわゆる大坂夏の陣で幸村が家康の本陣まで斬り込むところから始まります。

その際の幸村の不可解な行動は、それまでの幸村の行動ともあわせ、家康の疑念を膨らませることになり、幸村を知るためにこれまでの幸村の行いの全てを調査することになるのです。

その後、織田有楽斎以下の先に述べた武将たちの視点での物語が始まります。

その物語は、それぞれの武将を主人公にした短編でもあり、その短編は真田幸村という武将に焦点があてられているのです。

そして、全体として一編のミステリーとして仕上がっているのであり、真田昌幸、惣領の信幸(之)信繁(幸村)という戦国の真田家の物語が描き出されていきます。

 

読みながら思ったのは、この作者今村翔吾の作品の『八本目の槍』という作品にその構成が似ているということです。

八本目の槍』では、加藤清正や福島正則といった「賤ヶ岳の戦い」で名をあげ、「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれるようになった七人の武者たちの話を通して石田三成という人物を再構成するという話でした。

 

 

本書『幸村を討て』もまた、織田有楽斎や伊達政宗、後藤又兵衛といった武将たちの物語を通して真田幸村という人物像を構築しようとするにあります。

本書の場合はそれに留まらず、真田家の物語として再構築されるに至るところが異なると言えば異なるのかもしれません。

 

このところ、何冊か今村翔吾作品を読んできてあらためて思うのですが、今村翔吾という作家の傾向として、登場人物相互の腹の探り合いが少々都合がよすぎる気がしないでもありません。

特に本書では、物語の都合に合わせて登場人物たちが表面上はともかく、内心では理解し合っていたなどというのは若干の疑問を思えながらの読書でした。

幸村と後藤又兵衛や南条元忠、伊達政宗らとのかかわりを描くなかでの当事者同士の腹芸を示す場面や、特にクライマックスでの家康と正信、そして信之との会話の場面などがそうです。

さらに言えば、全く個人的な好みとして今村翔吾作品では、私の好きな葉室麟青山文平らの作品とは異なり、風景描写や心象風景などが全くなく、事実だけを語っていくその手法は、何となく違和感を感じていたものです。

 

とはいえ、本書『幸村を討て』自体の面白さを否定するものではありません。

「幸村を討て」という言葉に、その言葉を発した人物により様々な意味を持たせ、その言葉を発するに至る物語を構築するなど驚くだけでした。

この作者の物語が湿度が低いなどという個人的な好みはどこかに飛んでいきそうな見事な展開です。

その上、戦国武将としての真田昌幸と信之、信繁兄弟の話、また真田と徳川家康の関係などの視点も面白いものでした。

 

上記の不満は、単に一読者の好みと若干異なるというだけの個人的な話であって、本書の面白さは否定できません。

物語を構築するうまさは素晴らしいものであり、今後も目を離せない作家さんの一人です。

イクサガミ 天

イクサガミ 天』とは

 

本書『イクサガミ 天』は三部作の第一弾で、2022年2月に329頁で文庫化された、長編の活劇小説です。

大金を目当てに集まった腕自慢の男女の、京都から東京を目指す命を懸けてのレースを描くエンターテイメント小説です。

 

イクサガミ 天』の簡単なあらすじ

 

明治十一年。大金を得る機会を与えるとの怪文書により、強者たちが京都の寺に集められた。始まったのは、奇妙な「遊び」。配られた点数を奪い合い、東海道を辿って東京を目指せという。剣客・嵯峨愁二郎は十二歳の少女・双葉と道を進むも、強敵が次々現れー。滅びゆく侍たちの死闘、開幕!(「BOOK」データベースより)

 

明治十一年(一八七八年)二月、日本全国で配布された「豊国新聞」に掲載されたのは、本年五月五日午前零時に京都天龍寺境内に集まった者には金十万円を得る機会を与えるという記事だった。

当日、京都天龍寺境内に集まったのは総勢292人の猛者たちであり、その中には主人公の嵯峨愁二郎もいた。

槐(えんじゅ)と名乗る主催者の言葉の最中に、治安維持の任務を担う京都府庁第四課所属の剣豪安東神兵衛が現れるが主催者を護る男に首を落とされてしまう。

そして、ここ天龍寺境内を出るためには各人に配られた木札を一点として、まずは二点が必要だというのだ。

点数を得る手段は問わないという槐の言葉に、参加者は早速殺し合いをはじめ、木札の取りあいを始めるが、そこには双葉という十二歳少女も母親のために参加していた。

妻と子のために金が必要で参加した愁二郎は双葉を見殺しにできず、双葉を守りながらの状況となるのだった。

 

イクサガミ 天』の感想

 

本書『イクサガミ 天』は、巡査の初任給が四円の時代の十万円という大金のために命懸けで京都から東京までを旅する超エンターテイメント小説です。

それぞれに得物も、その腕も、もちろん性格も様々に異なる人物たちが、自分の首に懸けた木札を取りあう、疾走感に満ちた物語であり、当初は『餓狼伝』のような夢枕獏の格闘小説を思い出したものです。

しかし、読後に読んだレビューには「令和版・山田風太郎「忍法帖」シリーズ」を彷彿とさせるとありました( ダ・ヴィンチ WEB : 参照 )。

登場人物たちの超人的な能力など、言われてみればそちらの方がしっくりとくるようです。

 

 

つまりは、ひと癖もふた癖もある腕自慢の人物たちがその腕を駆使して各人の持つ木札を集め、東京を目指す物語です。

その中心にいるのが嵯峨愁二郎(さがしゅうじろう)であり、その庇護を受ける双葉という女の子です。

参加者たちは、当然のごとく圧倒的な弱者である双葉の持つ木札を狙い、その攻撃を防ぎながら愁二郎たちは元伊賀同心の柘植響陣などの助けを借りながらも何とか切り抜けていくのです。

 

愁二郎たちに襲い掛かる敵役としてのキャラクターも、衣笠彩八祇園三助化野四蔵といった、愁二郎の義兄弟たちである鬼一法眼を始祖とする京八流の遣い手たちも登場します。

ほかに、アイヌのカムイコチャ菊臣右京、それに戊辰戦争の際の新政府軍の浪人部隊の一員であった貫地谷無骨などの強烈なキャラクターが登場し、愁二郎たちとのアクションをもりあげてくれています。

