『レッドゾーン』とは
本書『レッドゾーン』は2022年8月に刊行された318頁という長さの長編の医療小説です。
2021年4月に刊行されたこの作者の『臨床の砦』に次いで書かれた作品で、我が国のコロナ禍に立ち向かった、信州にある公立病院の医療従事者たちの姿を描きだした感動的な物語です。
『レッドゾーン』の簡単なあらすじ
病む人がいるなら我々は断るべきではない。
【第一話】レッドゾーン
日進義信は長野県信濃山病院に勤務する内科医(肝臓専門医)だ。令和二年二月、院長の南郷は横浜港に停泊中のクルーズ船内で増加する新型コロナ患者の受け入れを決めた。呼吸器内科医も感染症医もいない地域病院に衝撃が走る。日進の妻・真智子は、夫がコロナ感染症の患者を診療することに強い拒否感を示していた。【第二話】パンデミック
千歳一郎は五十二歳の外科医である。令和二年三月に入り、コロナの感染者は長野県でも急増していた。三月十四日、千歳は限界寸前の日進に変わり、スペイン帰りの32歳女性コロナ確定患者を診察し、涙を流される。翌日、コロナ診療チームに千歳が合流した。【第三話】ロックダウン
敷島寛治は四十二歳の消化器内科医である。コロナ診療チームに加わって二月半が過ぎた。四月上旬、押し寄せる患者に対応し、信濃山病院が総力戦に突入するなか、保健所は感染症病床を六床から十六床に増床するよう要請する。医師たちはすべての責務を信濃山病院だけに負わせようとする要請に紛糾するが、「病める人がいるのなら、我々は断るべきでない」という三笠内科部長の発言により、増床を受け入れる。
(内容紹介(出版社より))
『レッドゾーン』の感想
本書『レッドゾーン』は、著者夏川草介が2021年に出版した『臨床の砦』の続編です。
続編とはいっても物語が続いているという意味ではなく、時系列的にはその前の日本でコロナウイルスが蔓延するごく初期から最初の緊急事態宣言発出に至るまでの一地方病院の姿が描かれています。
具体的には、『臨床の砦』の舞台であった信州の信濃山病院に勤務する三人の医師を中心にして、情感豊かに、しかし事実をもとに描かれている作品です。
ただ、物語としては各話での中心となる医師がこの三人というだけで、例えば理事長の南郷や、内科部長の三笠、循環器内科医の富士などの医師たち、また四藤らの看護師といった人々がそれぞれに重要な地位を占めています。
それだけではありません。各話の中心となる医師たちの家族もまたこの物語の重要な登場人物と言えます。
三人の医師とは、第一話が肝臓内科医の日進義信、第二話が外科医の千歳一郎、第三話が消化器内科医の敷島寛治です。
彼らの勤務する長野県信濃山病院は病床数二百床弱の公立病院で、公立病院であるがために横浜港に入港したクルーズ船で発生したコロナ患者の要請を受け入れることとしたというのです。
しかし、信濃川病院は感染症指定医療機関ではあっても、呼吸器内科医はおらず、陰圧室もやっと機能している状態の病院です。
そうしたなか、三笠医師の「病める人がいるのなら、我々は断るべきではない。それだけのこと」という考えなど、各医師の単純な、しかし真摯な思いから他の病院が拒絶しているコロナ患者の治療に立ち向かうのです。
本書『レッドゾーン』にはほかにも、三笠医師の説明に出てくる、きわめて秘匿性の高い特殊な診療現場であるために情報が非公開であるがゆえの「沈黙の壁」という言葉など、胸に刺さる表現が随所に見られます。
特に、本書の帯に書いてある敷島医師の娘が言った「お医者なのに、コロナの人、助けてあげなくていいの?」という質問は強烈でした。
前巻『臨床の砦』でもそうでしたが、本書『レッドゾーン』でも私たちが知らなかったコロナウイルス関連の事実が取り上げられています。
とくに、日本で最初のコロナ患者と言われる横浜でのクルーズ船での感染症患者の発生のとき、神奈川で174人の入院患者を受け入れることができなかったという話には驚きました。
つまり、神奈川の病院は新たな感染症について何も分かっていないために新規の感染症患者の引き受けを拒んだということであり、だからこそ国は公立病院という伝家の宝刀を抜いたのだろう、と作者は三笠医師に言わせています。
ここで述べられている数値、また受け入れ拒否という話は事実であり、だからこそ全国の公立病院に受け入れ要請が出たのでしょう。
また驚きという点では、指揮系統が違うおかげで保健所が救急車を動かすことはできないず、現状ではコロナ患者の移送に救急隊の助力は得られない、という話も同様でした。
前巻の『臨床の砦』の時もそうでしたが、私達一般人はテレビのニュースなどを通じて初期のコロナについての情報を得ていました。
そしてその中で医療従事者たちの奮闘ぶりを目の当たりにし、感謝をし、コロナを撃退してくれることを願っていたものです。
しかし、本書『レッドゾーン』を読む限りでは、ニュースを通して得ていた情報は医療従事者たちの苦労のほんの少ししか分っていなかったことを思い知らされました。
ここで、個人的なことを言うと、私の住む市での最初のコロナ患者となった看護師さんの勤務する病院の理事長の対処が見事で、病院名を公表し初期対応を見事にやりとげ、クラスターの発生も防いだのです。
しかし、病院名の公表はかなりの誹謗中傷を呼ぶことにもなり、その病院の医療従事者の皆さんはそれこそ本書にも書いてあるような理不尽な対応を受けたと聞いています。
私の学生時代の同級生でもある院長を始めとするその病院関係者がどれほど苦しくつらい目に遭っていたかわかっていたつもりでしたが、本書を読んでその認識がいかに甘いものであったかを思い知らされました。
話を元に戻すと、医療従事者たちが直面した事実には、彼らの心理的な負担や思いもふくまれます。
例えば、日進医師の息子でやはり医師である日進義輝の、信濃川病院のコロナ患者受け入れの判断は職員の命を軽んじることであり無責任だ、という言葉はそれなりの重みがあるようです。
しかし、現にほかに行き場のない患者がいるとき、その患者に同じ言葉を言えるか、ということなのでしょう。結局は、現場にいない私達には判断のしようもないと思えます。
本書『レッドゾーン』で描いてあるエピソードはその全てが強烈な印象であり、紹介のために取り上げていたら本書を丸写しすることにもなりかねないほどに胸に迫ります。
作者の夏川草介は読者が楽しく読めるような作品を書きたい、という趣旨のことをおっしゃっていたと思いますが、本書の場合、リアルな現実を描く以上そうしたことは言っておられないのでしょう。
読んでいて、正直、辛さを感じる場面が数なからずありましたが、そうした中でも信州の美しい自然を織り込みながらの語りはさすがのものでした。
夏川草介という作家の文章は、本書のような理不尽で悲惨な状況においても信州の美しい風景の描写を織り込んであるためか、状況の過酷さが和らいでいると思われるのです。
次から次にウイルスの新たな変種が生まれ、感染の波も繰り返し襲ってきましたが、何とか落ち着いて「ウィズ コロナ」という言葉が現実になりそうなこの頃です。
医療従事者を始めとする、エッセンシャルワーカーと呼ばれる人たちの努力はただただ頭が下がるばかりです。
あとは、私達自身が、できることを十分にやて、互いへの思いやりを持って生きていくことが大切だと思います。
本書『レッドゾーン』は、そうしたことを改めて思い出させてくれる作品でした。