本書『じんかん』は、新刊書で509頁の長編の時代小説で、第163回直木賞の候補となった作品です。
稀代の悪人として描かれることの多い松永久秀の生涯を描いた実に面白い作品ですが、微妙に私の好みからは外れていました。
『じんかん』の簡単なあらすじ
民を想い、民を信じ、正義を貫こうとした青年武将は、なぜ稀代の悪人となったか?時は天正五年(一五七七年)。ある晩、天下統一に邁進する織田信長のもとへ急報が。信長に忠誠を尽くしていたはずの松永久秀が、二度目の謀叛を企てたという。前代未聞の事態を前に、主君の勘気に怯える伝聞役の小姓・狩野又九郎。だが、意外にも信長は、笑みを浮かべた。やがて信長は、かつて久秀と語り明かした時に直接聞いたという壮絶な半生を語り出す。大河ドラマのような重厚さと、胸アツな絆に合戦シーン。ここがエンターテインメントの最前線!(「BOOK」データベースより)
織田信長は、松永弾正少弼久秀謀反、との報告を知らせに来た小姓頭の狩野又九郎に酒の用意をするように命じ、松永久秀の生涯について又九郎に語り始めた。
後の松永久秀兄弟の九兵衛と弟の甚助は、多聞丸という少年がリーダーの追剥をしていた浮浪児の一団と行動を共にしていたが、ある一団に返り討ちにあってしまう。
何とか逃げ出した九兵衛と甚助、それに日夏という娘の三人は、摂津の本山寺の宗慶和尚に助けられる。
一年を暮らした九兵衛に、宗慶和尚は三好元長という武士に会うことを勧め、堺へ行けと言うのだった。
日夏を寺に残し、甚助と共に堺へたどり着いた九兵衛は武野新五郎のもとで茶道などを学びながら一年半を過ごしたとき、三好元長と会った。
九兵衛は、「堺は堺の者に治めさせ」、さらに「民が政を執る」世を目指すという元長について行こうと決め、九兵衛は松永久秀、甚助は長頼と名乗るようになる。
共に闘う仲間を集めるようにいう元長に応えて久秀らは大和の柳生家厳を訪ね、兵法者の瓦林総次郎と知り合う。
その後、京の南東にある宇治で海老名権六家秀と四手井源八家保という国人領主を味方に生き入れることに成功し、堺へと帰る久秀たちだった。
将軍の弟の足利義維(よしつな)、主筋の細川晴元を擁し挙兵した元長は、堺衆と呼ばれる九兵衛らと合流し大永七年一月、京に向けて進行を開始するのだった。
『じんかん』の感想
本書は、織田信長が小姓頭の狩野又九郎に対し、松永弾正少弼久秀について知り得た事柄を聞かせるという形式をとっています。
魔王と恐れられた信長が、稀代の悪人と評されていた松永久秀のそれも二度目の謀反に対し怒らず、それどころか久秀の歴史を聞かせるのですから、松永久秀という人物に対する信長の思いが感じられます。
松永弾正少弼久秀という人物を正面から描いた作品と言えば、花村萬月の『弾正星』があります。
この『弾正星』という作品は、本書『じんかん』と同様に松永久秀は信長からは認められている人物として描かれています。
しかし本書のように、久秀を実は三好家に尽くした傑物だったとして描くのではなく、悪人は悪人として、しかし魅力ある悪人として描いています。花村萬月らしい個性的な作品です。
本書『じんかん』は、『羽州ぼろ鳶組シリーズ』を著している作者今村翔吾の作品らしく、歴史小説というよりは痛快時代小説と言った方が良さそうな描き方をしてあります。
『羽州ぼろ鳶組シリーズ』は、江戸の武家火消である松永源吾が出羽新庄藩の火消組織を再建するために活躍する姿を描いた痛快時代小説で、江戸の町を守る火消し達が生き生きと描写された大人気のシリーズです。
本書『じんかん』は、少なくとも久秀が三好元長と共に闘う第四章「修羅の要塞」あたりまでは、そうした痛快小説の趣をもった物語としてあったと思えます。
しかし、それ以降、三好長慶のもとで久秀が歴史の表舞台に立ち始めたころからの物語は歴史小説としての印象に変わってきます。
つまりは歴史小説として歴史的事実に縛られるためか、それまでの痛快さは影をひそめてくるのです。
と同時に、ここらの似たような名前の登場人物らが入り乱れる歴史的な事実が分かりにくく、それまでのような軽い読み方では理解が追いついて行かなくなりました。