加えて、この「蠱毒」と呼ばれる戦いの企画者と思われる、西郷、大久保、木戸らを呼び捨てにする元侍が、その正体が明かされない存在として少しだけ登場します。

こうした存在感のある登場人物たちがこの物語を一層面白くしてくれているのです。

 

先に夢枕獏や山田風太郎を彷彿とさせる作品だと書きましたが、それは単に多数のキャラクターが入り乱れて互いの持つ木札を取りあうというその設定だけにあるのではありません。

物語の背景が史実を織り交ぜ、歴史上の実在の人物たちの名が物語に絡みながら進行していくという物語の伝奇性にもあります。

ただ、本書『イクサガミ 天』を読む限りにおいては、この実在の人物たちが具体的にストーリそのものにかかわることはなく物語の背景に出てくるだけです。

でも、本書の面白さはそんな歴史上の人物たちの関与の有無とは関係なく、本書自体の持つエンターテイメント小説としての面白さに惹きつけられます。

 

本書『イクサガミ 天』はこれまでの、本書の作者今村翔吾の作品群とは若干趣が異なる伝奇性の強いアクションエンターテイメント小説です。

全三部作ということですので、あと二冊の展開が心待ちにされる、そんな作品でした。

塞王の楯

塞王の楯』とは

 

本書『塞王の楯』は、2021年10月に新刊書が刊行された、ボリュームが552頁というかなり大部の長編の歴史小説です。

近江の石工を主人公とした読みごたえのある作品で、米澤穂信の『黒牢城』とともに第166回直木三十五賞を受賞しています。

 

塞王の楯』の簡単なあらすじ

 

幼い頃、落城によって家族を喪った石工の匡介。彼は「絶対に破られない石垣」を造れば、世から戦を無くせると考えていた。一方、戦で父を喪った鉄砲職人の彦九郎は「どんな城も落とす砲」で人を殺し、その恐怖を天下に知らしめれば、戦をする者はいなくなると考えていた。秀吉が死に、戦乱の気配が近づく中、琵琶湖畔にある大津城の城主・京極高次は、匡介に石垣造りを頼む。攻め手の石田三成は、彦九郎に鉄砲作りを依頼した。大軍に囲まれ絶体絶命の大津城を舞台に、信念をかけた職人の対決が幕を開ける。ぶつかり合う、矛楯した想い。答えは戦火の果てにー。「最強の楯」と「至高の矛」の対決を描く、圧倒的戦国小説!(「BOOK」データベースより)

 

織田信長による浅井長政の一乗谷城攻撃の際、匡介は塞王と呼ばれる穴太衆飛田屋の源斎に助けられた。

匡介の石に対する非凡な才能を見出した源斎は、匡介を自分の里へと連れて帰り、飛田組のあとを継がせることとする。

それから二十三年、源斎のもとで石工としての技術を学んだ匡介は、飛田組の仲間からも次の頭領として認められつつあった。

一方、国友衆の鉄砲職人であり、国友衆の頭領となるべき彦九郎は、最強の攻撃力こそ平和への道だとして威力の高い鉄砲や大砲を作り出すべく修行に励んでいた。

 

塞王の楯』の感想

 

本書『塞王の楯』は、どんな攻撃をも防ぐ石垣こそ平和に続く道だとして修行する石工の匡介の物語です。

近江の国に実在した穴太衆という石工集団。その中の飛田組の源斎のもとで成長した匡介という男を主人公にした本作には、平和とは何かを考えさせられます。

 

本書の作者今村翔吾という作家さんは、とてもエンターテイメント性に富んだ歴史小説を書かれる人です。

第160回直木賞の候補作になった『童の神』にしても、その後第163回直木賞の候補作になったじんかんにしても、読者を楽しませることを主眼に書かれたエンターテイメント性に富んでいる作品です。

それは166回直木賞を受賞した本書『塞王の楯』にしても同様で、生涯のライバルである国友衆の彦九郎の作り出す鉄砲、大砲を相手に、いかに城を護る石垣を構築し、戦うかを、読者を飽きさせることなく描き出してあります。

 

 

登場人物としては、主人公が前述の飛田匡介で、その匡介を助け、匡介の才能に気付いて飛田衆の後継者として父親代わりに匡介を育て上げたのが飛田衆の頭取である飛田源斎です。

また匡介が来る前は飛田衆の後継者と目されていた、切り出した石を石積みの現場まで運ぶ荷方の組頭である玲次や、石を山から切り出す山方の小組頭の段蔵が脇を固めます。

そして、匡介のライバルとして、国友衆の彦九郎という存在がいます。

他に、後に匡介たちの戦いの場となる近江の大津城の城主である京極高次や、その妻であると初の侍女の夏帆、それに京極高次の家臣の多賀孫左衛門といった人物たちが登場してきます。

 

本書『塞王の楯』は、石垣そのものの構造から、石垣造りの仕組み、職人たちの働き方まで詳しく説明してあり、それらを物語の中にうまく生かして構築してあります。

つまりは、石を切り出し、運搬し、積んでいくそれぞれの過程において職人技が必要なのだということを、戦いのクライマックスにそれぞれの持ち場での飛田屋の面々の働きを示す中でうまく丁寧に説明してあるのです。

こうして登場人物たちが戦国の世を知恵を絞り、戦い、生き抜いていく様を、石垣構築にまつわる様々な知識を挟んで読者の好奇心を高めつつ、様々な人間模様を織り交ぜながら描き出してあります。

どちらかというと情緒面は控えめであり、匡介たちの構築した石垣をメインにした戦いの場を主軸として、石垣の様々な側面を見せてくれているのです。

 

石垣に関しての物語といえば、門井慶喜の『家康、江戸を建てる』という作品があります。

しかし、この作品は家康による町づくりの話であり、個々の技術者の物語と言った方がいい作品であって、貨幣鋳造や河川改修などの話がある中で石垣を積む話も出てくるのです。

 

 

さらに、伊東潤の『もっこすの城 熊本築城始末』という熊本城築城を描いた作品もあります。

しかし、この作品も城造りというよりは加藤清正という武将の客観的な行動歴を描いている作品であり、石垣造りに関してはほとんど書いてありません。

 

 

