本書『手蹟指南所「薫風堂」』は、『手蹟指南所「薫風堂」シリーズ』の第一巻で、文庫本で293頁の長編の時代小説です。
「薫風堂」という名の手習所を舞台とするこの作者らしい、学問の大切さを大きく掲げた、しかし読みやすく心地よい青春記でした。
『手蹟指南所「薫風堂」』の簡単なあらすじ
月夜の中、辻斬りから老人を助けた浪人・雁野直春。彼は幼くして両親を亡くすも養父母の愛情に育まれ、まっすぐな好男子に成長していた。救った老人―忠兵衛は手習所を営んでおり、直春の人柄を見込んで後を継いでくれないかと依頼してきた。逡巡も束の間、忠兵衛の子どもの育て方に共鳴した直春は依頼を快諾し、「薫風堂」の看板を掲げた。だが直春は、人には言えぬ複雑な家庭事情を抱えていた…。(「BOOK」データベースより)
二十歳の雁野直春は団子坂で辻斬りに襲われていた忠兵衛という名の老人を助けたことから、ちょうど手習指南所の跡継ぎを探していたという忠兵衛に頼まれて手習指南所を継ぐことになります。
しかし直春は手習所の師範としては何も知らないことばかりであり、手習所を譲ってくれた忠兵衛に教えを請いながらの船出になります。
そこに、親代わりに育ててくれた清蔵夫婦から自分の本当の父親の話を聞かされます。
直春の父親である春田仁左衛門は、焼餅焼きの奥方が亡くなったことから、直春を自分の養子として石川家に婿入りさせようとします。
しかし、自分の母親に対する仁左衛門の仕打ちを許せない直春は、「薫風堂」を継いだばかりでもあり自分のことしか考えない仁左衛門の話を断り続けるのでした。
ただ。仁左衛門の婿の話は石川家の美雪という娘との出会いを生み、二人は一緒になることを誓いますが、仁左衛門への養子の話を受け入れない直春の言動が軋轢を生んでいくのでした。
『手蹟指南所「薫風堂」』の感想
『手蹟指南所「薫風堂」シリーズ』の項でも書いたように、本シリーズは『軍鶏侍シリーズ』のような痛快小説ではなく、また『ご隠居さんシリーズ』ほどにトリビア三昧というわけでもありません。
とはいえ、江戸の町の風景を随所にちりばめ、江戸時代の庶民の暮らしをよく描写してあります。
その意味では、野口卓の面目躍如といったところではあるのですが、やはり主人公直春の手習所師範としての顔の描写が読みごたえがあります。
新米の師範である直春が、十二、三歳くらいの、この手習所の一番の年かさでお山の大将らしい定吉という腕白坊主に、オキクムシについて聞かせ、さらには孵化の様子まで見せ、一気に手習子たちの心を掴む様子など、博識の野口卓ならではの描写でしょう。
ちなみに、オキクムシとはアゲハ蝶の蛹であり、番長皿屋敷の後ろ手に縛られているお菊に似ているところから呼ばれたらしいと本書の中に書いてありました。
これ以外に、「薫風堂」の前の師範である忠兵衛という師匠との学問についての会話など、なかなかに読みごたえがあります。
ただ、どうしても『軍鶏侍シリーズ』と比べてしまいます。それほどに『軍鶏侍シリーズ』は私の好みと合致した作品でした。
それに比べると本作『手蹟指南所「薫風堂」』は知識面での面白さはあるものの、情景描写やストーリー展開などでは追いつくものではないのです。
特に、私の好みが情緒面が豊かなストーリーにあるようで、その点は物足りなく感じたものです。