窪 美澄

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本書『じっと手を見る』は、七章からなっている長編の恋愛小説です(連作短編集と書いてあるレビューもあります)。各章ごとに視点の主体が変わる一人称の物語で、第159回直木賞の候補となりました。

なんとも微妙に関心を惹かれる小説でした。

 

富士山を望む町で暮らす介護士の日奈と海斗はかつての恋人同士。ある時から、ショッピングモールだけが息抜きの日奈のもとに、東京の男性デザイナーが定期的に通い始める。町の外へ思いが募る日奈。一方、海斗は職場の後輩と関係を深めながら、両親の生活を支えるため町に縛りつけられる。自分の弱さ、人生の苦さ、すべてが愛しくなる傑作小説。(「BOOK」データベースより)

 

日奈と海斗は富士山の見える町で暮らす介護士で、海斗は懸命に日奈に尽くしますが、日奈はどうしても心から海斗を愛することはできません。

そのうちに、東京からやってきた宮澤という妻ある男に心を奪われた日奈は、宮澤のいる東京へと行き、共に暮らすようになります。

富士山の見える街に一人残された海斗は、日奈への気持ちを持ちつつも職場の後輩の畑中という子持ちの女と暮らすようになりますが、畑中の気持ちはいつもここではないところに向いているのでした。

 

本書『じっと手を見る』の読み始めは、濃厚なベッドシーンから始まるこの物語の各章の語り口も、またその後の登場人物のそれぞれの生き方も、どうにも後ろ向きの気持ちしか感じられず、何となくやるせない感じしか持てませんでした。

海斗にしてもケアマネージャー試験の合格というそれなりの目標を持ち、それを目指している筈なのですし、日奈も、畑中も同様に生活に流されつつも一応の目標を持っている筈です。しかし、物語全体を覆っているのは閉塞感です。倦怠感と言ってもいいかもしれません。

しかし、章が変わり、視点の主体も同時に代わって同じ出来事も立体的に見ることができるようになってくると、少しずつ本書の見え方が変わってきます。

 

一つの事象を多視点で描くことにより、その対象を立体的に浮かび上がらせるという手法は、このところよく見る手法です。

最初にその表現手段を多視点ゆえの効果だと認識して読んだのは木内昇の『新選組 幕末の青嵐』という作品でした。新選組という誰でもよく知っている幕末に存した集団を、無名の隊士による多視点で描き出したこの作品は、幕末の青春群像劇という意味でも実に衝撃的な時代小説作品でした。

 

 

その後もいくつかの作品を経たのちに読んだのが、誉田哲也の『ノワール-硝子の太陽』と『ルージュ: 硝子の太陽』という作品です。

それぞれの作品が『ジウサーガ』と『姫川玲子シリーズ』という二つの人気シリーズに属する本でありながら、同じ時間軸で一つの事件を取り上げ、登場人物さえ交錯するという独特な構成で、読者の驚きを誘った警察小説です。

 

 

上記の二冊(正確には三冊)がこの手法でインパクトの強かった作品ですが、本書はこれらの小説とは全く異なる、恋愛小説と呼ばれる分野の作品です。この分野での多視点の作品は本書が始めてであり、印象深い作品でした。

恋愛小説自体はあまり得意ではない私ですが、井上荒野の『切羽へ』などの作品には非常な魅力を感じたものです。

本書のような直接的な官能の場面はありませんが、全体として文章の運び自体が官能的で、また違った意味で驚かされ、感動したものです。

 

 

本書『じっと手を見る』での四人の織りなす話自体は特別なものがあるわけではありませんが、四人それぞれの心象の描き方に、若干の重さを感じながらも惹かれるのは何故でしょうか。

それは一つには、本書が恋愛小説というジャンルを超えたところにある、男と女のふるまいのあり方をむき出しに描いているところにあるような気がします。

ですから、本書の持つ倦んだ印象自体は変わらないままに、語りの主体となる四人の男女、すなわち日奈、海斗、宮澤、畑中の四人の心の動きに少しずつ惹かれていったのでしょう。

そうしてみると、本書の『じっと手を見る』というタイトルがそれなりの意味を持って迫ってくるようです。

 

私にとっては決して好みではない恋愛小説ですが、本書のような作品であればまた読んでみたいと思う、そんな作品でした。

[投稿日]2018年10月17日  [最終更新日]2020年7月15日
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窪美澄さん 『じっと手を見る』 | 小説丸
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『じっと手を見る』 窪美澄著 : ライフ : 読売新聞(YOMIURI ONLINE
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