臨床の砦

本書『臨床の砦』は、担当編集者が「記録小説」「ドキュメント小説」と銘打った、コロナ診療の最前線の姿を描いた新刊書で206頁の長編の医療小説です。

『神様のカルテシリーズ』を描いた夏川草介が、現実にコロナ禍に立ち向かう医師、看護師などの姿を描き出しています。

 

臨床の砦』の簡単なあらすじ

消化器専門の内科医の敷島寛治が勤務する信濃山病院は地域で唯一の感染症指定医療機関である。

この病院では一年前の二月にクルーズ船の患者を受け入れてから専門外の内科医と外科医が集まった混成チームで正体不明の感染症に対処してきた。

しかし、二〇二〇年の十二月半ばころから発熱外来に来る患者の数が急速に増え始め、患者の増加スピードが異常に速くなっていた。

今、信濃山病院では対応できない重症化した患者を複数の呼吸器内科医の所属している規模の大きな医療施設である筑摩野中央医療センターへと搬送している敷島寛治は、このまま続けば一、二週間のうちに大変な事態になると感じていた。

 

臨床の砦』の感想

 

本書『臨床の砦』の主人公は、十八年目の消化器専門の敷島寛治という内科医です。

そもそも、コロナ医療の第一線でコロナ患者に対応している主人公の敷島寛治が消化器内科医であって、呼吸器科の医者ではないということにまず驚きました。

確かに同じ内科医ではあるのでしょうが、素人にとっては消化器と呼吸器とでは異なると思うのが普通でしょう。

しかし、本書の中で主人公の敷島寛治は、「専門は消化器だから、肺炎について詳しいわけではないが、常に第一線の臨床医であったから、多くの肺炎も治療してきている。」と言っています。

本書『臨床の砦』が記録小説と銘打たれ、消化器内科医である作者夏川草介も現実にコロナ治療に従事しているという話ですので、そうした事例が日本全国の病院で行われ、またそれが当たり前なのでしょう。

 

さらに驚くことは、主人公の敷島医師が勤務する信濃山病院は感染症指定医療機関ではあるものの、呼吸器や感染症の専門家はいないということです。

感染症もいろいろでしょうから呼吸器の専門家がいないことは仕方のないことだとしても、感染症の専門家もいないというのは素人からすれば不思議に思えます。

これは小説の中の設定というだけではなく、現実に多くの医療機関で似たような事例があることと思われます。

そうした現実の中で我々は暮し、医療関係者はコロナと戦っているというのが現実だということです。

 

毎日毎日、コロナ関連のニュースを見ない日はない中で、本書で語られているように私達は東京の、大阪の、そして自分たちの郷土のコロナ罹患者の数を聞きながら、自分たちが罹らないようにしなければ、と思いながら暮らしています。

一方で、退屈したから、とか単に飲みたいからなどの理由で街に繰り出す人たちのニュースも目に、そして耳にします。

でも私達夫婦のように持病を持っている人間は、コロナに罹患すると文字通り命取りになりかねない怖さがあるのもまた事実です。

とはいえ、明確に対岸の火事とは思っていないまでも、また毎日をおびえて暮らしているわけでもありません。

 

しかしながら、本書で戦っているお医者さんや看護師さんたちは文字通りに命懸けで働いておられます。

こうした事実はテレビを通して医療従事者の方々の生の声として聴くこともあります。

でも、現場を知るお医者さん自身が自分の声で、また小説の形で発表されている文章を読むと、これまでの認識自体、少しも分っていなかったという気にもなります。

特に、本書は全くのフィクションではなく、「現実そのままではないが、嘘うそは書いていない」、という作者の言葉そのままに、ふつうに読んでいる小説とは一線を画していることがよく分かります( 東京新聞TOKYO Web : 参照 )。

 

本書『臨床の砦』に登場する人物たちは、夏川草介の他の小説に出てくる医者のように互いのことを学生時代からよく知り、互いのこともよく知っていて互いを思いやる場面など殆どありません。

もちろん、普通の同じ職場の同僚としての互いへの尊敬、思いやりなどはあるのですが、それ以前にそれぞれに主張を持つ一個の人間です。

まさに、本文中にあるように「医療は青春ドラマではないし、ここに集まった医師たちは信頼と友情でつながったクラスメートではない」のです。「感情を抑え、微妙な駆け引きの中からぎりぎりの妥協点を探していく。それが唯一の方法論なので」す。

とはいえ、小説の形式で発表されているのですから、登場人物は作者の意図が入ったそれなりの造形を施してあるでしょうし、実際そのように感じる人物、場面もあります。

 

また本書『臨床の砦』では医療現場からの声として、作者の夏川草介は主人公の内科医敷島寛治に、感染対策の経過として行政の対応はどうしても後手に回って見え、市の対応も周辺の医療機関に対して患者の受け入れを働きかけているという話も聞こえてこない問い趣旨のことを言わせています。

医療現場からは行政の怠慢としか見えないような現状があります。

しかし行政は、特に保健所などは目いっぱい働いているという情報もありますし、そのほかの機関にしても動いてはいるのでしょう。

ただ、もし動いているのだとしても現場の医療関係者には聞こえていない、もしくは動いていないように見えるのが事実のようです。だとすれば、そうした情報が正確に届くようにすることも必要ではないかと思えます。

 

