『稚児桜』は、「能」の楽曲をもとに作者が想起したイメージをもとに書かれた作品集だそうで、第163回直木賞の候補作となりました。
短編集として面白いかと問われれば、当初は首をかしげざるを得ませんでした。
読みごたえがない、とか、つまらないなどということはないのですが、どうにも捉えどころのない作品が多い、というのが現在ではない、読了後の正直な感想です。
破戒、復讐、嫉妬、欺瞞、贖罪―。情念の炎に、心の凝りが燃えさかる。能の名曲からインスパイアされた8編のものがたり。(「BOOK」データベースより)
本書の発想もとである「能」について、私個人としては何も知りません。ただ、謡に乗せて舞い、幽玄の世界を表現する芸術だという認識を持っていただけです。
しかし、本書に収められた作品は「幽玄」を感じさせる作品はありません。
ほとんどの物語が人間の持つ業について書かれていて、むしろ哀切と言えるほどにもの悲しさをたたえています。暗いと言い切るまではない、昏さであり、陰鬱さを抱えています。
どの物語も短編小説として重厚感は感じられるものの、救いのない話だという場面を多く感じたものです。
「能」について何も知らない私は、能の一分野として「笑い」を担当する狂言がある、と思っていました。
しかし今回「能」に関してネットで調べると、共に奈良時代に中国から渡来した「散楽」を源流としているとありました。
例えば第一話の「やま巡り」に関してはこのサイトの「演目辞典 山姥(やまんば)」を見ていただくとこの演目の内容が解説してあります。
そこでは「百ま山姥」という遊女が善光寺参詣の途中一夜の宿を借りることとなった山姥とのやり取りが説明されています。
本書の作者澤田瞳子は、このように能の演目に題を求め、澤田瞳子なりの解釈を施して短編小説として仕上げているのです。
このサイトを読んでからは私にとって本書『稚児桜』の持つ意味が確かに変わりました。
「能」の演目としての「山姥」の内容を見ると、本書『稚児桜』での「やま巡り」のストーリー自体は能の「山姥」をそのままに追ってあることが分かります。
その上で、登場人物を増やし、個々の登場人物の背景、人間関係を新たに構築し、新たな物語としての命を吹き込んであります。
つまり本書で描かれているのは幽玄の世界の物語ではなく、現実の人間の営みの中で紡ぎ出される愛憎劇だったのです。
他の物語にしても同様で、具体的に各短編の内容については触れませんが、人間が根源的に持つであろう憾みや欲望といった側面を前面に押し出して描き出してあります。
ところで、小説で歌舞伎をテーマにした作品は、芸人の芸道に生きるものとしての心を真摯に描き第128回直木賞の候補作となった作品集である松井今朝子の『似せ者』など、推理小説も含めこれまでにいくつかありました。
しかし、「能」をテーマした作品というと、青山文平の『跳ぶ男』しか思い浮かびません。
この作品は、道具役(能役者)の家に生まれた一人の若者の生き様を描いた長編の時代小説で、かなり読みごたえのある作品でした。
冒頭に書いたように、本書『稚児桜』を物語としてみた場合、各短編はいわゆるエンターテイメント小説としての面白さは感じないかもしれません。しかし、そこで示されている人間の愛憎劇は読むに値するものでした。
能の演目としての筋立てを読み、その上で本書の各短編を見直すとその様相を異にするのですから、私という読み手の浅薄さを思い知らされるものでもありました。
たんに個人の好みだけで物語を判断してはいけないということでしょうか。なかなかによい読み手になるということも難しいものです。