『スピノザの診察室』とは
本書『スピノザの診察室』は、2023年10月に287頁の新刊書として水鈴社から刊行された長編の医療小説です。
私が最も好きな作家の一人である夏川草介らしく医者を主人公とする作品で、人間の生をあらためて見つめる期待に違わない感動的な作品でした。
『スピノザの診察室』の簡単なあらすじ
雄町哲郎は京都の町中の地域病院で働く内科医である。三十代の後半に差し掛かろうとした頃、最愛の妹が若くしてこの世を去り、一人残された甥の龍之介と暮らすためにその職を得たが、かつては大学病院で数々の難手術を成功させ、将来を嘱望された凄腕医師だった。哲郎の医師としての力量に惚れ込んでいた大学准教授の花垣は、愛弟子の南茉莉を研修と称して哲郎のもとに送り込むが…。数多の命を看取った現役の医師でもある著者が、人の幸せの在り方に迫る感動の物語。(「BOOK」データベースより)
『スピノザの診察室』の感想
本書『スピノザの診察室』は、京都の町にある「原田病院」という民間の病院を舞台にした医療行為に真摯に向き合う医者たちの物語です。
本書の作者夏川草介の代表作でもある『神様のカルテシリーズ』に似た雰囲気の医療小説ですが、本書の方が街中が舞台であるだけに自然描写が少なく、さらにはより医療の現場の日常に近づいているようです。
本書の舞台は京都であり、消化器疾患を専門科とする四十八床の小規模病棟を持った「原田病院」という民間病院です。
この「原田病院」は五人の常勤医がいますが、七十近い年齢の理事長の原田百三は管理業務が主体だから、医療現場は残りの四人で回っています。
外科医は病院長でもある五十代半ばの鍋島治と、鍋島医師の後輩である年齢不詳の中将亜矢がいて、内科医として秋鹿淳之介と本書の主人公である雄町哲郎の二人がいます。
また主人公の雄町哲郎医師は、皆から親しみを込めて「マチ先生」と呼ばれているのですが、妹を病で亡くしているという過去を持っています。
死ぬ間際まで明るくいたその妹が残した一人息子の龍之介を育てるために将来を嘱望されていた大学の医局を辞め、民間の病院へと移ったのでした。
そのために、大学准教授の花垣はいまでも雄町医師の腕を惜しみ、南茉莉を研修医として雄町医師のもとへ送り込んだりもしているのです。
『神様のカルテシリーズ』では、主人公の栗原一止は夏目漱石などの古典に親しみ、たまにその蘊蓄などを語る人物です。
それに対し、本書『スピノザの診察室』の主人公の雄町哲郎は、哲学者であるスピノザについて一家言を持っている人物として登場しています。
だからと言って何が違うということはないのですが、共に先人の言葉から人間としての在りようを学び取っているところは同じでしょう。
私がこの夏川草介という作者が好きなのは、作品の内容が人の命に対峙するとともに、主人公の姿が真摯なものだということはもちろんですが、このひとの文章が実に読みやすく、作品として重苦しくないということが一番の理由になっていると思います。
この人の文章は平易な言葉を連ねてあるにもかかわらず、自然の描写などはとても情感に満ちていながら、同時に登場人物の思いやその言葉は非常に論理的です。
そうした筋の通った優しさに満ちた文章のおかげで、作品の内容が人の「生」とその先にある「死」に連なる、どちらかというと重いものであっても深刻にならずに、またお涙頂戴の軽い物語にならずに済んでいるのでしょう。
このことは、著者自身も「ただ、人に読んでもらうなら、どんなに内容が厳しくても読みやすくしないといけません。・・・『神様のカルテ』は、・・・暗い話です。ストーリーには救いがありません。そういう物語を読んでもらうための技術として、文章に気を配っています。」( 読書の泉 : )と書いておられ、この文章を読んだ時はあらためて納得したものです。
本書『スピノザの診察室』は多分シリーズ化されるのだろう、と思っていたら、作者自身がシリーズ化する予定だということですから、ファンとしてはたまりません( 夏川草介『スピノザの診察室』刊行記念インタビュー : 参照 )。
できるだけ早く続きを読みたいものです。