とにかく、現実は未曽有の事態であることに間違いはありません。そして、医療従事者が文字通り命を懸けて働いておられることも事実です。

そうした現実を本書『臨床の砦』のような形で発表されることは相当考えることもあったのではないかと思料されます。

でも、一般人が知らない現場の情報を知ることは意義があることだと思います。

特に、例えば「病床使用率」という言葉の持つ意味が単に空きベッドの数を意味するのではないことなど全く知らないことでもありました。

医療現場の家族や介護の現場などの苦労にしても、メディアから流れてくる情報とは違った意味を持つ事実として胸に迫ります。

あらためて、私達個人ができることを丁寧にやることが医療現場の人たちの助けにもなるのだと思わせられた作品でした。

 

ちなみに、本書『臨床の砦』は三つのパートに分かれていますが、2021年5月28日現在では第一章「青空」を下記サイトで無料で読むことができます。

神様のカルテ3

本書『神様のカルテ3』は、『神様のカルテシリーズ』の第三弾で、文庫本で478頁にもなるかなり長い長編小説です。

前巻の『神様のカルテ2』の田中芳樹氏に続いて、これまた熊本出身の姜尚中氏が解説を書いておられます。この解説の文章がまたいい。

 

『神様のカルテ3』の簡単なあらすじ 

 

「私、栗原君には失望したのよ。ちょっとフットワークが軽くて、ちょっと内視鏡がうまいだけの、どこにでもいる偽善者タイプの医者じゃない」内科医・栗原一止が三十歳になったところで、信州松本平にある「二十四時間、三百六十五日対応」の本庄病院が、患者であふれかえっている現実に変わりはない。夏、新任でやってきた小幡先生は経験も腕も確かで研究熱心、かつ医療への覚悟が違う。懸命でありさえすれば万事うまくいくのだと思い込んでいた一止の胸に、小幡先生の言葉の刃が突き刺さる。映画もメガヒットの大ベストセラー、第一部完結編。(「BOOK」データベースより)

 

プロローグ
第一話 夏祭り
七月のある日、一止は本庄病院からの帰り道に寄った天神祭りで、金魚掬いの店の準備をしている一止の患者の横田さんが倒れた場面に出会い、すぐに本庄病院へと搬送させる。

その横田さんが病院を抜け出し行方不明になった。神社の夏祭りへと探しに行くと、一人の少年に金魚掬いをさせている横田さんがいた。

第二話 秋時雨
内藤先生が去ったあとの本庄病院内科も、小幡奈美という消化器内科の医師がやってきて一息つけるようになっていた。

そんな内科に肝機能障害で榊原信一という東西看護師の古い知り合いであるらしい患者が入院してきたが、何故か入院しても肝機能が悪化する一方だった。

第三話 冬銀河
信州大学の医局へと異動することになった次郎が、新任の小幡医師と衝突した。酒飲みの患者は看ない小幡医師は分からないという次郎に、小幡医師は、あなたに言っても分からない、と言い切る。

最新の医療を学ぶ努力を怠り、死にそうな患者のそばに付き添っているなど自己満足にすぎないと言う小幡医師は、一止のような医者を偽善者であり、生きることを舐めきっている人に割く時間はない、と言うのだった。

第四話 大晦日
小幡医師と救急部の外村師長とが衝突した話が広がるなか、小幡医師は、通常の業務もこなしながら二週間という時間を一人で重症のICU患者の世話をしていたという。

一止が、小幡医師と勤務を代わった大狸先生からその話を聞いていると、そこに検査科の松前徳郎技師長や循環器の自若先生、それに辰也まで集まり、次郎の本庄病院卒業試験である手術の終わりを待つのだった。

第五話 宴
ところが、次郎が執刀した島内耕三という膵癌患者は癌ではなかった。つまりは一止らの診断は誤りであり、薬で治療できるものだったのだ。

事務局では本庄病院の幹部らが集まり、一止らの誤診について話し合いが行われていたのだった。

エピローグ
 

『神様のカルテ3』の感想

 

これまでは「地域医療」の抱える問題に重点が置かれていた本『神様のカルテシリーズ』ですが、本書『神様のカルテ3』では、医療というよりも医師自体の抱える問題に軸足が移っている印象があります。

勿論、本『神様のカルテシリーズ』でもこれまで古狐先生こと内藤先生の問題でも取り上げられたように、「医師と家族」の問題が、それは医療における人的資源の少なさでもあるのでしょうが、大きく取り上げられていました。

本書で言うのはそうではなく、医者自身の問題です。先端医療と地域医療の関係、第一巻でも言われていた問題が正面から取り上げられ、それが一止のこれからの進路と絡めて描かれているのです。

そこで一止の進路に大きな影響を与える役割を担って登場するのが札幌稲穂病院から本庄病院の消化器内科へ来たという小幡奈美という医師です。

この小幡先生は超音波内視鏡検査を得意とし、臨床と研究を同時並行させている稀有な医師でした。

 

第一話、第二話はとある事情を抱えた患者の話と、東西看護師の過去にからんだ患者の話であり、それ以降にこの小幡先生をめぐる問題が巻き起こります。

まず小幡医師は次郎と衝突し、ついで救急部の外村師長との間で火花が散ります。小幡医師の患者に対する態度が問題となるのです。

 

先にも書いたように、この小幡医師は常に先端医療を学び、その上で現場にも臨んでいる医師です。

それに対し、一止は地域医療の現実を見て、大学という医療の研究機関へ入ることをせずに現場での医療を選択したお医者さんです。

その一止に対し、改めて最新の医学、医療技術を学ぶことの大切さを教えてくれる存在として小幡医師が配置されているのです。

それは大狸先生の一止に対する大きな指導の一環であり、愛情の表現だと思われ、同時にそれは医者の良心だけでは立ち向かうことのできない医療という領域への畏怖の表れであるようにも思えます。

 

そして作者夏川草介氏に対しては、小幡というユニークなキャラクターをもつ医師を登場させて本書『神様のカルテ3』を面白い物語として成立させた手腕に感じ入るばかりです。