ただ本書『塞王の楯』では読み手の私の想像力が追い付かず、匡介たちの石垣を通しての戦いの中で理解できない場面も少なからずありました。

その最たるものはクライマックスでの石垣の構築の場面ですが、そこはあまり書くとネタバレになるので書くことはできません。

また本書冒頭近くで信長を討った明智勢に攻められる蒲生親子の日野城での攻防がありますが、そこでの攻防も、積み上げられるべき石垣の長さ、高さが戦いの場で想像しにくいものでした。

描写されている状況が可能なのか、示されている高さの石垣が望む役目を果たしてくれるものか疑問なしとは思えないのです。

 

ともあれ、もう少し短くてもいいのではないかと思ったほどに長い物語ではありますが、作者の熱量は確かに感じられ、それだけの読みごたえのある作品ではありました。

直木賞という賞にふさわしい作品と言えるのではないでしょうか。

じんかん

本書『じんかん』は、新刊書で509頁の長編の時代小説で、第163回直木賞の候補となった作品です。

稀代の悪人として描かれることの多い松永久秀の生涯を描いた実に面白い作品ですが、微妙に私の好みからは外れていました。

 

『じんかん』の簡単なあらすじ

 

民を想い、民を信じ、正義を貫こうとした青年武将は、なぜ稀代の悪人となったか?時は天正五年(一五七七年)。ある晩、天下統一に邁進する織田信長のもとへ急報が。信長に忠誠を尽くしていたはずの松永久秀が、二度目の謀叛を企てたという。前代未聞の事態を前に、主君の勘気に怯える伝聞役の小姓・狩野又九郎。だが、意外にも信長は、笑みを浮かべた。やがて信長は、かつて久秀と語り明かした時に直接聞いたという壮絶な半生を語り出す。大河ドラマのような重厚さと、胸アツな絆に合戦シーン。ここがエンターテインメントの最前線!(「BOOK」データベースより)

 

織田信長は、松永弾正少弼久秀謀反、との報告を知らせに来た小姓頭の狩野又九郎に酒の用意をするように命じ、松永久秀の生涯について又九郎に語り始めた。

 

後の松永久秀兄弟の九兵衛と弟の甚助は、多聞丸という少年がリーダーの追剥をしていた浮浪児の一団と行動を共にしていたが、ある一団に返り討ちにあってしまう。

何とか逃げ出した九兵衛と甚助、それに日夏という娘の三人は、摂津の本山寺の宗慶和尚に助けられる。

一年を暮らした九兵衛に、宗慶和尚は三好元長という武士に会うことを勧め、堺へ行けと言うのだった。

日夏を寺に残し、甚助と共に堺へたどり着いた九兵衛は武野新五郎のもとで茶道などを学びながら一年半を過ごしたとき、三好元長と会った。

九兵衛は、「堺は堺の者に治めさせ」、さらに「民が政を執る」世を目指すという元長について行こうと決め、九兵衛は松永久秀、甚助は長頼と名乗るようになる。

共に闘う仲間を集めるようにいう元長に応えて久秀らは大和の柳生家厳を訪ね、兵法者の瓦林総次郎と知り合う。

その後、京の南東にある宇治で海老名権六家秀四手井源八家保という国人領主を味方に生き入れることに成功し、堺へと帰る久秀たちだった。

将軍の弟の足利義維(よしつな)、主筋の細川晴元を擁し挙兵した元長は、堺衆と呼ばれる九兵衛らと合流し大永七年一月、京に向けて進行を開始するのだった。

 

『じんかん』の感想

 

本書は、織田信長が小姓頭の狩野又九郎に対し、松永弾正少弼久秀について知り得た事柄を聞かせるという形式をとっています。

魔王と恐れられた信長が、稀代の悪人と評されていた松永久秀のそれも二度目の謀反に対し怒らず、それどころか久秀の歴史を聞かせるのですから、松永久秀という人物に対する信長の思いが感じられます。

 

松永弾正少弼久秀という人物を正面から描いた作品と言えば、花村萬月の『弾正星』があります。

この『弾正星』という作品は、本書『じんかん』と同様に松永久秀は信長からは認められている人物として描かれています。

しかし本書のように、久秀を実は三好家に尽くした傑物だったとして描くのではなく、悪人は悪人として、しかし魅力ある悪人として描いています。花村萬月らしい個性的な作品です。

 

 

本書『じんかん』は、『羽州ぼろ鳶組シリーズ』を著している作者今村翔吾の作品らしく、歴史小説というよりは痛快時代小説と言った方が良さそうな描き方をしてあります。

羽州ぼろ鳶組シリーズ』は、江戸の武家火消である松永源吾が出羽新庄藩の火消組織を再建するために活躍する姿を描いた痛快時代小説で、江戸の町を守る火消し達が生き生きと描写された大人気のシリーズです。

 

 

本書『じんかん』は、少なくとも久秀が三好元長と共に闘う第四章「修羅の要塞」あたりまでは、そうした痛快小説の趣をもった物語としてあったと思えます。

しかし、それ以降、三好長慶のもとで久秀が歴史の表舞台に立ち始めたころからの物語は歴史小説としての印象に変わってきます。

つまりは歴史小説として歴史的事実に縛られるためか、それまでの痛快さは影をひそめてくるのです。

と同時に、ここらの似たような名前の登場人物らが入り乱れる歴史的な事実が分かりにくく、それまでのような軽い読み方では理解が追いついて行かなくなりました。

ここらあたりの時代背景をきちんと把握しておかないと久秀の行動の意味が理解できなくなり、それは本書の内容がわからないことになってきます。

 

本書『じんかん』にも簡単な時代背景は説明してあります。そしてそれは、応仁の乱後、当時の足利幕府の実力者であった細川家の内紛にあるということです。

当時の細川家当主の細川正元の三人の養子のうち、生き残った澄元高国の二人の権力争いがあり、澄元を支えていた三好家が、高国と高国を支えていた畠山家と争うことになります。

そして、元長の祖父と父親は高国に殺されてしまい、細川家は高国に掌握されてしまいます。時をおいて元長は、現将軍足利義晴の弟の義維(よしつな)、澄元の一子で十二歳の細川晴元を奉じて高国を京から駆逐しようとしているのです。

このあと、三好家が奉じる細川晴元の裏切り行為、それに将軍である足利家の内紛が絡んでまた分かりにくくなります。

こうした歴史的な事実があるために、松永久秀の戦いの意味を見失いがちになるのです。

 

