『転がる検事に苔むさず』とは
本書『転がる検事に苔むさず』は2021年8月に刊行された、新刊書で316頁の人情味豊かな長編の推理小説です。
「警察小説大賞」を受賞している作品でありながら、主人公は検察官で警察官は脇役に回っているにすぎないものの、新感覚のミステリーとしてとても楽しく読むことができた作品でした。
『転がる検事に苔むさず』の簡単なあらすじ
夏の夜、若い男が鉄道の高架から転落し、猛スピードで走る車に衝突した。自殺か、他殺か。戸惑う所轄署の刑事課長は、飲み仲間である検事・久我周平に手助けしてほしいと相談を持ちかける。自殺の線で遺書探しに専念するが、このセールスマンの周辺には灰色の影がちらついた。ペーパーカンパニーを利用した輸入外車取引、ロッカーから見つかった麻薬と現金ー死んだ男は何者なのか。交番巡査、新人の女性検事とともに真相に迫る。心に泌みる本格検察ミステリー。第3回警察小説大賞受賞作。(「BOOK」データベースより)
目次
プロローグ
第一章 川辺の検事
第二章 人事案
第三章 とり急ぎ、雷
第四章 赤提灯
第五章 ボニーのささやき
エピローグ
ある日、鉄道の高架から転落したと思われる若い男が車に衝突し死亡するという事件が発生した。
たまたまその現場に行くこととなった東京区検察庁浅草分室に勤務する検事の久我周平は、追出刑事課長から検視に手を貸して欲しいと頼まれる。
転落死した男は、持っていた免許証や名刺から自動車ディーラーの営業職の河村友之、二十七歳と判明した。
後日、久我は有村巡査の上司から、高架下の事件の処理をさせて有村の刑事志望の意志をかなえてやりたいので面倒を見てくれるよう頼まれた。
一方、久我が指導する新任の倉沢検事は、現在は東京地検の刑事部主任である久我の二期下の小橋検事が久我の粗さがしをしているとの情報を聞かされるのだった。
『転がる検事に苔むさず』の感想
本書『転がる検事に苔むさず』の主人公は検察官です。
それも被疑者から話を聞き出す名手という設定で、その判断の根底には人情味豊かな思いが横たわっていて、ミステリー界にまた新しい感覚の作家、そして作品が登場してきたとの印象です。
もちろん、第20回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞した作品である『特許やぶりの女王 弁理士・大鳳未来』を記した南原詠のような新しい分野を舞台にした新人も登場しています。
でも、本書の惹句に「人情をもって真実を照らし出す。」とあるように、主人公が謎解きに邁進するだけでなく、謎解きの過程に「人情」が持ち込まれていて、こうした作品はあまりないと思います。
謎解きの過程に「人情」というクッションが挟まることで文章も優しさが増した印象で、物語もずっと奥行きが広がっているようです。
こうした面は、もちろん本書が私の好みでもあるためでしょうが、見方によっては「人情もの」とも呼べそうな魅力を付加しているのではないでしょうか。
この人情ものという側面を本書『転がる検事に苔むさず』の第一の魅力だとすれば、次にあげられる二番目の魅力は、検察庁内部での権力闘争、出世競争の側面を描いてあることでしょう。
主人公の久我周平自身が現在は「東京区検察庁 浅草分室」という、裁判所で言えば簡易裁判所に相当する、出世とは関係の無さそうな小さな事件ばかりを主に扱う部署に勤務しています。
本来は検察の花形部署と言われる特捜部に異動するはずであったのに、出世争いの嫌がらせから、大きな事件を扱うことのない現在の支部に異動させられているのです。
こうした本人が意図しない形での、検察庁内部での上層部での権力争いの余波をもろに受けている主人公やそのライバルなどの姿は、法曹界の裏面を見るようで単なるミステリーを越えた魅力があります。
この浅草分室に、久我周平を指導官として配属されたのが新米検事の倉沢ひとみであり、この人物が物語の進行に彩りを与えています。
そして、人物配置の視点で言えば、実際の捜査をすることのない検事の代わりに手足となって動く人物として配されたのが 刑事志望の有村誠司巡査です。
そして、この有村巡査を見てやってくれと頼むのが久我の飲み友達である墨田署の追出刑事課長です。
そして、久我を目の敵にする小橋克也という検察官、久我が憧れの対象とする 今は検察官を辞めて弁護士となっている常盤春子など、ユニークな人物たちが登場します。
これらの魅力的な人物の配置が本書の魅力の三番目だと言えるかもしれません。
そして、最後に謎解きの面白さがあります。
刑事志望の巡査や新米検事が、鉄道の高架から転落したらしい若い男の背景を調べていくうちに、隠されていた謎を暴いてくという流れも、複雑すぎず、わりと面白く読めました。
それも、検察内部の様々な争いごとなどが絡められながらの、事件の展開であるため、より気楽に読めたと思われます。
本書『転がる検事に苔むさず』の主人公である久我周平という検察官の姿を見ていると、魚戸おさむの『家栽の人』というコミックを思い出してしまいました。
『家栽の人』の主人公は家庭裁判所の判事ですが、単に法律を杓子定規に当てはめるのではなく、関係者の真の姿に思いを馳せ持ち込まれた揉め事を解決していくという人情物語でした。
さらに検察官が主人公の推理小説と言えば、近年では柚月裕子の『佐方貞人シリーズ』があります。
シリーズ第一巻『最後の証人』こそヤメ検である弁護士佐方貞人が活躍する物語ですが、第二巻からは過去に戻り、正義感にあふれる検事時代の佐方貞人を主人公とするミステリーです。
「時効によって逃げ切った犯罪者を裁くことは可能か」という問いが着想のきっかけだというこの作品は、二人の検事それぞれが信じる「正義」の衝突の末に生じるものは何か、が重厚なタッチで描かれるミステリーです。
ともあれ、本書『転がる検事に苔むさず』は私の好みに合致した作品でした。
続編の『恋する検事はわきまえない』も出版されているようですので、さっそく読んでみたいと思います。