また作家のとしての手腕に関しては、信州の自然の描写のうまさもまた『神様のカルテシリーズ』の魅力を増していると思うのです。

本書『神様のカルテ3』についえ言えば、各章の導入として信州の各地の紹介から始め、物語へといざなっています。

例えば第二章の始まりは松本平の東方に位置する「美ヶ原温泉」を「後拾遺和歌集」の源重之の歌にある「白糸」という言葉を引き合いに紹介していますし、第三章の冒頭では「松本平の奥座敷」という呼び方を示して「浅間温泉」を紹介しています。

また第四話は信州の山中の鹿が教えてくれた出湯として「鹿教湯温泉」の名があげられ、鹿教湯の「氷灯ろう」が紹介してあります。

そして第五話の最初に紹介してあるのは大町市の南にある国宝「仁科神明宮」です。

第一話にしても、冒頭こそ本庄病院の救急部の忙しさを紹介してありますが、そのすぐ後にこの話の舞台の一つとなる本庄病院の北側住宅街の一角の「深志神社」とそこで行われる天神祭りが描かれているのです。

 

本『神様のカルテシリーズ』の魅力の一つとして、一止の妻ハルの存在が強く言われる点でもあります。

本書でもそうですが、プロローグとエピローグその両方で、一止の隣には妻のハルがいる、という構成からもわかるように、一止とハルの物語という側面も強く出ていると思えます。

常に医療に対し真摯に向き合う一止、そのそばにはいつもハルの姿があるからこそ医師という仕事に全力を傾けられるのです。

そうしたハルを始めとする善人ばかりの人物の配置も作者夏川草介氏のうまさの一つだと思われます。

 

作者のうまさでいうと、いつものようなアフォリズム的言辞もそうですが、会話文のうまさも光ります。

例えば、龍の彫り物を背負った患者の島内老人に「背中に龍があるかないかで治療は変わらない」と言い切る一止がいます。

また、その島内老人が言った「あの夜、わしは本当に嬉しかったのですよ。」という言葉は、前後の文脈からして老人が本心から言った言葉として表現してあります。

だからこそこうした会話が心を打つのです。

 

本作を持って、第一部が終わりだそうです。この後に『神様のカルテ0』として、一止の医学部生だった頃から本庄病院に勤めるまでの話がサイドストーリーとして短編集にまとめられています。

 

神様のカルテ2

本書『神様のカルテ2』は、『神様のカルテシリーズ』の第二弾で、文庫本で373頁の長編小説です。

作品の面白さはあらためて言うまでもなく、解説を我が熊本出身の作家田中芳樹氏が書いておられるのもまた魅力です。

 

『神様のカルテ2』の簡単なあらすじ 

 

栗原一止は、夏目漱石を敬愛する信州の内科医だ。「二十四時間、三百六十五日対応」を掲げる本庄病院で連日連夜不眠不休の診療を続けている。四月、東京の大病院から新任の医師・進藤辰也がやってくる。一止と信濃大学の同級生だった進藤は、かつて“医学部の良心”と呼ばれたほどの男である。だが着任後の進藤に、病棟内で信じがたい悪評が立つ。失意する一止をさらなる試練が襲う。副部長先生の突然の発病―この病院で、再び奇蹟は起きるのか。(「BOOK」データベースより)

 

プロローグ
第一話 紅梅記
一止が勤める新庄病院に、学生時代からの友人である進藤辰也が移ってきた。

一止の片想いの相手であった如月千夏を射止めた進藤は、かつては「医学部の良心」と呼ばれていた男だった。しかし、その進藤は、緊急の呼び出しにも応ぜず、患者へのインフォームドコンセントを後回しに帰ってしまう男になっていた。

第二話 桜の咲く町で
辰也でなければ対応しきれない難しい患者がいるらしく、病棟で時間外に働く辰也の姿を見かけるようになった。

留川トヨさんの部屋から旦那さんの歌う木曾節が聞こえてくる中、一止は次郎から辰也の妻の千夏がおかしくなったという話を聞いた。そんなとき、辰也の母親のセツが辰也の娘の夏菜を連れて新城病院にやって来た。

第三話 花桃の季節
古狐先生こと内藤副部長先生が倒れ、入院することとなった。一止は古狐先生のCT写真を見た大狸先生から二人の古い約束について聞くのだった。

検査の結果は悪性のリンパ腫であり、治療の開始を数日待ってくれと頼む古狐先生に、辰也は、「先生は、医師である前に人間です。」と言い放つのだった。

第四話 花水木
内藤先生はあとひと月も持たないという話に、ハルがある意外な提案をしてきた。

辰也や外村看護師松前技師長東西看護師などの了承を取り付け、一止は二日後の真夜中、内藤先生と先生の奥さまを本庄病院のヘリポートへと連れだす。

翌日、栗原、砂山、進藤の三医師は本庄病院院長の本庄忠一、そして本庄病院ナンバー2の金山弁次事務長の前に立たされていた。

エピローグ

 

『神様のカルテ2』の感想

 

前巻の『神様のカルテ』で、現在の地域医療制度に対する様々な点への問題提起も含みつつ、個々の患者と医者などの人間ドラマを描き出しているのが本『神様のカルテシリーズ』、だと書きましたが、本書『神様のカルテ2』も全く同様です。

 

 

本書『神様のカルテ2』では、その他に医師と家族の関係とがテーマになっているようです。

本書の前巻との差異は、一止の学生時代からの友人である進藤辰也という血液内科の医師が新たに登場してきていることでしょう。

この進藤辰也は、学生時代は「医学部の良心」と呼ばれたほどの男であったのですが、本庄病院にやってきた辰也は、時間外に連絡が取れずに看護師が困っているという話が聞こえて来るような人物になっていました。

