上田 早夕里

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一九四三年、上海。かつては自治を認められた租界に、各国の領事館や銀行、さらには娼館やアヘン窟が立ち並び、「魔都」と呼ばれるほど繁栄を誇ったこの地も、太平洋戦争を境に日本軍に占領され、かつての輝きを失っていた。上海自然科学研究所で細菌学科の研究員として働く宮本は、日本総領事館から呼びだされ、総領事代理の菱科と、南京で大使館附武官補佐官を務める灰塚少佐から重要機密文書の精査を依頼される。その内容は驚くべきものであった。「キング」と暗号名で呼ばれる治療法皆無の細菌兵器の詳細であり、しかも論文は、途中で始まり途中で終わる不完全なものだった。宮本は治療薬の製造を任されるものの、それは取りも直さず、自らの手でその細菌兵器を完成させるということを意味していた―。 (「BOOK」データベースより)

本書は、細菌兵器をテーマにしたミステリータッチの物語ですが、ミステリーというよりは主人公を含む登場人物らの、人間的な葛藤を描き出した物語です。なお本書は第159回直木賞の候補作になっています。

 

細菌兵器をテーマにした物語といえば、例えば小松左京の『復活の日』がありますが、この作品はすでに人類が死滅したであろう地球を舞台に、人類の再生を目指す物語でした。草刈正夫主演で角川映画で映画化もされ、そこそこにヒットしたと覚えています。
 

 

また、パンデミック小説としても多くの作品があり、篠田節子の『夏の災厄』や高嶋哲夫の『首都感染』など、人為的ではない自然発生のウイルスの爆発的な蔓延に際しての人間ドラマを迫力満点に描き出してありました。

 

 

本書の場合、細菌戦後の世界でもなく、ディザスター小説でもありません。そこには散布されるであろう、若しくは散布された細菌に対処しようとする研究者を中心にした、壮大なドラマが描かれています。

それは、何者かが作成した人類を滅亡に導きかねない細菌の存在に対しての、主人公を含む研究者らの研究者としての探究心と人間としての在りようという相反する命題の間で葛藤する様子を詳細に描き出しているドラマであり、そこに本書の価値があると思うのです。

また、重複するかもしれませんが、「キング」作成者判明の後には、その作成者の主張と主人公宮本の研究者としての考察に興味を引かれます。とくに、軍部が幅を利かせるこの時代だからこその主張も垣間見え、読み手としても単なるエンタメ小説として読み飛ばせない重みを感じたりもするのです。

 

また、そんな人間ドラマを描きながらも、主人公の宮本が友人である六川を殺した人物を探すというミステリー的な側面や、灰塚少佐という強烈な存在感を持った軍人の諜報員としての活動の側面もあり、いろいろな楽しみ方のできる作品になっています。

ミステリー的側面といえば、六川殺害の犯人探索以外に、本書のテーマである暗号名「キング」という細菌の実体、及び治療薬の解明という点でのミステリーという面もあります。

ただそれらはあくまでミステリーとしての色付けがある程度のことであり、また灰塚少佐のインテリジェンスの側面についても同じことが言え、本書の本質はやはり人間ドラマにあります。

そういう点では、この上田早夕里という作者の『華竜の宮』を始めとする『オーシャンクロニクルシリーズ』といった作品も同様であり、人間や社会の存立自体に対する考察を丁寧に為されていて、それが物語に反映されていると感じる作家さんという印象がより強くなりました。

 

この灰塚少佐の諜報戦に関しては、柳広司 の『ジョーカー・ゲーム』を想起させるものがありました。そこに登場する結城中佐の存在が、本書『』の灰塚少佐に通じるものを感じたのです。それは、時代背景が日中戦争前夜であり、場所も上海を舞台にした短編もあるということからきている印象かと思います。

 

 

また、学問の追及とそのことによる人命の簒奪という主人公の抱える研究者としての葛藤自体は、科学者の抱える煩悶として決して目新しいものではなく、また細菌の軍事利用という観点でもマイケル・クライトンの『アンドロメダ病原体』を始めとして多くの作品が書かれています。

 

 

しかし、本書の特徴は、問題の細菌を現実に存在した日本軍の石井部隊、通称731部隊を絡ませ、日中戦争という歴史的事実の隙間にうまく埋め込んで展開させているところにあります。

軍部の意見が増大する中で、民間の一研究者が中心となり、人類を滅亡させかねない細菌の行方を探り、その治療薬を模索する過程を緻密に描き出す本書は読みごたえがある作品として仕上がっています。

[投稿日]2018年08月08日  [最終更新日]2022年8月25日
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