話は変わりますが、本書の基本としてある久秀が惹かれた三好元長の考え、政をあるべきものの手に戻すという「民が政を執る」という考えを基礎にした作品がありました。

それは『八本目の槍八本目の槍』という作品で、やはり本書の作者今村翔吾の作品でした。

この作品は「賤ヶ岳の七本槍」として挙げられる人物七人が、それぞれに石田治部少輔三成という人物について語ることで、石田三成という人間を描き出そうとする作品です。

この作品でも武士階級の否定から、男女平等、そして最終的には民主主義まで持ち出されています。

戦国時代を描く物語としてはかなり無理があるのではないかと思い、確かに面白い作品ではあるけれども、好みとは異なる作品だと思っていたものです。

 

 

本書でも似た印象を持ちました。この時代を生きた人間として、武士を否定し、民主主義的思考を持ちつつ戦いに臨む、というのは何となく受け入れ難く感じたのです。

ですが、この点は私の頭の固さのためだと言われれば、それまでであって反論できないとは思います。

 

あらためて本書『じんかん』で気になった点を挙げると、先に述べたように後半になって物語の筋を見失いがちになったこと、同じく後半になり信長が久秀の三悪について語るあたりで時制が前後してくることなどに注意が必要です。

とはいっても、これらは読み手の問題であり、丁寧に読んでいさえすれば問題ないところではあります。

あと、登場人物として日夏という娘が出てきます。読み始めはこの娘がこの後どのような絡み方をするかと期待していたのですが、この娘の描きかたが残念と言えば残念でした。

確かに物語の進行上重要な役目を果たすのですが、もう少し扱い方を丁寧にしてもらってもいいのではないかと思ったことでした。この点も全くの個人的な感想です。

 

また、悪人と呼ばれた松永久秀の、悪人と呼ばれた理由がよく分かりませんでした。

本書『じんかん』は久秀を世評のような悪人ではないとことを主題に描いてあるため、当然ながら久秀の行為はすべて三好家を思う忠臣として描かれています。

一方、久秀が世評で悪人とされている理由は、久秀を排除したい者たちの流した嘘を否定しなかっただけだということなっていて、久秀に対する悪人という評価が定着する理由には弱いと感じたのです。

 

あと一点。細かいことですが、終盤で、三十七人の家族の命を救うという目的を達したのに、結果として七千の家臣の命を道連れにするというのは納得できませんでした。

久秀という人間がそれだけ慕われていた、などという理屈は通らないと思えました。

 

とはいえ、第163回直木賞の候補となった作品です。信長を語り部とした着眼点のすばらしさ、物語の視点のユニークさ、物語の運びのダイナミックさ、など、エンターテイメント小説として面白い作品であることは否定できません。

以上挙げてきた点も、殆どは読み手の問題であるし、読み手の価値観の問題ということで片付く疑問でもあります。

ただ、個人的に若干の違和感を覚えたということです。

八本目の槍

本書『八本目の槍』は、新たな視点で石田治部少輔三成の姿を再構成した、新刊書で394頁という長編の時代小説です。

それも実に現代的な観点から捉え直したものであり、私にとっては疑問符や感嘆符が飛び交う作品でした。

 

秀吉の配下となった八人の若者。武勲を上げた七人は「賎ケ岳の七本槍」とよばれるようになる。「出世」だけを願う者、「愛」だけを欲する者、「裏切り」だけを求められる者―。己の望みに正直な男たちは、迷いながらも、別々の道を進んだ。残りのひとりは、時代に抗い、関ケ原で散る。この小説を読み終えたとき、その男、石田三成のことを、あなたは好きになるだろう。共に生き、戦った「賎ケ岳の七本槍」だけが知る石田三成の本当の姿。そこに「戦国」の答えがある!(「BOOK」データベースより)

 


 

『八本目の槍』の簡単なあらすじ 

(括弧内は描かれている武将の名前です。)

一本槍 虎之助は何を見る ( 加藤虎之助清正 )
虎之介は肥後半国十九万五千石に封じられたが、自分の領地が九州の地に決まったのは佐吉の進言によるものだと知り、心中穏やかではなかった。しかし、佐吉の真意を知った虎之介は自分なりの方法で豊臣家を守るというのだった。

二本槍 腰抜け助右衛門 ( 志村助右衛門【 糟屋助右衛門武則 】 )
槍の名手といわれた助右衛門は、慕っていた父違いの兄糟屋朝正から槍などの稽古をつけてもらっていた。その助右衛門が賤ヶ岳の戦いで手柄を立てて以降、槍を握ることができなくなり、腰抜け助右衛門と呼ばれるようになった。

三本槍 惚れてこそ甚内 ( 脇坂甚内安治 )
もと浅井家に仕えていた甚内は、ゆくゆくは一国一城の主となりお市様のようないい女を嫁に持つことを夢に見るようになっていた。そんな甚内が明智光秀の援軍として間者働きのため亀山城へと入り、八重という女と知り合う。

四本槍 助作は夢を見ぬ ( 片桐助作且元 )
関ヶ原の戦いの前に、助作は佐吉から徳川内府の動きについて意見を聞き、佐吉のいない世についての話を聞いた。佐吉は、秀頼が秀吉の才覚や魅力には到底及ばぬことを知り、ゆえに負けたときのことを助作に頼んだのだった。

五本槍 蟻の中の孫六 ( 加藤孫六嘉明 )
自分一人、蟻の行列に紛れ込んだ異端の者であることを感じていた孫六だった。己の好きなことに打ち込めるそんな国になればよいという佐吉の言葉を信じ、佐吉の言う通りに動いた孫六。しかしその道は修羅の道でもあった。

六本槍 権平は笑っているか ( 平野権平長泰 )
故郷では文武共に突出した存在の権平は秀吉の小姓組へと配置されたが、井の中の蛙であったことを思い知らされる。常に「笑う」ことで非才を隠す権平は賤ヶ岳の七本槍として一目置かれるようになったものの、加増が無いのだった。

七本槍 槍を捜す市松 ( 福島市松正則 )
大津城の城門の前に市松が晒し者にされていた。市松は黒田長政を隣にしたまま佐吉を罵り、佐吉もまた怒鳴り返す。しかし、二人の会話はその裏に多くの意味を秘めていた。ただ、無言の会話では佐吉の真意をくみ取れない箇所も多く、市松はその真意を探り始めた。

 

『八本目の槍』の感想

 