こうした辰也の行いの陰には、家族の問題があり、そんな辰也に対し、一止は意表をつく行動をとります。

そして、さらにひと声を掛けるのですが、それが、あの頃のことを「私は一度も忘れたことはない。無論お前との友情も、だ。」というものでした。

 

本『神様のカルテシリーズ』ではこうした青臭いフレーズがよく出てきます。また、登場人物の言葉だけではなく行いも、ほかであれば単なる書生論であり、世間知らず、としか言われないような言動であることが多いのです。

しかしながら、本シリーズで一止の口からこうした言葉が出てくると、それは自然であり、物語の流れの中で違和感がありません。

そんな作品を作り上げた作者の力量、文章の力にただ脱帽するばかりです。そうした作品だからこそ、読者の心の奥底に浸透し、皆の支持を得ているのだと思います。

加えていうならば、辰也の座右の銘として紹介されている、セオドア・ソレンソンの「良心に恥じぬということだけが、我々の確かな報酬である」という言葉がまた心に響きます。

さらに述べれば、辰也と一止との仲が昔を取り戻したとき、辰也が一止に対し「帰ってきて正解だったよ。」「本庄病院に来れば、君に会えると思っていたんだ。」と言いますが、仲間に対する確固たる信頼の上に成立するこうした言葉に私は弱いのです。

 

進藤辰也の登場が一つの山とすれば、本書『神様のカルテ2』にはもう一つの山があります。それが古狐先生こと内藤先生の話です。

すなわち、辰也の場面とは異なり、こちらでは正面から本書の大きなテーマであり医者の抱える難問として挙げられている「患者と家族の問題」が描かれています。

一止がそうであるように、二十四時間体制の本庄病院では常に人で不足であり、医者は長い時間病院にいることになります。そしてそのことは、医者は家族のそばにいない、ということを意味します。

そうした事実を背景に、内藤先生が病に倒れて初めてこの夫婦がゆっくりとできるという現実が浮かび上がってくるのです。

 

本書『神様のカルテ2』の最後に、一止らは内藤先生のためにあることを企て、その描写がまた見事なのですが、この場面はそのあとの糾問の場面と合わせて一つでしょう。

一止らの企てに対し追及する事務長に対し、「医者の話をしているのではない。人間の話をしているのだ。」と言い切る一止の言葉は胸を打ち、涙を誘います。

こうした理想論を押し立てていかなければ、この救い難い環境の中で誰が正気を保って働き続けられるのか、という慟哭にも近い言葉は、2021年の現在、コロナ禍の下で命を賭して働いている医療従事者の姿とも重なるのです。

 

本書『神様のカルテ2』での、御嶽山を前にする冬山に登った二人、そして御嶽山そのものに上った二人を描くプロローグとエピローグが素晴らしいものでした。

一止とハルとの素晴らしい関係を正面から描いてあり、読者はこの場面だけで二人の関係性、立場を一気に理解できます。

本『神様のカルテシリーズ』で、一止の細君のハルの姿、たまに聞かせるハルの言葉が、どれだけこの物語に救いを与えているでしょうか。

このハルに限らず、夏川草介という作家の文章は自然を対象とした比喩表現が見事であり、ときおり挟まれる警句が、琴線を刺激します。

 

本『神様のカルテシリーズ』をあらためて見つめ直すと、非常に青臭く、いわゆる書生論に満ちた作品だと言えます。

登場人物として、私たちの通常の生活で出会う言葉の通じない人や悪人などは全く登場しない善人だけの物語です。

近時読んだ深町秋生の『ヘルドッグス 地獄の犬たち』などは逆に暴力だらけで、悪人しか登場しない物語の対極にある物語でした。一方は死へ誘う話であり、本書は死から救い出す物語です。

アクション満載のこの物語は、バイオレンス満載であり、エンターテイメント小説として強烈な魅力を放っています。

 

 

ところが、青臭いはずの物語であるこの『神様のカルテシリーズ』が読み手の心をうちます。

こんな医者が、こんな看護師が、こんな病院があるはずがないとは思いつつも、この物語を読んで涙するのです。

エロスもバイオレンスもない、感傷しかないはずの物語に心を揺さぶられるのですから、それは救いなのかもしれません。

このシリーズがいつまでも続いてほしいと切に願います。

始まりの木

本書『始まりの木』は、『神様のカルテシリーズ』の著者による民俗学を通して学ぶこと、生きることの意味を考える長編小説です。

民俗学の准教授がフィールドワーク先の現場で行う大学院一年生に対しての心豊かな講義は必読です。

 

生きること、学ぶことの意味を問う、新世紀の“遠野物語”。“これからは、民俗学の出番です”。神様を探す二人の旅が始まる。(「BOOK」データベースより)

 

第一話 寄り道
古屋と千佳は、青森県弘前市へと向かい、古屋の知り合いの宿へと泊まる。翌朝目覚めた千佳は、岩木山を前に古屋から日本と西洋の夫々のの神の成り立ち、違いについて講義を受けるのだった。

第二話 七色
藤崎千佳はいつものように古屋神寺郎と京都に講演のために来ていた。そこで出会った一人の青年を鞍馬まで送っていくことになるが、途中の色彩の降り注ぐ駅で彼は降りた。

第三話 始まりの木
信州の松本駅前の店で倒れたものの翌日元気を取り戻した古屋は、千佳を連れて伊那谷へと向かう。そこで、古屋の民俗学の原点が示され、そして日本人にとっての神についての講義が始まった。

