『勿忘草の咲く町で 安曇野診療記』とは
本書『勿忘草の咲く町で 安曇野診療記』は、2019年11月に刊行され、2022年3月に文庫化された作品で、文庫本は352頁の長編の医療小説です。
今年三年目の看護師と一年目の研修医を通してみた、地方の高齢者医療の現場を描き出す長編の医療小説で、いかにもこの作者の作品らしく、かなり重いけれども心に響く物語でした。
『勿忘草の咲く町で 安曇野診療記』の簡単なあらすじ
美琴は松本市郊外の梓川病院に勤めて3年目の看護師。風変わりな研修医・桂と、地域医療ならではの患者との関わりを通じて、悩みながらも進む毎日だ。口から物が食べられなくなったら寿命という常識を変えた「胃瘻」の登場、「できることは全部やってほしい」という患者の家族…老人医療とは何か、生きることと死んでいることの差は何か?真摯に向き合う姿に涙必至、現役医師が描く高齢者医療のリアル!(「BOOK」データベースより)
『勿忘草の咲く町で 安曇野診療記』の感想
本書『勿忘草の咲く町で 安曇野診療記』は、直接に終末医療を扱っているため、かなり重い物語でした。
それもそのはず、『神様のカルテシリーズ』の著者でもある夏川草介が、「『神様のカルテシリーズ』に入れ込むには少々重すぎるので、書くとしたら別の物語でと考えていました。
」と言っている作品だったのです。
「今の社会は『死』と正面から向き合っていないのではないか
」という思いから、「地域医療、とりわけ高齢者医療において、医療現場の外からはなかなか見えない隠された部分を書こう
」と思っていたそうです。( カドブン : 参照 )
同じところで、「私は、読者にかっこいい人たちが登場する美しい物語を届けたい
」とも書いておられます。
そしてその言葉のとおりに、安曇野の美しい風景を背景として、主人公である三年目になる看護師の月岡美琴と、一年目研修医の桂正太郎という初々しいカップルが、つらい現実を前にしながらもあたたかな関係を築いていく話になっています。
この作者の書く物語は、本書『勿忘草の咲く町で 安曇野診療記』も含め、読んでいて少々美しすぎるのではないか、本当の現場はもっとシビアで人間の嫌な面がはっきりと出てくるものではないか、などと感じることもありました。
しかし、先の著者の言葉はそうしたリアルな現実はあえて避けて、明るい側面を描いているのだと明言しているのです。それはそれで一つの選択であり、納得しました。
「若い人たちにはまずは『理想』や『人としての美しさ』をきちんと見ておいてほしい。
」という著者の意図は素晴らしいと思います。
医療小説としては、医療の厳しい現場をリアルに描き出す作品もあります。
例えば、大鐘稔彦の『孤高のメス―外科医当麻鉄彦』(幻冬舎文庫全六巻)などはその系統に入るでしょう。確かに、主人公の医師が高い技術の持ち主過ぎるという側面が無きにしもあらずですが、リアルな医療現場を描き出してあるという評価がなされています。
また、山崎豊子の『白い巨塔』(新潮文庫全五巻)も、大学病院を頂点とする医学界の現実をリアルに描き出している作品として高い評価を得ています。大学教授の椅子を巡る駆け引きに明け暮れる人間関係を描写した名作です。
本書『勿忘草の咲く町で 安曇野診療記』には四つの物語が収められています。
そのそれぞれの物語で、地域医療の現実、胃ろう、限られた医療資源、医療訴訟、延命治療、その他医療の素人の私達には直接的には関係の無さそうな、それでいて実は非常に密接な事柄である「命」にかかわる重大な問題が描かれています。
そして、そのそれぞれの場面で、登場人物のほとんどが医療に真摯に向き合っている医師や看護師らという善人で構成されているのです。
そこには裏のある人間は一人もおらず、入院患者でさえもあまりわがままを言いません。先に述べた「人としての美しさ」を描くための「理想」的な人間がいて、「理想」的な医療に近づけるべく努力する人たちがいます。
更には、主人公のひとりである研修医の桂正太郎は花屋の息子だから花に詳しいという設定で、物語の随所に「花」が重要なアイテムとして登場し、物語に彩を添えています。
ある意味『神様のカルテシリーズ 』の中の一編と言っても通りそうな物語ばかりです。
しかし、物語が看護師目線である場面が多いことや、「花」がキーワードとなっているという点などで『神様のカルテシリーズ 』とは異なっていると言えます。
ただ、テーマが少しだけ本書の方が重いというだけで、本質は同じと言い切ってもいいのではないでしょうか。
とはいっても別なシリーズとしてそれなりに存在感を持っているのであり、それは主人公の二人の明るい恋が描かれているところにあるのでしょう。
本書『勿忘草の咲く町で 安曇野診療記』の山場の一つであるカタクリの群生地での二人の様子などの美しい自然の描写が本書のテーマの重さをかなりの部分で和らげてくれています。
きれいごと、という批判もありそうですが、それでもなおこの作者の描く物語は読み手の心を温かくしてくれるのであり、作者の言う「理想」に少しでも近づこうとする医療関係者や患者らの支えになるのではないでしょうか。
本書『勿忘草の咲く町で 安曇野診療記』もシリーズ化されてほしいものです。