本書を読んだ第一印象は、石田佐吉という人物を再構成するというのはいいのだけれど、その試みがあまりに現代的に過ぎ、いくら何でも戦国期に生きた人間の思考方法の解釈としてはあり得ないというものでした。

また、現代的な解釈とまではいかないとしても、例えば関ケ原の戦いで、佐吉が自軍の勝ちを三割程度とみているなどの描写はやはり考えにくいのではないでしょうか。

たしかに、各短編が有機的に繋がり合い、全体として佐吉という人間を愛した武将たちの青春記ともいうべき作品となっているとは言えるでしょう。

しかし、七本槍の各人を佐吉という人間一人を肯定するために動かしたため、物語が無理な運びになってはいないかとおもえるのです。

ほとんど終わり近くまで、この作品は無理があると思いながら読んでいました。

 

たしかに、石田三成という人物を賤ヶ岳の七本槍として挙げられた人物たちの視点を借り、現代的な視点で再構成するという意図はユニークだし、素晴らしいものです。

こうしたユニークな解釈が目立つ作品として垣根涼介の『信長の原理』という作品がありました。

この作品は、信長の生き方を、「パレートの法則」や「働きアリの法則」と呼ばれている現象を通して組み立てているものです。

つまり、「経済において、全体の価値はそのうちの一部が生み出している」という考えであり、「働きアリの法則」とは「組織全体の二割程が大部分の利益をもたらす」という考えです。

この考えで信長の生き方を再構成しているのです。

 

 

しかし、『信長の原理』の場合はまだ許容範囲にあったと言えるのではないでしょうか。

本書『八本目の槍』の場合、武士階級の否定に始まり、男女平等、最終的には民主主義まで持ち出されているのですから、いくら何でも行き過ぎだ、との印象が強いのです。

物語としては強引に過ぎるという気持ちしか持てませんでした。

つまり、小説として新たな視点で再構成したこの物語は、読み終えたときの感慨はそれなりに持ったのですが、やはり時代小説として読んだ時、石田三成という人間を美化しすぎている、との思いはぬぐえませんでした。

 

とは言いながらも、今村翔吾という作者はそうしたことは十二分に解ったうえであえて書いているのでしょう。

そうした観点で本書を見直すと、時代小説としてのカテゴリーを離れ、戦国期の佐吉を中心とした若者たちの青春記として捉えればなかなか読みごたえのある作品だとも言えます。

時代小説の形を借りた青春小説であり、佐吉という図抜けた存在を心の底では認めつつも、表面的には喧嘩せざるを得なかった仲間たち。

その彼らが、佐吉の死後、その真の意図に気付き、彼の思いに各々の形で答えようとする青春記です。

 

更には、本書『八本目の槍』には佐吉が考えた「米と金(きん)」との相場などの関係や、佐吉が見つけた戦いの「理」など、作者の思考のすばらしさを感じさせる新たな視点もあふれています。

また、最終話では佐吉がこれまで仕掛けてきた数々の仕掛けが一気に種明かしされます。

そのさまはまるで良質のミステリーの種明かしにも似て小気味よく、本書の無理な解釈の上に感じていた違和感も一気に拭われた気がしたものです。

 

本書を青春小説としてみればかなり面白い作品だといえ、作者の新解釈の苦労がしのばれる作品だと言えます。ですから、一般的には本書『八本目の槍』は面白いと受け入れる人が多いのではないでしょうか。

ただ、個人的には全体としての違和感を完全に払拭することはできず、私の好みとは少しではありますが異なる作品だと言わざるを得ないようです。

てらこや青義堂 師匠、走る

明和七年、泰平の世となって久しい江戸日本橋で寺子屋の師匠を務める十蔵は、かつては凄腕と怖れられた公儀の隠密だった。今は、貧しい御家人の息子・鉄太郎、浪費癖で親を困らせる呉服問屋の息子・吉太郎などワケありの筆子に寄り添う日々。年が明け、筆子らと伊勢神宮へお蔭参りに向かう十蔵の元へ、将軍暗殺を企てる忍びの一団「宵闇」が動き出したとの報せが届く。危険が及ばぬよう離縁した妻・睦月の身を案じた十蔵は、妻の里へ。筆子たちは、十蔵の記した忍びの教本『隠密往来』をたよりに、師匠を救う冒険に旅立つ―(「BOOK」データベースより)

 

登場人物
坂入十蔵  三十三歳 六年前に妻を離縁 伊賀組与力二十騎のうちの一家 公儀隠密の陰忍
坂入九兵衛 十蔵の兄 伊賀組与力坂入家当主 
景春    絵師 陽忍
藤川弥三右衛門近義 藤川道場師範 直心影流四代 陽忍

鉄之助  御徒組の月岡家の跡取り息子 十三歳でありながら直心陰流道場での実力者
源也   日本橋大工町の大工の大棟梁・定一の息子 一度見ただけでまねて作って見せる
吉太郎  近江商人である日本橋北大伝馬町の呉服問屋丹色屋福助の一人息子
千織   加賀前田家に六十八家しかない人持組の一つ、生駒家の娘

三雲禅助 山喰またの名を鬼火の禅助 十蔵と双璧を成すと言われた腕利き
宵闇   風魔小太郎を首領格とする、公文甚八や空網の与一、霧島十徳らの一味

 

近年には珍しい忍者ものの、今人気の今村翔吾の小説らしい見せ所満載の長編の痛快活劇小説です。

 

序章で今の青義堂の様子を見せ、第四章までで鉄之助吉太郎源也千織という悪ガキらの紹介を兼ねた物語があります。

その後、第五章で坂入十蔵の別れた妻の睦月との馴れ初めや別れの事情が語られ、残りで問題児らのお伊勢参りとそれに伴う事件が展開します。

 

忍者ものといえば、私にとっては司馬遼太郎の『梟の城』を始めとする忍者小説です。さすがの司馬作品であり、かなりの読みごたえがありました。

また山田風太郎 の『忍法帖シリーズ』も忘れてはいけないでしょう。こちらは荒唐無稽な忍術を駆使して戦うお色気とアクション満載の痛快小説でした。

 

 

近年では宮本昌孝の『風魔』(祥伝社文庫 全三巻)などの作品や、風野真知雄の『妻はくノ一シリーズ』があります。

風魔』は風魔小太郎を主人公とする活劇小説であり、滅亡しようとする風魔一族の棟梁として秀吉らの勢力と戦う姿が描かれている、活劇小説としては正統派と言える時代小説でした。