第四話 同行二人
古屋と千佳は、高知県宿毛市で調査中の仁藤仁のもとへと行く。翌朝の散歩の途中、ゆったりと響いてくる読経の声に誘われて横道に入った千佳らは、行き倒れている一人のお遍路さんを見つけた。

第五話 灯火
東々大学近くの輪照寺には道路拡張のために切り倒される樹齢六百年の見事な枝垂桜の老木があった。千佳は、輪照寺の住職からこの国の神の独特な在り方を、古屋からは民俗学の意義についての話を聞く。

 

本書『始まりの木』の主人公は、国立東々大学の民俗学者である古屋神寺郎(かんじろう)准教授の研究室で学ぶ、藤崎千佳という大学院一年生です。

千佳の二年先輩の仁藤仁が、古屋の言葉は「毒と皮肉でできている」と言うほどに古屋という人物は偏屈であり、要らざる敵を作ることに長けています。

そうした人物に付き従い、足の悪い古屋の世話をする千佳もまた少々変わった人物です。古屋と共にする日本中の旅が、いつも新鮮な発見と驚きとをもたらしてくれることがとても気に入っているのです。

自分の方向性も定まらないままに柳田國男の『遠野物語』を愛読する彼女は、ひょんなきっかけで聞くことになった古屋の講座に魅せられ、古屋の研究室に入る決心をしたのでした。

 

 

そうした二人ですが、古屋の「藤崎、旅の準備をしたまえ」という一声でいつも唐突なフィールドワークの旅へと旅立つことになります。

 

その旅先として本書『始まりの木』ではそれぞれの話で「青森県弘前市、嶽温泉、岩木山」、「京都府京都市(岩倉、鞍馬)、叡山電車」、「長野県松本市、伊那谷」、「高知県宿毛市」へと旅をし、最後に「東京都文京区」という大学近くで不思議な出来事に出逢います。

同時に、それぞれの話で千佳は古屋から、また別な人物から、日本の神について、生きるということについて得難い講義を聞くことになります。

例えば第一話では、日本人にとって生活の場そのものである自然はそのまま神の姿になった。それに対し、西洋では森や海は恐怖の世界との境界であるため森や海という自然を制圧することとなり、自らの心の中に人間的な神を作ることになった、という話でした。

自分の足で歩いて、自分の手で事物に触れ、自分の目で対象を見、そして実際に様々な出来事に遭遇することこそが大事なことに気付くのです。

彼らの旅では、鞍馬での色鮮やかな紅葉たち、高知での読経の見事な高僧、文京区での見事な枝垂桜など、自分で歩いたからこそ出逢える不思議な出来事に出逢います。

そして、古屋の講義は神と自然、日本の神と西洋の神のそれぞれの在りようを語り、千佳は日本人の生活、考え方、日本という国独特の神の考え方などについて学ぶのでした。

 

そうした講義は、ひいては読者である私たちの心の中へと響いてきます。日々の暮らしの中にある日本人特有の神についての考え方などを知るのです。

それは、押し付けでもなく、本書の作者である夏川草介の、日々命と向き合う医者という立場から学んだ事柄でもあるでしょう。

また、本書巻末に載せられた膨大な量の参考文献を読んで得られた「民俗学」や「神」についての考え方でもあるのでしょう。

夏川草介という作家の科学に対する考え方、科学万能主義に対する批判的な考えをもとに、自然の中に生きる我らの在りようを見つめ直したくてこの物語を書いたのではないかと思えます。

この考え方は、『神様のカルテシリーズ』などの夏川草介の他の作品の根底にも流れている思いのように感じるのです。

 

 

本書『始まりの木』の主人公のひとりである古屋という人物は、本書の文章を読んでいると、足が悪いという設定もあってかまるで初老の准教授といった趣があります。

それは、台詞が老成していることや、この作者の特徴の一つでもあるかと思うのですが、文章表現そのものが和風というか、古風、少なくとも現代風ではないことからも来ているのでしょう。

例えば、第三話で信濃大学教育学部の永倉教授が発した苛烈な言葉について述べている、「清風が名月を払うような爽やかさ」などという和風の比喩表現の巧みさなどはその典型だと思います。

しかし、多分、東々大学の次期教授を嘱望されている人物でもある彼はまだ五十歳にもなっていないのです。

 

いつもは主として派手なエンターテイメント小説を読んでいる私にとって、本書のような心に直接響いてくる小説は非常にありがたい作品でもあります。

日本人としての物ごとの考え方や、神という存在についてあらためて考えることなどまずない日々を送っていると、本書『始まりの木』のような作品はまさに自分をリフレッシュさせてくれる作品でもあるのです。

若干の感傷に浸る、そうした側面がないとは言いませんが、そうしたことも含めて自体自分にとっては代えがたい体験であるようです。

 

この作者の作品それぞれが、作者自身がいつも考えておられることであり、それを軽いユーモアで包みながら魅力的な登場人物に託して提供してくれています。

それを読者である私たちが受取り、咀嚼し、感動を得るという、普通でありながらもある意味得難い体験をさせてもらえていると思うのです。

本書『始まりの木』では痛切にそう感じました。

この作者の作品はいつも新たな感動をもたらしてくれます。

また新しい作品を提供してほしい、心からそう思う作家さんです。

勿忘草の咲く町で ~安曇野診療記~

本書『勿忘草の咲く町で ~安曇野診療記~』は、今年三年目の看護師と一年目の研修医を通してみた、地方の高齢者医療の現場を描き出す長編の医療小説です。

いかにもこの作者の作品らしく、かなり重いけれども心に響く物語でした。

 

