『手蹟指南所「薫風堂」シリーズ』は、手蹟指南所の師匠をしている若干二十歳の浪人を主人公とする長編の時代小説です。
本『手蹟指南所「薫風堂」シリーズ』の主人公は雁野直春というまだ二十歳という年齢ながら剣の腕もたち、通っていた塾では塾頭を務めていたほどの人物です。
その直春が辻斬りから一人の老人を救ったことからこの物語は始まります。
その老人は名を忠兵衛といい、手蹟指南書を開いていたのですが、直春を見込んでその手蹟指南書を直春に任せることになったのです。
本『手蹟指南所「薫風堂」シリーズ』には二つの流れがあり、ひとつは当然のことながら「薫風堂」と名付けられた手蹟指南所の物語です。
いろいろな子供たちを導き、卒業していく手習子たちの奉公先までも選定し、その後も彼らの人生にかかわっていき、直春自らも成長していきます。
そしてもう一つの流れが、主人公の雁野直春の個人的な事柄です。
直春は父親である春田仁左衛門との間に複雑な事情があり、そのことが直春の恋模様とにも影を落とし、その顛末もまた本シリーズの一つの流れとして展開するのです。
『手蹟指南所「薫風堂」シリーズ』の作者である野口卓という作家さんには、私が今の時代小説の中でベストと思う作品の一つである『軍鶏侍シリーズ』があります。
この『軍鶏侍シリーズ』は、西国にある園瀬藩で道場を構えている岩倉源太夫という人物を主人公とする痛快人情小説です。
この源太夫は「蹴殺し」という秘剣を使う剣士であり、幾多の挑戦者を退けてきた人物ですが、物語の主眼はその戦いよりも園瀬の里における源太夫の生き方を主軸に描かれています。
その際の描写が園瀬の里の四季折々の風景を取り混ぜながら情感豊かに描き出してあり、藤沢周平を彷彿とさせる作家だと言われる所以でもあります。
一方、この作者には『ご隠居さんシリーズ』という作品もあります。
このシリーズは『軍鶏侍シリーズ』とは異なり、主人公が博識なおじいさんであって活劇の場面はありません。
代わりにご隠居さんの豊富な知識をもとにした様々なトリビアを開陳し、ご隠居さんのもとに持ち込まれるさまざまな相談や難題を解決していくのです。
本『手蹟指南所「薫風堂」シリーズ』はそのちょうど中間にあるような物語です。
つまり『軍鶏侍シリーズ』のような活劇の場面は殆どなく、また『ご隠居さんシリーズ』ほどに作者の豊富な知識を披露する場面があるわけでもありません。
しかしながら、江戸の町の庶民の姿も描きながら、いろいろな職業や習俗などに関する細かな知識も散りばめてあります。
そういう点ではシリーズを通してのストーリー性は保っていると言え、直春の父親春田仁左衛門との確執と、美雪という女性との恋模様を絡めながら話は進みます。
ただ、本シリーズは全五巻で完結しているのが残念です。
本『手蹟指南所「薫風堂」シリーズ』をひとことで言うと、雁野直春という主人公の、子供たちに対する学問を始めとする人間形成に対する熱い情熱を描き出した作品だ言えると思います。
主人公の雁野直春は、人は幼い時期、つまりは手習所の段階できちんと道をつけねばならないと思っていました。
そこに、忠兵衛と出会って「子供は神の世から人の世のものとなる七つ、八つのころが最も大事だ」という忠兵衛の考えに共感し、手習所を引き受けることになります。
自分が学んだ私塾で学んだ多くが旗本の子弟であり、人はどうあるべきかという、一番重要なことを学ばずに大きくなってしまった者が多いと感じていたのです。
そうした直春の思いを軸にした手蹟指南所「薫風堂」の様子とともに、父親の春田仁左衛門や許嫁の美雪との恋模様などが描かれることになります。
全五巻で完結したこのシリーズは、野口卓の物語としては『軍鶏侍シリーズ』ほどの面白さは持っていないものの、江戸時代の庶民の子の学問の様子を記した作品としてはそれなりだと言えるかもしれません。