一方『妻はくノ一シリーズ』は、変わり者で通っていた雙星彦馬という男のもとに嫁に来た織江という娘がわずか一ヶ月でいなくなってしまいます。その妻を探すために隠居をした彦馬が、妻を探しに江戸まで出て様々な謎解きをするという物語です。

風野真知雄の作品らしく、少々ファンタジックでユーモアに満ちた物語でした。

 

 

本書『てらこや青義堂 師匠、走る』はどちらかといえばこの『妻はくノ一シリーズ』に近いのですが、しかし『妻はくノ一シリーズ』のような謎解きをメインにした物語ではなくて、アクションを重視した痛快活劇小説です。

 

公儀の隠密の忍び、それも目的地に住して情報収集に努める陽忍ではなく、武力の行使なども辞さない陰忍だった坂入十蔵が主人公です。

十蔵はそれまでの自分の隠密としての行いに疑問を持ち、忍びとしての身分を捨て市井の寺子屋の師匠としていきています。

しかし、寺子屋生徒である筆子らのとんでもない行動に思わず忍びの業を使う羽目に陥るのです。

それと共に将軍暗殺を企てる忍びの一団「宵闇」が動き出し、十蔵もその集団に対処しなければならなくなり、忍びとして復活することになるのでした。

 

最初は鉄之助や千織といった寺子屋の問題児らへの対処のために働いていた十蔵が、次第に忍びとしての実力を発揮していく中で、心ならずも別れた妻と再会するなどの出来事を挟みつつ、危機に陥った子供たちを助けるべく活躍する姿が描かれます。

この作者の『羽州ぼろ鳶組シリーズ』などと同じく、個性的な登場人物と見せ場を効果的に織り込みながら読み手を物語の世界に引き込む手腕は見事だと思います。

 

 

ただ、何作か続けてこの作者今村翔吾の作品を読んでみると、個人的には何となく型にはまったというか、類型的な印象を感じるようになってきました。

 

力不足でうまく言えないのですが、ストーリーそのものが別に固定的だというのではありません。

ストーリーは意外性もあって面白いのです。キャラクターにしても個性的だし、人物も明確にかき分けられていて何も異論はありません。

しかしながら、そうした展開自体に違和感を感じてしまうのです。

私の一番好きなタッチから少し外れている、ということなのでしょう。それはちょっとした情感であったり、登場人物の心象表現や情景描写のあり方などであって、それらが微妙にニュアンスが違うのだと思います。

それは作者の個性を無視した、単なるファンの無いものねだりの勝手な言い草です。でも、個人的意見としてはそうなのです。

とはいえ、面白く惹かれる物語であることに間違いはなく、これからも読み続ける作家さんであることは否定しません。本作品もシリーズ化されるのであれば読み続けるのだと思います。

くらまし屋稼業

万次と喜八は、浅草界隈を牛耳っている香具師・丑蔵の子分。親分の信頼も篤いふたりが、理由あって、やくざ稼業から足抜けをすべく、集金した銭を持って江戸から逃げることに。だが、丑蔵が放った刺客たちに追い詰められ、ふたりは高輪の大親分・禄兵衛の元に決死の思いで逃げ込んだ。禄兵衛は、銭さえ払えば必ず逃がしてくれる男を紹介すると言うが―涙あり、笑いあり、手に汗を握るシーンあり、大きく深い感動ありのノンストップエンターテインメント時代小説、ここに開幕!(「BOOK」データベースより)

登場人物
丑蔵   浅草界隈を牛耳っている香具師の元締め
万次・喜八 丑蔵の信頼の篤い子分 集金も任されている
禄兵衛  香具師の大親分 高輪の上津屋が本拠


 

「くらまし屋稼業シリーズ」の第一作となる長編の痛快時代小説です。

 

浅草界隈を牛耳っている香具師の元締めの丑蔵から集金も任されているほどに信頼の篤い子分の万次喜八は、丑蔵の言葉一つで人殺しをもこなしてきた生活が嫌になり、足抜けすることを決心します。

足抜けしようとしたものの、成り行きから高輪の香具師の大親分の禄兵衛のもとに逃げ込んだ万次と喜八は、禄兵衛から「くらまし屋」と呼ばれる一味の手で丑蔵の監視から逃げ出す羽目になったのです。

 

本書の主人公堤平九郎は、何らかの理由で江戸の町から逃げ出したい人たちを、無事に逃がしてやることを生業としています。

本書『くらまし屋稼業』では、元締めの言うとおりに殺しや危険の回避などの危ない仕事をこなしてきた二人が、一人は惚れた女ができ、もう一人は故郷に残してきた娘が病に倒れたため、まとまった金を握って足抜けをしようとして、結果的に「くらまし屋」の世話になることになります。

二人が逃げ出そうとしている江戸の町の大物の香具師の元締めである丑蔵は、隠された事情もあって絶対に二人の逃亡を許すはずもなく、事実、二人が逃げ込んだもう一人の香具師の親分の禄兵衛との全面的な対決も辞さない態度でいます。

 

そうした状況の中、平九郎らはどのような手段で二人を監視の目をかいくぐって逃亡させるのか、読者の興味はまずはそこにあります。

その点、本書の解決策は確かに意外なものであり、読者の関心を満足させるものだったと思います。

 

また、活劇小説としても「くらまし屋」の稼業を二種類設け、頭を使ったくらまし屋の仕事の他に、正面から乗り込んで晦ますという力業の「裏」の仕事という設定まで設けてあり、興味は尽きません。

その上に、「虚」という本書ではその片鱗しか見せていない正体不明の一味がいたり、また、主人公の平九郎にも明かされていない事情があったりと、隠された謎があるようです。

早速続編を読みたいと思う一冊でした。

くらまし屋稼業シリーズ

くらまし屋稼業シリーズ(2019年11月13日現在)

  1. くらまし屋稼業
  2. 春はまだか
  3. 夏の戻り船
  1. 秋暮の五人
  2. 冬晴れの花嫁

 
 

登場人物
堤平九郎 飴細工屋 浅草などに露店を出している
茂吉   日本橋堀江町にある居酒屋「波積屋」の主人
七瀬   「波積屋」で働く二十歳の女性
赤也   「波積屋」の常連客 美男子