命の尊厳とは何か―?答えのない問いに必死で向き合う若き研修医と看護師の奮闘を描いた、感涙の連作短編集。(「BOOK」データベースより)

 


 

本書『勿忘草の咲く町で ~安曇野診療記~』は、直接に終末医療を扱っているため、かなり重い物語でした。

それもそのはず、『神様のカルテシリーズ』の著者でもある夏川草介が、「神様のカルテシリーズ』に入れ込むには少々重すぎるので、書くとしたら別の物語でと考えていました。」と言っている作品だったのです。

 

 

今の社会は『死』と正面から向き合っていないのではないか」という思いから、「地域医療、とりわけ高齢者医療において、医療現場の外からはなかなか見えない隠された部分を書こう」と思っていたそうです。( カドブン : 参照 )

 

同じところで、「私は、読者にかっこいい人たちが登場する美しい物語を届けたい」とも書いておられます。

そしてその言葉のとおりに、安曇野の美しい風景を背景として、主人公である三年目になる看護師の月岡美琴と、一年目研修医の桂正太郎という初々しいカップルが、つらい現実を前にしながらもあたたかな関係を築いていく話になっています。

この作者の書く物語は、本書『勿忘草の咲く町で ~安曇野診療記~』も含め、読んでいて少々美しすぎるのではないか、本当の現場はもっとシビアで人間の嫌な面がはっきりと出てくるものではないか、などと感じることもありました。

しかし、先の著者の言葉はそうしたリアルな現実はあえて避けて、明るい側面を描いているのだと明言しているのです。それはそれで一つの選択であり、納得しました。

若い人たちにはまずは『理想』や『人としての美しさ』をきちんと見ておいてほしい。」という著者の意図は素晴らしいと思います。

 

医療小説としては、医療の厳しい現場をリアルに描き出す作品もあります。

例えば、大鐘稔彦の『孤高のメス―外科医当麻鉄彦』(幻冬舎文庫全六巻)などはその系統に入るでしょう。確かに、主人公の医師が高い技術の持ち主過ぎるという側面が無きにしもあらずですが、リアルな医療現場を描き出してあるという評価がなされています。

 

 

また、山崎豊子の『白い巨塔』(新潮文庫全五巻)も、大学病院を頂点とする医学界の現実をリアルに描き出している作品として高い評価を得ています。大学教授の椅子を巡る駆け引きに明け暮れる人間関係を描写した名作です。

 

 

本書『勿忘草の咲く町で ~安曇野診療記~』には四つの物語が収められています。

そのそれぞれの物語で、地域医療の現実、胃ろう、限られた医療資源、医療訴訟、延命治療、その他医療の素人の私達には直接的には関係の無さそうな、それでいて実は非常に密接な事柄である「命」にかかわる重大な問題が描かれています。

そして、そのそれぞれの場面で、登場人物のほとんどが医療に真摯に向き合っている医師や看護師らという善人で構成されているのです。

そこには裏のある人間は一人もおらず、入院患者でさえもあまりわがままを言いません。先に述べた「人としての美しさ」を描くための「理想」的な人間がいて、「理想」的な医療に近づけるべく努力する人たちがいます。

更には、主人公のひとりである研修医の桂正太郎は花屋の息子だから花に詳しいという設定で、物語の随所に「花」が重要なアイテムとして登場し、物語に彩を添えています。

 

ある意味『神様のカルテシリーズ 』の中の一編と言っても通りそうな物語ばかりです。

しかし、物語が看護師目線である場面が多いことや、「花」がキーワードとなっているという点などで『神様のカルテシリーズ 』とは異なっていると言えます。

ただ、テーマが少しだけ本書の方が重いというだけで、本質は同じと言い切ってもいいのではないでしょうか。

 

とはいっても別なシリーズとしてそれなりに存在感を持っているのであり、それは主人公の二人の明るい恋が描かれているところにあるのでしょう。

本書『勿忘草の咲く町で ~安曇野診療記~』の山場の一つであるカタクリの群生地での二人の様子などの美しい自然の描写が本書のテーマの重さをかなりの部分で和らげてくれています。

きれいごと、という批判もありそうですが、それでもなおこの作者の描く物語は読み手の心を温かくしてくれるのであり、作者の言う「理想」に少しでも近づこうとする医療関係者や患者らの支えになるのではないでしょうか。

本書『勿忘草の咲く町で』もシリーズ化されてほしいものです。

新章 神様のカルテ

本書『新章 神様のカルテ』は、「神様のカルテ」新シリーズ第一巻の長編の医療小説です。

舞台を大学に移して展開される栗原一止の医者としての苦悩が、ユーモラスな文章にのせて語られる私の大好きなシリーズ作品です。

 

新章 神様のカルテ』の簡単なあらすじ

 

栗原一止は、信州松本に住む実直にして生真面目な内科医である。「二十四時間、三百六十五日対応」の本庄病院を離れ、最先端の医療を行う信濃大学病院に移り早二年。患者六百人に医者千人が対応する大学病院という世界に戸惑いながらも、敬愛する漱石先生の“真面目とはね、真剣勝負という意味だよ”という言葉を胸に、毎日を乗り切ってきた。だが、自らを頼る二十九歳の女性膵癌患者への治療法をめぐり、局内の実権を握る准教授と衝突してしまう。330万部のベストセラー、大学病院編スタート!特別編「Birthday」も同時収録。(「BOOK」データベースより)

 

新章 神様のカルテ』の感想

 

