『星落ちて、なお』とは
本書『星落ちて、なお』は、新刊書で321頁の一人の女性絵師を描いた長編小説です。
第165回直木賞を受賞した作品ですが、主人公の女絵師河鍋暁翠という人物を知らないこともあってか、今一つ没入できない物語でした。
『星落ちて、なお』の簡単なあらすじ
明治22年、自ら「画鬼」と称した不世出の絵師、河鍋暁斎が死んだ。暁斎の門下で、ずっと身のまわりの世話をしていた娘のとよ(暁翠)に対し、早くから養子に出され家を出た腹違いの兄・周三郎(暁雲)は、事あるごとに難癖をつける。絵の道に進まなかった弟の記六は、なにかと金を無心に来るような有様で、妹のきくは病弱で床に臥せる日々。また、「写真」と「洋画」の流行により、暁斎門下の描く絵にも時代の荒波が押し寄せていた。暁斎という巨星が墜ち、河鍋家と門弟のあいだで辛うじて保たれていた均衡が崩れつつあるなか、河鍋一門の行末は、とよの双肩にかかっていた。
幕末から昭和という激動の時代を背景に、鬼才・河鍋暁斎という偉大な父の影に翻弄されながら、絵師として自らの道を模索し続けた女性の一代記。(内容紹介(出版社より))
『星落ちて、なお』の感想
本書『星落ちて、なお』では、河鍋暁翠という女性絵師の人生の節目ごとの様子を描きだしています。
明治二十二年の春河鍋暁斎の死、明治二十九年の冬の八代目鹿島清兵衛の没落、明治三十九年の初夏のとよと高平常吉との結婚と、何らかの出来事に応じたとよとその周りの様子が描かれています。
そうした区切りごとでのとよの姿が、父親であり師である河鍋暁斎に対する尊敬とも畏敬ともつかない思いと、父暁斎と同じく絵のことしか考えない奔放な兄河鍋暁雲こと周三郎に対する複雑な感情とを交えて描き出されているのです。
女性絵師の物語というと、葛飾北斎の娘で東洋のレンブラントと呼ばれた葛飾応為を描いた朝井まかての『眩(くらら)』という作品を思い出します。
この物語は、北斎の娘で応猪ことお栄の絵師としての姿や、また女としての姿もまた生き生きと描かれている作品です。
そして、本書の中でも北斎と暁斎、応為と暁翆とを比べていますが、小説としてもどうしても本書『星落ちて、なお』と『眩(くらら)』とを比べてしまうのです。
本書『星落ちて、なお』では、父親の暁斎が死去したのちの主人公の暁翆こととよの姿から始まります。
主人公とよの父である暁斎は、八十歳を超えてもなお旺盛な画力を失わなかった北斎とは異なり、五十九歳という若さでこの世を去っています。
画鬼と呼ばれるほどに絵のことしか考えていなかった暁斎ですが、残された二十二歳のとよには異母兄の周三郎という新たな存在がおり、何かととよのことをけなし、雑用はすべてとよに押し付けてしまいます。
弟の記六もまた面倒なことからは逃げるしかなく、借金ばかりを増やすありさまです。妹のきくは病弱で何もできません。
結局は、暁斎の親友である真野八十吉や、鹿島清兵衛という大店の主の世話になるしかないとよでした。
本書『星落ちて、なお』に限らず、実在の人物の生涯を描く作品は多々あります。作家たちが本書のように実在の人物を描く意図は何だろう、と思っていました。
この点について作者の澤田瞳子は、「本の話」の中で、「絵に限らず、親子だから、家業だから、ということで逃れられないことは誰にも大なり小なりあって、とよの生きた人生は一面、我々全員が共有できる人生でもあります」と言っておられます。
だれしも人生では何らかの束縛から離れては生きていけないから、主人公の人生に読者自身の人生を重ね、そこで何らかの意義を見つけてほしい、とでも言うことでしょうか。
私が好むエンターテイメント小説の場合、読者に楽しんでもらいたいと思って書いているという作家の言葉を読んだことがあります。
では、本書のように文学性の高い作品はどうなのでしょう。芥川賞にノミネートされるような作品ではどうなのでしょう。
本書のような文学性の高い作品を読むと、いつもそうした疑問が浮かんできます。
そうした意味では本書は私の好みとは少し異なる作品でした。冒頭に述べた『眩(くらら)』という作品はかなり楽しく、葛飾応為の生き方を客観的に楽しんだ記憶があります。
しかし、本書の場合、詳細に情景が描写してあり、さらには人物なり時代なりの詳しい説明が為されています。
そうした差異が物語としての面白さ、私の好みにも影響しているのでしょう。
何といっても、本書『星落ちて、なお』は第165回直木賞を受賞した作品です。
作者の筆の力は確かに主人公の懊悩を浮かび上がらせ、物語として、文学作品として高い仕上がりになっています。
作者澤田瞳子はこれまで何度も直木賞の候補には上っていながらそれを逸してこられました。
今回やっとそれを受賞されたことになりますが、ただ、私の個人的な好みとは一致しなかったということです。