初谷男吏 牢問い役人 「虚」の一味
榊惣一郎 剣の遣い手 「虚」の一味

本シリーズは、何らかの理由で江戸の町から逃げ出したい人たちを、下記七箇条を守ることを条件に、高額な謝金と引き換えに、無事に逃がしてやることを生業としている一味の物語です。

くらまし屋七箇条
一、依頼は必ず面通しの上、嘘は一切申さぬこと。
二、こちらが示す金を全て先に納めしこと。
三、勾引かしの類でなく、当人が消ゆることを願っていること。
四、決して他言せぬこと。
五、依頼の後、そちらから会おうとせぬこと。
六、我に害をなさぬこと。
七、捨てた一生を取り戻そうとせぬこと。

 七箇条の約定を守るならば、今の暮らしからくらまし候。
 約定破られし時は、人の溢れるこの浮世から、必ずやくらまし候。

 

登場人物を見ると、浅草などに露店を出している飴細工屋をしている堤平九郎という男を主人公とし、その仲間として、日本橋堀江町にある居酒屋「波積屋」で働く一味の頭脳であの七瀬という二十歳の娘、それに演技力と変装術が達者な赤也という色男がいて、それに「波積屋」の主人茂吉がいます。

それに、『』という正体不明の組織があり、その一味に、第一巻では牢問い役人の初谷男吏榊惣一郎という剣の遣い手が登場しています。

 

作者の今村翔吾には、『羽州ぼろ鳶組シリーズ』という人気シリーズがありますが、作者自身は『羽州ぼろ鳶組シリーズ』が「表の人間」を描いているとすれば、本シリーズは「その反対の裏側が舞台」だと言っています( 今村翔吾・インタビュー : 参照 )。

 

 

この逃亡の手助けという仕事については、かつて「夜逃げ屋本舗」というテレビドラマがありました。多重債務者の夜逃げを手助けをするという中村雅俊主演の人気シリーズであり、同じ中村雅俊主演で映画化もされたほどです。

 

 

また小説では、田牧大和の『とんずら屋シリーズ』があります。

この田牧大和の小説は、「とんずら屋」という夜逃げ屋を営む「松波屋」を舞台に、十八歳になる弥生という少々事情を抱える娘を主人公に繰り広げられる痛快人情時代小説です。今のところ二巻でとどまっており、続刊を期待したいしたいほどに面白く読んだ物語です。

 

 

本書『くらまし屋稼業シリーズ』にはさらに仕掛けが施してあります。

それは前述の「虚」という正体不明の組織の存在であり、本書ではその一旦が垣間見えるだけです。

そしてもう一点。主人公の平九郎にはいまだ明かされていない目的があるようで、第一巻ではまだ何らかの目的を有していることが示唆されているだけです。

そもそも、平九郎が今「くらまし屋」を始めた理由も、本書では過去に何らかの出来事があったことを示してあるだけです。詳しい経緯は今後の物語の要となってくるかもしれません。

 

物語の全体的な印象は、まだ続いているシリーズですので断言はできませんが、例えば第一巻では喜八の娘に関する隠された事情が哀切さの漂う物語として描いてあり、単に痛快活劇小説という以上の哀しみまで漂う物語として仕上がっています。

その点では辻堂魁の『日暮し同心始末帖シリーズ』に通じるところがあるようです。こ『日暮し同心始末帖シリーズ』は登場人物の哀しみに対する救いがないと感じる場面もあるほどに切なさ漂うシリーズです。

ただ、本書のほうがより活動的ではあり、若干の明るさはあるように思えます。

 

 

いずれにしろ、また楽しみなシリーズが増えたと言えそうです。

菩薩花 羽州ぼろ鳶組

番付のためか―。火消番付への関心は高く、お家の評判にも繋がる。その噂が人々の口に上りだす頃、ぼろ鳶組松永源吾は、無謀にも他の火消から手柄を奪おうと闘う仁正寺藩火消柊与市の姿を目にする。そんな折、火消による付け火を疑う読売書きが姿を消し…。真相を追う源吾らの前に現れたのは、火難の遺児を救い育て、「菩薩」と崇められる定火消進藤内記だった。(「BOOK」データベースより)

 

羽州ぼろ鳶組シリーズの第五弾となる長編の痛快時代小説です。

 


 

火事専門の読売書きの文五郎は四谷塩町の出火元へ駆けつけ、最も早く駆けつけるであろう火消しを待っていましたが、一番に駆け付けたのは意外な火消しでした。

また、本郷あたりでの出火に非番のところを駆けつけた清十郎は、凪海の与市を頭とする仁正寺藩の火消したちが加賀鳶の火札をとる場面に出逢います。与市は源吾にも近く邪魔すると伝えるように言うのでした(第一章 番付火消)。

加賀鳶の大音勘九郎の娘お琳牙八深雪へのお礼だとして「ころころ餅」を持参してきたところに、半鐘が聞こえてきます(第二章 ころころ餅)。源吾らが京橋筋の北紺屋町あたりへ駆けつけると、「よ組」の蝗の秋仁と「菩薩」との異名を持つ八重洲河岸定火消新藤内記とが対立していました。

一方、源吾の家では駕籠に乗せ帰したお琳とお七とが行方不明となっていた(第三章 菩薩二人)。

そのお琳とお七は福助という子供と共に長谷川平蔵に連れられて帰ってきます。福助は文五郎の子供であり、今度は与市も行方不明になっているというのでした(第四章 鬼は内)。

 

相変わらず小気味のいい調子で話は進みます。

今回の物語は少々ミステリアスな設定も加味し、また火消番付の話を絡めてもありますが、全体的にはこれまでと同じ火消しの心意気を前面に押し出したエンタテイメント小説です。

 

本書でもこれまで同様に、江戸火消しの雑学的な豆知識をちりばめてあります。

たとえば、「火札」とは火事場の表札のようなものであり、消火に取りかかる場所である「消口」をその組がとったことを示す大切なものだそうです。

本書ではあちこちでこの火札をとり、名を挙げようとする仁正寺藩の凪海の与市の姿が描かれています。

また、御曲輪内に居を構える唯一の火消しである「八重洲河岸定火消」が重要な役割を果たしていて、その八重洲河岸定火消の火消し頭を務める進藤内記もまた新たな登場人物として描かれています。

 