ここらあたりの時代背景をきちんと把握しておかないと久秀の行動の意味が理解できなくなり、それは本書の内容がわからないことになってきます。
本書『じんかん』にも簡単な時代背景は説明してあります。そしてそれは、応仁の乱後、当時の足利幕府の実力者であった細川家の内紛にあるということです。
当時の細川家当主の細川正元の三人の養子のうち、生き残った澄元、高国の二人の権力争いがあり、澄元を支えていた三好家が、高国と高国を支えていた畠山家と争うことになります。
そして、元長の祖父と父親は高国に殺されてしまい、細川家は高国に掌握されてしまいます。時をおいて元長は、現将軍足利義晴の弟の義維(よしつな)、澄元の一子で十二歳の細川晴元を奉じて高国を京から駆逐しようとしているのです。
このあと、三好家が奉じる細川晴元の裏切り行為、それに将軍である足利家の内紛が絡んでまた分かりにくくなります。
こうした歴史的な事実があるために、松永久秀の戦いの意味を見失いがちになるのです。
話は変わりますが、本書の基本としてある久秀が惹かれた三好元長の考え、政をあるべきものの手に戻すという「民が政を執る」という考えを基礎にした作品がありました。
それは『八本目の槍八本目の槍』という作品で、やはり本書の作者今村翔吾の作品でした。
この作品は「賤ヶ岳の七本槍」として挙げられる人物七人が、それぞれに石田治部少輔三成という人物について語ることで、石田三成という人間を描き出そうとする作品です。
この作品でも武士階級の否定から、男女平等、そして最終的には民主主義まで持ち出されています。
戦国時代を描く物語としてはかなり無理があるのではないかと思い、確かに面白い作品ではあるけれども、好みとは異なる作品だと思っていたものです。
本書でも似た印象を持ちました。この時代を生きた人間として、武士を否定し、民主主義的思考を持ちつつ戦いに臨む、というのは何となく受け入れ難く感じたのです。
ですが、この点は私の頭の固さのためだと言われれば、それまでであって反論できないとは思います。
あらためて本書『じんかん』で気になった点を挙げると、先に述べたように後半になって物語の筋を見失いがちになったこと、同じく後半になり信長が久秀の三悪について語るあたりで時制が前後してくることなどに注意が必要です。
とはいっても、これらは読み手の問題であり、丁寧に読んでいさえすれば問題ないところではあります。
あと、登場人物として日夏という娘が出てきます。読み始めはこの娘がこの後どのような絡み方をするかと期待していたのですが、この娘の描きかたが残念と言えば残念でした。
確かに物語の進行上重要な役目を果たすのですが、もう少し扱い方を丁寧にしてもらってもいいのではないかと思ったことでした。この点も全くの個人的な感想です。
また、悪人と呼ばれた松永久秀の、悪人と呼ばれた理由がよく分かりませんでした。
本書『じんかん』は久秀を世評のような悪人ではないとことを主題に描いてあるため、当然ながら久秀の行為はすべて三好家を思う忠臣として描かれています。
一方、久秀が世評で悪人とされている理由は、久秀を排除したい者たちの流した嘘を否定しなかっただけだということなっていて、久秀に対する悪人という評価が定着する理由には弱いと感じたのです。
あと一点。細かいことですが、終盤で、三十七人の家族の命を救うという目的を達したのに、結果として七千の家臣の命を道連れにするというのは納得できませんでした。
久秀という人間がそれだけ慕われていた、などという理屈は通らないと思えました。
とはいえ、第163回直木賞の候補となった作品です。信長を語り部とした着眼点のすばらしさ、物語の視点のユニークさ、物語の運びのダイナミックさ、など、エンターテイメント小説として面白い作品であることは否定できません。
以上挙げてきた点も、殆どは読み手の問題であるし、読み手の価値観の問題ということで片付く疑問でもあります。
ただ、個人的に若干の違和感を覚えたということです。