序章を読んだだけで、この人の文章は確実に私の琴線に触れる、とあらためて思いました。

全体的に情緒的であり、かなりの箇所で感情を揺さぶる場面があるのだけれど、その心情は私にとって心地よく、文章を素直にそのままに受け止めることができます。

このところ、2019年本屋大賞候補作にもなった知念実希人の『ひとつむぎの手』や、映画化もされたベストセラーである大鐘稔彦の『孤高のメス―外科医当麻鉄彦』(全六巻)などを読んでいたため特にそう思うのかもしれませんが、医療を考える点ではどの作品も同じでも、本書が一番しっくりと来るのです。

ひとつむぎの手』では直接的に大学病院の医局制度を批判し、その改革を主張していました。『孤高のメス―外科医当麻鉄彦』では、肝移植の問題を中心のテーマとして、現在の地域医療や医療制度のもつ弱点を指摘してありました。

 

 

本書『新章 神様のカルテ』の主人公栗原一止の場合、前巻までは地域の病院に勤務する医者としての立場からの地域医療を考える場面も少なからずありました。

しかし、命を救えない患者に対する医者としての苦悩など、医療制度というよりは医者個人としての思いを前面に出してあったと思います。

地域の患者に寄り添い、その一助となることを選んでいた一止でしたが、よりよい医療を提供するためには地域医療の現場を離れ、高度な医療を学ぶ必要があると判断し、大学へ戻る決心をしたのでした。

 

そして、本書からは大学病院での一止の姿があります。前巻から二年が経ち、一止も父親となっています。一止を「とと」と呼ぶその娘栗原小春は股関節に故障を抱えてはいるものの、概して順調に育っています。

そうした家族や、住まいである「御嶽荘」の老朽化による解体問題などの状況をサブストーリーとしてユーモラスに描きながら、第四内科で生じる様々な患者との触れ合いや医局内で生じる衝突などをもまたユーモアを交えて描き出してあります。

 

本書『新章 神様のカルテ』の魅力は、一止が属する消化器内科第三班の北条医師や、四年目の“利休”こと新発田大里医師、一年目研修医の“番長”こと立川栄太ほか、第一班班長の柿崎先生や、一止の天敵となる“御家老”または“パン屋”こと宇佐美准教授などの新たな登場人物が生き生きとしていることが挙げられます。

また、夏目漱石を心から愛する人物という設定もそうですが、その延長上にある主人公の古めかしい台詞回しもシリーズを通して生きています。

そして、何よりも一止が医師として真面目に生き、思うところを主張するその姿が一番の魅力だと思います。

 

その姿は、現実に言えるかは別として、例えば死を前に入院を拒む患者に「生きることは権利ではない。義務です。」と言い切る姿にあります。

また、終盤にある退院カンファレンスでの看護師たちに言った「不安を抱える御主人に向かって、・・・“我々が全力で支えるから心配するな”と」言わなければならない、という言葉であったり、パンの話が得意な宇佐美准教授に向かって「私はパンの話をしているのではないのです。私は、患者の話をしているのです。」という言葉だったりするのです。

「パンの話」については実際に本書を読んで確認してください。

そうした言葉の力はこの物語の中で実に重く、響いてきます。

それは柚月裕子の『最後の証人』から始まる『佐方貞人シリーズ』の主人公の青臭いと言われかねない主張にも通じる爽快感をもたらしてくれるのです。

 

 

そして、他の医療小説で批判の対象となる大学の医局制度に対しても、本書『新章 神様のカルテ』での主張の仕方は少し異なります。

一止の属する第三班の班長である北条医師の口を借りて、「大学ってのはすごい場所なんだ」と言わせ、更に地域医療を守る医局制度の現実的な意義を説いています。

その上で「今の医局には無理や無駄が多すぎるってのも事実だ。俺はそれを変えたいと思っている。」と言わせています。

 

また本書『新章 神様のカルテ』では、大学の教授も、民間病院や医院の先生たちも皆、医療に真摯に向き合い、そしてその地位に見合った人格と技量を持つ医者として描かれています。

そのことは、本書全体の持つ主張についてのバランス感覚も公平なものだと認識させてくれるようです。

本書の持つ心地よさは何物にも代えがたい価値を有すると、あらためて感させてくれる一冊でした。

本を守ろうとする猫の話

高校生の夏木林太郎は、祖父を突然亡くした。祖父が営んでいた古書店『夏木書店』をたたみ、叔母に引き取られることになった林太郎の前に、人間の言葉を話すトラネコが現れる。21世紀版『銀河鉄道の夜』! (「BOOK」データベースより)

 

神様のカルテシリーズ』の夏川草介による、本を好きな人に贈る長編のファンタジー小説です。

 

 

祖父を亡くした高校生の夏木林太郎は、祖父が残した「夏木書店」を閉じることになりました。

その日まで数日となったある日、一匹のトラネコが林太郎のもとを訪れてきます。ただ、この猫はヒトの言葉を話すことができ、そのうえ、林太郎を「4つの迷宮」のある不思議な世界へと連れて行くのです。

 

第一の迷宮「閉じ込める者」では、整然と配列された白いショーケースに整然と平置きされた本を前に、一度読み終えた本は二度と読まず、一万冊の本を読む人間よりも二万冊本を読む人間のほうが価値が高い、と断言する男が登場します。

読書した量こそ大事であり、また本を愛しているからこそ読み終えた本はその証として丁寧に並べておくのだそうです。

 

同じように読書量が大事だという男が第二の迷宮「切りきざむ者」でも登場します。

ただ、この第二の迷宮の男は読書の効率化こそが大事であり、読書量を増やすためには要約と速読が重要だと言います。例えば、「走れメロス」の要約は「メロスは激怒した」と要約できるのだそうです。