話は変わりますが、この「八重洲河岸定火消」の定火消同心の子として生まれたのが後の歌川広重であり、この火消しとしての歌川広重を主人公にした小説として田牧大和の『泣き菩薩』があります。

 

 

もう一点関心を持った点がありました。それは、「たとえ屋敷が灰燼と化そうが、門さえ残れば・・・何のお咎めも受けない。故に屋敷そっちのけで門を守る」ことになるということです。

屋敷よりも門が大事という考えは、作者の言う通り当時の町人からしてみても愚かな行動と言わざるを得ないでしょう。

 

物語はこうした豆知識をうまく織り込みながら進みます。

ただ、相変わらず、空間的な隔たりを無視するように、乗馬の源吾とそれを追う徒歩の火消したちとが江戸の町を半分走り抜けてもあまり時を置かずに同じ場所へ駆けつけるなど不条理な現象もありますが、そこらはあまり突っ込むところではないのでしょう。

 

ともあれ、男伊達を前面に押し出した火消しの活躍を、方角火消しや定火消といった武士の火消しを中心に描き出すこのシリーズは、これまでにはあまりない分野を開拓した作品として注目されます。

鬼煙管 羽州ぼろ鳶組

「人も同じ、身分は違えども煙草の銘柄ほどのもの」煙管の吸い口を見つめ、平蔵は人の儚き生を思い、正義と悪との境を憂えていた―。京都西町奉行長谷川平蔵は、火を用いた奇っ怪な連続殺人を止めるため、最も頼りにする江戸の火消、松永源吾を京に呼ぶ。源吾は平蔵の息子・銕三郎と真相に迫るが、やがて銕三郎が暴走し―。勇壮な男たちが京の街を駆け抜ける!(「BOOK」データベースより)

 

羽州ぼろ鳶組シリーズの第四弾となる長編の痛快時代小説です。

 

前巻の第三巻「九紋龍」では、放火を手段として皆殺しの押し込みを働く盗賊千羽一家を相手とした源吾らの活躍が描かれました。

本書では、第二巻で急遽江戸へと帰ってきた加持星十郎の、京都での「青坊主」という物の怪の絡んだ事件解決の様子の場面から幕を開けます。

しかし、水を使った殺人事件であった「青坊主」の事件は終わっておらず、新たに物の怪「火車」の仕業だという人間の身体が発火する事件が起きていたのです。

そこで、平蔵からのあらたな要請をうけ、今度は加持星十郎に加え、源吾と武蔵も共に上洛し、火消しの意地を懸けて戦いを挑むことになるのでした。

 

本書では京の都における奉行所の仕組みが説明されています。

京都所司代と京都郡代とで治めていた仕組みの内、郡代の権限だった京と、その周辺の天領の行政と司法の権限を新たに作られた京都町奉行に担当させることになります。

江戸時代の所司代は京都の治安維持の任務にあたった幕府の部署であり、京都市政を預かる京都町奉行は所司代の指揮に従うものの、老中の管轄でした( ウィキペディア : 参照 )。

本書の背景関連でいうと、京都の火消しは四家あるものの京都所司代の管轄だそうで、今の京都所司代の土井利里は田沼意次の政敵であるらしく、平蔵が直接に出動を願っても所司代の命が必要だとした動かない状況だったのです。

 

本書には新しいキャラクターが登場します。その一人が長谷川銕三郎です。

この人物こそ池波正太郎の大人気小説『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」こと長谷川平蔵宣以であり、これまで本シリーズに登場している長谷川平蔵宣雄はその父親です。

この銕三郎は若い頃は「本所の銕」などと呼ばれるほどの放蕩を尽くしていたようで、石川島人足寄場はこの人の功績だというのは有名な話です。

こういう男を見ていると、勝海舟の父親の勝小吉を思い出します。この人については子母澤寛の描いた『親子鷹』と『おとこ鷹』とが有名ですが、これらの作品は今の痛快小説の原点をなす作品であって、その面白さも含めて時代小説では必読の作品だと思います。

 

 

またもう一人、常火消淀藩火消頭取野条弾馬という男が登場します。この男が経歴も人柄も源吾とそっくりであり、源吾自らが自分と同じだというほどの男でした。

さらに、京の絡繰り師の五代目平井利兵衛と六代目平井利兵衛の水穂という女性が登場し、新たな火消しの道具を見せてくれます。

 

そうした登場人物が生き生きと動き回り、京の都を火事から救おうと縦横無尽に活躍し、火消しの心意気を見せてくれます。

ただ、このシリーズに対して持っていた若干の不安が垣間見える作品でもありました。

というのも、そもそも痛快小説は魅力的なキャラクターの存在があって、ストーリーの背景には勧善懲悪の物語があり、日本人の心の奥底をくすぐる浪花節的な物語が潜んでいると思っています。

しかし、そのことは、一歩間違えば安直な浪花節物語、つまりは通俗的なお涙頂戴の物語に陥る危険性があると思うのです。

そういう意味で本書はぎりぎりのところにあり、読む人によっては本書は安直だと言う人がいるかもしれないと思うほどです。

こうしたことは前にも書いているのですが、本書では特にそのあたりの線引きが微妙であり、少々怪しいところを感じたものでした。

そのように感じたのは、銕三郎と平蔵との終盤の会話であり、また野条弾馬を雇い入れた淀藩当代の稲葉正弘の行いです。

本シリーズが荒唐無稽な設定のもと、火消したちの心意気を読ませるものであることはよく理解しているつもりですが、それにしても少々無理のある描き方ではないかと思ってしまったのです。

でも、まあ、あまり声高に叫ぶ問題でもないでしょうし、面白い作品であることに間違いはないのですから、そういう印象を持ったことだけを指摘しておくにとどめます。

 

また、本シリーズでは歴史上の実在の人物を多数登場させていますが、本書においては渋川春海もまた名前だけではありますが登場しています。また本書での敵役として土御門家が京都での新たな敵役として登場しています。

この土御門家というのは、室町時代の陰陽師として高名な安倍晴明の流れを汲む家系であり、暦の編纂権を握っており、幕府と対立をしているのです。

この点において渋川春海が編纂権を奪い返したこともありましたが、今では再び土御門家が編纂権を握っているのです。

冲方丁の『天地明察』がこのあたりのことを描いており、非常に面白い小説でした。

 

 

ともあれ、本シリーズは近年の時代小説の中では掘り出しものの一冊であり、続編を読んでいこうと思います。