躰の中で、なにかが止まった…。四年前のある日、平凡な会社員・立原に生じたある感覚。いまや彼にとって、日常や人間性など無意味なものでしかなく、鍛えあげた精神と肉体は次第に凶器と化していく。取引先のビルの立ち退きを巡る抗争事件に巻き込まれた立原は―。男の心の闇を抉る異色のハードボイルド長篇小説。(「BOOK」データベースより)
あるサラリーマンが、自分の中での変化を捉えながら、その変化に身をまかせる姿を描き出す、長編のハードボイルド小説です。
本書はまさに北方謙三のハードボイルド小説であって、一人の男が自身の内面で密かに眠っていた獣を覚醒させ、その覚醒した獣の行動そのままに、未知の世界へ向かって疾走する姿が描かれています。
本書では、各章の一行目、すなわち第一・二章では「時計が止まったような気がした。」、第三章では「躰の中で音がした。」、第四章「躰の中で、音が続いた。」、第五章「躰の中で、音が消えた。」と続きます。
この躰の中の「音」に意味を持たせ、「音」の状況を説明することで主人公の心象のゆらぎを見て取ることができるという、いかにも北方謙三らしい表現です。
こういう表現方法を隠喩というのでしょうか。私は文章技法については全くわからないので、間違っているかもしれません。
問題は、その北方謙三らしさがいい方向に出ているとは感じなかったところです。
久しぶりに読んだ北方謙三の本は、いつものように短文が重ねられ、小気味いいリズムで物語が進んでいきます。ボクシングのスパーリングの場面や喧嘩の場面など、この畳みかけるような文章が実に効いています。
やはりこの人の文章は、低い位置から心の奥に響いてくるような、そうした重さを持った力として心に直接入り込んできます。中国史劇の北方節もいいけれど、やはり『ブラッディ・ドール』のような今の男の物語を読みたい気がします。
ただ、本書に限って言えば、主人公の人物像が現実世界から浮き上がった、リアリティを持たない人物像としてしか感じることができませんでした。
ストーリーに微妙な違和感を感じ、感情移入できなかったのです。ほかの作品でも似たような浮遊感を感じはしてもここまではなかったような気がします。
もしかしたら、主人公の人物造形が私の個人的好みと合致しなかった、だけのことかもしれないのですが。
本書の、一介のサラリーマンとして日常を送っていた男が、日々の鍛錬の末に鋼の肉体と意志とを獲得し、裏社会の人間たちに対し戦いを挑む、という構造は、大藪春彦の代表作の一つである『野獣死すべし』と同じ構造です。
ただ、普通の人間が鍛錬を始めたという点が同じだけで、『野獣死すべし』の場合は、主人公は心の奥に持つ怒りを具現化するために肉体を鍛え犯罪行為に走ったのに対し、本書の場合は「躰の中で止まった何か」をきっかけに筋肉トレーニングを始め、結果として暴力団を相手に戦うのです。
また『野獣死すべし』の場合は復讐譚でもあったのに対し、本書は一人の人間の覚醒の物語でもありますし、北方謙三の方がより人物の心象へのアプローチが深い、といえるかもしれません。