更には、難解な本は難解というだけでもはや書物としての価値を失う、とまで言うのです。

しかし、林太郎は亡くなった祖父の「読書には苦しい読書というものがある」という言葉を思い出していました。

 

次の第三の迷宮「売りさばく者」では、本は「売れることがすべて」という「世界一番堂書店」の社長が登場します。

「手軽なもの、安価なもの、刺激的なもの。読み手の求める本」が大事であり、本を好きだと言った以上は、好きじゃない本は作れなくなると言うのです。

刺激的で、読みやすいエンターテインメント小説を読みふけり、人間の本質を追求するような小説は敬遠している私ですから、ここで言われていることが一番身に沁みたような気がします。

同じような言葉は本書の終わり近くにもありました。それは「読んで難しいと感じたら、それは新しいことが書いてあるから難しい」のであり、「読みやすいってことは、知っていることが書いてあるから読みやすい」のだそうです。

ここで言われていることに対しては、私自身では未だ答えが出ていません。読みにくいと思う作品、例えばいわゆる純文学作品には手が出ないのです。

ただ、作者もエンターテインメント小説を否定し、純文学だけが読む価値があるなどと行っているわけではありませんし、そもそも純文学作品だけが価値があるとも言ってはいないのです。

そこには書物に対する愛情こそが大切だという作者の心情が述べられています。その上で読書という行為を通じて自ら考えることの大切さを言っているのでしょう。

 

そして第四の迷宮では学級委員長の柚木沙夜がさらわれ、林太郎は彼女を助けに再度迷宮へと踏み込みます。そこにはこれまでの三つの迷宮の住人たちが憔悴しきった様子で苦しんでいました。

林太郎のために彼等は苦しんでいます。本には心がある。しかし、本の心も歪むことがあり、そして暴走するのです。書物に対する理想と現実の狭間で林太郎は悩みます。

林太郎が柚木沙夜を助け出す様子はこの本の要ですから直接読んでもらうしかないでしょう。

 

本書はいわゆる「面白い」本かと言われれば、若干首をひねる作品です。

ファンタジーとしての面白さはあります。しかしそれ以上に、本を読むことについて考える、そのこと自体を要求してくる作品です。

本を好きだという人たちには是非読んでもらいたい一冊と言えます。

神様のカルテ 0

『神様のカルテ』シリーズの第四作目です。「有明」「彼岸過ぎまで」「神様のカルテ」「冬山記」の四作品が収められている短編集で、神様のカルテシリーズ本編に対するサイドストーリーです。主人公の一止が医学生であった頃から、本庄病院に勤務するようになった頃までが描かれています。

一止が学生時代を過ごした信濃大学医学部学生寮の「有明寮」での出来事を描いた第一話「有明」は、『神様のカルテ』シリーズにはおなじみのメンバーの青春記です。

本庄病院の大狸先生や古狐先生、それに金山事務長らのエピソードが語られる第二話「彼岸過ぎまで」。病院の合理化を進める金庫番の事務長と現場の医師との間では常に対立が絶えないのですが、事務長の心を開いてみると意外な言葉が出るのです。

本庄病院の一年目の研修医である栗原一止が初めて迎える夏の出来事を描いた第三話「神様のカルテ」。一止と國枝正彦という癌患者との会話は心に刺さり、忘れられないものでした。

そして山岳写真家でもあるハルこと片島榛名の心温まる物語である第四話「冬山記」。人生に絶望した中年男とハルさんとの会話も、ハルさんらしい言葉なのです。

このシリーズの持つ「重さ」は本作も同様です。しかしながら、その重さを感じさせないこの作家の文章の力は素晴らしいと、作品ごとに思わされるのです。一止という主人公にとどまらず、その妻であるハルさんや病院スタッフも含めたキャラクタ造形のうまさと、そのキャラクタたちが織りなす真摯な生き方、読み手に訴えかけてくる会話文の巧みさは、一般に受け入れられているからこそベストセラーにもなっているのでしょう。

命を扱う職業であるためにテーマも真摯なものになるといえば、命をかけて行う行為として登山、それも冬山登山が思い浮かびます。そして本書と同様に読みやすさも兼ね備えている小説としては笹本稜平の『春を背負って』があります。山小屋を訪れる人々の人間ドラマを描いた感動な物語であると共に、清々しさも漂う、爽やかな読後感を持つ物語です。

次いで思い浮かんだ作品としては、決して明るくはない作品なのでここで紹介するのはちょっと違うかもしれませんが、患者側からの立場で書かれた作品があります。若年性のアルツハイマーに罹った男の悲哀、夫婦愛を描いた作品である荻原浩の『明日の記憶』という作品です。この作品は渡辺健主演で映画化もされています。

神様のカルテ2 DVD

夏川草介の同名小説を櫻井翔と宮崎あおい主演で映画化したヒューマンドラマの続編。妻・榛名の出産を心待ちに、本庄病院で仕事に励む一止。そんなある日、一止の大学の同期で「医学部の良心」と言われていたエリート医師・進藤辰也が赴任して来る。(「キネマ旬報社」データベースより)

神様のカルテ 【DVD】

櫻井翔、宮崎あおい主演の感動作。地方都市・松本で内科医として働く栗原一止は、同僚や隣人、そして最愛の妻・榛名に日々の疲れを癒されながら激務を凌いでいた。そんなある日、一止の前に大学病院から見放された末期ガン患者が現れる。通常版。(「キネマ旬報社」データベースより)

テレビ放映版を見たのだけれど、特別に良いとも感じなかったし、悪くも無かった、という、何とも半端な印象しか残っていません。

普通の医療ドラマであり、強いてケチをつければ、原作の一止の魅力、懊悩などはあまり感じられませんでした。