『獣の奏者 外伝 刹那』とは
本書『獣の奏者 外伝 刹那』は『獣の奏者シリーズ』の第五弾で、2013年10月に講談社文庫から刊行された、長編のファンタジー小説です。
生命の尊さを、夫婦、親子、恋人などそれぞれの姿を通して描き出した、本編では描くことのできなかった感動に満ちた作品集でした。
『獣の奏者 外伝 刹那』の簡単なあらすじ
エリンとイアルの同棲時代、師エサルの若き日の苦い恋、息子ジェシのあどけない一瞬……。 本編では明かされなかった空白の11年間にはこんな時が流れていた!
文庫版には、エリンの母、ソヨンの素顔が垣間見える書き下ろし短編「綿毛」を収録。
大きな物語を支えてきた登場人物たちの、それぞれの生と性。王国の行く末を左右しかねない、政治的な運命を背負っていたエリンは、苛酷な日々を、ひとりの女性として、また、ひとりの母親として、いかに生きていたのか。高潔な獣ノ医術師エサルの女としての顔。エリンの母、ソヨンの素顔、そしてまだあどけないジェシの輝かしい一瞬。時の過ぎ行く速さ、人生の儚さを知る大人たちの恋情、そして、一日一日を惜しむように暮らしていた彼女らの日々の体温が伝わってくる物語集。
【本書の構成】
1 文庫版描き下ろし エリンの母、ソヨンが赤子のエリンを抱える「綿毛」
2 エリンとイアルの同棲・結婚時代を書いた「刹那」
3 エサルが若かりし頃の苦い恋を思い返す「秘め事」
4 エリンの息子ジェシの成長を垣間見る「はじめての…」「ずっと心の中にあった
エリンとイアル、エサルの人生ーー
彼女らが人として生きてきた日々を
書き残したいという思いに突き動かされて書いた物語集です。
「刹那」はイアルの語り、「秘め事」はエサルの語りという、
私にとっては珍しい書き方を試みました。
楽しんでいただければ幸いです。上橋菜穂子」 (「内容紹介」より)
『獣の奏者 外伝 刹那』の感想
本書『獣の奏者 外伝 刹那』は、全四巻で完結した『獣の奏者シリーズ』の外伝であり、これまで作者がシリーズ本編では描き出す必要性を感じなかった物語を紡ぎ出した作品集です。
『獣の奏者シリーズ』の外伝ではあるのですが、本書に収められた作品はそれぞれが物語として独立しており、はっきりとした主張を持っています。
とはいえ、それぞれの作品の前提となる情報はやはり『獣の奏者シリーズ』で提供された情報を前提としているのであり、スピンオフ的な作品と言われるだけの立場ではあります。
しかしながら、本書の各作品は『獣の奏者シリーズ』が抱えているテーマとは異なるテーマを与えられているという点で、外伝という他ないのでしょう。
また、通常ならばファンタジー小説は、彼ら登場人物が私たちが暮らすこの世界とは異なる理(ことわり)の中で、与えられた世界の中で生きる姿を描きだすそのストーリーの面白さを楽しむものだと思います。
しかしながら、本書『獣の奏者 外伝 刹那』の場合はそうしたストーリー展開の面白さではなく、母娘や夫婦、恋人同士といった身近な大切な人との在りようを描き出した作品集です。
母親が我が子に抱く愛情を暖かなタッチで描き出す「綿毛」は、『獣の奏者シリーズ』の主人公であるエリンの母親ソヨンが、エリンをその胸に抱いた時の気持ちを、優しくそして情感豊かに描き出してあります。
シリーズの本編では母親のソヨンは物語の開始早々に亡くなってしまい、殆どその情報がありません。しかし、ここでエリンにお乳をあげるソヨンの母親の姿があります。
次の「刹那」では、エリンとその夫イアルの夫婦生活、それも二人の子のジェシ誕生にまつわる出来事がイアルの視点で描かれています。
ジェシの誕生に至るこの話のクライマックスは生命の誕生の美しさと怖さが描かれていて、女性の出産という命がけの作業の尊さが表現されています。
この話の終盤に示される、タイトルの「刹那」という言葉に込められた意味が強く胸に迫ってくるのです。
「秘め事」は、エリンの師でもあるエサルの若かりし時代を描いた物語です。そこにはエリンの命の恩人でもあり育ての親でもあるジョウンの若かりし頃の姿もあります。
何より人を愛すること、そして愛することの尊さが描かれているのです。
「はじめての…」では、エリンの子育ての姿が描かれます。ジェシの成長を見守る本編での男勝りのエリンとは異なる、母としてのエリンがここにはいるのです。
本書『獣の奏者 外伝 刹那』は上橋菜穂子が描く親子の物語であり、恋愛小説です。
母親の自分の子へそそぐ愛情の深さの描き方が実に自然に、暖かく微笑ましく描かれています。
そして上橋菜穂子が描く恋愛小説である本書の「刹那」や「秘め事」には人間の普通の生活の中にふと訪れる異性への小さな想いが見事に言語化されて表現してあります。
自分の感覚として、人を想うという気持ちの描写として、上橋菜穂子の文章は素直に心に染み入ってくるし、納得しています。
人に対する思いやりの視線、論理的に組み立てられ、そのくせ優しさを持った上橋菜穂子の文章の美しさを堪能するしかありません。