本書『八本目の槍』は、新たな視点で石田治部少輔三成の姿を再構成した、新刊書で394頁という長編の時代小説です。
それも実に現代的な観点から捉え直したものであり、私にとっては疑問符や感嘆符が飛び交う作品でした。
秀吉の配下となった八人の若者。武勲を上げた七人は「賎ケ岳の七本槍」とよばれるようになる。「出世」だけを願う者、「愛」だけを欲する者、「裏切り」だけを求められる者―。己の望みに正直な男たちは、迷いながらも、別々の道を進んだ。残りのひとりは、時代に抗い、関ケ原で散る。この小説を読み終えたとき、その男、石田三成のことを、あなたは好きになるだろう。共に生き、戦った「賎ケ岳の七本槍」だけが知る石田三成の本当の姿。そこに「戦国」の答えがある!(「BOOK」データベースより)
『八本目の槍』の簡単なあらすじ
(括弧内は描かれている武将の名前です。)
一本槍 虎之助は何を見る ( 加藤虎之助清正 )
虎之介は肥後半国十九万五千石に封じられたが、自分の領地が九州の地に決まったのは佐吉の進言によるものだと知り、心中穏やかではなかった。しかし、佐吉の真意を知った虎之介は自分なりの方法で豊臣家を守るというのだった。
二本槍 腰抜け助右衛門 ( 志村助右衛門【 糟屋助右衛門武則 】 )
槍の名手といわれた助右衛門は、慕っていた父違いの兄糟屋朝正から槍などの稽古をつけてもらっていた。その助右衛門が賤ヶ岳の戦いで手柄を立てて以降、槍を握ることができなくなり、腰抜け助右衛門と呼ばれるようになった。
三本槍 惚れてこそ甚内 ( 脇坂甚内安治 )
もと浅井家に仕えていた甚内は、ゆくゆくは一国一城の主となりお市様のようないい女を嫁に持つことを夢に見るようになっていた。そんな甚内が明智光秀の援軍として間者働きのため亀山城へと入り、八重という女と知り合う。
四本槍 助作は夢を見ぬ ( 片桐助作且元 )
関ヶ原の戦いの前に、助作は佐吉から徳川内府の動きについて意見を聞き、佐吉のいない世についての話を聞いた。佐吉は、秀頼が秀吉の才覚や魅力には到底及ばぬことを知り、ゆえに負けたときのことを助作に頼んだのだった。
五本槍 蟻の中の孫六 ( 加藤孫六嘉明 )
自分一人、蟻の行列に紛れ込んだ異端の者であることを感じていた孫六だった。己の好きなことに打ち込めるそんな国になればよいという佐吉の言葉を信じ、佐吉の言う通りに動いた孫六。しかしその道は修羅の道でもあった。
六本槍 権平は笑っているか ( 平野権平長泰 )
故郷では文武共に突出した存在の権平は秀吉の小姓組へと配置されたが、井の中の蛙であったことを思い知らされる。常に「笑う」ことで非才を隠す権平は賤ヶ岳の七本槍として一目置かれるようになったものの、加増が無いのだった。
七本槍 槍を捜す市松 ( 福島市松正則 )
大津城の城門の前に市松が晒し者にされていた。市松は黒田長政を隣にしたまま佐吉を罵り、佐吉もまた怒鳴り返す。しかし、二人の会話はその裏に多くの意味を秘めていた。ただ、無言の会話では佐吉の真意をくみ取れない箇所も多く、市松はその真意を探り始めた。
『八本目の槍』の感想
本書を読んだ第一印象は、石田佐吉という人物を再構成するというのはいいのだけれど、その試みがあまりに現代的に過ぎ、いくら何でも戦国期に生きた人間の思考方法の解釈としてはあり得ないというものでした。
また、現代的な解釈とまではいかないとしても、例えば関ケ原の戦いで、佐吉が自軍の勝ちを三割程度とみているなどの描写はやはり考えにくいのではないでしょうか。
たしかに、各短編が有機的に繋がり合い、全体として佐吉という人間を愛した武将たちの青春記ともいうべき作品となっているとは言えるでしょう。
しかし、七本槍の各人を佐吉という人間一人を肯定するために動かしたため、物語が無理な運びになってはいないかとおもえるのです。
ほとんど終わり近くまで、この作品は無理があると思いながら読んでいました。
たしかに、石田三成という人物を賤ヶ岳の七本槍として挙げられた人物たちの視点を借り、現代的な視点で再構成するという意図はユニークだし、素晴らしいものです。
こうしたユニークな解釈が目立つ作品として垣根涼介の『信長の原理』という作品がありました。
この作品は、信長の生き方を、「パレートの法則」や「働きアリの法則」と呼ばれている現象を通して組み立てているものです。
つまり、「経済において、全体の価値はそのうちの一部が生み出している」という考えであり、「働きアリの法則」とは「組織全体の二割程が大部分の利益をもたらす」という考えです。
この考えで信長の生き方を再構成しているのです。
しかし、『信長の原理』の場合はまだ許容範囲にあったと言えるのではないでしょうか。
本書『八本目の槍』の場合、武士階級の否定に始まり、男女平等、最終的には民主主義まで持ち出されているのですから、いくら何でも行き過ぎだ、との印象が強いのです。
物語としては強引に過ぎるという気持ちしか持てませんでした。
つまり、小説として新たな視点で再構成したこの物語は、読み終えたときの感慨はそれなりに持ったのですが、やはり時代小説として読んだ時、石田三成という人間を美化しすぎている、との思いはぬぐえませんでした。
とは言いながらも、今村翔吾という作者はそうしたことは十二分に解ったうえであえて書いているのでしょう。
そうした観点で本書を見直すと、時代小説としてのカテゴリーを離れ、戦国期の佐吉を中心とした若者たちの青春記として捉えればなかなか読みごたえのある作品だとも言えます。
時代小説の形を借りた青春小説であり、佐吉という図抜けた存在を心の底では認めつつも、表面的には喧嘩せざるを得なかった仲間たち。
その彼らが、佐吉の死後、その真の意図に気付き、彼の思いに各々の形で答えようとする青春記です。
更には、本書『八本目の槍』には佐吉が考えた「米と金(きん)」との相場などの関係や、佐吉が見つけた戦いの「理」など、作者の思考のすばらしさを感じさせる新たな視点もあふれています。
また、最終話では佐吉がこれまで仕掛けてきた数々の仕掛けが一気に種明かしされます。
そのさまはまるで良質のミステリーの種明かしにも似て小気味よく、本書の無理な解釈の上に感じていた違和感も一気に拭われた気がしたものです。
本書を青春小説としてみればかなり面白い作品だといえ、作者の新解釈の苦労がしのばれる作品だと言えます。ですから、一般的には本書『八本目の槍』は面白いと受け入れる人が多いのではないでしょうか。
ただ、個人的には全体としての違和感を完全に払拭することはできず、私の好みとは少しではありますが異なる作品だと言わざるを得ないようです。